ルアンナ・アーテス
世の中には星の数ほど男がいる。
ロンドンは世界でいちばん大きな街だというから、そこにいる男も世界でいちばん多いはずだ。
それなのに――。
それだけたくさんの男がいるって言うのに、どうしてあたしのまわりにはろくでなししかいないんだろう。
この前まで付き合っていた男、ディックもそうだ。
お前は最高だ、ずっと一緒にいようなんて言ってたくせに、あたしが『結婚』という言葉を口にした途端、お前にはオレよりもふさわしい男がいるはずだ――なんてことを言ってそれっきり姿を見せなくなった。
ふざけた男だ。
何がオレよりふさわしい男よ。もっともらしいことを言ってるけど、要は娼婦なんかと結婚できるかってことでしょ。
あたしだって娼婦が世の中からどう思われているかぐらい知ってるわ。
身体を売って金を稼ぐ
ルアンナにはそこがわからない。物乞いのように恵んでもらっているわけでもないし、誰かに迷惑をかけているわけでもない。むしろ抱いた男に喜ばれているのだからいいじゃないか、と思うのだ。
娼婦なんて商売をしている女に本気で言い寄ってくる男がそうそういるわけがないことだってわかってる。
わかっちゃいるけど――。
別に多くを望んでるわけじゃない。楽しいときは一緒に喜びたいし、寂しいときは傍にいてほしい。ただ二人で普通の生活をしたいだけなのだ。
初めて付き合ったのは詩人の男だった。
男の口から紡ぎ出される愛の言葉はルアンナの心を揺らし、それまで感じたことのない幸せなひと時をもたらした。この人とずっと一緒に暮らしていきたいと本気で思った。
若かったのだ――まだ十九歳だけど。
男はルアンナの心をくすぐる言葉をたくさん贈ってくれたが、しかし、一切働こうとはしなかった。
詩人は働いてはいけない――というのが彼の口癖だった。
いまはそれが嘘だったことがわかるけど、世間知らずだったルアンナは、詩人という仕事はそういう仕事だと思っていたのだ。
まわりからはそいつはダメな人間だ、って言われても聞く耳を持たなかった。
でもある日、見てしまったのだ。詩人が他の女を連れて宿に入っていった姿を――。
詩人は女をただの知り合いだと弁解したが、それからは毎日ケンカばかりが続き、ギクシャクしてしまった関係は直らず、結局その男とは別れてしまった。
次に付き合った男は画家の卵という男だった。
男はルアンナをモデルにして絵を描きたいと言った。きみの美しい姿を絵の中に閉じ込めておきたいと情熱的な口振りで語り、パリで個展を開くのが夢なんだと高い熱量で訴えた。
夢を持つことは素晴らしいことだ――。
画家の熱に当てられたルアンナは彼のために協力を惜しまなかった。
目が覚めたのは友達のオリヴィエに訊かれた一言だった。
――その人の絵、見せてもらった?
見ていなかった。
描いてもらっていた絵も途中から、何かこうパッションが足りないんだなどと言われ、結局は未完成に終わっていた。いままでに描いた絵を見たいと言うと、画家はなぜか激怒した。
男は画家ではなかったのだ。
騙したのかと問い正すと、画家の卵だから騙していたわけではない、これから画家になる。だから一緒にいてくれと懇願された。
言っている意味が分からなかったし、一緒にいる意味も見い出せそうにない。一度離れてしまった気持ちは戻らず、この恋もほどなく破局を迎えたのだった。
夢ばかり語って仕事をしない男はダメだ――。
苦い恋の反省から、次は真っ当な仕事を持っている男と決めて付き合ってみたのだけど、次の男ディックも結局はただの甲斐性なしだった。
娼婦としてのルアンナはそれなりに魅力的ではあると思う。
人が振り向くほどではないがそこそこ目を引く容姿だし、多少世間知らずのところはあるけれど性格だって悪くない――はずだ。
実際、客の付きもいい。
残念なところがあるとすれば男を見る目がないことなのだが、本人がそのことに気がついていないというのが更に残念なところである。
出ていった男が戻ってくるわけもなく、店に出て客でも取れば気が紛れるだろうと思ったものの、一度引き籠もると外に出るのが
そのうち、くぅぅと腹が鳴った。
昨日から何も食べていなかったことを思い出す。時計の針はもうすぐ昼を示している。買い置きしていた食料も食べきってしまったから、外に出なければ食事にはありつけない。
しょうがないなと重い腰を上げる。
もっとも、出ると言っても階下のパブに顔を出すぐらいなのだけど。
階段を降りると店主のデイブが、テーブルから下げたグラスをカウンターに置いているのが見えた。
