ボクシング

 十八世紀から十九世紀にかけて起こった産業革命は、紡績、製鉄、蒸気機関など様々な分野を新しいステージへと押し上げることになった歴史の一大転換点なのだが、その影響は産業だけにとどまらない。


 スポーツもまた大きな影響を受けた分野のひとつである。

 フットボール、ラグビー、テニスや陸上競技など、近代スポーツと言われるスポーツのほとんどがこのヨーロッパ大陸の外れにある島国で生まれ、近代化の波とともに世界中に広がっていった。


 ボクシングもそんなスポーツのひとつである。

 二人の人間が殴り合い、対戦相手を倒したものが勝者となる――。

 これ以上ないぐらい単純なスポーツだ。

 起源自体は古い。はるかギリシャの時代まで遡る。

 もっとも古代のボクシングは相手が戦意喪失するか、行動不能になるまで殴り続けるスタイルだったようで、参加選手たちも命がけだったらしい。

 時代が進み、ローマ時代に入るとボクシングはコロッセオで行われるイベントとして、どちらかの選手が死ぬまで行われるようになった。生死を賭けたイベントは大いに盛り上がったらしいが、残酷すぎる殴り合いはローマ帝国の滅亡とともに歴史から姿を消した。


 そんなボクシングがスポーツとして再び脚光を浴びるのは十八世紀に入ってからのことである。

 格闘家ジェームズ・フィグによってロンドンに設立されたボクシング・アカデミーは労働者階級の人々を中心に人気を獲得し、各地で賞金を懸けた大会が開かれるようになった。

 己の腕っぷしひとつで富と名声を得ることができるボクシングは瞬く間に広まって、今では英国ボクシング協会管理の元、多くのボクサーがチャンピオンを目指して戦っている。


 エディ・クロスビーもそんなボクサーの一人だ

 英国の中部、ヨークシャー州の都市リーズにあるボクシングジムに所属している。

 今日も午後の練習開始からジムの片隅に吊るされているサンドバッグ相手に黙々と左右の拳を繰り出している。

 廃業した紡績工場の一角を利用したジムでは、エディのほかに四、五人のボクサーが汗を流していた。汗の臭いより機械油の臭いの染みついた古臭いジムだが、周りには工場しかないのでどんなに騒がしくしても隣近所から文句を言われることはない。

 年季の入ったサンドバッグはパンチを食らうたびにしみったれた声を上げている。

 新しいサンドバッグであればもっと小気味のいい軽快な音を立て、気持ちも乗ってくるのだろうが、こいつは殴れば殴るほど気が滅入る。

 それでもエディはジムで練習している時間が好きだ。

 面倒なことを忘れ、余計なことを考えず、ボクシングだけに集中できるからだ。

 ただ――。

 今日は少し違う。

 イラ立ちから力任せに繰り出される拳はグローブの下で鈍い痛みを訴え始めていたが、エディは構わずサンドバッグを殴り続けている。


 二日前――。

 エディはリーズ中心部のカークゲートにあるボクシングの試合会場にいた。

 四回戦の第二試合に出場するためだ。

 対戦相手は目つきの悪い筋肉質の男だった。試合前から悪態をつき、エディを小馬鹿にするような態度で挑発している。

 こういったゴロツキあがりのようなボクサーは多い。

 日頃からストリートファイトで慣らしてきているのだろうが、しかしケンカが強いからボクシングが強いとは限らない。少なくともエディはこのタイプのボクサーに対して、苦手意識は持っていない。


 ゴロツキはゴングと同時に突進してきた。予想していた通りの動きである。

 突っかけてくる相手と距離を取り、ひらひらと攻撃をかわしながら反撃のタイミングを探る。

 逃げるエディを追いかけ、頭に血が上るようならこっちのものだ。冷静さを欠けばバランスを崩し、無駄な動きが多くなる。

 エディのジャブは的確にゴロツキの顔面をとらえ、最終の四ラウンドに入る頃にはゴロツキの顔はだいぶ男前になっていた。パンチをかわし続けるエディの顔は試合開始の時とほとんど変わらない。

 エディにひとつ誤算があるとしたら、ゴロツキが思っていたよりタフだったことだろう。

 ノックアウトを取るまでは至らず、最終ラウンドでも決着がつかなかったため、結果は判定に持ち込まれた。

 勝ちきることはできなかったが、ダメージは明らかに相手の方が大きい。手応えもあった。

 エディは確信とともに判定を待つ。

 リングの中央に呼ばれ、両側に選手を従えたレフェリーがおもむろに掲げたのは――。

 しかしゴロツキの腕だった。


 ――どうかしてるぜ、あのレフェリー! 

 ――どこに目ェつけてるんだよ!

 ――どっちが優勢だったかなんて考えなくてもわかるだろうが!

 エディは乱暴にサンドバッグを殴り続ける。

 湧きあがった憤りは休養日に当てた昨日一日では到底収まらず、ジムのドアが開くのももどかしいぐらいの勢いで飛び込んだのである。

 むしゃくしゃしていた気持ちを散々ぶつけてようやく一息ついていると、後ろでおいエディ、と呼ぶ声がした。

 耳障りの悪いダミ声。

 ――こんな時に。

 エディはチッと舌打ちする。声のした方に視線を移すと、中央にあるリングの向こう側に背の低い中年の男が見えた。

 仏頂面でエディを睨み付けているのが、このジムのトレーナー、ダレン・デイズリーだ。

 エディはこの男が好きではない。どうもこの男とは反りが合わないのだ。一年半このジムにいるが、まともに指導してくれたのは最初の一月ぐらいであとはほったらかし。教える気がないのならそのままほっておいてほしいのだが、文句だけは言ってくるからたちが悪い。

