王立公園の待ち人

 ロンドンには八つの王立公園がある。

 ケンジントン・ガーデンもそのうちのひとつだ。

 隣接するハイド・パークと合わせるとロンドン中心部では最大規模の公園で、休日には多くの市民が訪れ、思いおもいに憩いのひと時を楽しんでいる。

 広大な敷地の中にはロングウォーターと呼ばれている湖もあるし、ヴィクトリア女王の生まれたケンジントン宮殿もある。

 公園内に数多くあるモニュメントのなかでも一際目を引くのはアルバート公の記念碑だ。

 ヴィクトリア女王が亡き夫を悼んで建てた記念碑で、天を衝くような巨大な尖塔の下に金色に輝くアルバート公が座している。とかくスキャンダルの目立つ王室にあって、女王とアルバート公の睦まじい様子は英国の良心でもあった。

 アルバート公が四十二歳の若さで亡くなってから三十年以上経つが、女王はいまでもずっと喪服で過ごしている。


 ウェイン・フォスターはアルバート公記念碑の前の道を挟んだ向かい側――音楽ホールの前にあるベンチのひとつに座っていた。

 黒いスーツに山高帽。ネクタイを締め、手に持った新聞を眺めている。牧師の祭服であるガウンや詰め襟のシャツは着ていない。

 湿り気を帯びた風が頬をなでていく。

 見上げた空は雲が厚くなってきた。雨が近いようだ。

 懐中時計の盤面に目をやると、針は約束の時間までまだ三十分以上あることを示している。

 待ち合わせの相手はルアンナ・アーチスと言う。

 ヴァチカンの《天国への案内人》、キョウジ・ロクセットが持ってきた《残され人》のリスト――。

 その最後に載っていた名前だ。

 彼女を処分してしまえば、もう《残され人》などという存在に煩わされることもなくなるのだ。


 不条理な物事というのは何も特別なことではない。

 納得できないことや筋の通らない話などその辺にいくらでも転がっている。あまりにもありきたり過ぎて、いちいち気にしていたら日が暮れてしまうだろう。

 しかし――そんな不条理にも許すことができない不条理というものがある。

 《残され人》――。

 死んだまま生きているという呪われた存在。

 この忌むべきモノはすでに死んでいるのにも関わらず街の中を平然と歩きまわり、何食わぬ顔で社会に溶け込んで暮らしている。 

 生ある者に対する冒涜以外の何者でもない。

 にもかかわらず――だ。

 ヴァチカンは彼らの魂を救うのだという。

 愚かなること甚だしい。

 魂というのは生きている者にこそ在るものだ。虚ろなる死体に魂はない。

 キョウジから渡されたリストに目を落とす。

 マディ・クレバンス。

 オリヴィエ・ソレル。

 そしてルアンナ・アーテス。

 キョウジはこの中の誰かが《残され人》だと言っていた。彼は誰が生きる屍なのか特定する気でいるらしいが、はたしてその必要があるのだろうか。候補に挙がるということは他の二人も何か問題があるのではないか。放っておけば生きる屍にならないとも限らない。

〝《残され人》を処分する〟

 これは――神が私に託したことなのだ。

 《残され人》を速やかに見つけだし、排除すること。それが私に与えられた使命であり、私が行うべき勤めなのだ。


 候補者の一人、マディ・クレバンスを見つけるのは簡単だった。

 教会の名簿に名前が載っていたのだ。

 銀行員と書かれていたが、平たく言えばホワイトチャペル界隈をうろつく金貸しだ。礼拝にも時々来ていたが信仰心があるようには見えなかった。おそらく誰か金を貸し付けられそうな相手を物色しに来ていたのだろう。フォスターが金を貸してほしいと声をかけると金貸しはいやらしい笑いを浮かべ、簡単に呼び出すことができた。