「デイブ。何か食べさせてくんない」
「お、出てきたなぁ」
ガラガラとした濁声がルアンナを出迎えた。
日焼けした顔のなかで白い歯が笑っている。もう五十近いはずだが、毎日重たいビール樽を運んでいるせいか、年の割にはいいガタイをしている。
「もう立ち直ったか?」
「立ち直るもなにも、別にあたしは平気よ」
店主はからかうように訊く。
「また捨てられたんだろ」
「捨てたの」
デイブはこんなに
「捨てたの! あたしが捨てたの!」
ムキになって言い返すルアンナの鼻先にほらと、フィッシュアンドチップスが差し出された。
親子ほど年が離れているデイブだが、ルアンナとはヘンに気が合うようでじゃれ合うような話ができる友人だ。
揚げたてのフライの香ばしい香りが食欲をそそる。
「ありがと」
店頭に置いてあるビール樽をテーブル代わりにして夢中になってフライを食べる。そんなルアンナの様子を眺めながら腹ァ空かした猫と一緒だなァとデイブが笑う。
「しかし、お前も付き合う男はちゃんと選べよ」
「選んでるよ」
「この前のアレ。あいつもなぁ」
「仕事してるって言ってたんだけどさ」
「仕事してりゃあいいってもんじゃねえだろ」
「そうねぇ。デイブもパブやってるけどいい人だもんね」
「だろ」
店主はカウンターに肩肘を載せてポーズを作ると気取った声でいつでも付き合ってやるぞ、と言った。
「残念。好みじゃないんだよなあ」
「フィッシュ返せ」
「もう食べちゃった」
「まったくふざけた奴だぜ」
|人気《ひとけ
》のない店内に笑い声が響く。
いつも通りの扱いにどんよりしていた気持ちが少し晴れてくる。
ふと、通りに目を向けた時、道の端を歩いている少年が目に入った。
丈の短い上着と半ズボン、薄汚れたハンチング帽を被り、大きめの靴でガボガボと音を立てて歩いている。
あれは――。
「リック」
と声を掛けてみたが少年は構わず歩いて行く。
もう――。
食べかけのフライを置いて追いかける。
「ちょっとリック、返事ぐらいしなさいよ」
肩越しに覗き込むと、帽子を目深に被った少年の顔はあちこち鬱血して赤く腫れていた。
「どうしたの、その顔?」
驚いて訊いてみると少年は転んだと言った。
「嘘つけ」
「嘘じゃないって」
「じゃあどこで転んだのよ」
転んでできるような傷じゃない。
リックは別にいいだろそんなこと――とバツが悪そうに視線を外した。
ふうん。
「ケンカしてボロ負けしたんだ」
「うるさいなぁ。ルアンナには関係ないだろ」
「あるわよ。そんなボコボコの顔見せられて知らん顔ってわけにはいかないじゃん」
「いいって、ほっといてよ」
ルアンナは逃げようとする少年の左手を捕まえると有無を言わさぬ口調で言った。
「手当してあげるからうちおいで」
「大丈夫だって」
「いいから来な!」
*
「痛い痛い、痛いよルアンナ!」
濡らしたタオルで顔を拭いてやった途端、リックは大げさに悲鳴を上げた。
「だからイヤだったんだよ、ここに来るの」
「男の子でしょ、このぐらい我慢しなさいよね」
ルアンナはタオルを押しつける。面倒見はよいのだが、残念なことに
「痛いって! そんなンだから男に逃げられるんだぞ」
「うるさいわね! って言うか女の子にはもっとやさしい言葉をかけなさいよね。嫌われても知らないわよ」
「こんなにされてやさしい言葉なんか言えるかよ」
「あんたさ、こんな顔のまんまほったらかしにしてたら治んなくなっちゃうかもしれないのよ。いいの? これからずっと腫れたまんまの顔でも」
「……それはヤダ」
「でしょお? ちゃんときれいにして冷やしとかないきゃダメなの。だからこうしてあたしが拭いてあげてんじゃない。わかった?」
脅しが効いたのか、リックは不服そうな顔をしながら、うんとうなずいた。
「それにしてもずいぶんこっぴどくやられたわねえ。あんまりオリヴィエを心配させるんじゃないわよ。それでなくてもあんたの姉ちゃんは心配性なんだからさ」
オリヴィエはルアンナと同じ娼婦で気のおけない友達だ。親友といってもいい。
「オレだって好きでケンカしてんじゃないよ」
「あんた、学校でなめられてるんじゃないの? 一回こう、ガツンとやり返した方がいいんじゃない?」
「そんなことしたら、またネエちゃんに文句言われるじゃん」
それもそうか。
ルアンナは、冗談よと取り繕ったが十歳の少年に論破されてりゃ世話はない。
「――あのさ、ルアンナ」
タオルで顔を冷やしながらリックがポツリとつぶやいた。
