霧の都
あいかわらずせわしない街だ――。
ロンドンに戻ってくるたびにキョウジは少しうんざりする。
ロンドンはいつだって騒々しい。
うっすらと濡れた石畳の上をいくつもの馬の蹄と馬車の車輪の音が交差する。
通行量が多いと馬車の合間を縫って向かい側に渡るのも一苦労だ。
ここ、ロンドンは呆れるくらいたくさんの馬車が走っている。ハンサム・キャブといわれる辻馬車や上流階級の人間が所有している四輪馬車。一般庶民が利用する乗合馬車などまるで馬車の展覧会のようだ。ウェストミンスターのビクトリア・ストリートなど主要なストリートは馬車が集まりすぎて渋滞を引き起こしているような有様だ。
人口六百五十万人。
世界に君臨する大英帝国の首都であり、世界最大の都市でもある。
誇れるのは人口だけではない。銀行や証券取引所など金融センターの集まるシティ・オブ・ロンドンはイギリス国内のみならず世界の経済を動かしているし、三十以上集まっている大学は常に世界の教育・研究の最先端に立ってリードしている。
発達した鉄道網により市内に作られた多くの駅は国内各地とロンドンを結んで、人や物資の大量かつ迅速な移動を可能にしていた。鉄道だけではない。河畔の風に乗って聞こえてくる金属音。テムズ川の造船ドッグでは今日も新しい船が建造されている。
世界はロンドンを中心に回っている――というのもあながち大げさな話ではない。
この街に住んで三年になるが、キョウジはいまだにロンドンという街に慣れていない。
ひとつは騒々しいこと。
それだけ街に活気があるということなのだが、田舎育ちのキョウジにとってロンドンの時間の流れは早すぎる。
もうひとつは霧である。
テムズ川から広がる霧はロンドンの名物だ。街をすっぽりと包みこみ幻想的な雰囲気を醸し出す。
しかし――実際、街を包みこんでいるのは霧だけでないのだ。
工業地帯から限りなく排出される薄汚れた排煙。これもまた〝霧〟の正体なのである。朝晩の霧と違い日中の霧はこの排煙であることも少なくない。
霧の都――などと、ロマンチックな言われ方をするが、これはこの国の人々が言う自虐的なジョークなのではないか、と思っている。
トラファルガー広場を越え、テムズ川の河畔を歩く。
霧こそ出ていないが、鈍色の空と茶色に澱んだ川面を眺めながら歩くのは、見慣れてしまった風景とはいえあまり気持ちのいいものではない。
対岸にある工業地帯の煙突は今日も競うように黒煙が吐き出しているし、いまは気温が低いから気にならないが、夏場などの暑い日には川が発する悪臭が周辺一帯を不快な場所へと変えてしまう。
まったく――。
我ながらずいぶんネガティブなものだと思う。
気持ちが晴れないのはまわりの風景のせいばかりではない。
キョウジは上着の内ポケットから手帳を取り出し、中から写真を一枚取り出した。
《
写真には若い女性が写っていた。
派手な化粧をしているが、まだ二十歳そこそこといったところだろうか。首のマフラーの柄に浮かんだ文字からルアンナ・アーテスという名前であることがわかる。
背景には――古びた小さな教会が写っていた。
イーストエンドにある聖ボトルフ教会だ。
イーストエンド――。
ロンドンが世界有数の都市であることは万人が認めていることだが、しかし、世界有数の都市であることがすばらしい都市かと言われれば、これは必ずしもイコールではない。
ロンドンも多くの問題を抱えている。
産業革命による急激な工業化は黒い霧を生み、テムズ川を腐らせ、生活環境に深刻なダメージを与えていたし、台頭した資本主義は社会の構造を雇用する者と雇用される者の二つへ塗り替えた。
産業で富を得た富裕層が裕福な暮らしをしている反面、工場で働く労働者は少ない賃金で過酷な労働の日々を送っている。
職に就いている者はまだマシだ。職にあぶれ、わずかな日銭を稼いで日々を暮らしている者や、住む部屋もなく、路上や公園で酒浸りになって身を持ち崩す者も多い。
生活困窮者となった彼らが集まり暮らす街が貧民街――イーストエンドなのだ。
人を捜すことにおいて貧民街ほど捜しづらい場所はない。人の流入は多いし、誰がどこに住んでいるかもはっきりしない。
それに――。
ルアンナというこの女性はおそらく娼婦だろう。
教義上、ヴァチカンは娼婦の生業を認めていない。世の中の秩序を保つためには当然のことだと思う。
矛盾するようだが、キョウジ個人としては娼婦が苦手というだけで認めていないわけではない。身体を売って報酬を得ると言うことは決して誉められるものではないと思う。しかし、だからと言って悪かと言われるとそうとも言い切れない。
娼婦はそのほとんどが貧しい身の上の者たちだ。なかには好んで娼婦になった者もいるかもしれないが、大多数の娼婦は生きていくために選択せざるを得なかった者たちである。強盗など平気で人の物を奪う輩に比べれば職業意識のある娼婦のほうがまだ真っ当なのではないかとも思う。
娼婦という職業の是非はともかく、特定の娼婦を見つけるのは難しい。
イーストエンドだけでも八千人以上の娼婦がいると言われているし、小遣い稼ぎの主婦なども含めたらさらに多くなる。
そのうえ間の悪いことに、いまイーストエンド界隈では娼婦を標的にした猟奇的な殺人事件が頻発しているのだ。
その犯行は残忍で、彼に殺された被害者は身体を切り刻まれ、惨たらしい状態で発見されている。
陰惨たるこの事件が広く世間に知られることになったのは、その異常性とともに、ジャック本人が新聞社や
ジャックは何者なのか。
なぜ猟奇的な殺人を犯すのか。
すでにホワイトチャペルではジャックに便乗したと思われるものも含めて十数件の事件が起きている。ロンドン警視庁も躍起になって捜査しているが、いまもなお逮捕には至っておらずジャックは依然として霧の中である。住人たちの警戒感も高くなっているし、人捜しには最悪のタイミングだ。
しかし――。
いまはそんな泣き言を言っている場合ではない。
一刻も早くこのルアンナという女性を見つけ出さなければならないのだ。
これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない――。
キョウジは写真を手帳に挟み、内ポケットにしまい込んだ。
ちょうど向こうから歩いてきた労働者風の男に声を掛ける。
「あの、イーストエンドへ行くにはこちらで合ってますか」
男はつまらなさそうな顔で、ああと言うと歩みも止めずに行ってしまった。
もう何日も通っているのだからいいかげん覚えてもいいはずなのだが、なぜか一度で目的地に着いたためしがない。
「よし」
キョウジは小さく気合いを入れると、イーストエンドに向けて力強く歩き出した。
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