 不機嫌そうなトレーナーはちょっと来いとダミ声を響かせると、裏庭に通じるドアに向かった。

 土曜日の試合の文句を言いたくて仕方がないのだろう。

 イライラしていた気持ちがようやく落ち着き始めてきたというのに、また憂鬱な気分に逆戻りだ。

 奥から響いてくる早く来いという催促の声がイラ立ちを助長する。

「いま行きますよぉ」

 エディは大きなため息をつくと、外したグローブを床に叩きつけた。


   *


「遅いぞエディ!」

 ドアを開けた途端、さっそく罵声が飛んできた。

「呼ばれたらさっさと来い!」

「すいません。グローブがなかなか外れなくて」

 というのはもちろん嘘だ。言われた通りに来るのが嫌だったのでわざと時間をかけてきたのである。待っていたデイズリーはだったら付けたままでくればいいだろと不満を隠しもせずに吐き捨てた。

 この男の機嫌が悪いのはいつものことだ。こんな態度には慣れている。

 エディは極力感情を出さずに訊いた。

「で、何ですか」

「エディ。お前、やる気あるのか」

「ありますよ」

「んじゃあ俺をバカにしてるのか」

「してません」

「やる気があって俺をバカにしていないなら何で俺の言うことが聞けねえんだ」

 相変わらず回りくどい訊き方をする。

 面倒なことこの上ないのだが、歯向かうと輪をかけて面倒なので、エディは渋々聞けますよと答えた。

 小柄なトレーナーは上背のあるエディを睨み上げる。

「じゃあこの前の試合の時、なんで俺の言う通りに戦わなかったんだ」

「あれは――」

 やろうと思ったんだけどうまくいかなかったんすよ、と続けてみたが、デイズリーは皆まで聞かずに嘘をつけと切り捨てた。

「何がやろうと思ったけどだ! 白々しいこと言いやがって。お前最初からやる気なんてなかっただろうが」

 と語気を強める。

「いいかエディ。お前のボクシングは卑怯者のボクシングだ! 少しは恥ってもんを知った方がいいぞ。だいたい誰があんなボクシングをしろって言った? 俺があんなボクシングをしろって言ったことがあるか? ねえだろう?」

 確かに言われてはいない。

 言われてはいないが――。

 いまの言われようはさすがのエディもカチンときた。

「あのさ、デイズリーさん、あんたはいつもいつもアウトボクシングを卑怯者のボクシングなんて言うけど、俺は全然恥ずかしいとは思わない。むしろこれからはアウトボクシングの時代だと思ってる。なんでそれがわかんねんだよ」

「生意気言ってんじゃねえよ! そのやり方じゃ勝てねえって言ってんだろ」

「勝てないのは俺のせいじゃない! レフェリーがわかってないからだ」

 土曜日の試合だってそうだ。

 レフェリーの中にはアウトボクシングに理解のあるレフェリーもいるが、それもまだ一部であり、ほとんどのレフェリーはアウトボクシングを消極的なボクシングとみなしている。そのため、判定に持ち込まれてしまうと、それまでの試合経過がよほど優勢でなければ勝利を得るのは難しい。

 デイズリーはふんと鼻を鳴らすと、レフェリーがボクサーに合わせるはずなかろうが、とバカにしたような目をエディに向けた。

 いちいち突っかかってくる男である。

「負けてバカにされるのは俺なんだし、別にあんたには関係ないじゃないすか」

「関係あるんだよバカ野郎!」

 デイズリーは一声吠えると、いいかと短い人差し指でエディの胸板をつついた。

「お前が負けてばっかりいるからうちのジムは弱ェボクサーしかいねえジムだって言われてんだよ」

「俺だけが負けてるわけじゃないでしょ」

「卑怯者であるお前の負けは他の連中の足も引っ張ってるんだよ」

 完全に言いがかりである。

「誰もそんなこと思っちゃいないっすよ」

「俺が思ってるんだよ!」

 ――あんたかよ!

 なんだかバカバカしくなってきた。エディは投げやりに言った。

「ああわかった、わかりましたよ。勝ちゃいいんでしょ。勝ちゃあ。勝ちますよ」

 デイズリーは、はあっ? と大げさに驚いた態度で、簡単に勝てりゃ苦労はしねえんだよと切って捨てるとエディをギロリと睨み付けた。

「いいか。まずはアウトボクシングをやめろ」

「だから、なんでそこに行くんだよ!」

「アレやってるうちは絶対に勝てねぇっつってんだよ」

「やってみなきゃわかんねえだろ!」

「わかるわ! 現にいまだって勝ってねえだろうが。そういうことは勝ってから言えってんだよ!」

 こうなるとエディも止まらない。

「へっ! 勝てる戦い方なんて教えてもらったことねえっつの」

「何だとコノヤロウ! お前みてえに言われたこともろくに出来ねえ野郎に教えることなんザ何もねえんだよ!」

「そんなこと言って、本当は勝ち方なんて知らないんじゃねえのか」

「てめぇコノヤロウ!」

 ボクサーとトレーナーの罵り合いはエスカレートの一途を辿っている。

 そして顔を真っ赤にしたデイズリーは決定的な一言を言い放った。

「エディ、てめえ次負けたらクビだからな!」

「負けねえよ!」

「負けたらっつってんだろ!」

「うるっせえなァ、そんなデカイ声で言われなくても聞こえてるっつの!」

「聞こえてたってわかってなけりゃ意味がねえだろバカヤロウ!」

 エディは大きく息を吸い込み、デイズリーを見据えて言った。

「わかったよ! そんときゃ出てってやるよ、こんなジム!」

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