真実

   * * *


 《残され人》――?

 ロゼッタはカウンターの向こうで半ばあきれた目で黒髪の男を眺めていた。

 変わった男だとは思っていたが、ここまで変わっているとは思っていなかった。

 確かにノーマンは旅に出たまま帰って来ない。しかし、それを『死んだまま生きている』と言われたところで、何と返答していいのかわからない。まだ、あなたの夫は旅先で死んだと言われた方が、納得がいく。

 考えているうちにロゼッタはだんだん腹が立ってきた。

「あなたはあの人がその《残され人》になってるっていうの?」

「残念ですが」

「あまりあの人のことを話したくはないけど、さすがにその話はちょっと失礼じゃないかしら」

「そうかもしれません」

「冗談にしても言っていいことと悪いことがあるわ」

「そう思います」キョウジは揺るがない。

「それでもあなたは非礼を詫びず、冗談だとも言ってくれないのね」

「冗談であればどれだけ気が楽かと思います。僕が謝って済むならいくらでも謝罪するでしょう」

 どうやらこの男は本気のようだ。

「……あなたが本気で言っているのはよくわかったわ。でもそんな話を聞かされて、ああそうですかなんて信じると思う」

「無理強いはできません」

「あなた一体……」

「僕は《魂の救世主チェルカトーレ》。この国では《天国への案内人ヘブンズ・テイカー》と言えばいいですかね」

「《天国への案内人》……」

 まさか本当に魂を救うために来たというのだろうか。

 キョウジは開いた両手をロゼッタの前に差し出した。

 上に向けたキョウジの両方の掌の少し上――。

 一瞬、空気が揺らいだと思った時だ。

 中空にぽつりと光が浮かんだ。その光が滑るようにすうっと動き始めた。軌跡は広がりそこには何かの紋章が浮かび上がった。左右それぞれの紋章には十字架が組み込まれている。

 そして紋章と紋章の間の中空――。

 ちょうどロゼッタの眼の高さに浮かび上がったのは――。

 聖母マリア。

 ロゼッタは呻くように呟いた。

「あなた……教会の人なの?」

 キョウジはええと頷き、ヴァチカンの方ですがと付け加えた。

「……じゃあ、彼は本当に……」

「残念ですが……」

 そこでキョウジは少し悲しそうに目を伏せた。

 そんなことって――。

 あり得ない。

 確かにノーマンは旅に出たまま帰ってきていない。

 でも、それがどうして《残され人》なんていうおかしな話につながるの?

 わからない。理解できない。信じられない。信じたくはない。


 しかし――。

 いま目の前で起きている、これはいったい何なのだろう。

 何か聞こえる。

 この音は――。

 カランカラン――。

 カウベルだ。カウベルの音が聞こえる。

 すがるような視線を入り口に向けると乳飲み子を抱えた夫婦が入ってくるところだった。

 目の前に浮かんでいた聖母マリアや紋章は消えていた。

 まるで最初からそんなものなどなかったかのように。

 夢でも見ていたのではないだろうか。

 ロゼッタはキョウジから逃げるように客を出迎えた。


   *


 キョウジは入口に目を向けた。

「グッドモーニング」

 男は被っていたハンチング帽を脱いで挨拶をした。

 身なりからするとあまり裕福そうではなかったが、がっしりした体つきと浅黒く日に焼けた肌からすると労働者階級には違いない。

 ロゼッタの前に展開していた紋章はすでに消していた。

 紋章と聖母マリアはヴァチカンから認定された契約天使と探索者のみに与えられる証である。場合よってはこの紋章を見せた方が話が早い、ということもあるが、簡単に見せびらかすものではないし、特にこの国では注意が必要だ。

 ここイギリスでは信仰の対象として固有の宗教があり、国教会という組織が存在する。

 規模としてはキョウジの所属しているヴァチカンが世界最大ではあるが、信仰の問題というのは有史以来さまざまな争いの元となってきたことは残念ながら歴史が物語っている。

 ヴァチカンとしても事を構えることを望んではおらず、国教会ともすでに協定は締結済みだ。おかげでキョウジもこの国で活動することができるのだが、国教会の中にはこれを面白くないと思っている輩がいるという話も聞いている。

