裏庭のリング
リーズの西、ブラッドフォードから西北に十二マイルほどの場所に位置する小さな町キースリーがエディの故郷だ。
実家に帰るのは家を出て以来だから四年ぶりになる。
半日もあれば帰ることのできる距離なのにいままで帰っていなかったのは、やはりボクサーとして結果が出ていないことが大きい。
チャンピオンになるまでは帰らない――などと言う大げさな理由があるわけではないが、父のボクシングに反発して出てきた手前、父よりも良い結果が出ていなければ意味がないと思っている。
しかし――。
今回は自分の知らなかった父の姿を確かめるために帰るという立派な目的があるのだから卑屈になる必要はない。
いや――何と言おうと言い訳か。
そして隣にはその言い訳を補強する材料が歩いている。
キョウジとはリーズの駅で合流し、乗合馬車でブラッドフォードまでやってきた。そこからは徒歩である。
郊外の実家まで道すがらキョウジは少し楽しそうだった。
「いいところですね」
「そうか? 何にもないとこだぞ」
周りは緩やかな丘陵があるだけの田園地帯だ。ところどころで放牧された羊が草を食んでいる。エディが町を出た時と同じで何にも変わっちゃいない。
そう言うとキョウジはそこがいいのだと言った。
「僕は普段、仕事の関係上ロンドンに住んでいますが、人も街もせかせかしていて、いつまでたっても慣れません」
何だか年寄りみたいなことを言っている。
「その上、どうやら方向感覚が悪いらしくてよく道に迷うんです」
「ロンドンみたいなデカい街で方向音痴なんて最悪だなァ」
「最悪です」
真顔でうなずくキョウジを見てエディは思わず噴き出した。
「でも今日はこうして他の人と一緒なので安心です」
とキョウジは嬉しそうに言った。
「あんた、ヘンな奴だな」
「よく言われます」
エディは声を出して笑った。
気が楽なのはキョウジだけではない。口にはしていないがエディもまた二人で来てよかったと思っている。一人だったらもっと重苦しい気持ちになっていたかもしれない。
そうこうしているうちに実家が見えてきた。生まれ育った家なのに、少し緊張する。
「ここですか」
「ああ」
小作りの門を入り、玄関のドアの前に立つ。エディはひとつ深呼吸しておもむろに扉をノックした。
やがて人の来る気配がし、扉が開いた。顔を出したのは母親のヘンリエッタだった。
「あら、いらっしゃい」
「お、おお。ただいま」
エディはあまりにも普段通りの顔で出迎えた母親に面食らった。
普通、お帰りなさいじゃないか――。
久しぶりに顔を合わせたのだからもっと感傷的になるものかと思っていたが、案外そうでもないらしい。あらかじめ今日帰ることは事前に連絡していたものの、母親のあまりのマイペースぶりに、何だかいろいろと気にしていた自分がバカみたいに思えてくる。
「で、あなたが――」
隣にいたキョウジがはじめましてと挨拶する。
「ああ、あなたがキョウジくんね。ヘンリエッタよ。ようこそ、歓迎するわ」
と客人に笑いかけた。
それからマイペースな母親は息子の複雑な心情には気も留めず、お父さんなら裏にいるわよ、とエディに促した。
バーディはボクサーを引退後、羊の放牧を始めている。家の裏は放牧場になっているから羊の面倒でもみているのだろう。
家の外周に沿って裏庭へ回ったエディは何だァと声を上げた。
まばらに散らばっている羊を眺めるように立つ父の背中と、その向こうに見えるのは
――リング、か?