「オレ……学校辞めようかなって思ってるんだ」
「なんで? いじめられるから?」
「そんなんじゃない」
じゃあ何でよと訊くと、少年は一瞬逡巡して、やがて、つまんないからと言った。
「あんたこの前、学校面白いって言ってたじゃん」
「あのときは面白かったけど、いまは面白くない」
ルアンナは手を止めると、リックを見据えて訊いた。
「何かあったの?」
「別に」
何かあるのだ。
「何にもないのに面白くなくなるなんておかしいじゃない」
「面白くないもんは面白くないんだよ」
いまでは当たり前のようになっているけど、学校に行って勉強するというのが当然のことになったのはそれほど昔の話じゃない。ルアンナが生まれた頃は、まだ特定の――つまり金持ちの――子どもたちだけが通うような場所だったらしい。
裕福でもないリックが学校に通っているのは、弟の将来を案じたオリヴィエの一心からだ。
「あのねぇリック。オリヴィエはあんたが将来生きていくのに困らないように、いろんなことができるようにってわざわざ学校に行かせてるんだぞ」
「将来って言われたってそんな先のことなんかわかんないじゃん」
残念ながら姉の心は弟に届いていないようだ。生意気なことを言えるのも姉のオリヴィエが身体を張って頑張っているおかげなのだが、リックはそんなことを気にしたことなどないのだろう。
「先のことがわかんないから学校行っていろいろ習うんじゃないの?」
ルアンナの質問に分が悪いと思ったのかリックは話の矛先を変えた。
「ルアンナは行ったのかよ、学校」
「行ってないよ」
「なんだよ、ルアンナだって行ってないンじゃん」
リックは口を尖らせる。
「あたしは――」
ルアンナは孤児だ。親の顔も知らなければ、兄弟がいるかもわからない。物心付いた頃には貧窮院で暮らしていた。表向きは貧困者や浮浪児などを保護する施設だが、内実は町の美観を損ねるような輩を集め、かろうじて生かしているという程度の施設である。当然まともな教育が受けられるはずもない。しゃべることはできても読み書きについてはいまだに苦手だ。
「知らないってのは損だと思うぞ」
ルアンナの話を聞いたリックは少し考え込むようにして、そっかとつぶやいた。
だからさ、とルアンナは諭すように言う。
「あたしは行っといた方がいいと思うけどなァ、学校」
「でもヤダ」
「はあ?」
親友の弟は想像以上に頑なだった。
「あんたねえ――」
「何だよ」
「ホンっト、ガキよね」
あきれ顔でつぶやいたルアンナにリックが反撃する。
「ルアンナだってたいして変わんないじゃん」
「変わるわよ。あたしは大人だし、ちゃんと自分で稼いだ金で暮らしてるしィ。あんたみたいに姉ちゃんの脛をかじりまくって暮らしてる子供じゃないの」
あたしだってこの無慈悲な世の中を一人で生きてきた自負がある。
一緒にしないでよねと突き放すと、リックはじゃあオレも働くと言って返した。
「働くって何するのよ」
「新聞売りとか」
「新聞売りィ?」
小銭は稼げるかもしれないが暮らしていける仕事ではない。
「じゃあ煙突掃除」
たしかに子供にしかできない仕事だけど――。
「やめときなよそんな仕事。いつも真っ黒けで汚いし、落っこちたら死んじゃうわよ」
「何だよいちいちうるさいな」
「あのさぁリック、大人になれば嫌でも働かなきゃならなくなるんだからさァ、いまは学校行っとけばいいじゃん」
リックはテーブルに突っ伏すとあーあ、早く大人になりてえなぁとボヤいた。
「そのうちなるわよ」
「オレはいますぐなりたいの」
「それは無理よ」
「つまんね」
「子供の時にしかできないことってのもあると思うけどなァ」
リックはしばらくふて寝するようにテーブルを占領していたが、しばらくすると顔をあげ、ルアンナ、オレ帰るよと言って上着を羽織った。
「あ、そう」
いろいろ話をして気が紛れたのか、表情にいつもの明るさが戻ったようだ。
気をつけて帰ンのよと声をかけると、子供じゃないんだから平気だよと生意気な返事が戻ってきた。
リックは意地っぱりだけど、悪いヤツじゃない。
その証拠に部屋を出ていく前に一度立ち止まると、聞こえるかどうかという小さな声で手当ありがと、と言って出て行った。
窓から階下に目をやると意地っぱりの少年はすぐに人に紛れて見えなくなった。
ルアンナはリックの消えた方向を眺めながら
「子供ってのは素直な方がかわいいんだぞ」
と笑ってカーテンを引いた。
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