ビリントン・カーヴェイ

   *


 負けた、か――。

 エディはあたりを見回す。

「オヤジは?」

「羊を呼び戻しに行ったわ」

 キョウジも一緒に行ったらしい。

 まったくどこまでタフなんだ、あの親父は。

 ティーカップを置いたクラフトマンが訊く。

「どうだった、バーディ・コリンズは」

「まいったよ」

 正直な気持ちだ。

「オヤジの若い頃って、あんな試合をしてたのかい?」

「あんなもんじゃない。もっとがむしゃらなボクシングだった」

「なんで俺の観てた試合は殴られっぱなしだったんだ?」

「自分で訊いてみればいいだろ」

 ……それを聞きに来たのだ。

 エディは両の掌を見つめる。

 渾身のパンチも親父には効かなかった。現役を退いて十年以上あるというのに、こんなに差があるなんて……ショックだぜ。

「けっこう効いてたみたいよ」

 エディの気持ちを見透かしたようにヘンリエッタが言う。

 慰められると自分が惨めになっていく。

「全然平気そうだった……」

 沈みこむ息子を見て母親は笑う。

「バカね。やせ我慢に決まってるじゃない」

「やせ我慢?」

「辞めて何年経ってると思ってんのよ。顔だってけっこう腫れてたんだから」

 そうなのか?

「そんな顔を見られたくないから外に出たのよ」

「でも、そんなこと――」

「言うはずないじゃない、あの人が」

 確かにそうかもしれない。

「母さん、よくそんなオヤジと一緒に暮らしてきたなあ」

 しゃべらなくたってあの人の言いたいことは全部わかるわ、あれで結構単純なのよ、と言って母は笑った。

 夫婦というのはそんなものなのだろうか。

 あなたもそういう気の回る女の子を見つけなさい、と言ったヘンリエッタの眼が興味に輝く。面倒な話になりそうだというエディの嫌な予感は的中する。

「ねえ、誰かいい人いないの? それとももう誰か付き合ってる人でもいるの?」

「いないって」

「そうなの? そんな不細工な顔でもないと思うんだけどねぇ」

「なんなら、わしが誰か紹介してやろうか」

 横から口を挟んだクラフトマンにヘンリエッタが本当ですかと食いついた。

「乗るなよ母さん!」

「あら、やっぱり誰かいるの?」

「そうじゃないって!」

 エディが家にいた時からこの調子だ。学校で気になる子はいないのか、誰か付き合ってる子はいないのか――どうして母親というのは息子の恋愛に首を突っ込もうとするのだろう。他所よその母親もみんなこうなのだろうか。

 エディは話を逸らそうと部屋の中を見回し、壁にかかっているボクシンググローブに目を止めた。

「ところで――あのグローブさ、昔からあるけどなんで今日使わなかったんだ?」

 ヘンリエッタは話を逸らされたことに不服そうだったが、それでも、あれはお父さんのじゃないの、預かり物――と答えてくれた。

 てっきりオヤジのものだと思っていたが、預かり物とは初耳だ。

「誰の?」

「ビリーさん」

「ビリーさんって誰?」

「ひとつ昔話をしよう」

 と言ったのはクラフトマンだった。


「その昔、《壊し屋クラッシャー》と呼ばれるボクサーがいた」

《壊し屋》は不器用なタイプだったらしい。

 駆け引きやら小細工などせず、気持ちを前面に出してがむしゃらにぶつかっていくため、なかなかの人気だったそうだ。勝つときは豪快に勝つが、負けるとき壮絶なノックアウト負けというわかりやすいボクシングをしていた、とクラフトマンは言った。

 同じ頃、《ジェントリ》と呼ばれたボクサーがいた。あだ名の通り上流出身の《ジェントリ》は出自を笠に着たいけ好かない男で、腕も気持ちもないが金だけは持っていた。拾った勝星はもっぱら金で買ったものだと噂されるようなボクサーだったのだそうだ。

