オヤジのボクシング

   * * *


「図書館ってのはホントに本ばっかりなんだなあ……」

「そりゃあそうですよ。図書館なんだから」

 館内を見回していたエディを年配の司書が笑う。手には探してもらっていた本を持っている。

「あ、いや――」

 図書館に来たの初めてなんだよ、とエディは照れ笑いを浮かべる。


 クラフトマンたちに会った翌日、エディはリーズ中央図書館に来ていた。

 この街にも図書館があることは知っていたが、いままでの人生の中で図書館を利用する機会がなかったのだ。昨日の件がなかったら一生来ることはなかったかもしれない。

「はい。これがお探しのボクシング年鑑」

 司書はついでにボクシング関係の本も一緒に見繕ってきといたから、と重ねた本の山をエディに渡した。

 よくこんな膨大な数の中から目当ての本を見つけ出してくるものだ。しかも、あっという間に頼んだ本を集めてくる。まさかこの図書館にある本の場所を全部覚えているというのだろうか。

 気になったので、どこに何の本があるか全部知っているのかと聞いてみると司書は

「もちろん――」

 と言いたいところだけどねえ、と言っておどけたように肩をすくめると

「実は先週、同じようにボクシングの本を探しに来たという人がいてね。だから覚えてたの」

 と種明かしをしてくれた。

 ――あいつかな。

 脳裏を黒髪の男の顔がかすめていく。

 結局――。

 気になったのだ。


 一部だけを見て批判されるのはフェアじゃない――。

 昨日キョウジに言われたそのことがずっと引っかかっていたのだ。

 テーブルにつき、年鑑を開いて過去の記録を調べてみる。

 記憶の中ではサンドバックになってばかりいたバーディ・コリンズは、しかし、意外にも勝っている試合が多かった。ハードパンチャーと打たれ強さが売りで、そこそこ人気もあったらしい。キョウジの言っていた通り若い頃は血の気が多かったらしく、荒れた試合も随分あった。

 勇敢だ、と言っていた彼らの言葉は本当だったようだ。

 読み進んでいくうちにエディはあることに気が付いた。

 バーディの戦績に判定負けが目立つようになってくるのである。それ以前の試合では判定に持ち込まれている試合はほとんどない。

 判定負けしている試合の対戦相手はすべてトマス・ブラウニーという名のボクサーだった。

 しかも、このブラウニー相手に二年間で七回も試合をしている。年間の試合数が二十試合ほどだから、同じ相手と二年で七回は多い。

 そして奇妙なことにこのブラウニー戦はだけはすべて防戦一辺倒のボクシングをしているのだ。いや、最後の試合だけ一ラウンド終了後、ブラウニーの棄権でバーディが勝利を得ている。

 当時の新聞を見ると、負けた試合の見出しには『バーディ惨敗』やら『バーディ、ブラウニーにまったく手が出せず』などという言葉が躍っている。


 おや――?

 バーディをあざける記事がほとんどの中、ひとつだけ他の新聞の評価の違う記事があった。

『アイアン・バーディ、今回もブラウニーを圧倒して判定負け』という見出しで、バーディの健闘を讃えている。

 記者の名前は――ジャッキー・クラフトマン。昨日の爺さんだ。

 記事は不条理な状況も意に介さず今回もバーディは余裕の、そして予定通りの判定負けだった、とある。

 意味がわからない。

 余裕の判定負けってのは何だ?

 どうしてあの爺さんだけ周りと違う記事を書いているんだ?

 気になることをはっきりさせようとしてやってきたのに、逆に気になることが増えている。これじゃ本末転倒だ。

 ちっともすっきりしない。

「ちくしょう……何なんだ? 全然わかんねえよ」


   *


 図書館を出た足でエディはキョウジの滞在しているホテルに向かっていた。

 もらった名刺はパブでどこかに飛ばしてしまったが、ホテルの名前は憶えていた。繁華街から少し離れたところにある簡素なホテルだ。

 図書館で記録を調べたことで、オヤジは殴られっぱなしではなかったことがわかった。しかし、どうしてそんな試合をしていたのかなど気になることはむしろ増えてしまっている。

