別れの日

 ウェイン・フォスターが妻子をコレラで亡くしたのは七年前のことだった。

 勤勉だったフォスターは妻子を病院へ預け、回復を祈りつつ牧師としての職務を果たしていたのだそうだ。

 しかし、妻子の症状は改善されず、子供は二日後、妻は四日後にこの世を去ってしまう。

 妻子を失ったフォスターの悲しみがどれほどの大きさだったのか――。

 それは本人以外、知る由もない。

 抜け殻のようになり、自身の祈りが足りなかったのだと後悔と懺悔の日を送るフォスターを同僚たちも随分心配していたらしい。

 フォスターの心の傷が癒えるには二年ほどの時間が必要だった。

 それからのフォスターは己が家族に降り掛かった災難を忘れようとするかのように、以前にも増して職務に没頭した。

 《残され人》の関連する事案の担当を言い渡されたのは半年前のことだった。

 話に聞いたことはあるが実際に見たことはない。存在するのかも疑わしい――。

 半信半疑だったフォスターの前にヴァチカンから派遣されたという《天国への案内人》がやってきた。

 《残され人》は本当に存在する――。

 その事実を知ったとき、牧師の心の奥に沸々と湧き上がる感情があった。

 なぜ死んでも生きているのだ。

 妻や娘は抗うことなく死を受け入れた――。

 死んでも生きているなどと言う存在が許されるはずがない。

 いや――許せない。

 死者には――死を与えなければならない。


 これがオリヴィエを殺した男であるフォスター牧師の物語だった。

 人には人の数だけ物語がある。

 幸せな物語もあれば、思い出したくもない物語もあるだろう。

 フォスターが抱えていた物語は、彼にとっては忘れたくても忘れられない辛い出来事だった。《残され人》という存在は絶対に認めることのできないものだったのだろう。

 しかし、それとオリヴィエは関係ない。

 彼がどう思おうと、オリヴィエの命を――例えそれが《残され人》と呼ばれる存在になっていたとしても――奪う権利はないはずだ。


 あの日――。

 キョウジたちがフォスターと対峙していた夜、ルアンナはメイヤーの部屋にいた。

 キョウジに話していたようにルアンナ自身、部屋を出る気はなかったのだけど、そんなルアンナを心変わりさせたのはキョウジに続いてやって来たリックだった。

「ルアンナまでいなくなっちゃったら、俺、ホントに一人ぼっちになっちゃうよ」

 返す言葉がなかった。


 フォスターが逮捕されてから三日が経つ。

 ソーホーにあるメイヤー夫人のアパートメントの客間には今回の事件の関係者が集まっていた。

 中央のローテーブルを囲むように並べられたソファにはルアンナとリック、部屋の主であるメイヤー夫人が座っている。その間を縫うようにキビキビとした動きでお茶の用意をしている少女はメイドのジョアンナだ。

