レンフィールド書店の老婦人

「おはようございます。メイヤーさん」

 キョウジは立ち並ぶ本棚の隙間から店の奥に向かって声をかけた。

 カウンターの向こう――安楽椅子に座って本を読んでいた老婦人が顔を上げた。

 すでに十時を回っているのだからあまり早くもないのだが、メイヤーはおはようキョウジ、起きてくるのを待ってたわ、と柔らかい笑顔を見せた。

「すいません、すっかり寝過ごしてしまいました」

「気にしなくていいわ」

 老婦人は読んでいた本を閉じると、さてキョウジも起きてきたことだしティータイムにしましょうか、と老眼鏡を外して品のいいウインクをした。


 彼女、メイヤー・レンフィールドはキョウジが住んでいるアパートメントのオーナーだ。元教師だが、いまは引退して亡くなったご主人から譲り受けたアパートメントを経営する傍ら、一階部分では専門書専門の本屋を営んでいる。専門書しか置いていないので来店する客は多くない。あまり繁盛しているようには見えないが本人曰く、趣味でやっているのだからこれでいいのだそうだ。

 現に今も店内にはキョウジとメイヤーだけで、客の姿は見当たらない。

 キョウジはカウンターの上に置かれていた『take a break』と書かれたプレートを手に取り、掛けてきますねと言って入り口に向かった。

 ドアを開けると厚い雲が目に入った。石畳は濡れていたが雨は降っていない。

『レンフィールド書店』と書かれた店の名前の下にプレートを掛け、カウンターに戻ると夫人は安楽椅子から立ち上がり、奥の居間に続くドアを開けた。

「さあ、行きましょう」

 とキョウジに声をかけ、ゆっくりと足を踏み出した。少しだけ左足をかばうように歩いている。一週間ほど前、自転車で転倒しかけて挫いてしまった足首がまだ痛むようだ。

 いままで一部の上流階級の趣味だった自転車が庶民の間で急速に普及したのは、ごく最近のことである。金属製で前輪の大きなスタイルだったものから、後輪駆動で低い車高のスタイルになり、さらに空気タイヤが開発されたことで乗り心地も格段に改善された。今では男性のみならず、女性や子供たちも乗ることができる乗り物となっている。

 普段は穏やかで良識のあるメイヤーだが、元教師だったせいなのか知的好奇心は人一倍強い。

 そんなメイヤーがこの新しい自転車に興味を示さないはずがない。

 自転車を所有している知人を訪ね、乗り方を教わってきたのだが、そこで負った名誉の負傷なのだそうだ。本人は足が治ったらまた乗りに行くらしい。

 キョウジは、メイヤーを支えるようにそっと腕を差し伸べる。

 老婦人はありがとうと礼を言うと、若い人と腕を組めるのだから捻挫も悪くないわねと笑った。

 すでに五十代に差し掛かっているのだから、身体には気を付けてほしいのだが、好奇心は年齢で衰えるものではないらしい。


 居間に行くとメイドのジョゼットが紅茶の用意をしているところだった。

 彼女がメイヤーの元にやってきたのは半年前のことだ。それまで働いていたメイドのウェンディが結婚することになり、代わりにやってきたのがジョゼットだ。メイドの経験はないとのことだったが、利発で仕事の飲み込みが早く、十三歳という年の割には気も利くのでメイヤーも可愛がっている。

