本頁


 目を覚ましたのはもうとっくに夜が明けて、昼も過ぎた頃合いだった。

 

 私の気持ちはまだベッドの中にあったが、用事を済まさねばならなかった。それは自らの憂鬱を犠牲にしてでもなさねばならないことだった。ややあって寝具から這い出て、身動ぎ一つも億劫な程の重たい体を、やっとの思いで二足の人型へと変じる。そうして、のろのろと出掛けの用意を済ませた私は、まだ眠気を訴える体に鞭打って、バス停へと歩を進めていく。

 

 同行者は居ない。たった一人っきりの外出だった。

 

 バスに揺られる間、する事もなく窓の外を眺めるとどうしてか胸が苦しくなる。それで仕方なく、目を閉じようとすると今度は余計なことばかりが頭の中でぐるぐると渦巻き、私の意識を捕らえて離さなくなる。

 

 まるで世界が水に沈んだかのような錯覚さえ起こす程に、私は世界と切り離されていく。足から、手から、頭から。体の端っこから蝕まれ、孤独になっていく。

  

 それでも身体は覚えているものらしい。足繁く通ったあの日々はただ一時停止されていただけの映画みたく、再生ボタンをカチリと押すだけで何不自由なく再現される。


 あんなにも深い意識の底に沈んでいたはずの私は、車内に流れた最寄り駅の名を耳にして、降車ボタンを押す。ピンポーンと小気味よい音が流れて、財布から小銭を抜き取り、手の平まで伸ばした袖の上に置いて握り締める。程なくして、バスはターミナルに停車し、私は握りこんでいたせいでやや暖かくなった五百円硬貨を運賃箱に一枚投げ入れた。気分はお賽銭のようなものだった。ただ祈る対象が神や仏では無いことを除けば、世間一般の祈願となんら変わりない。とはいえ、それは神社でやるから見咎められないのであって、バスでやるものでは当然ない。運転手が訝しげな目で私を見るのも詮無いこと。

 

 そんな運転手の視線を背に私はバスを降り、駅へと入る。往復切符を買って改札をくぐり、階段の昇降を繰り返して、ホームに立つ。そうして黄色い線より数歩、後ろで電車を待った。たったそれだけとは言っても出不精になっていた私の、体力の衰えは激しい。階段どうこうよりも人間と接することの方が何十倍も私の体力を奪い、神経をすり減らしていく。

 

 やっと待っていた電車が着いて、席に座った時の安堵感は筆舌に尽くし難いものだった。

 

 その程度で疲れたと訴える自らの心身に呆れを通り越して笑みが溢れ、同時に深く心が抉られていくのを感じた。

 

 一人で二人掛けの席に座ることの何たる寂しさか。何十人もの人々が乗ることの出来る車両にたった一人。

 

 やはり、私は何処にいても孤独なのだ。もうあの時のようにはいかぬのだ。もう人並みに生きること能わぬのだ。

 

 そう内々に心へ刻みつけられていく言葉が皮膚の下で蠢く毒を強めて、心の臓にまで迫る。血管に栓でもされたかのような息苦しさ。息が詰まるほどの痛み。血の気の引いていく顔。

 

 けれど、それらはどれもこれも遠い場所にあった。耳の拾う音は掠れて、荒くなった息も薄い膜の向こうにあり、霞んだ視界に黒と白が混じって、苦しみも痛みも全ての違和は自分のものでは無いみたいで。でも紛れもなくそれらを感じているのは私で。

 

 魂が抜ける、という表現があるけれども、それとはどうにも似つかわしくない。魂を身体の不調を遠いものと感じる私なのだと仮定するならば、いつもは肌のすぐ下にピッタリと張り付いているはずの魂が、今は内側に縮こまってしまったみたいだった。

 

 身体という殻を強く意識しているような感覚。魂の剥離とでも言うべき状態。

 

 「嗚呼、こんなにも剥がれやすいものならば、殻が壊れれば抜けていくのも当然なのかもしれないな」、なんてことを私は胸を抑え、蹲る自分を眺め、考える。

 

 それでも、私はやらねばならないことがあるから死ぬ訳にもいかない。どうにか頑張っていつもの十倍重たい体を引き摺り、別の車両へと移って、誰かに事情を説明する間もなく、視界が暗転して──

 

 

 

 ──学生の頃、友人に囲まれていた私は電車に一人で乗ることなんて早々なかった。あっても一駅か二駅程度。別段、昔から人と関われないような人間ではなかった。寧ろ、私は人を愛していた。同性・異性に関わらず、私は人を好きになりやすかった。何がそうさせていたのだろう。元来の寂しがり屋な性格だろうか。無意識に己に課した善くあろうとする心意気であろうか。はたまた、心の奥底に巣食う劣等感が、種族的本能が、私へこの社会に馴染めと命令していたのかもしれない。

 

 私は同時にいくつもの居場所を作る。何事においてもそうなのだ。私は慎重で臆病だった。逃げる場所を幾つも作り、来るべきその日に備えて、関係性をより良いものへと昇華するため、幾多にも広がる関係性の網を渡り歩く。

 

 だけど、そうやって旅人を気取っている内に気付くのだ。

 

 「私はここにいても、いなくても良い存在なのだ」と。

 

 私が別の場所にいる時、私が先まで笑いあっていた彼らは私と共有することの出来ない思い出を持ってして、友情や愛情を育み、帰ってきた私の前で私の知らない話で盛り上がって、私を見て「あれ、いたの?」みたいな顔をする。

