キョウジとノーマン

   * * *


 フロントに行くと安楽椅子に座った老主人が新聞を読んでいた。日付は先週の水曜日になっている。このあたりでは週に一回しか発行されないので、先週買ってきたものらしい。

「おはようございます、ロイスさん」

「やあ、おはよう。キョウジ」

 老主人は老眼鏡をずらして笑顔を見せた。

「ゆっくり休めたかね」

「ええ、おかげさまで」

 新聞を閉じながらロイスが言う。

「朝食はもう少し待ってもらえるかな」

 どうやら腹が減っていると思われたらしい。

「時間通りで構いませんよ。ところでノーマン先生は――」

「先生なら散歩に出たよ」

 皆まで聞く前にロイスが答えた。いまさっき出かけたのだという。

 礼を言うと、老主人はまだその辺にいると思うよ、と答えて再び新聞を広げた。


 宿を出ると、五十メートルほど先に人影が見えた。

 キョウジは人影を追って駆けだした。途中、ノーマン先生、と声を投げかけると、人影が止まってこちらを振り向いた。どうやら本人らしい。近づくと写真の男と同じ顔がキョウジを見返していた。

「おはようございます。ノーマン先生」

 ノーマンは怪訝な表情でキョウジを見ていたが、やがて、ああ君がロイスさんの言っていた記者さんか、と呟いた。

「キョウジ・ロクセットです」

「会うのは初めてだと思うけど……私に何か用かな」

 キョウジはノーマンを観察する。写真で見たよりも痩せている。顔色も優れない。そしてなにより――瞳孔が開いている。

 どうやら今回は〝当たり〟のようだ。ツキの薄いキョウジにとって早い段階で対象人物にたどり着くのは珍しい。

 問題はここからだ。

 死者の宣告――。

 常識の外側から投げつけられる言葉に対し、人は様々な反応を示す。

 怒りだし罵声を浴びせる者、肩を落とし絶望に暮れる者、言われた事を信じず取り合わない者、そのほとんどが信じがたい現実から目を背ける。何のことを言われているのかわからず、ただただ放心した者もいる。受け入れてくれる人はごく僅かだ。損な役回りである。

