学び舎の番人
学校に行って授業を受ける――。
いまでこそ珍しくはなくなったが、学校に通うというのは裕福な家庭に生まれた子供のみに許されていた権利だった。
それを労働者階級にまで広めたのが、初等教育の義務化である。
五歳から十歳の子供は初等教育を受ける義務があるというものだが、労働者階級では子供と言えど一家の貴重な働き手である。それを一セントの稼ぎにもならない学校にわざわざ預けるという家庭は多くない。
貧困層ともなればなおさらだ。
自分の食い扶持は自分で探さなくてはならない。
子供たちは生きていくためにわずかな金を求めて様々な仕事に就く。路上の物売りや靴磨き、割のいい仕事はリックもやろうとしていた煙突掃除だが、暖炉に落ちたり、煙に巻かれて死んでしまうケースもざらにある。
死んだから誰かが悲しむかと言えばそうでもない。親は食い扶持が一人減ったと思うぐらいだし、雇い主は次の子供を雇うだけ。
貧困層の命はその程度の軽さなのである。
そんな状況であるから、その日暮らしの娼婦が身内を学校に行かせているというのはかなり珍しい。
少なくともキョウジは聞いたことがない。
リックの通っている学校はホワイトチャペルの北、聖マシュー教会の傍にあった。
若い事務員に、こちらでお待ちくださいと通されたのは調度の少ないこざっぱりとした小部屋だった。リックが言うには、問題を起こした生徒を指導するための部屋らしい。奥の事務机と椅子は教師が使うものだろう。
キョウジたちは入口近くの壁に置かれている木製の長椅子に座った。
うつむき気味のリックとは対照的に、隣に座るルアンナはすでに臨戦態勢の顔つきで担任の教師を待っている。
やがて廊下を歩く靴音が近づいてきた。
ノックもなしに入ってきたのは小柄な男性教師だった。四十代後半ぐらいだろうか。しわの多い顔にへの時に曲げた口。左右に広げた口ひげに傲慢さが漏れ出ている。
教師は後ろ手に組んだままつかつかと事務机の前まで行くと、くるりと振り返り、長椅子に座っているキョウジたちを一瞥した。
それからおや、誰かと思えばリックじゃないかと甲高い声で言った。
「最近見かけなかったねぇ」
「あなたがヒーディング先生?」
立ち上がったルアンナの問いかけに年嵩の教師は、慇懃無礼に答えた。
「いかにも私はヒーディングだが、人にものを尋ねるときは自分から名乗るのが筋じゃないかね」
「あたしはルアンナ。この子の姉の友人です」
ヒーディングは友人というとあなたも商売されてるわけだ、と言ってつま先から頭まで値踏みするような目を向けた。
ルアンナは怯むことなく、ええ、そうよと答えた。
「で、そちらの男性は?」
「キョウジ・ロクセットと言います」
聞いてはみたものの興味はないのだろう。ヒーディングの視線はすでにルアンナへと戻っている。
「さてルアンナさん。今日はどんな用件で来られたのですか。授業が控えているので手短にお願いしますよ。忙しい身なものでね」
「時間はとらせません」
ルアンナは座っているリックの肩に手を添えると
「この子をまた学校に通わせたいんです」
と言った。
「え?」
声を上げたのはリックだ。隣のルアンナに驚いたような目を向ける。
「お願いします。この子に勉強させてやりたいんです」
部屋での剣幕から、ともすれば大喧嘩になるんじゃないかと心配していたキョウジにとっても予想していない展開だ。
「何言ってんだよ、ルアンナ!」
リックが袖を引くが、ルアンナは話を続ける。
「たしかにあたしは娼婦です。世の中から良くない目で見られてるのも知ってるし、仕方ないとも思ってます。でも、この子は普通の子供なんです。いままでどおり勉強させてもらえませんか」
「そうは言ってもねえ」
「お願いします。このとおり」
ルアンナは両手を胸の前に組んで跪いた。
ヒーディングはその様子を冷めた目で見ながら、ふん、と鼻を鳴らし、さすがは娼婦だ、男に頼み込むのは慣れているとみえると蔑むように言った。
「やめろよルアンナ! こんなことして欲しくて来てもらったんじゃないぞ!」
「リックは黙ってろ!」
「嫌だ!」
教師が呆れた声を出す。
「ケンカなら帰ってからしてもらえないかね」
「待って! このとおり、お願いします!」
「いくら頼み込まれても無駄だよ。わたしはね、娼婦ってヤツが大ッ嫌いなんだよ。なんの教養もないくせに色香で男を
まくし立てるように言ったヒーディングはそこで言葉を切ると、改めてルアンナたちに目を向け、侮蔑を込めた声で言った。
