酒場 〜エディとキョウジ〜

   * * *


 エディは目の前のグラスを持ち上げ、残っていたウィスキーを一息で煽った。

 琥珀色の液体は口の中で広がり、喉の奥を燃やしながら胃袋へと流れ落ちていったが、燻ぶったままの気持ちは一向に解消されない。

「くそっ! 何だってんだ! 俺がどんなボクシングをしようと俺の勝手だろうが!」


 コール・レーン沿いのパブである。

 あれからエディはすぐにジムを出た。

 あんな大喧嘩をした後でトレーニングを続ける気にもなれず、気が付くと馴染みのパブで酒を飲んでいた。

 デイズリーは卑怯者のボクシングだなどと見下しているが、アウトボクシングは立派な戦術だ。

 アウトボクシングが登場する以前のボクシングはもっと単純だった。勝敗を分けるのは相手を殴り倒す強力な腕力か、攻撃を受けてもひるまない強靭な肉体であり、絶対に負けないというタフな精神力だった。簡単に言えば意地や根性というものが重要とされてきたのである。

 そこに戦術という概念が登場したのはつい数年前のことだ。

 世界チャンピオン〝豪腕〟ジョン・サリバンに戦いを挑んだ〝銀行員〟ジェームズ・コーベットは、当時まだ馴染みのなかったジャブやフットワークを駆使したヒット・アンド・ウェイで一定の間合いを保ちサリバンを翻弄。ついには三度のダウンを奪ってノックアウト勝ちを収め、チャンピオンの座へ登り詰めたのである。

 下馬評の低かったコーベットが勝利を得たのは大きな驚きをもって伝えられた。

 この一戦は、勝敗の行方が腕力一辺倒ではなく戦い方次第で勝利をつかむことができることを証明した一戦としてボクシングの歴史の一ページに刻まれることになる。


「しっかし……まいったな……」

 売り言葉に買い言葉でつい応じてしまったが、正直、面倒なことになった。

 ボクサーとして収入を得るためには、ボクシングジムに所属していなければならないのだ。無所属ではリングに立つことはできない。

 別にデイズリーのジムに愛着があるわけではないし、追い出されたら他のジムに移ればいいだけの話なのだが、問題はアウトボクシングを志向しているエディを快く受け入れてくれるジムがあるかということだ。

 ないことはないと思う。ただ、ジムが見つかるまでは試合だけではなくトレーニングもろくにできなくなってしまう。

 そう考えるとデイズリーは気に入らないが、クビになるわけにはいかない。

 いや――。

「弱気になってどうする。勝ちゃあいいだけの話じゃねえか!」

 自分を鼓舞し、グラスに手を伸ばしてみたが、すでに酒は飲み干してしまっていた。

「あの――」

 と声を掛けられたのは、そんな時だ。


 テーブルの向こうに黒髪の男が立っていた。

 見知らぬ男だ。

 年はエディとそう変わらないのではないか。黒いベストに大きめのシャツを着ているが、体の線は細い。両手に酒の注がれたグラスを持っている。

「エディ・クロスビーさんですよね」

「そうだけどあんたは?」

 訝しげな目を向けたエディに男は、はじめましてキョウジ・ロクセットと言いますと名乗り、それからこれ良かったらどうぞと右手に持っていたウィスキーのグラスをテーブルの上に置いた。

「え? ああ……」

 誰かは知らないがくれるという酒を断る理由もない。エディはありがとう、ちょうどいいいいタイミングだよ、と空のグラスを振って見せた。

 不意の来訪者に席を勧め、ウィスキーを掲げて乾杯する。口の中に広がったウィスキーはエディの飲んでいたウィスキーよりも上等な銘柄だった。

「いい酒だなァ。ところであんた、どこかで会ったかな」

「いえ、お会いしたのは初めてです。試合を見まして」

「ああ、そっか」

 エディのトーンが少し下がる。

「この前の試合は残念でしたね」

「まったくだよ。あの試合、どう考えても俺の方が押してた」

 あんたもそう思うだろと同意を求めたが、黒髪の男はすいません、ボクシングは詳しくないんですと申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「なんだよ、つれないなァ」

 詳しくなくたってどっちが優勢だったかぐらいわかりそうなもんだけどな――。

 エディはちょっと不服そうにグラスを傾ける。

 ――?