 キョウジがどこまで調べているのかわからないが、何か知っているに違いない。


 ホテルに着いたのはいいのだが、エディはそこで大事なことに気がついた。

 あいつ、部屋にいるかな――。

 不在だった可能性をきれいサッパリ忘れていた。もし出かけて留守だったら……まあ、その時はその時だ。

 気を取り直してフロントにキョウジはいるかと聞いてみると、幸運なことにキョウジは在室しているらしい。

 しばらくするとキョウジがロビーに姿を現した。

「こんにちは、エディさん」

「キョウジ、あんたに聞きたいことがあってきたんだ」

 エディは、挨拶もそこそこに切り出した。

「あんた、親父が勇敢だって言ってたよな」

 いきなりの問いかけに一瞬面くらったようだが、キョウジはすぐにはい、クラフトマンさんもそう言ってましたと答えた。

「あの人は何て言ってた? 何でブラウニーの試合だけ手を出さなかったんだ? あんたも何か知ってるのか?」

 キョウジはエディの質問攻めに困ったような笑顔を浮かべると、ちょっと座りませんかとソファをすすめた。


 ロビーの隅に置かれている古びたソファに収まったエディは、さっそく話を再開する。

「昨日あんたに言われたことが気になって図書館に行ったんだ。あんたたちの言う通りオヤジはやられっぱなしじゃなかったよ」

 どうやら自分の記憶は偏った記憶だったらしいことがわかったと伝えた。

「でもさ、そうなると余計にブラウニーとの試合が気になるんだよ。オヤジは何で手も出さずに殴られてたんだ。クラフトマンさんは何て言ってた?」

「すいません。そのあたりについてはとくに言ってませんでした」

「……そっか」

 エディはしばらく考え込んでいたが、やがて、あのさキョウジ――と切り出した。

「ちょっと考えたんだけどさ、オヤジはブラウニーに強請ゆすられてたんじゃないか。何か、強請られるようなネタを掴まれて手を出せなかったとか」

「心当たりがあるんですか」

「いや、そういうのはないけど……」

「可能性としてはゼロではないと思います。でも、もし負けるつもりなら始まってすぐに負けてしまった方がよくないですか」

「そうなんだよ」

 それはエディも気が付いていた。

 どうしてわざわざ判定になるまで殴られ続けたのか。キョウジの言う通り、負けるならさっさとダウンしてしまえばいい。

「そこがわかんねえんだよ。強請りとか八百長も考えたけど、何で判定に持ち込むまで殴らせてたのかがわかんねえ」

 キョウジがポツリと言った。

「戦ってたんじゃないですかね」

「戦ってた? パンチも出さずに?」

 はい、とキョウジは頷く。

「どういうことだよ」

「エディさんが距離をとって戦うように、バーディさんは手を出さない――戦わないこと自体が戦いだった――ってことはないですかね」

 戦わないことが戦い――?

「そんなことに何の意味があるんだ」

「それはバーディさんに聞いてみなければわかりません」

「まあ――」

 そりゃあそうだ。

「気になるなら聞いてみた方がいいです」

 キョウジはきっぱりとした口調でそう言った。

 エディが黙っていると黒髪の男は静かな口調で続ける。

「僕も父とはろくに話をしていないので偉そうなことは言えませんが、父が何を考え、どういう生き方をしていたのかほとんど知りません。親というものは知っているようで知らないものです。僕の父はもう死んでしまって話すことはできませんが、エディさんは話すことができる。だったら話してみた方がいいと思います」

「でもなァ……」

 オヤジとは家を出てから一度も会っていないのだ。いまさら帰ったところで、まず何と声を掛ければいいのかわからない。声を掛けられたとしても、あの無口なオヤジが話をするとはとうてい思えない。

 どうしたもんかな……。

「あの――」

 見かねたのかキョウジが声をかけてきた。

「僕も一緒に行っちゃだめですか」

「あんたも?」

「僕も気になるんです」

 エディは考える。

 この男はオヤジに興味を持っている。最悪、俺があまりしゃべらなかったとしても、こいつが何か話してくれるかもしれない。

 エディは渋々といった表情を作り、もったいぶりながら言った。

「しかたねえな。一緒に行くか」

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