「――そして彼の姉も、君も娼婦だ」
あのぉ――。
と声を掛けたのはキョウジだ。
「買う方の男性にも責任があるんじゃないですか」
教師はくだらないことを聞くんじゃないとばかりに肩をすくめる。
「女が誑かしてるんだよ。どこまでも汚れた商売だ。そんな薄汚れた者の身内に教える教育などない」
「……かい」
下の方から声がした。
「なんだ?」
「ああそうかいって言ったんだよ!」
立ち上がったルアンナはヒーディングの胸ぐらを掴むとそのままの勢いで壁に叩きつけた。
「ぐはっ! なッ、何をする!」
引きつった顔の教師にルアンナが訊く。
「あんたそれでも先生か!」
「ああ、そうだ……私は教師だ。お前みたいな下賎な女が気安く触れられる人間じゃないんだ!」
「大層なこと言ってるくせにこんな商売女ひとりに何もできないじゃないのさ!」
「お前、自分が何をしてるのかわかってるのか。この汚らわしい手を離せ!」
「ふん、ご自慢の教育とやらでなんとかしてみなよ」
「放せ! 放せ!」
教師はうろたえ、甲高い声で喚きながら両手を闇雲に振り回す。滑稽にすら見えるその姿は、さっきまで偉そうに高説を述べていた男と同一人物とは思えない。
「男のくせに情けない」
ルアンナは吐き捨てるように言うと惨めな教師を放してやった。解放されたヒーディングは、しかしルアンナに憎悪の目を向け、腕を振り上げた。
「この
パンッ――。
という音とともによろめいたのは、しかしヒーディングの方だった。教師の手よりも早く、ルアンナの右手が彼の頬を引っ叩いていた。
ルアンナは呆然としているヒーディングに
「あんたみたいな教師に教わることなんてなんにもないわ!」
と言い捨てると、少年に向かって、行くわよリックと声を掛けた。
「うん!」
うれしそうなリックの声が続く。それから手帳を取り出しメモを取っていたキョウジに気が付き、あんた何してんのと訊いた。
「一応新聞記者なんで」
これを聞いて息を吹き返したのがヒーディングだ。
「おおっ、君! 新聞記者よ、いまの見てただろ! この女が私に暴力を振るったところを!」
「見てました」
「なら一部始終を新聞に載せて、この女の野蛮な行為を世間に知らしめてくれ!」
「いいんですか」
「もちろんだ!」
「そうなるとあなたが、この少年に向けた偏見や彼女の人権を踏みにじったことも書くことになりますよ」
途端に教師は狼狽する。
「な、何を言ってるんだ君。私はこうして暴力を振るわれているんだぞ」
「そうですが、そこだけ切り取るわけにはいきません。あなたもさっき言われたじゃないですか、一部始終を載せてくれと」
「余計なことはいいんだよ!」
「言ってることが滅茶苦茶です」
「お前はどっちの味方なんだ!」
すでに教師は破綻している。
「僕は起こったことをそのまま書くだけです。判断は世の中の人が決めることですよ」
「むう……」
キョウジは押し黙ったヒーディングにだめ押しの言葉をかけた。
「最近は女性の人権活動が活発ですからね。あなたの行為が彼女たちの活動に火をつけるかもしれません。そうなるとあなたの教師という立場も難しくなるでしょうね」
「ち、ちょっと待ってくれ!」
「行きましょう」
キョウジは二人を促し部屋を出る。
「おい!」
追いすがるヒーディングの鼻先でドアを閉めながらルアンナが言った。
「くたばれオッサン!」
*
捨て台詞を投げつけて出てきたルアンナだが、校門を出たところで大きなため息をついた。
ああ、やっちゃったなあ――こんなはずじゃなかったんだけどなあ……。
そんなふうに思ったときはだいたい手遅れだったりする。
ルアンナだって始めからケンカしようと思って乗り込んだわけではもちろんない。だいぶ頭に血が上ってはいたけど――教師が非を詫びて、リックが今まで通り学校に行けるようになればそれでよかったのだ。
世の中の人々は娼婦のことを、男を誑かし、施しを受けなければ生きていけないような卑しい者たちだと思っている。ルアンナ自身は娼婦であることを卑下してはいない。自らの身体を売って稼いでいるのだし、文句を言われる筋合いはないと思っている。
が、しかし――。
リックがその世間と同じような目でルアンナたちを見ていることがショックだった。
あたしはともかく――オリヴィエがどんな想いで面倒をみてきたのかわかってるの――。
いや――。
わかっているから言えなかったのか――。