 部屋の中には気分を和らげるような紅茶の香りが広がっていた。

 もっともリラックスできるような気持ちには到底たどり着いていない。

 リックはテーブルの一点を思い詰めたように見つめているし、鏡を見ていないからわからないが、ルアンナも同じような顔をしているに違いない。

 犯人であるフォスターに対する怒りはある。

 見つけたら絶対オリヴィエと同じ目に遭わせてやるんだ――。

 ずっとそう思ってきた。

 けれど、キョウジに

「明日、オリヴィエさんの魂を天国に送ります」

 と言われたとき、抱えていた怒りは急速にしぼみ、代わりに言いようのない悲しみと寂しさが胸の中に広がった。

 オリヴィエは――。

 彼女はもういない。

 キョウジは魂を天に送るときオリヴィエさんに会えると思いますとも言った。

 オリヴィエは初めてできた大事な友達だ。会えるものなら会いたいし、話せるものなら話したい。

 でも、そのあとは――。

 オリヴィエは天に昇ってしまうだろう。

 もう会うことはできない。

 それは――オリヴィエが死んでしまったということを認めることだ。

 そんなの嫌だ――。

 だいたい死んだ姿を見たわけでもないし、死んだという話が何かの間違いである可能性だってあるかもしれないじゃないか――。


 いや――。

 本当はわかってるんだ。

 あたしはオリヴィエが死んでしまったと認めたくないってことを。


「大切なお友達だからこそ、しっかり見送ってあげましょう」

 そう言って背中を押してくれたのはメイヤー夫人だ。

 メイヤー夫人は気さくな性格で、貧民街の住人であるルアンナたちにも分け隔てなく接してくれる。同じ教師でもヒーティングとは大違いだ。

 彼女が背中を押してくれなかったらルアンナはこの場に来られなかったかもしれない。

「さあさァ、みんなもう少しいい顔をしましょ。そんな顔をしてたらオリヴィエさんだって出づらくなっちゃうわよ」

 メイヤー夫人が場を和ませるのを待っていたかのように扉をノックする音が聞こえた。

「すいません、遅くなってしまって」

 と言いながら入ってきたのはキョウジだった。

 キョウジはソファに座る一同に視線を巡らすと、みなさん今日は集まっていただいてありがとうございますと礼を述べ、これからオリヴィエさんの魂を天に送りますと告げた。

「セラ」

 キョウジが呼びかけると、その呼びかけに答えるように彼の隣に光が集まっていく。

 光はやがて人の形になり、やがて美しい女性の姿になった。

「彼女は天使のセラです」

 キョウジに紹介された天使は、セラと申しますと名乗り小さく会釈した。

 信じられない光景だった。

 天使は自身の胸に両手を当てて目を閉じた。

 一同が固唾をのんで見守る中、セラは胸に当てていた両手をゆっくりと差し出すように前に伸ばした。

 その手のひらに小さな光が現れた。

 天使が二、三歩後ろに下がる。光はその場にとどまり、大きく広がって、それはやがて人の姿となって浮かび上がった。

「ネエちゃん!」

「オリヴィエ!」

 ルアンナとリックが同時に叫んだ。

 淡い光りに包まれながら現れたのは紛れもないオリヴィエだった。

 リックが駆け寄って抱きついたのだが、感触が違うのだろうか。不思議そうな顔で姉を見上げた。

「ネエちゃん?」

 オリヴィエはちょっと困った表情を作ると

「ごめんねリック。姉ちゃん、もう一緒にいてあげられないの」

 と言った。

「そんなこと言うなよ!」

「リック……」

「何でだよ? ここにいるじゃん!」

「これはセラ様がわたしをつなぎ止めてくれているからなの。ずっとこのままではいられないのよ」

 リックは天使に懇願する。

「セラ様! お願いです、ネエちゃんをこのままいさせてください! お願いです!」

「あたしからもお願いします!」

 ルアンナも一緒に懇願した。

 しかし天使はそんな二人を見つめるとひどく悲しそうな顔で、ごめんなさい、それは私にもできないのと詫びた。

「何で!? 何でできないの? オレ、これからネエちゃんの言うことちゃんと聞くよ。文句も言わない。だから一緒にいさせてよ!」

 答えたのはオリヴィエだった。

「リック、ごめんね。姉ちゃん死んじゃったの。だからここにはもういられないんだ」

「なに言ってんだよ、ここにいるじゃん! いられないなんて言うなよ、バカ!」

 怒鳴るように言って弟は姉の胸で泣いた。

「オリヴィエ……ホントに死んじゃったんだな……」

 つぶやくように言ったルアンナにオリヴィエはうんと小さくうなずいた。

「ひどいじゃんかよぉ」

「ごめんね……」

 気がつくと涙が頬をつたっていた。

 オリヴィエも泣いている。

「……ルアンナ、リックのこと、お願いね」

「あたしと一緒じゃまともな大人になるかどうかわかんないぞ」

「大丈夫。あなたと一緒にいればきっとリックは優しい人になれるわ」

 オリヴィエは泣いている弟に話しかける。

「リック、ルアンナの言うことをちゃんと聞くのよ」

「わかんない」

「わかんなくてもそこはうんって言っとくところよ」

「うんって言ったらネエちゃん行っちゃうんだろ?」

 オリヴィエは悲しげにリックを見つめる。

 その身体が一瞬、透けるように明滅した。

「ごめんなさい、もうあまり……」

 セラが申し訳なさそうに声をかける。

 どうやら時間が来たようだ。

 オリヴィエはメイヤー夫人に目を向けると、この通りの弟ですがよろしくお願いしますと頭を下げた。

 立ち上がった夫人は

「ええ、リックはしっかりしたいい子よ」

 といつもの柔和な笑顔で答えた。

「ありがとうございます」

 そしてセラの隣で薄っすらと涙を浮かべている黒髪の男に顔を向ける。

「キョウジさん、本当にいろいろとありがとうございました」

「いえ、僕の対応が遅かったばっかりにつらい思いをさせてしまいました。すいません」

「いいえ、こうしてみんなと会う時間を作ってもらえただけでもうれしかったです。セラさん、ずっと守ってくれてありがとうございます」

 天使は小さく微笑みを返す。

「本当にみなさん、いろいろありがとうございました」

「やだよ、行かないで!」

 ルアンナは涙を拭くとリックの頭にポンと手を載せた。

「リック、オリヴィエも困ってるじゃん。あたしたちがしっかり送ってあげなきゃ、天国行ってもオリヴィエがずっと困っちゃうだろ。な」

「……」

 リックはしばらく黙って泣いていたが、やがてゆっくりとオリヴィエから手を離した。

 それから無理やり笑顔をつくって

「じゃあな、ネエちゃん」

 と言った。

「ありがとう」

 オリヴィエも笑う。その目からまた涙がこぼれた。 

「それでは行きましょうか」

「はい」

 オリヴィエを包んでいた光がその身体とともに徐々に薄れていき、やがてふわりと消えた。

 キョウジがオリヴィエを送るように言った。

「よい旅を」


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