忍び寄る影
同じロンドンでも貧民街であるイーストエンドは特に闇が深い。僅かに灯る街灯の光もテムズ川から上がってくる重く冷たい霧が覆い隠していく。土が剥き出しの路面はところどころ水溜りがあって歩きづらいことこの上ない。
そんな貧民街の一角を。
フォスターは漆黒の外套に身を包み、ルアンナ・アーチスの部屋に向かっていた。
暗闇の中を手探り状態で歩くのは困難を伴ったが、人に見られるリスクを考えればランプは使えない。
キョウジ・ロクセットはカンタベリーに召喚されている。いまフォスターを邪魔する者はいない。
アルバート公記念碑でキョウジを見たときは驚いたが、見つからなかったのは幸いだった。
あれからルアンナを尾行して彼女が住んでる部屋を突き止めたのだが、盛り場に近いせいか人通りが絶えない場所で、部屋の階下にあるパブも夜遅くまで営業しているようだった。しかも、厄介なことにパブにはキョウジが張り付いている。少しばかりあの男を見くびっていたようだ。
まあ、しかし――。
邪魔なら引き剥がせばいい。
管区を統括しているカンタベリーに、ヴァチカンの《天国への案内人》は《残され人》を見つけられないばかりか対象者を次々と殺されている。このような人間に《天国への案内人》が務まるのか。査問会を開き、今後の対応を検討すべきであるという書簡を送ったところ、翌日にはキョウジ・ロクセットを召喚するという返事が届いた。
定時報告に来たキョウジにカンタベリーから召喚がかかっていることを告げると、ヴァチカンの《天国への案内人》は素直に応じ、今日からカンタベリーに行っている。ここ数日は身動きが取れないはずだ。
ルアンナの部屋に着いたのは、十ニ時を少し回った頃だった。
この時間になるとさすがに酒場の明かりも消えている。
アパートメントの入口のドアをそっと開け、ゆっくりと廊下を進む。二階のAがルアンナの部屋だ。
階段を上り、部屋の前に立つ。
ドアノブに手をかけ、静かに回してみたが、鍵がかかっていて開かない。
フォスターはポケットから一本の鍵を取り出した。
ルアンナと待ち合わせした日の翌日、彼女と最近まで付き合っていたという男から買い取った合鍵だ。男はルアンナに黙って合鍵を作っていたらしい。
カチャリと鍵の外れたドアを薄く開け、滑り込むように身体を入れる。
部屋の中は真っ暗だった。
しばらく動かず、目が慣れるのを待って辺りを見回してみる。
ここにはいない。奥の部屋で寝ているのだろう。
足音を忍ばせ、ドアを開ける。
ベッドの上に横たわるシルエットが見えた。
この女で最後だ。
上着の中からそっとナイフを取り出し、静かに振りかぶった時だった。
「そこまでです、フォスター牧師」
「っ――!?」
不意にかけられた声に息を呑む。
ルアンナ以外に誰かいるのか?
部屋の奥で明かりが灯る。ランプの火に浮かびだされたのはよく知る男の顔だった。
「キョウジ・ロクセット……」
どうして――。
「――どうしてお前がここにいるんだ」
ヴァチカンの《天国への案内人》は静かな口調で、これ以上あなたに罪を重ねさせないために戻ってきましたと言った。
「カンタベリーに行かなかったのか」
「行きました」
「嘘だ」
査問会で事情聴取が行われ、厳しい質疑が行われるはずだ。
「こんなに早く帰ってこられるはずがない」
「あなたこそどうしてこんなところにいるんですか」
「お前が放っておいた《残され人》を処分しに来たのだ」
「ルアンナさんは《残され人》ではありません」
「嘘をつけ」
「本当です」
「リストに名前が載っていたぞ」
「あのリストは《残され人》のリストではありません。あの中の誰かが《残され人》で、あそこに書かれている人の全員が《残され人》ではないと言ったはずです」
「リストにあがってくるような輩だ。《残され人》と同じようなものだ」
「絞り込めないのは僕の能力が至らないからです。今回の件に関してはオリヴィエ・ソレルが《残され人》でしたが、マディ・クレバンスとルアンナ・アーテスは人間です」
「もういい!」
くだらない話に付き合っている暇はない。
この《残され人》の息の根を止めればすべて終わる。
ナイフを握り直し、ベッドに向けて振り降ろそうとしたその瞬間――。
突然毛布が跳ね上がり、右腕に激痛が走った。
細身の短剣が右腕を刺し貫いている。
「ぎゃああああ!」
自分でも驚くような悲鳴が部屋の中に響き渡った。ナイフを落とし、よろめくように二、三歩後ずさる。
なんだ――何が起こったんだ――。
右腕に走る焼け付くような激痛が、これが夢ではないことを物語っている。
「君さぁ、もうちょっと人の話聞いたほうがいいよ」
毛布の中なら出てきたのは寝癖だらけの頭をしたヒゲ面の男だった。
「な――、何だお前は!」
「おいおいおい、人の話は聞かないくせに自分は訊くのかい」
「……ルアンナじゃ、ないのか」
「違うよ」
男はあきれたような顔で続ける。
「見りゃわかるでしょうが。このオレが女の子に見えるかい?」
何なんだこいつは……。
押さえている腕の傷口がジンジンと痛む。出血がひどい。
「ああ……何で私がこんな目に……」
ナイフ男は、あんたが刺した人たちもそう思っただろうなァと軽薄な口調で言った。
人を刺しておいて何という言い草だ。
「《残され人》は人間ではない! 存在自体が罪なのだ!」
「そうかい。じゃああんたの殺したマディ・クレバンスはどうなんだ? ヤツは人間だったんだろ?」
「彼は《残され人》の候補者だったんだ。いつ《残され人》になってもおかしくない」
「そうなの?」
ナイフ男はキョウジに振る。
「そんなことはないと思います」
「絶対に《残され人》にはならないと言い切れるか」
「どう?」
再び話を振られたキョウジは、絶対かと言われると保証はできませんと言った。
「それみろ、わたしは後の禍根を断ってやったのだ」
癖毛の男は、しかし飄々とした調子で、でもあんたのはただの人殺しでしょと返した。
「何だと?」
「《残され人》になるかもしれないけど、ならないって可能性も半分あるわけでしょ? ならなかったらどうすんの? 殺しちゃったあとにゴメン、間違えちゃったって言うの? 言えないでしょうよぉ」
「それは――」
そうだが。
それにさぁと男は続ける。
「そういうのはこっちの仕事なわけよ。わかる?」
「しかし――」
途端に男の目がすぅっと細くなった。それまで見せていた飄々とした雰囲気は消え失せ、何か得体の知れない、殺気のようなプレッシャーがフォスターの口をつぐませる。
気がつくと男の顔がすぐ目の前に迫っていた。
その口からまるで別人のような低い声が吐き出される。
「シロートが首突っ込むな、って言ってんだよ」
ひっ――。
つい悲鳴が漏れた。
男に気圧されたフォスターはたじろぐように後ずさり尻餅をついた。
「フォスター牧師」
傍らで片膝をついたキョウジは、三人じゃないんですと言った。
「何?」
「念写されたのは四人なんです」
四人――だと?