整地された庭の一角に四隅の杭をロープでつないだリングが作られている。エディがいた時にはなかったものだ。
そして、家の側に置かれている屋外のテーブルセットにもうひとり。
座っていたのは――。
「クラフトマン、さん?」
老記者はエディを見ると、おお来たかと陽気な声を上げた。
「あんた、何でここにいるんだよ?」
「観に来たんだよ」
「何を?」
「ボクシングに決まってるだろ」
「はあ?」
わけがわからない。
「何だ、怖気ついたのか?」
「いや、つーか何言ってんの。ボクシングだって? 俺が? 誰と?」
「俺だ」
腕組みしたバーディが言う。
「オヤジ? マジで言ってんのか?」
「そのために来たんだろ?」
「いやちょっと待てって。俺がオヤジとボクシング? できるわけないだろ!」
「何で」
「何で――って歳考えろよ! ボクシングする歳じゃねえだろ」
「何歳だってボクシングはできるだろ」
「できねえよ! 引退して何年経ってると思ってんだよ」
引退して十二年。五十を過ぎた人間である。
お前とやるぐらいは問題ない、と父親は表情を変えずに答えた。
「俺は現役だぞ!」
「知ってる」
「だったら――」
元ボクサーは息子の言葉を遮るように訊いた。
「怖いのか?」
「んなわけねえだろ!」
父親は、煮え切らない奴だなとあきれたように言った。
そんなんじゃ女にモテんぞと横から口を挟む老記者に余計なお世話だよと投げ返す。
「やるのか、やらんのか」
オヤジはあくまでやる気のようだ。
「大体グローブもないのにどうやって――」
「ありますよ」
とエディのグローブを差し出したのはキョウジだった。
「待てよ! 何であんたが俺のグローブを持ってんだよ!」
「ジムから借りてきました」
「そういう話じゃねえだろ!」
これでできるな、と父親兼往年のボクサーは満足そうに頷いた。
「くっそォ! どうなっても知らねえからな!」
なんでこんなことになったんだ――。
エディはウォーミングアップをしているバーディを眺めながら考える。
俺はオヤジがどうして殴られっぱなしのボクシングをしていたのか聞きに来ただけだ。
なのにこの状況は何だ。
裏庭のリングといい、用意されていたグローブといい、準備がよすぎるじゃないか。
まるで試合することが決まっていたような有様だ。
エディは拳を保護するためのバンテージを巻いてくれているヘンリエッタに訊いた。
「母さんも知ってたのか?」
もちろん、と母は楽しそうに頷いた。
「みんなグルかよ」
「何言ってんのよ。あんたが来るって言うから、お父さんわざわざリングも作ったのよ」
まったくどうかしてる。
「でも、大丈夫かしら」
不安げにつぶやいた母に、まあ、あんまり無理させないようにするよと答えてやると、バカね、あんたのことよと笑われた。
「俺? 母さん、勘弁してくれよ」
「あんた、本気でやらないと怪我するわよ。気をつけなさい」
「俺よりオヤジの心配しろよ」
「お父さんは大丈夫よ。あたしが応援してるんだから」
と母は胸を張り、エディははいはい、と肩をすくめた。
気の毒に思ったのか、後ろでキョウジがエディさんは僕が応援しますと声をかけてくれた。
そんなところで気を使われても悲しくなってくるのだが、何もないよりはマシだろう。
「ありがとよ、来てもらった甲斐があったよ」
おどけて答えたところで、ハイ出来上がりとヘンリエッタが拳を叩いた。なかなかきっちりと巻いてくれている。昔、看護婦だったからこういったことは慣れているのかもしれない。
向こうで親父が軽く肩を回しながら言う。
「準備ができたらウォーミングアップしておけ」
「こっちは毎日トレーニングしてるんだ。いつでもいいぜ」
「負けたときに言い訳されたらかなわんからな」
「言わねえよ」
仕方ないわねえ、と言いながらヘンリエッタがグローブをはめる。紐を結んでもらいながらエディは、ふと気になっていたことを訊いた。
「ところでオヤジ、やるのはいいけどレフェリーはどうするんだよ」
わしが勤めると言ったのはクラフトマンだ。
「あんたにできるのか?」
記事を書くことについてはベテランかもしれないが、だからレフェリングができるとは限らない。
