キョウジ、ボクシングを観戦する
* * *
エディと別れたキョウジはリーズで泊まっている宿屋に帰ってきた。
フロントで鍵を受け取りドアを開ける。
滞在四日目だが、まだしばらくは世話になりそうだ。
帽子掛に上着を引っ掛け、窓際に置かれているソファに身を預けたところで声がした。
「おつかれさまでした、キョウジさま」
柔らかな中にも凛とした響きが込められた優しい声――。
「ああ、ありがとう。セラ」
と労いに答えたキョウジだが、室内にはキョウジ以外に人はいない。ともすれば一人芝居でもしているように見えてしまうのだが、彼女――セラはたしかにそこにいる。
キョウジは胸のポケットから懐中時計を取り出し、サイドテーブルに置くと、横についている竜頭を押した。
カチリと音がして蓋が開く。
文字盤の上の小さな女性が微笑んだ。
「エディさんを早めに見つけられてよかったですね」
「ホントだよ。トレーナーとケンカして出てったって聞いた時にはどうしようかと思ったよ」
練習していたボクサーから、どうせその辺のパブで飲んでるよと教えてもらったので、目に入ったパブを片っ端から覗いてみたのだ。
三軒目でエディを見つけることができたのは方向感覚が著しく欠如しているキョウジにとって奇跡に近い。
「ところでセラ――」
キョウジは相棒である小さな天使に声をかける。
「彼の話をどう思う」
セラはそうですね、と顎に軽く手を当て
「本人にはしっかりした意思というか、想いがあるように感じました」
と言った。
意思というよりは意地になっているような気がするが、少なくともエディが伊達や酔狂であんな戦い方をしているわけではないことはよくわかった。
「それがまわりの人たちには理解できない――ってことだよなぁ」
「はい」
あのボクシングでは無理もない。
理屈がわかったとしても共感はしてもらえないだろう。素人のキョウジだってそのぐらいはわかる。
そもそもの話、キョウジは人々がどうしてこれほどボクシングに夢中になるのかがわからない。
キョウジの知るこの国の人たちは感情をストレートに出さない人が多い。人前で感情を表すことがみっともない事とでも思っているのかもしれない。その傾向は上流の階級程強く持っている。
しかし、ボクシングに関してはそのクールさは当てはまらないようだ。試合が始まればみな夢中になって声援を送る。
考えてみれば、その昔、獅子の心を持つ勇敢な王がいたのだからその末裔に血の気の多さを受け継いでいる人たちがいても不思議ではない。
兎にも角にも――。
今回はこのボクシングが鍵なのだ。
エディと話す前に試合ぐらいは見ておこう――。
そう思って、試合を観戦しに行ったのが先週の週末である。
試合会場はリーズの繁華街を抜けた先にある多目的ホールだ。元々穀物倉庫だったというホールの中央にリングが組まれ、その周りを取り囲むように大勢の観客が集まっている。
タイトルマッチが組まれていることもあり、場内はすでに熱気に包まれていた。荒っぽい競技なので男性しかいないと思っていたが、女性の姿もそこかしこに見える。
初めて観戦したボクシングは、キョウジの想像を超えた迫力だった。
拳のめり込む鈍い打撃音――。
対峙している時の緊迫感や息づかい――。
殺気をはらんだびりびりとした気配――。
そういったことは直接観戦した者にしかわからない。
とくに最後に行われたタイトルマッチは激しい試合になった。二百五十ポンドを超える男たちが目の前で本気で殴り合うのである。
観客たちが熱狂するのもわかる気がする。
ただ――。
キョウジは勝利を飾ったチャンピオンの顔を思い出す。
殴り合って腫れあがった顔は見るからに痛々しかった。勝者がこの有様なのだから、先に抱えられながらリングを降りた敗者は推して知るべしである。
昔はグローブもつけず、ろくなルールもなかったので、死人が出ることもあったのだそうだ。さすがに現在はルールが整備されたらしく、死に至るようなことはほとんどなくなったようだが、いずれにせよ荒っぽい競技であることに変わりはない。
刺激的な競技であることは十分わかったが、好んで観戦に行くかというと、そこまではしないかな――というのが、キョウジの感想だ。
「セラはボクシングをどう思う?」
終わってからそう訊いてみたのだが、小さな天使はそうですね、と思案するように小首をかしげ、それから
「勇敢な競技だと思います。私は好きですよ」
と答えた。
控えめで穏やかな性格の彼女からこうした荒っぽい競技を好きだという言葉が出るとは意外だった。
「ああいう殴り合いは嫌いかと思ってたよ」
「ケンカのようなただの殴り合いは嫌いです。でもボクシングは競技です。お互いの選手が誇りをかけて戦う姿は嫌いではないですよ」
セラはそういって優しく微笑んだ。
なるほど、お互いの誇りをかけた戦い――というのであればキョウジにも理解できる。
このセラの一言がなかったら、キョウジは今もボクシングに対して興味を持てなかったに違いない。
キョウジは改めて土曜日の試合を振り返る。
派手に殴り合うボクサーたちに交じって、一人だけ異質なボクシングをする男がいた。
ほとんどのボクサーが、足を止めて殴り合っている――スタンド・アンド・ファイトというらしい――のに、四回戦の試合に登場したその男は、相手と一定の距離を取ってぴょんぴょんとリングの中を逃げ回っていた。相手が焦れて出てきたところを、機先を制するようにパンチを繰り出し、また逃げる。
それがエディ・クロスビーだった。
ボクシングを知らないキョウジにとってはユニークな戦い方だったが、殴り合いを期待している観客からはひどく受けが悪かった。
卑怯者、恥知らずなど、絶えず容赦のない罵声が飛び続けた試合は、結局エディが判定負けを喫し幕を閉じた。
エディは罵倒と嘲笑を浴びながら、悔しそうな表情を隠しもせずにリングを降りた。
キョウジはその横顔に違和感を覚えた。
どうしてあんなに悔しがるんだろう――。
卑怯者や恥知らずという人種は、事がうまくいった時には、してやったりという表情を見せるが、うまくいかなかった時はさほど気にしてる様子を見せない。自分のしていることに責任を持っていないからだ。彼らは周りの評価や声に貸す耳も持っていないし、自分のしたことを反省する気持ちもない。次はうまくやるさ――ぐらいにしか思っていないのだ。
もしエディが本気で悔しがっていたのだとすれば、それは彼がよほど執念深い性格か、もしくは自分のしていることを卑怯なことだと思っていない――つまりプライドを持って戦っているかのどちらかだ。
「アウトボクシングかぁ……」
エディからアウトボクシングについていろいろ聞かされたこともあり、キョウジ自身はアウトボクシングに対して悪いイメージは持っていない。戦い方としてはむしろ有効だと思っている。
距離を取って相手と対峙し、攻撃したらまた距離を取るという戦い方は理に適ってはいる。
ただ、観ている側からすると、逃げ回ってばかりいる臆病者に見えてしまう。卑怯者のボクシングと
観客たちにあれだけ罵声を浴びせられながらもスタイルを変えないのだから、それ相応の理由があるはずだ。
「なにか大事な理由があるのでしょうね」
と、セラの声も思案気だ。
そのこだわりの理由を解くことが今回の依頼に応えることになる。
何にせよ、いまはまだ情報が足りない。
「セラ、明日は中央図書館に行ってみよう」
天使は穏やかな笑み浮かべながら、はいと頷いた。
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