 

 それを見る度、私の胸はズキズキと痛み、別の場所で彼らと共有することの出来ない時間を過ごした自分を棚に上げて、自らに配慮してくれと図々しいお願いを口から吐きだしたくなる。

 

 醜い己と向かい合い、懸命にその醜さを削ぎ落として、残ってしまったものは必死で隠してきた。

 

 良い子でいるつもりはなかった。されど考えなしに生きようものならば、私は獣に堕ちるのだと幼少の頃から気付いていた。

 

 蟻の群れを見て、そこから一匹摘みあげる。そして、群れから少し離して、ライターで焼き殺した時、幼い私は命というものがあまりにも簡単に奪えるものである事を知ってしまった。蟻一匹、法で裁かれることは無い。

 

 そして、法と生を恐れないならば自身を縛るものはない。

 

 例えば、人生何十年か分を賭けてでも殺したい人間がいるとして。その殺したい相手に対して人生の何割かを捧げるのは癪でも余命僅かな状態になったならば、ほぼノーリスクで憎しみを晴らすことが出来るだろう。

 

 相手を殺したいと思う感情には二種類ある。

 一つは自らと同じ世界に相手を存在させたくないという思い。或いは実害を被っている場合、脅威の排除という観点から存在させてはならないという思い。

 もう一つはただ殺したいという思い。

 

 私は殺したい相手を思った時、後者でしかない。そして、それはあまりにも危うい。

 

 私は良識のある人間であると自負している。この良識がなければ、私はもう既に人の一人や二人、殺めていた事だろう。

 

 良識も無邪気さも私には違いない。ただし、法整備の整ったこの現代社会において無邪気さは良識の下に隠しておいた方が良い。

 

 だから、私は己に強く良識を求め、規律の遵守を強いた。

 

 無邪気さは良識ある私に時として牙を剥いて、困らせる。外に出ることの出来ないその心は私の身体の中で暴れ回る。

 

 ボロボロに傷つけて、喰い尽くそうとする。

 

 あの日だって随分前から、私は気付いていたのだ。

 

 眠っても、眠っても疲れのとれない身体。少し汚れた服や、彼女が私に時折向ける怯えた目。

 

 全部、全部分かっていた。

 

 彼女は私を愛していた。私も彼女を愛していた。

 

 だから、彼女は彼女なりの最良を選び取ることにしたに違いない。

 

 涙を流しながら、震える声で誰何する彼女が脳裏に焼き付いて離れない。

 

 わたしは、ワタシがそっと彼女を左腕で抱き寄せて、彼女が安堵の吐息をもらし、「ごめんなさい」と嗚咽を漏らしながら泣きじゃくるのを見ていた。

 

 私が右腕に突き刺さるナイフを手に取って、引き抜く。勢い良く血が吹き出して彼女と私を赤く濡らす。泣いて泣いて、ワタシに頭を預ける彼女は気付かなくて。

 

 如何したら良かったのか、と今でも考える。早く死ねば楽なのに、それをしないのはこの生地獄こそが贖罪と定めたゆえ。

  

  

 

 

 

 

 首輪を嵌められ、足枷をされて、辛うじて生きることを許されていた月日はワタシにとってガラス越しに世界を見ている事しかできない時間だった。

 

 決してワタシは私を恨んではいない。恨んではいなかったが、抑圧され続けるのは我慢ならなかった。

 

 あの日。これしかない、と思った。

 

 初めて、わたし以外にワタシを見つけてくれたあの人。

 

 戸惑いながらも受け入れようとしてくれたあの人。

 

 ワタシと喧嘩をしてくれた、あの人。

 

 ワタシに愛があることを教えてくれた、あの人。

 

 セックスをするときに首を噛んでも怒らずにいてくれた、あの人。

 

 ワタシにとっても大好きで愛してやまなかった、あの人。

 

 でも、彼女は清廉で潔白な人だった。

 

 例え、ワタシはわたしでもわたし以外に誰かを愛することを良しとしなかった。そして、同時にワタシという存在がこの社会においては生きづらいものである事を知っていた。

 

 彼女の苦悩は想像に難くない。

 

 それは彼女の部屋にあった本やノート、そして、日常のふとしたときに見せていた表情や言葉に隠れていた。

 

 ワタシがこんなにも愛したのだ。わたしが向けていた愛は計り知れないものだったろう。そして、今も彼はその愛を彼女に捧げている。

 

 

 

 

  

 私が目を開けると白い天井が見えた。そして、頭を横に向けて、部屋の内装を見る限り、私は病院のベッドに寝ているらしかった。親切な誰かが病院まで運んでくれたか、救急車を呼んでくれたのだろう。

 

 人間が社会という形を作る意味がなんとなく理解できる。

 

 チラリと彼女の顔が浮かんでは消えていき、涙を誘う。

 

 彼女に会いたいと無性に思った。けれども、それはもう叶わない。だけど、それでもいい。

 

 腹が鳴り、私はお腹を擦る。

 

 窓から見える世界は眩くて。早く、この病室から抜け出し、駆け出してみたいとそうは思うも今は一時の休息。

 

 これから先待つ未来を思い、自分の身体を流れる血肉に彼女を感じながら、私は飢えを誤魔化すため、眠りにつくのだった。


 

 

 『病といふものは誰も彼も不幸とす。指差す者なかりけれども負債抱ふる身。責めるこゑ聞こえて耳塞ぐも止まず。哀れなる己は疑念なし生を希求す。』

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重解 @miyabi_toka

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