言いようのない哀しみはやがて沸々とした怒りに代わりルアンナを突き動かした。
あのヒーティングという教師は話が通じない上に偏見の強い、分からず屋のクズ男だった。引っ叩いてやったことで少しはスッキリしたけれど、その代償としてリックの居場所を失ってしまったのだから本末転倒だ。
そんなルアンナの気持ちを察したのだろう。
ずいぶん身勝手な人でしたね、とキョウジが声を掛けてきた。
新聞記者という立場で彼がうまく場を納めてくれたからよかったものの、ルアンナだけだったらどうなっていたことか。
ルアンナは
「助かったわ、ありがとう」
とキョウジに礼を言った。
それから前を歩くリックに声を掛けた。
「ごめんねリック……あんたを学校に行かせようと思って来たのに……」
「気にしなくていいよ。あんなヤツに教わりたくないし、逆にスッキリした!」
リックはそう言って笑ったが、これじゃオリヴィエに合わせる顔がない。
「そうかもしれないけどさ……」
「あの、そのことなんですが――」
途方に暮れるルアンナの隣で新聞記者が言った。
「ちょっと当てがあるんで、よかったら僕に任せてもらえませんか」
* * *
「そうですか。まずは一安心ですね」
姿こそ見えないが、セラの声にはホッとしたような安堵が込められていた。
部屋でくつろいだのはしばらくぶりだ。
リックの学校の件もひと区切りついた。勉強については優秀な元家庭教師が面倒を見てくれることになっている。メイヤー夫人はいつから来れるのかしら、と久々の生徒の来訪を心待ちにしているようだ。
マイペースのキョウジにしては頑張ったほうだと思う。
「キョウジさまもちゃんと休んでくださいね」
セラの柔らかい声が耳元に響く。
「ありがとう。オリヴィエさんの様子は?」
「だいぶ不安定になってきています……」
セラは、肉体を失い、魂だけの存在になってしまったオリヴィエを守っている。魂は放っておけば霧散して無になってしまう。そんなオリヴィエの魂を、力を限定されたなかで守り続けなければならないのだから、セラにかかる負担はキョウジの比ではない。
「あと十日ぐらいかと……」
「そうか……」
オリヴィエを送天する前に殺されてしまったのはキョウジの失態だ。彼女には安心して天国に行ってほしいし、そうしなければならないと思っている。
「わかった。それまでには必ず何とかするよ。セラ、大変だと思うけど頑張ってくれ」
「はい。お任せします」
エネルギーの消耗が大きいセラを休ませ、ソファに身を預けて考える。
いつもなら対象者の中から《残され人》を特定できたところで他の対象者の調査は必要なくなるのだが、今回はそういうわけにもいかない。
オリヴィエともうひとりの対象者マディ・クレバンスは殺されているのである。二人が偶然殺されたとは考えづらい。対象者だったから殺されたと考えるのが自然だろう。
当然、残りの対象者であるルアンナも狙われる。
だから――。
犯人を捕まえる。
犯人が
初めは他の《探索者》の線も疑ってみたのだが、動きがあった形跡は見つからなかった。
いままでキョウジが申請した対象者を国教会が勝手に処分したことはない。もしキョウジの推測が違っていたのなら、話はキョウジ個人の問題だけではなく、ヴァチカンと国教会の問題に発展することも考えられる。
捕らえるのなら確実に捕らえなければならない。
万に一つも逃げられるようなことがあってはならないのだ。そのためには言い逃れのできない証拠を突きつけるか、犯行に及ぼうとする現場を押さえるしかない。
それにしても――。
彼はどうやって対象者を見つけ出しているのだろう。
対象者の名前を知ったとしても、探し出すのは容易ではない。イーストエンドの住人をすべて把握しているわけでもないだろう。
キョウジを出し抜いた方法がわからなければ、いずれはルアンナにも危険が及ぶ。
フォスター牧師を見張ろうかとも思ったが、誰かを雇われでもしてルアンナが襲われたらそれこそ取り返しがつかない。彼女が仕事中の時はともかく、一人の時は近くで守らなければならない。明日からはしばらくイーストエンドに張り込む必要があるだろう。
しかし。
キョウジの計画は翌朝顔を合わせたメイヤーの一言で変更されることになる。
「キョウジ、ルアンナが新聞の尋ね人欄に載ってるわよ」
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