私娼窟
世界有数の都市であるロンドンは世界一の売春都市でもある。売春宿だけでも三千以上、職業として売春しているものは九万人とも十万人とも言われている。
以前は公娼――国が認めた娼婦――もいたが、一八七○年代に盛んになった廃娼運動を経て、現在公娼制度は廃止となっている。しかし、貧困から身体を売る女性たちは後を経たず、娼婦の数はさらに増加しているような状況だ。
なかでもホワイトチャペル界隈はロンドンでも有数の私娼窟だ。
街頭には多くの女が立ち、客を引いている。
小遣い稼ぎで通りに立つ街娼と違い、ルアンナのように娼婦を生業として暮らしている者はたいてい娼館や売春宿と契約しているので、路上で客を引くことはほとんどない。
オーナーに手数料を取られるが、客とトラブルになったとしても間に入ってくれるし、警察の取り締まりがある時も宿側がうまく立ち回ってくれる。持ちつ持たれずの関係だ。
ルアンナはそっと娼館のドアを開ける。
仕事に出るのは一週間ぶりだ。
狭いロビーには客待ちの女たちが集まって談笑していた。女を買いに来た男たちはここで気に入った女を選んで、上階の部屋へと階段を昇っていく。
「あ、ルアンナだ」
ソファに座っていた娼婦の一人がルアンナに気が付いて声をかけた。
あちゃあ――。
できれば気が付かずに奥のカウンターまで行ってしまおうと思っていたのだけど、見つかってしまってはしょうがない。
「ルアンナ?」
座っていた女たちの中で一際派手なドレスの女が振り向いた。濃いアイメイクに深紅の口紅、アップにしたブロンドの美しい髪はウィッグである。
〝彼〟、ネヴィルはこの娼館のオーナーだ。彼自身は紛れもない男性――しかも中年の――なのだが、心は女性であるらしく、自分のことも女性と認識している。話す口調も女性口調だ。この娼館も元々は自分が男と寝たくて始めたものらしいけど、男娼でもなく女装をした男をわざわざ抱きに来るような男はまずいない。剃っても目立つ髭の濃さも指名を遠ざけている要因だ、とルアンナは思っている。
ネヴィルはルアンナの顔を見るなり、あぁらルアンナじゃないのと言ってニヤリと笑みを浮かべた。
「やっと出てきたわね。また振られたって聞いたわよ」
「振ったんです」
力強く言い返したのだが、ネヴィルはルアンナの話をまったく聞いていないのか、だから言ったじゃないの、あんな男やめときなさいってと言って煙草を一服吹かすと、あんたもホント男を見る目がないわねぇと続けた。
ルアンナは
「もう終わったことだし、ほっといてください」
と跳ね除けると、娼館の主はわざとらしく怯えた顔でおお怖いと言った。
「そんなに怒るとまた男に逃げられるわよ」
「だから逃げられてないですって」
「あのねぇルアンナ。外でわけのわかんない男捕まえるより、あんたを指名してくれる男のなかで探したほうが絶対いいわよ」
そうじゃないのだ。
「あたしはお客とじゃなくて、普通の人ともっとこうピュアな恋がしたいんです」
「娼婦が何言ってんのよ」
「いいじゃないですか娼婦でも」
女装したオーナーは、世の中そんなに甘くないのよと吐き捨てるように言った。
「でも――」
「付き合えるだけマシだと思いなさい! あたしなんて宿まで開いて男集めてるのに誰も付き合おうとしないのよ。あんたにこの悲しみがわかる?」
ルアンナにわかるはずがない。だからそう言うと、ネヴィルはそうでしょうよと大げさに肩をすくめ
「あぁ忌々しい。さっさと客取って稼いで来なさいよ!」
と言って盛大に煙草の煙を吐き出した。
「言われなくても取りますよ」
「口答えしないの。少しはオリヴィエを見習いなさい」
「あっ――」
そうだオリヴィエだ。
「ネヴィルさん、オリヴィエ来てます?」
娼館の主は、それがねぇ、と今度は少し心配そうな顔で続ける。
「休んでるのよ、あの子」
「え?」
「あんたが男に振られて休むのはいつものことだから心配なんてしないけど、オリヴィエが休むのは珍しいからちょっと心配なのよ。ルアンナ、あんた何か聞いてない?」
「いえ、あたしはここ来てるもんだと」
「来てないのよ」
いつから来ていないのか聞くと四、五日前からだと言う。
オリヴィエが最後に会ったのは、ディックと別れた翌日――店を休み始めた日だから一週間前だ。
「あの娘に限って間違いはないと思うけど……最近何かと物騒だし心配なのよね……」
そう言ってネヴィルは一層表情を曇らせた。
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