 いつまでたっても慣れることではないし、好んでやる仕事でもない。

 さて――。

 キョウジは目の前の医者を見据える。

 この人は――どうなのだろう。

 キョウジの視線に気が付いたのか、ノーマンが急に身を引いた。右手を前に突き出しながら言う。

「ああっと、キョウジくん。初めに言っておくけど、わたしは産婦人科医なんで女性の依頼しか受けられないよ」

 どうやら何か大きな勘違いをしているようだ。

「あ、ええ。もちろん承知してますよ。僕も妊婦ではありませんから」

 そう答えると、ノーマンは大いに笑い、結構、と言って頷いた。

「で、わたしにどんな御用かな?」

 多少エキセントリックなところはあるがノーマンは医者だ。自らの身体に起きている変化をわからないはずがない。まわりくどい言い方は必要ないだろう。

 キョウジは努めて淡々とした口調で言った。

「不躾で申し訳ないのですが、ノーマンさん、あなたはもう死んでいます」

「ん?」

 ノーマンはきょとんとした表情を浮かべてキョウジを見た。いきなりでは無理もない。

「失礼なのは重々承知しています。ただ、医者であるあなたには単刀直入にお話しした方がよさそうだと思いまして」

「そりゃご丁寧に」

 ノーマンは軽く目をつぶると、首をかしげながら肩を竦めた。とても信じているという表情ではない。

「で、なんだって?」

 尋ねたノーマンに、キョウジはゆっくりとした口調で伝える。

「あなたはもう死んでいるんです」

「いいドクターを知ってるけど」

「いまのところはまだ必要ないです」

「あ、そう」

 どうやら取り合ってくれないタイプのようだ。

「ノーマン先生、受け入れがたいのはわかりますが――」

 キョウジの言葉を遮るようにノーマンは笑い声を上げた。

「すまんすまん。君があんまり真剣に言うもんだからついからかってしまったよ」

「あ、いえ、かまいません。失礼なことを言っていることに変わりはないですから」

「で、なんだって?」

「……先生」

 冗談だというのはわかっているが、さすがにキョウジも閉口する。

 ノーマンはキョウジの困った顔を見て笑ったあと、いや、悪かったと謝った。

「君の言うとおりだ。わたしはすでに死んでいるようだ」

 さっきまでのおどけた表情を残したままノーマンはその事実をあっさりと認めた。

 わかってもらえないのは困るが、受け入れてもらうのも心苦しくはある。キョウジはすいませんと頭を下げた。

「別に君が謝る必要はないだろう」

「そうですが……」

「まあ、確かに他人に言われるとショックだ」

「はい」

「それが初めて会った男性とあってはなおさらだ」

「でしょうね」

 ノーマンは道の先に目を向けた。

「朝食まではまだ時間がある」

 どうだね、一緒に散歩でも、というノーマンの横顔にキョウジは軽く頷いて言った。

「そのつもりできました」


 夜半に降っていた雨のせいだろう。道はまだぬかるんでいて、ところどころに水たまりがあった。

 キョウジは隣を歩く男にちらりと目を向ける。

 《残され人》であることをすんなり認めたノーマンだが、そのことを気にしている素振りはまったくと言っていいほど見られない。宣告をしたキョウジの方が拍子抜けしているぐらいだ。

 水たまりをよけながらノーマンが訊いた。

「キョウジ君と言ったね」

「はい」

「君はどうしてわたしが死んでいると思ったんだい?」

 世間話でもしているような調子である。

「どうしてと言われても困るんですが……わかるんです」

「ずいぶんと非論理的だね」

 たしかにそうだ。

 しかし、実は私には念写をする能力があり、念写をしてみたところあなたが《残され人》だということがわかりました、と正直に言ったところで誰も信じてはくれないだろう。どうせわかってもらえないのであれば、なぜかは知らないが僕にはわかるんですと言ったところで大した差はない。要は相手が死んでいることを認識してくれるかどうかなのだ。

「でもあなたもその非論理的なことを認めました」

「ああ、そうだ。わたしは君の話を認めた。認めたくはないけどね。しかし、真実は認めなければならない。そうだろう?」

 問いかけるようにノーマンが言った。どこか他人事のような口調である。客観的な視点は医者だからなのか、個人的な性格からくるものなのかはわからないが、キョウジとしては話が早い。

「あなたは賢明です」

「おだてても何も出ないよ」

 キョウジが笑うとつられてノーマンも笑い出した。

 ひとしきり笑った後にノーマンが訊いた。

「で、私をどうするのかな」

「お送りします」

「どこへ?」

「天国へ」

 キョウジは上を指さす。

 ノーマンはほう、と言って空に目を向けた。雲間から薄い日差しが差し込んでいる。

「どうやって送るんだい?」

「それはまだお伝えできません」

 別にもったいぶるつもりはない。実際のところ送ることができるのかどうかはキョウジにもわからないのだ。ノーマンを天国に送れるかどうかは彼のことをどれだけ理解することができるかにかかっている。

 ノーマンは納得はしていないようだったがふうん、そうかと頷くと、キョウジくんきみは面白いなと言った。

「そうですかね」

「荒唐無稽で失礼極まりないことを言っているのになぜか説得力がある」

「それは……それが真実だからです」

 真実とは残酷だな、と言ってノーマンは小さくため息を付いた。しかし、すぐに飄々とした顔に戻って続ける。

「きみの言うとおり私は死んでいるのだろう。しかしだ。こうして君と話し、二人でのんびり朝の散歩に出ている。私も医者の端くれだが、いまだかつてこんな死人には会ったことがない。わたしは本当に死んでいるのか?」

 信じがたいのはわかるが死んでいるのは間違いない。

「お気の毒ですが死んでいます。それはあなたが一番よく知っているのではないですか。脈もない、鼓動もない。あなたの肉体はすでに死んでいるんです」

「まあ、理屈では分かっているが、いざ面と向かって『あなたは死んでいます』と言われてもなかなか認めづらいもんだ。そうだろう?」

 少しおどけて聞いたノーマンにキョウジはお察しします、と真顔で答えた。

 ノーマンはそんなキョウジを見て少しだけ辟易した表情を浮かべた。

 表情の意味は分かっているつもりだ。

 楽しげに振る舞っているのは、自分はすでに死んでしまっているという現実から少しでも逃れたくて、一時でも忘れたくて必要以上に明るく振る舞っているからなのだろう。

 しかし、いくら相手が楽しげだからと言って人生の終わりを告げた相手に向かってへらへらとした顔は見せられない。結果、つまらない表情となってしまうのだ。

「で、今日がわたしの人生最後の日になるのかね」

「いえ。今日じゃありません」

 進行度から言ってあと一週間ほどだろう。

「あと一週間か。妥当な日数だ」

 ノーマンは右手を持ち上げると、だいぶ動かなくなってきたからねと呟いた。いままでたくさんの赤子を取り上げてきたのであろうノーマンの右手はかさつき小刻みに震えていた。