 小柄なメイドはキョウジに気が付くと、おはようキョウジと明るい声をかけてきた。

「おはようジョゼット」

「朝食、用意しますね」

「ごめん、紅茶だけもらえるかな」

 ジョゼットは怪訝そうな顔を向ける。

「食べないんですか?」

「あまり食欲がなくてね」

 少女は特に気に留めることもなく、ふーん、別にいいですけどと言ってティーポットを置いた。

「ごめん」

 紅茶に加えたミルクをかき混ぜながらメイヤーが訊く。

「食べなくていいの?」

「はい、すいません」

「昨日も遅かったみたいだけど、大丈夫?」

「え? あ、すいません、起こしてしまってましたか」

「いいえ、起こされてはいないわ」

「じゃあどうして僕の帰りが遅かったのを知ってるんですか」

 老婦人は不思議そうに訊いたキョウジに

「目の下にそんなに隈をつくって、朝寝坊とくれば――」

 ねえ、と言っていたずらっぽく笑った。

「たしかに」

 愚問だった。どうもまだ頭が回っていない。

「それで――」

 ティーカップを傾けながらメイヤーが訊く。

「女の子とは仲良くなれた?」

「いや、あのメイヤーさん、僕は女の子と仲良くなるために出かけているわけじゃ――」

「あら、そう。それは残念ねえ。お友達が増えれば人探しもしやすいかと思ったのだけど」

「なかなか思ったようにはいかなくて……」

 単純な人探しならそれでもいい。

 しかし――相手が《残され人レムナント》となるとそう簡単にはいかない。デリケートな判断が必要になることもあるし、そもそもあまり大っぴらに動くわけにもいかない。

 メイヤーが言うように友達を作って人海戦術で探し出すというのはいいアイディアだと思うが、社交的なスキルの乏しいキョウジにとっては少々ハードルの高い提案だ。

 それに――今回の相手は娼婦である。

 声をかけても、まず〝買う〟か〝買わない〟かの話になってしまうのだ。

 客じゃないとわかった途端、彼女たちの関心はあっという間にキョウジから離れてしまう。友達どころか会話を続けることすらままならないという有様だ。

「仕方ないので情報を買い取ってるんですけど、それもちょっと難しくて」

 ジョゼットが不思議そうな顔で訊く。

「お金を払ってもダメなの?」

「うん」

 原因はロンドンを恐怖のどん底に落とし込んでいる切り裂きジャックだ。

 娼婦を狙って犯行を繰り返すこの殺人鬼のせいで声をかけるのも一苦労だ。女を買おうともせず、特定の女を捜し回っていれば悪目立ちしてロンドン警視庁に突き出されかねない。そうなっては人捜しどころではない。

「私が行って手伝えればいいんだけど――」

 この足じゃそれこそ足手まといね、とメイヤーが残念そうにつぶやいた。

「気持ちだけいただきます。いまは治療に専念してください」

 ええそうするわ、と答えたメイヤーの隣でジョゼットが言う。

「じゃあわたしが手伝ってあげましょうか」

「ありがとうジョゼ。でも、イーストエンドってのは危ないところだからね。ジョゼには頼めないよ」

「平気ですよ」

「切り裂きジャックがウロウロしてるかもしれないんだよ」

 小さなメイドは眉をひそめる。

「ホント?」

「まだ捕まってないからね」

「怖い」

「そうだね」

「ううん、キョウジが」

 え? なんだって。

「僕が?」

「なんだか怖い顔してる」

「そうかな」

「ジョゼット、キョウジはちょっと疲れてるのよ」

 夫人はメイドに笑いかけると、でもそうね、もっと楽しそうな顔をしていれば女の子たちもいろいろ話してくれるかもしれないわねと言ってキョウジに目を向けた。

「そんなに疲れた顔してますか?」

「爽やかには見えないわね」

 怪しい人って感じ、と被せるようにジョゼットが言う。なんだかひどい言われようだ。

「それは……まずいなぁ」

 ジョゼットが覗き込む。

「セラがいなくて寂しいんでしょ」

「そんなことないよ」

「ホント?」

「うん」

「セラにキョウジは寂しくないみたいって言ってもいい?」

「それは――」

 ちょっと困る。穏やかな口調でメイヤーが言う。

「何にせよもっと楽しそうに話をしないと、女の子たちも気味悪がって話せるものも話せないんじゃないかしら」

 彼女の言うことはもっともだ。


 今回、三名の対象者のうちすでに二人が死んでいる。

 殺されたのだ。

 誰かひとりが、というのであれば不幸な偶然という可能性も考えられるが、三人のうち二人が殺されたとなれば偶然では片づけられない。

 国教会には定期的に報告を入れている。

 他にも《探索者》がいるのだろうか?