「ほ、報告では三人と言っていたではないか」
「はい。探していたのは三人です」
この男は何を言っているんだ。私をバカにしているのか。
「お前、自分で何を言ってるのかわかっているのか」
「四人目は探す必要がなかったんです」
「……どういうことだ」
キョウジは続ける。
「その人が《残され人》じゃないことがわかったからです」
「《残され人》じゃないのがわかったからだ?」
「もう一人は――」
そこでキョウジは懐に手を入れると、一枚の紙片を取り出した。その紙片――写真には男が写っていた。
「フォスター牧師、あなただったんです」
「ふ、ふざけるな!」
「ふざけてなんかいません」
「どうして私が……」
フォスターの疑問に答えるようにキョウジが言う。
「僕の念写は対象者の近辺にいる人たちも写してしまうようです。フォスター牧師が映し出されたのは、あなたが今回の件に強い関わりがあったからじゃないかと思います」
「バカな……」
「ふうん、こりゃあ困ったことになっちまったねえ」
ベッドに座った殺し屋は短剣を弄びながら訊いた。
「牧師さんよォ、あんたの理屈で行くと、あんた自身も《残され人》ってことになるけど、どうなのよ」
「私は《残され人》などではない!」
「ホントかなあ。それを証明できんのかい?」
「私は自分が《残され人》じゃないことを知っている!」
ナイフ男――《葬儀屋》は声を立てて笑った。
「牧師ィ、それはなんの証明にもならないぜ」
「くっ、それは――いや、そうだ、キョウジ・ロクセット! お前が嘘をついているんだ!」
「嘘じゃありません」
「だとさ。牧師」
どうやら《葬儀屋》は成り行きを楽しんでいるようだ。
「そんなこと信じられるか!」
「でも信じたんでしょ?」
「え?」
「あんたはキョウジの言うことを信じたからマディ・クレバンスを殺し、今日またルアンナ・アーテスを殺そうとここに来たんじゃないの」
「いや、それは……」
それ以上言葉が出でこなかった。
重くのしかかる沈黙を破ったのはキョウジだった。
「フォスター牧師。カンタベリーの大主教からこれを預かってきました」
「大主教から?」
手渡されたのは一封の封筒だった。封蝋は解かれていない。
フォスターは封蝋を剥がし、中から書面を取り出した。内容を読み進めるうちに、血の気が引き、持っていた両手が小刻みに震え始めた。
「……これは……破門状ではないか」
かすれた声が漏れる。
「なぜだ……なぜ私が破門されなければならんのだ……」
キョウジが言う。
「あなたは僕を遠ざけるためにカンタベリーに行かせたのかもしれませんが、大主教は僕にこれを渡してロンドンに戻るように言われました」
「……大主教は――国教会はわたしよりヴァチカンを選んだというのか」
「流派の問題ではありません」
「そんな……私は、私は主のために《残され人》を――」
「フォスター牧師。あなたがしなくてはならないことは《残され人》を処分することではないはずです」
《天国への案内人》はまっすぐにフォスターを見ながら続ける。
「愛する人たちの魂の平穏を願い、祈りを続ける。それがあなたのすることではないですか」
この男――。
ああ、なるほど……この男はすべてわかっていてここに来たということか。
「……私は、間違っていたと言うことか」
「破門されたのは、あなたが神に仕える資格を失くしたからではありません」
大主教からの手紙には――
誰しも過ちはあるものだ。しかし、犯してしまった罪に対する罰は受けなくてはならぬ。務めを解くのは、過ちを犯したからではない。牧師という立場を離れ、一人の人間として罰を受け、悔い改めるのだ。さすれば主は必ずお許しくださるだろう。生まれ変わったなら、再び牧師として迷える子羊たちを導いてほしい。
そう書かれていた。
どうやらここまでのようだ。
「……私は、許されるだろうか」
「それはあなた次第でしょう」
「厳しいな」
思い描いていたようにはいかなかったが後悔はない。
気がつくとフォスターは微かに笑っていた。
「キョウジ、君のほうがよっぽど牧師らしいな」
キョウジはそれには答えず、少し寂しげな目をフォスターに向けていた。
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