「何か望みはありますか」

 不意にかけられたキョウジの問いにノーマンは不思議そうな顔を向けた。

「どうしたんだね」

「サービスとでも思ってください」

 キョウジなりの手向たむけである。《残され人》を天国に送る時には必ず聞くようにしている。

「死に逝く身だ。いまさらサービスもないだろう。仮に言ったとしてきみにそれが叶えられるのかい」

「わかりません。できる範囲でということになりますね」

「なんとも頼りないサービスだな」

 ノーマンは軽く笑った。彼の言う通りではある。

「必要なければそれでも構いませんけど」

「そうだなあ、あと一週間あるんだ。ゆっくり考えさせてもらうよ」


 散歩を終えた二人は宿に戻って朝食をとった。

「食後はコーヒーで構わないよね」

 食事を終えたノーマンが声をかけた。

 いまでこそすっかり慣れてしまったが、キョウジはコーヒーがあまり好きではなかった。香りは好きなのだが、泥水のような色が気になってあまり飲みたいと思わなかったのだ。飲んでも苦いだけで、まわりの人たちはどうしてこんなものを飲もうとするのか理解できなかった。

 キョウジの答えを待たず、ノーマンはロイスさん、コーヒー二つね、と宿の主人に注文した。始めからコーヒー以外の選択肢はなかったようだ。

 やがて食器を片づけたロイスは、代わりに食後のコーヒーを運んできた。挽きたてのコーヒーの香りが辺りに広がっていく。

「食後はやっぱりコーヒーだねえ。きみもそう思うだろ、キョウジくん」

 ノーマンは早速カップを手に取ると口元に持っていき、立ち上る香りを楽しんでいた。

 キョウジのカップを置きながらロイスが言った。

「しっかし、あんたも物好きだねえ。いろんな先生がいるってのに、なにもこんな変わりモンの先生を追っかけなくたっていいだろうに」

 隣でノーマンが、こんなとは心外だなあと口を尖らせた。ロイスには〝放浪の産婦人科医がいると聞いて取材に来た〟と伝えてあるのだ。

「記事ってのは普通の人のことを書いても面白くないんですよ」

「ははぁ、なるほど。そういうことならこの先生はうってつけだ」

「それはひどいな、ロイスさん。自分から患者の元に行ってあげるんだ。こんなに行動的な医者はいないと思うがなぁ」

「仕事熱心――と言ってあげたいけどねえ、この先生の場合はちょっと違う」

 そしてロイスは右手を口の横に持っていき、わざとノーマンに聞こえないようなふりをしてこの先生はね、単に妊婦が好きなんだといって茶目っ気たっぷりにウインクした。

 すかさずノーマンが異議を唱える。

「おいおいロイスさん。人の尊厳を貶めるようなことはあまり言わないでほしいなあ」

「おや、違ったかな」

「妊婦を助けるのがわたしの仕事なんだ」

 ノーマンはわざとらしく胸を張った。そんなノーマンをロイスがからかう。

「その割にァあ、ずいぶん鼻の下が伸びてるようですがねえ」

「これは生まれた時から伸びてるの」

「そうでしたか、こりゃ失礼」

 一拍おいて二人は大笑いをした。一カ月も逗留していると仲もよくなるのだろう。

 ところで――とロイスが話題を変えた。

「サリーの様子はどうですか」

「ここ、二、三日というところだろうね」

 どうやら出産間際の妊婦がいるらしい。

「元気な子が産まれるといいですなぁ」

「ああ、元気なのはわたしが保証しよう。何しろもう出たくて暴れているぐらいだからね」

 お願いしますよというロイスの言葉に、ノーマンは任せておきたまえと大きくうなずいた。

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