 人気のない夜の公園で、フォスターはクレバンスの心臓にナイフを突き立てた。

 金貸しは驚いたように目を剥いたが、かまわずナイフを押し込んだ。血を吐き、崩れ落ちるように倒れ込んだ彼の胸を生き返らないように何度も刺した。それから公園の管理小屋に運び、火をつけた。

 罪悪感はまったくなかった。

 むしろ《残され人》を排除したという高揚感と、責務を果たしたという大きな達成感が胸の中に沸き上がってきた。

 残りの二人も早々に排除したかったのだが、しかし、教会の名簿にクレバンス以外の名前は載っていなかった。目的を考えると人に頼むわけにはいかない。牧師としての勤めもある。探し歩けるような時間的余裕はない。

 思案を巡らせているとき、偶然目に入ったのが新聞の広告欄だった。

 たしか――人捜しの広告欄があったはずだが――。

 新聞をめくると、はたして尋ね人についての欄が設けてあった。

 どれだけ効果があるかわからなかったが、他に打つ手も思いつかず、ためしにオリヴィエを捜しているという広告を出してみることにした。

 偽名を使って広告を出してみたのだが、意外にもたくさんの返信があった。

 郵便局で返信を受け取り、内容を確認する。ほとんどが謝礼目当てのガセネタだったが、中には信憑性の高そうな返信もあり、個別に確認をとってみたものもある。

 そのうちの一件――ある教師から仕入れた情報がオリヴィエにつながった。彼女の弟の担任をしているというその教師は、オリヴィエが娼婦であることや住んでいる場所を教えてくれた。

 教会には用事ができたと言って時間を作り、オリヴィエの部屋を張った。名前はわかっているが、肝心の本人を特定しなければならないからだ。

 どうやらオリヴィエは、昼間は外出しているようだった。夜に絞って見張りをする。

 見張り始めて三日目の夜――好機は向こうからやってきた。

 彼女のアパートメントから少年が飛び出したのだ。ややあってから若い女性があとを追うように現れた。オリヴィエだ。

 オリヴィエはリック、リック――と少年の名を呼びあたりを見回している。

 主よ――。

 私は思わず神に祈りをあげた。

 これを神の思し召しと言わずなんと言おう。


 内ポケットから懐中時計を取り出してみる。

 そろそろ約束の時間だが――。

 フォスターはアルバート公記念碑に目を向ける。

 誰かを待っていると思われる人間は何人かいるが、ルアンナらしき人物はいない。


 その返信が来たのは四日前だった。

 差出人はルアンナ・アーテス。本人からだっだ。会いたいと書いてある。渡りに船とはこのことだ。待ち合わせ場所を指定し、本人だとわかる目印――赤いハンカチを右手に巻いておいてほしいと伝えてあるので、いればすぐにわかるはずだ。


 おや――。

 若い女性が記念碑の前で立ち止まった。濃紺のドレスにショールを羽織り、派手な赤いハンカチを右手に巻きつけている。

 待ち合わせ相手を探しているのだろう。きょろきょろとあたりを見回している。

 どうやらあれがルアンナのようだ。

 新聞をたたみ、立ち上がろうとして何気なく周りに目をやった時だ。

 ――!

 同じ道路のこちら側に見覚えのある男がいた。

 ――キョウジ・ロクセット!

 あわてて山高帽を深く被る。

 どうしてあいつがここにいる――?

 フォスターは湧き上がる動揺を押し殺しながら考える。

 あの男が偶然ここにいるということは考えづらい。

 とすると――目的はあの女を囮にして私をあぶり出そうと言うことか。

 なるほど、ヴァチカンも少しはやるじゃないか――。

 幸いキョウジはこちらに気が付いてはいない。もっとも気が付かれたところで、私がルアンナを呼び出したという証拠はない。それこそ偶然だ、とでも言えばいい。

 フォスターはルアンナの姿を記憶に留めると、ゆっくりと立ち上がりキョウジに背を向けて歩き出した。

「主に感謝しなければならないな」


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