 そんな腐った奴はいまでもいる。エディも何人かのボクサーの顔を浮かべた。

「ある日、その《壊し屋》と《ジェントリ》が試合することになった。《ジェントリ》は《壊し屋》に自分に試合に勝たせてくれるように持ち掛けたらしい」

「八百長かよ」

「そうだ」

「《壊し屋》はその話を引き受けたのか」

「さあ」

 二人の間でどういう話になったのかまではわからん、と老記者は肩をすくめた。

「試合はどうなったんだ」

「開始直後に《壊し屋》がラッシュを仕掛けた。《ジェントリ》はまったくも手も足も出せず叩きのめされ一ラウンドでノックアウト負けを喫した」

「ざまあみろってんだ」

「実力を考えれば当然の結果だ。しかし話はそこで終わらなかった――」

《ジェントリ》が八百長だと騒ぎ始めたのだそうだ。

「ちょっと待ってくれよ。八百長を仕掛けたのは《ジェントリ》の方だろ?」

「《ジェントリ》は《壊し屋》から負けてくれるように頼まれた、自分はわざと《壊し屋》に負けたんだ――とな」

「負けたのはそいつが弱かったからだろ。あんたらはその話を信じたのか」

「いや、誰も信じやせんかった。そもそも《壊し屋》の方が強いのは誰の目にも明らかだったからな。しかし、相手が悪かった」

 クラフトマンは苦虫を噛み潰したような顔で続ける。

「腐っても上流出身だった《ジェントリ》は金にモノを言わせて、《壊し屋》が八百長したように工作したんだ」

「胸くそ悪い話だな」

「そして《壊し屋》は何も言わずにボクサーを辞めた」

「なんでだ? なんで《壊し屋》は本当のことを言わなかったんだ」

「さあ、それはわしらにもわからん。何か理由があったんだろうとは思う」

 エディは壁のグローブに目を向ける。

「……あのグローブは、その《壊し屋》が使っていたものなのか」

「そうだ」

「何でオヤジがそいつのグローブを」

「それはお前の親父が《壊し屋》ビリーのライバルだったからだろう。リングの上でビリーと一番激しい試合をしていたのがお前の親父だ。ふたりの真っ向勝負の殴り合いはどの試合もいい試合だった」

「……俺の知ってるオヤジはいつも殴られっぱなしだった」

「お前の親父も変わり者だからなぁ。わしはわざと《ジェントリ》に殴らせていたんじゃないかと思ってる。《ジェントリ》のパンチはたいしたパンチじゃない。ビリーはもっと強かった、と言うようにな」

 知らなかった。でも、あのオヤジならそうするかもしれない。

「だからバーディが引退前に《ジェントリ》を完膚なきまで叩きのめした試合は最高の気分だったよ」

 オヤジと《ジェントリ》の最後の試合はたしか一ラウンド、レフリーストップだったはずだ。

 クラフトマンが言うには、最後の試合、オヤジは《ジェントリ》をコーナーに追い詰めるとそこに釘付けにして殴り続けたらしい。倒れかけても殴って戻されるので《ジェントリ》はダウンすることすら許されず、延々と殴り続けた結果、ようやくレフェリーストップで試合が止まったのだそうだ。

 あいつジェントリの試合にはみんな腹を立てていたからな、と言ってクラフトマンはグラスを傾けた。

 初めて聞いた話ばかりだった。

 サンドバッグみたいで情けないと思っていたオヤジのボクシングに理由があったなんて考えたこともなかった。

「……母さん、何か聞いたことあるか?」

 すました顔で紅茶を飲んでいた母は眉を持ち上げて言った。

「あの人が言うような人だと思う?」

 夕食をみんなで食べた後、クラフトマンとキョウジはリーズへと帰って行った。

 

 エディはバーディと二人、裏庭のテーブルでウィスキーを飲んでいた。

 テーブルの上のランタンが昼間試合したリングをうっすらと照らし出している。

 当初の目的だった、どうして殴られっぱなしの試合をしていたのかについてはまだ聞いていなかったが、もう聞く必要もないだろう。本人に聞いたとしてもはぐらかされるに決まっている。それよりも訊いてみたいことがあった。

「なあオヤジ」

「ん?」

「ビリントン・カーヴェイってのはどんなボクサーだったんだ」

「ムカつく野郎だ」

 バーディは即答した。

「え?」

「何度ぶん殴っても殴り返してくる」

 ボクシングなのだからそれは、まあ、そうだろう。

「セオリーも何もないが、パンチだけはいいパンチを打ってきた」

「強かったんだ」

「俺の次ぐらいにな」

 子供みたいな答えにエディは笑ってしまう。

「そっか。試合は楽しかったのか」

「ああ。楽しかったな」

 父は懐かしそうな目で、あいつとやるのは楽しかったと小さく笑った。エディはこんな笑い方をする父を見たのは初めてだった。

 なるほど。クラフトマンの言っていたことは当たっているようだ。

 ふとバーディが言った。

「お前のパンチな」

「ん?」

「軽い」

「悪かったな」

「もっと気を入れて打て」

「入れてるよ」

 口を尖らす息子に元ボクサーは続ける。

「逃げ回るのは構わん。ただし、決めるときは決めろ」

「……うん」

「お前は俺の息子だ。もっといいパンチが打てる」

「うん。わかった」

「そうなったらまた勝負してやる」

「今度は勝つからな」

 意気込む息子を横目に見ながらバーディ少しだけ楽し気にグラスを傾け

「ふん。十年早ェよ」

 と言って笑った。

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