 視線を感じて向かいのキョウジを見ると、じっとエディの顔を凝視しているではないか。女性に見つめられるのならばともかく、初対面の男にじっと見られてもあまり気持ちのいいものではない。

「何?」

 キョウジはエディを見つめたまま言った。

「あんまり卑怯者には見えないですね」

「はあ?」

 怒気をはらんだエディの返事に黒髪の男は慌てて両手を振った。

「ああすいません! この前の試合の時、まわりのお客さんたちがそう言ってたもので」

「言いたい奴らにゃ言わせときゃいいのさ」

 酒を呷るエディにキョウジが訊く。

「でも、どうして卑怯者なんて言われるんですか」

「そりゃ……俺のボクシングが気に入らないからだろうよ」

「そんなに卑怯なボクシングをしてるんですか」

「してねえよ! 反則もしてねえし、ちゃんとルールも守ってる!」

 エディの反論にキョウジはそうなんですね、すいませんと頭を下げた。

 素直に謝るのはいいが、知らない奴には何を言っても仕方がない。こんな連中がいる限りエディのボクシングは認めてもらえないのだ。

 そんなエディの胸中を察したわけではないのだろうが、キョウジが尋ねた。

「あのエディさん、よかったらボクシングについて教えてもらえませんか」

「あんたに?」

 黒髪の男はグラスを持ち上げ、もう一杯持ってきますと席を立った。

「しょうがねえなあ」

 エディは、キョウジの持ってきた新しいウィスキーに口をつけると、最近のボクシング事情や基本的な知識、いろいろなボクサーについて説明した。

 とりわけアウトボクシングについては懇切丁寧に解説してやった。

 話し終えると、キョウジはなるほどと言って頷いた。

「要は逃げるってことですね」

「逃げるんじゃねえよ! 俺の話聞いてたか? 距離を取って相手の攻撃をかわし、隙を見つけて仕掛けるんだ」

 キョウジは悪びれることもなく、相手の攻撃を食らわないように戦うんですよね。すごいじゃないですか、と感心した声を上げた。

 ちゃんと伝わっているのか少々怪しいが、評価はしてくれているようだ。

「相手に殴らせずに勝つんだよ。まあ、他のボクサーにはなかなかできないだろうけどな」

 と胸を張ったエディにキョウジが訊いた。

「また試合を観に行ってもいいですか」

「もちろん」

 試合の日時を確認したキョウジはそこで気が付いたように懐中時計を取り出した。

「エディさん、すいません。僕そろそろ行かなきゃならなくて」

「そっか。あ、これご馳走さん」

 エディはグラスを持ち上げる。

「いいえ。試合頑張ってください」

「おう」

 それじゃ、と帰りかけたキョウジは、ふと立ち止まると何か思い出したように振り返った。

「あ、そうだエディさん。もし知ってたら教えてほしいんですが――」

「何?」

「だいぶ前のボクサーで、バーディ・コリンズってボクサーご存知ですか?」

「……いや、知らないな。そいつがどうかしたのか」

「いえ、だったら結構です。ありがとうございます」

 それじゃまた、と言い残してキョウジは、今度は振り返らずに帰っていった。


 向かいの席にはキョウジの残していったグラスがポツンと残されていた。乾杯の時に軽く口をつけたぐらいでほとんど飲まれていない。

 エディは、キョウジのつぶやいた名前について考える。

 バーディ・コリンズ――。

 なんであいつの名前が出てきたんだ。

 話す機会に恵まれない自分のボクシング論を語ってすっきりしていたというのに、最後のところで喉の奥に小骨が引っかかってしまった時のような心地の悪さが残されてしまった。

「ま――うだうだ考えても仕方ねえか」

 エディは考え事を棚に上げるようにそうひとりごちると、残っていたキョウジの酒を自分のグラスに注ぎ足した。

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