 そんなこともあり、キョウジも重要な時以外は出さないようにしている。


 ロゼッタは笑顔で客を迎えた。

 さっきまであんな話をしていたのにたいしたものだ。彼女は客商売に向いているのだろう。少なくともキョウジには備わっていないスキルである。

 夫の方が訊く。

「あの、ロゼッタさんというのは……」

「わたしですが」

「ああ、よかった。わたし、カールトンのヒースと言います」

 ヒースと名乗った男はうれしそうに言った。

 どうやらこれがロゼッタの言っていた〝嫌がらせ〟の客なのだろう。

 案の定、ヒースはノーマン先生にこちらを教えていただきましてと続けた。

「ああ、じゃあそちらのお子さんが」

「はい。スティーブンと言います」

 子供を抱いた母親が、先生には大変お世話になりましたと礼を言って深々と頭を下げた。

「そんな、いいんですよ。よかったら座ってください。いま紅茶を入れますから」

 ロゼッタはテーブルを案内し、椅子を引いた。

「あ、いや、今日はお礼を言いに来ただけなのでどうぞお構いなく」

「せっかく来たんだから少し休んでいってください」

 夫婦は顔を見合わせたが、それではお言葉に甘えてと席に座った。見たところ割と年配のように見えるが、抱えられている赤ん坊はまだ生後半年ぐらいに見える。

 ロゼッタはカウンターに入ると後ろの棚から瓶を取り出し、慣れた手つきでティーポットに茶葉を入れた。

 キョウジにはノーマンの紹介でやってくる客を迷惑な客だと言っていたが、そんな素振りは見えない。むしろキョウジの時よりも歓迎しているようにも見える。

 ロゼッタは茶葉の開く頃合いを見てティーポットをトレイに乗せると、テーブルへと運ぶ。

「さあ、どうぞ」

 立ち昇る湯気が紅茶の香りを広げていく。

 夫婦は礼を言って、ノーマンとの出会いについて話し始めた。

 ヒースの妻、バーバラは四十歳にして初めて子を授かることができたのだそうだ。遅い出産なので不安も多かったがやっと授かった命を絶対に守りたかった。

 しかし、収入は少なく、子供が産まれてくるまで何もしないで待っているほど家計に余裕がなかったため、身重ながら村の郵便局で区分けの臨時職員の仕事についていた。

 いつものように家を出て郵便局に向かう途中で彼女はトラブルに見舞われる。

 小道を歩いていたバーバラの後ろから、自転車競走をして遊んでいた村の子供たちが現れたのだ。バーバラは道を開けてやり過ごそうと思ったのだが、そのうちの一台が無理な追い越しをしようとバランスを崩したのだ。転びかけたその子供の自転車がバーバラの服を引っかけ、引っ張られたバーバラが転倒。破水してしまったのだ。

 そのときにたまたま近くに居合わせたのがノーマンだった。

「本当にあそこでノーマン先生がいてくれなかったらこの子も私もどうなっていたかわかりません」

 思い出したのか、バーバラの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 ロゼッタはやさしい笑顔で言った。

