願い事
*
夜、宿ではささやかな祝杯があげられていた。
無事に産まれたサリーの娘への祝福と、その出産を手伝ったノーマンに対する労いだ。少し前まではロイスも参加していたが、これ以上飲んだら明日起きられなくなっちまうと引き上げていった。
酒はビールからスコッチに移っている。
アルコールの入ったノーマンはいつにも増して饒舌だった。レスターの総合病院にいた時の話、そこから独立して診療所を開いてからの話、そして旅に出てからの話――。
キョウジはどうしてノーマンが産婦人科医になったのか訊いてみた。
「そりゃあ君、女性が好きだからに決まってるじゃないか」
当然のことだろう、といった顔で答えが返ってきた。
ノーマンならそう言うだろうと思っていた通りの答えだった。しかし、実際に出産に向き合うノーマンの姿を見たキョウジはそれが本心ではなく照れ隠しであることを知っている。
「産まれた赤ん坊を見ていたあなたの視線はとても優しそうに見えましたよ」
「そうだったかな」
とぼけた顔でノーマンはスコッチをあおった。
「ノーマンさん――」
キョウジはノーマンを見据える。
「おそらく今日の仕事があなたの最後の仕事となるでしょう。僕はあなたの魂を送る者としてあなたのことを記憶の中に留めておきます。けっして忘れることはありません。シャイで誠実なくせに妊婦好きと言い張る変わり者の産婦人科医を」
ノーマンはグラスを目の高さまで持ち上げると、その中で揺れる褐色の液体をぼんやりとした目で眺めていた。それからちょっとだけ目線をキョウジに向けると
「女性に覚えてもらっているのはうれしいが、君は無理に覚えなくてもいいよ」
気持ち悪いじゃないか、と付け加えて苦笑した。キョウジも笑う。
「すいません。これも僕の仕事なんですよ」
「ふうん。ずいぶんサービスがいいじゃないか。私の魂を天国に送ってくれるのが君の仕事かと思っていたが、それだけじゃないんだね」
「厳密にいうと僕の仕事はノーマンさんを見つけるまでで、送るのは僕の仕事じゃないんです」
「おや? そうなのかい?」
キョウジはポケットから懐中時計を取り出した。
テーブルを上に置きふたを開ける。ぼうっとした光が溢れ、そのなかにぼんやりとした人の姿が浮かび上がった。やがて曖昧だった輪郭がはっきりしてくる。
ノーマンは驚いて目を見開いた。
「これは――」
文字盤の上には白い衣をまとった美しい天使が現れていた。
「初めまして、ノーマン様。セラと申します」
小さな天使は丁寧にお辞儀をした。
「これは驚いた。いったいどういう魔法だい?」
「魔法ではありません。彼女があなたの魂を天国まで案内する天使です」
ノーマンは目の前の天使をまじまじと見つめるとにこやかに笑った。
「こんな美しい人が案内してくれるのなら今すぐにでも死んでいいよ」
医師の決断の速さにセラも笑う。
「でもノーマン様。あなたはまだこの世界で何かやり残したことがあるのではないですか」
「いや、もう何もないよ」
「いいえ。あなた自身、意識はしていないのかもしれませんが、何かあると思います」
「そうかな?」
ノーマンは首をかしげる。
「あなたの魂はまだその肉体に結びついているからです」
心残りがなければ魂は離れるのだ。
ノーマンはしばらく考え込むような顔をしていたが、やがて、そうかもしれないなと呟いた。
「……なあキョウジくん。前に言ってた望みを叶えてくれると言う話。あれ、まだ有効かな」
「ええ、有効ですよ」
「ひとつ頼まれてくれないか」
「どんなことでしょう」
「レスターに『Forest Hill』というティーショップがある」
「はい」
「そこにいるロゼッタという女性に会ってきてくれないか」
「ロゼッタさん、ですか」
ノーマンが頷く。
「その方は――」
キョウジの問いにノーマンは一瞬、躊躇するような表情を見せたが、妻だと告げた。
「もっとも向こうは私のことをどう思っているかわからんがね」
医師はそう付け足すと自嘲気味に笑った。
「その――ロゼッタさんに会って何を伝えればいいんですか」
しばらく逡巡したノーマンはやがて
「元気で、と」
と一言つぶやいた。
「それだけですか」
「ああ、それでいい。いや、元気でいるかどうか確かめてきてくれるだけでいい」
「あなたのことを話さなくていいんですか」
「おそらくは聞く耳を持ってくれんだろう」
どうして――。
自分で行かないんですか、と聞こうと思ったけれどやめた。それはキョウジが自分で考えることのような気がしたからだ。
まずはロゼッタに会わなければならない。
「わかりました」
頷いたキョウジにノーマンはよろしく頼むと言って、それから少し寂しそうに微笑んだ。
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