 少なくともキョウジは聞いていない。可能性として考えられるのは失踪したという前任者ぐらいだが、それにしたって対象者かもしれない人間を殺すようなことはしないだろう。第一、殺す意味がない。

 とにかく――。

 これ以上、下手を打つわけにはいかない。

 こうしている間にもルアンナに危険が迫っているかもしれないのだ。誰がどんな理由で殺しているのかは知らないが、絶対に犯人よりも先にルアンナを捜し出さなければならない。

 それが焦りとなって表情に出ていたのだろう。

「大丈夫、もっと自信を持って」

 老婦人は柔らかい笑顔でキョウジを励ました。

 何だか気持ちが軽くなった気がする。

「そうですね。今日はもう少し明るく声をかけてみようと思います」

「それがいいわ」

「がんばってね、キョウジ」

「ありがとうジョゼ。メイヤーさんのことを頼むね」

「うん」

 少し、元気が出た。

 と同時に腹が鳴った。すっかり忘れていたが昨日の夕食も食いっぱぐれていたはずだ。

「何だかお腹が空いてきちゃいました。あの、朝食いただいてもいいですか」

「どうする、ジョゼット」

 いたずらっぽい顔でメイヤーが訊く。小さなメイドは少しあきれたような表情を作ると

「しょうがないなあ」

 と言って立ち上がった。

「だそうよ。うちの料理長が寛大な心の持ち主でよかったわねぇ」

 キョウジは小さな料理長に向けて、ありがとうございますと丁寧に頭を下げた。


   * * *


「奥様、あれでよかったんでしょうか」

 紅茶を注ぎながらジョゼットが訊いた。

 食事を終えたキョウジはすでに出かけている。

 かぐわしい紅茶の香りを楽しみながらメイヤーはもちろん、と微笑みかける。

「上出来だったわ、ジョゼット」

 ありがとうと礼を言うと、お役に立てたならよかったです、と若いメイドは微笑んだ。

 キョウジの表情についてジョゼットに入れ知恵していたのはメイヤーである。

 人見知りなんです――とはキョウジがよく言う言葉だが、本人が言うほど人見知りではないとメイヤーは思っている。本当に人見知りだったら、《天国への案内人ヘブンズ・テイカー》なんて仕事が務まるはずがない。キョウジ本人がそう思い込んでいるだけである。ただし、今回は探していた人物が殺されてしまっていることもあり、切羽詰まったところまで追い詰められているのは間違いない。

 しかし――《天国への案内人》というのは奇妙な存在だ。

 生きたまま死んでいる《残され人》と、その魂を救済する《天国への案内人》。

 常識的に考えれば荒唐無稽な話である。

 メイヤーも彼らと知り合わなかったら信じていなかっただろう。

 こうしてキョウジをサポートしているのは未知の存在への興味ということもあるが、それ以上に天国へ行きそびれてしまった魂を救うための手助けをしたいと思っているからだ。

 もちろん興味本位で首を突っ込んでいい話ではないことは知っている。

 だからメイヤーは――彼女にしては非常に珍しいことではあるが――キョウジから問われないかぎり自分からキョウジの追っている事案の話を聞かないと決めている。そのかわり事案が解決した時には事の顛末を教えてもらうことにしている。

 今回はずいぶんと苦戦しているようだから助言したのだが、キョウジのことだ。きっかけさえ作れば自然と進展するだろう。

「無事にイーストエンドまで行けますかね」

 ジョゼットの問いかけに、さて、それはどうかしらねぇと答えてティーカップを傾ける。

 キョウジの方向音痴は本物だ。ましてここ数日はセラが同行していないので、今日もあちらこちらと迷いながらなんとか辿り着くのだろう。

 メイヤーはいらずらっぽく笑って言った。

「キョウジに幸運ツキがあること祈りましょう」

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