バーディはエディを睨み付け、クラフトマンに息子の無礼な物言いを謝罪したが、老記者は気にしなさんなと笑い飛ばした。
それから二人に向かって試合が一ラウンド三分の四回戦で行うことを告げた。
エディに異存はない。バーディもわかりましたと頷くと羽織っていたシャツをテーブルの椅子の背にかけた。
筋肉質の上半身が
二人はそれぞれのコーナーからロープを潜り抜け、リングに入った。クラフトマンがそれに続く。
エディはコーナーに寄りかかり、反対側にコーナーに陣取るバーディを見据える。
まさか親父と試合することになるとは思わなかったが――。
しかし、これはこれで良かったのかもしれない。親父とはギクシャクしたままだったし、いまさらどう話せばいいのかわからなかったのだ。柄にもない上っ面の言葉を交わすよりも同じボクサー同士拳を交わす方が性に合っている。
「バーディ、エディ――」
臨時レフェリーがボクサーたちを呼ぶ。
エディはリング中央に歩み寄り、バーディと対峙する。
「オヤジだからって手加減しねえからな」
「言うことだけは一人前だな」
睨み合う二人にクラフトマンが声をかける。
「いいか。正々堂々と戦うんだぞ。わかったならはじめるからコーナーに戻れ」
お互いに突き出した拳を軽くぶつけ、エディは自分のコーナーに戻って試合開始のゴングを待つ。
クラフトマンは二人が落ち着いたのを見計らってリングの外に合図を送った。
テーブルの傍らにいたヘンリエッタが始めるわよ、という掛け声とともにゴング代わりのフライパンを高らかに打ち鳴らす。
「ファイト!」
クラフトマンの声より先にエディはコーナーを飛び出した。
*
何か聞こえる。
誰かの話し声だ。
「いやあ、奥さんは実に手際がいい。バーディが何発殴られても平気だったわけだ」
「あの人、いつもあんなやり方だったでしょ。自然と要領がよくなっちゃったんでしょうね」
聞き覚えのある女の声と最近聞いた男の声――。
女は――母さんだ。
男は――。
目を開いたのだが何も見えない。濡らしたタオルが置かれているらしい。顔の上半分を覆っていたタオルを取ると見たことのある天井が目に入ってきた。
この天井は知っている。リビングの天井だ。どうやらソファに横になっているようだ。
「おっ、お目覚めのようだな」
ティーカップを持ったクラフトマンが笑っている。良い目覚めとは言い難い。
ちょうどよかった、あなたもお茶飲むでしょ、と言いながら、母親はすでにティーカップに紅茶を注ぎ始めている。
ここで寝てるということは――。
身体を起こしながら訊いてみる。
「俺は――負けたのか」
「ええ、負けたわよ」
マイペースな母はあっけらかんとした口調で言うと、言ったでしょお父さん強いって、と続けた。
「二ラウンド二分四十二秒。ノックアウトだ」
とクラフトマンがダメを押す。
ああ、そうだ――だんだん思い出してきた。
*
エディは試合開始とともにコーナーを飛び出した。
ゆっくりと前に出てくるバーディと距離を測り、ステップを踏みながら様子を見る。
対するバーディはガードを固め、エディに向かって歩みを進める。何のひねりもないクラシックなボクシングだ。
エディは遠距離からジャブを打って牽制する。
バーディは様子をうかがうようなパンチを、構えた両腕でブロックしながら前進する。ただ、その動きは鈍い。
元ボクサーとはいえ引退して十年以上経っているのだ。現役のボクサーであるエディの動きにはついてこられないのは当然のことだと言える。
エディは射程外から一気に距離を詰めると、ガードを固めるバーディに左右の連打を叩き込み、すぐさまさっと飛び下がる。
バーディは防戦に徹する展開だ。エディはヒット・アンド・ウェイを繰り返し、第一ラウンドはエディが一方的に押し込んで終了のゴングとなった。
この調子でいけば三ラウンド――いや、次のラウンドにも決着がつくかもしれない。
そんなことを考えながらコーナーに戻ろうとするエディの耳に、反対側のコーナーに向かうバーディのつぶやきが聞こえた。
――軽いな。
「なっ!」
バーディは食ってかかろうとするエディを気にも留めず、自分のコーナーに戻ると場外に置いていた椅子を掴んでドカリと座った。
俺のパンチが軽いってのか? 上等だよ、クソ親父!