「本当に二人とも無事でよかったわ」

「先生には感謝してもしきれません」

「いいんですよ。あの人も好きでやってるだけなんですから」

 それからロゼッタとヒース夫妻はしばらく話をしていたが、彼らは他にも済まさなければならない用があるらしく、それではそろそろおいとまさせていただきますと席を立った。

 店先まで見送りに出たロゼッタに夫妻は何度も礼を言った。

「そんなに頭を下げないでください。お会いできてうれしかったわ」

「素晴らしいご主人をお持ちでうらやましい」

「さぁ、素晴らしいのかどうか。なにしろここにはちっとも帰って来ないんですから」

 肩をすくめたロゼッタにヒースが言った。

「先生はきっといまもどこかで困ってる人を助けてるんですよ」

「ここにほったらかしにされて一番困ってる人がいるんですけどねえ」

 ロゼッタのボヤキにヒースたちも笑い声をあげた。


 二人を見送ってからもロゼッタはしばらく通りを眺めていた。

 キョウジはその背中に向かって声をかけてみた。

「わざわざお礼を言いに来てくれたんですね」

「ええ」

 店主は背中を向けたまま、まったくいい迷惑だわと返した。

「え?」

「だってそうでしょ。結局紅茶代サービスなんだから」

 言葉の割に口調は明るい。どうやら照れ隠しのようだ。

「出ていってからも迷惑かけられっぱなしよ」

 ロゼッタはキョウジと目を合わさずヒース夫妻のテーブルの上を片づけ始めた。

 キョウジはテーブルの上が片付くのを見計らって声をかけた。

「ロゼッタさん」

 ロゼッタは一瞬視線を向けたが、そのまま洗い物を始めてしまった。

 キョウジは話を続ける。

「僕の会ったノーマンさんは女性の好きな軽い感じの人でした。でも、あなたへの当て付けや、自分の仕事の成果を見せつけるために出産を手伝った家族を寄こしているわけじゃないと思うんですよ」

「じゃ、あなたはあの人が何でこんなことをするのか知ってるの?」

「見せたいんじゃないですかね」

「何を?」

「産まれた子供を――です」

 ロゼッタはあきれたようにため息をついた。それから蛇口をひねって水を止めるとキョウジを見据えて言った。

「ねえ、覚えてる? あなたさっき『見せつけるために家族を寄こしてるわけじゃないと思う』って言ってたのよ」

 もちろん覚えている。

「じゃあ――」

 キョウジはロゼッタの言葉を遮るように言う。

「見せつけたかったんじゃなく、見てほしかったんですよ」

「見てほしかった? 同じことじゃない」

「ロゼッタさん。ノーマンさんが旅に出る前、何かありませんでしたか」

「旅に出る前?」

 ロゼッタは記憶を辿るように視線を落とした。そしてポツリと呟いた。

「……火事」

「火事?」

「総合病院に回診に行ってたときに火事があったの。古い病棟から出火してたくさんの方が亡くなったわ。あの人も一時は行方不明になってた。だけど翌日無事に発見されたのよ。二日ほど入院してたけど、三日目には退院してちゃんと帰ってきたわ」

 言葉とは裏腹にロゼッタの声はだんだん小さくなっている。本人も何か思うところがあるのだろう。

 おそらく――。

 その時には既に死んでいたのだ。

 キョウジはノーマンの心中を考える。

 一緒にいればいつかはバレる。すでに死んでいる夫と一緒に過ごしているとわかった時、妻はどんな目で自分を見るのだろう。

「あなたにだけは知られたくなかったのだと思います。愛するあなたにだけは」

 ノーマンは耐えられなかった――。

 だから旅に出たのだ。へたくそな理由をつけて。

 ただ、彼は自分のしている仕事に誇りを持っていた。

 これからの未来を担うであろう子供たちの誕生に力を貸していることを。

 そして、産まれてきた子供たちに向けられたあの優しい眼差し――。

「あの眼差しは単に産婦人科医が産まれた子供に向けたものではありません」

「じゃあ――どこに向けられてるっていうの」

「ノーマンさんは産まれた子供に、あなたとの間に産まれる子を重ね合わせていたんだと思います」

「わたし、との……」

「自分が去り逝く身だということはわかっていた。だから残されるあなたのためにノーマンさんはこの店を紹介したんです。産まれてきた子供は彼らの子供であるとともに、ノーマンさんとロゼッタさんの子供でもある、と。あなたは一人ぼっちなんかじゃないんだ、と」