次のラウンドでぶっ倒してやるからな――。
第二ラウンドのゴングが鳴り、コーナーを飛び出したエディは我が目を疑った。
バーディがファイティングポーズも取らずふらりと近づいてくるではないか。
「おいオヤジ! ちょっと待てよ、やる気あんのか!」
「ある」
「だったら何でファイティングポーズ取らねえんだよ」
「必要ない」
「はぁ?」
バーディはエディを見据えて言う。
「お前のパンチは軽い。ガードするまでもない」
「何だと!」
「お前みたいな奴がボクサーと言ってるぐらいだから、いまのボクサーってのはたいしたことないな」
「この野郎!」
つい手が出た。
が――驚いたのはエディの方だった。
完全に殴り飛ばしたはずなのに、バーディは何事もなかったかのようにそこに立っている。
「言っただろ。お前のパンチじゃ俺は倒せない」
「うるせぇな! いまのは手加減してやったんだ。とっととファイティングポーズを取りやがれってんだ」
「必要ないと言っただろ」
「バカにしてんのか!」
「そうだな」
元ボクサーはグローブをはめた手を腰に当て、だったらお前が俺にポーズを取らせてみろと言った。
「クッソォ、バカにしやがって! あとで後悔しても知らねえからな!」
エディはノーガードのバーディに連打を叩き込んだ。
ところが何発打ち込んでもバーディは倒れない。
ちくしょう、何で倒れねえんだよ――。
不意に、記憶がフラッシュバックした。
この展開って子供の頃見たオヤジの試合と一緒じゃないか。あれはまさか、打たれていたんじゃなくて――打たせていたのか?
バーディが両腕を広げてエディを誘う。
「どうした、現役ってのはこの程度か」
「うるせえんだよ!」
振りかぶって打ち込んだ左ストレートがバーディの顔面を捉えるが、しかしバーディは
「だからそんなパンチは効かないと言ってるだろ」
「うおおおおぉぉぉぉっ!」
エディは無我夢中でバーディを殴り続けた。
はあ、はあ、はあ……。
気が付くと息が上がっている。
対するバーディは殴られてはいるものの、エディを見据える眼の光はまったく衰えていない。
引退して羊の世話をしているようなオヤジなのに何で倒れねえんだよ!
「ちっくしょおぉぉっ!」
次の瞬間、エディは弾かれるように前に出た。
踏み込み――。
腰の回転――。
肩から腕、拳――。
雄叫びとともに持てる力のすべてを乗せた右ストレートをバーディの顔面に叩き込んだ。
ミシリという鈍い音。手ごたえはあった。
が――。
それでも――。
エディの渾身の一撃をもってしてもなお、父は倒れなかった。
倒れはしなかったが、伝わるものはあったらしい。
「ようやくマシなパンチを打つことができたか」
にやりと笑ったバーディから弛緩した空気が消えた。
明らかに雰囲気が変わっている。
エディを見据える眼には今まで見たことのない殺気が込められていた。
これがオヤジの眼なのか。
――!?
エディは反射的に身をかわした。鼻先をバーディの突き上げるような拳がかすめていく。
――う、打ってきた?
思わず後ろに飛び下がる。
この試合でバーディが初めて繰り出したのは視界の外から打ち込んだ豪快なアッパーカットだった。
ボクシングは殴り合うスポーツだ。当然、相手だって攻撃してくる。いきなり反撃されたので驚いたが、これでようやくボクシングらしくなってきたというものだ。
ファイティングポーズを取ったバーディが距離をつめてくる。
エディはジャブを打ち込んで迎撃する。出足を止めたいのだが、何発食らわせてもバーディの前進は止まらない。
逆に老兵のなぎ倒すような右ストレートが顔をかすめる。
「くっ!」
――いいパンチ打つじゃねえか。
五十過ぎの男のパンチとは思えない。破壊力もありそうだ。ただ、スピードはそれほどでもない。しっかり見ていけば避けられる。
エディはバーディのパンチをかわしながらジャブを打つ。そのパンチをことごとく受けつつ、それでもバーディは前に出る。
――ちっきしょう、こんな不細工なボクシングに――!?
背中に当たった感触――ロープか!
うまく立ち回っているつもりだったが、いつの間にかロープ際まで押し込まれている。
一瞬、隙が生まれた。バーディはその隙を見逃さない。
――やばい、来る!
バーディの体重を乗せた右ストレートが目の前に迫っていた。
直撃する刹那――。
エディはギリギリのところで頭を右にかわした。紙一重だ。
――よし!
視線を正面に戻そうとした瞬間――。
――なっ!
かわした先にいきなりグローブが現れた。
それがバーディの左フックだと認識したところでエディの記憶はプツリと途切れてしまった。
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