「……彼が、そう言ったの?」

「いえ、ノーマンさんは何も言いませんでした。ここへもあなたの様子を見てくるだけでいいと言われてきました」

 すべてキョウジの憶測である。憶測であるが、しかし、キョウジは確信を持っていた。

「ホント腹立たしいわね」

「すいません」

「あなたじゃないわ。あの人。いつだってそう、勝手に自分だけで決めちゃって。私がどう思ってるかなんて考えてないのよ」

 ロゼッタはさばさばした口調で毒づいた。

 あきれているような態度をとってはいるが本心ではないことは容易に想像できた。

 キョウジは視界の隅、紅茶の棚の一番端にひっそりと置かれている瓶に視線を巡らせる。

 瓶に入れられた褐色の粉――コーヒーだ。紅茶の専門店にどうしてひとつだけコーヒーが置いてあるのか。聞くまでもない。

 キョウジは居住まいを正し、ロゼッタに話しかけた。

「もうすぐノーマンさんの魂は天に昇ります。見送りに来ませんか」

 ロゼッタは少し考えていたが、やがて――いえ、いいわと断った。

「あの人は私に会うことを望んでないわ」

 そうなのだろうか。

 キョウジは逡巡する。確かにノーマンはロゼッタを連れてきてほしいとは言っていなかった。心情的には会わせてやりたい気もするが、当人同士が望んでいないのならば無理に連れて行くわけにもいかないか。

「それに――」

 キョウジの迷いを断つようにロゼッタが言う。

「いまみたいなお客さんが来たときに店が閉まっていたら困るでしょ」

「……わかりました。何かメッセージがあれば伝えますが」

「いいわ」

「そうですか」

 伝えることは伝えた。あとは戻ってノーマンにロゼッタと話したことを伝えよう。

「ごちそうさまでした」

 キョウジは礼を言ってカウンターの椅子から降りた。


   *


 ――ごちそうさまでした。

 立ち上がったキョウジを見てロゼッタの胸は締め付けられた。

 行ってしまうのか――。

 この男が行ってしまったら私とあの人をつなぐものは何もない。

 《残され人》などという話は到底信じられるものではないし、さっき見せられた紋章や聖母マリアにしても何かまやかしの類だったのかもしれない。

 しかし――。

 キョウジの語った憶測はおそらく当たっている。

 何かあるとは思っていたのだ。

 二年前の火事。

 九死に一生を得たと思っていたあの火事の時、あの人はすでに死んでいたのだ。

 出産に携わった母子にこの店を紹介していたのも残されるわたしが寂しくならないようにとおもんばかってのことなのだろうが、それこそ余計なお世話だというものだ。

 そんなことより最後の時まで一緒にいたいというのがどうしてわからないのだろうか。

 人を思っているようで肝心なことがわかっていないところが彼らしい。

 本当にバカだ。

 でも――。

 仕方がない。それでも好きなのだから。


 ――バカはわたしか。

 何でも勝手に決めて、ひとりで実行してしまうノーマン。総合病院を辞めて独立する時も、診療所を閉めて旅に出る時もそうだった。

 最期も見送らせてくれる気はないらしい。自分で来ないでキョウジを寄越したのがその証拠だ。

 勝手な人。

 でも――。

 ロゼッタは立ち上がったキョウジに声をかけた。

「ひとつ渡してもらいたいものがあるの」

 ロゼッタは奥の部屋に行くと紙袋をひとつ持ってきた。

 胸の前に抱えていた紙袋をキョウジに差し出す。

「これを渡してほしいの」

「これは?」

 ロゼッタはそれには答えず、渡せばわかるわとだけ言って手渡した。

 キョウジもとくに詮索はせず、わかりました、確かにお預かりしましたと受け取った。

「ロゼッタさん。いろいろお話しできてよかった。ありがとうございました」

 そういってキョウジはカウンター越しに右手を出した。

 ロゼッタもそれに応じて右手を差し出した。

 キョウジが小さく微笑んだ。

「お元気で」

「あなたも道中、気をつけて」

「ありがとうございます」

 一礼して出ていこうとしたキョウジは不意にドアの手前で立ち止まった。そしてくるりと振り返ると、胸の内ポケットから紙片を取り出した。

「これ、渡し忘れてました」

 ここに置いておきますね、とカウンターの上にその紙片を置いた。

「それでは」

 ノーマンの使いでやってきた不思議な客はそう言って出て行った。


 店内にはロゼッタだけが取り残されていた。

 いつも通りの日常。

 ロゼッタはキョウジの置いていった紙を裏返した。

 写真だった。

 裏返した写真にはノーマンの優しい笑顔が写っていた。

 その笑顔がみるみる滲んでいく。

 ロゼッタは堪え切れずに声を出して泣いた。

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