ノーマン先生
キョウジが宿屋の老人と話をする三時間前――。
ノーマンは出産を手伝った若い母親の家に出向いていた。
「よし、これでもう大丈夫」
ノーマンは抱えていた赤ん坊をクッションの敷かれた籠の中にそっと寝かせた。
「このまましばらく寝せておけばじきによくなるよ」
熱が下がらないと聞いてやってきたのだが、幸いそんなにひどい状況ではなかったようだ。せいぜい風邪のひき始めと言ったところだろう。
「薬を薄めて飲ませたから、あとは水分を取らせてあたたかくしていれば熱も治まってくるだろう」
産まれてまだ二週間。母も子もナーバスになっているのだ。
「ありがとうございます、先生」
傍にいたケイトが籠を抱えるようにして礼を言った。
「先生がいてくれて本当に助かりました。先生がいなかったらどうなっていたことか……。わたし、この恩は一生忘れません」
ケイトが向ける真摯なまなざしにノーマンは笑顔を返す。
「うれしいなぁ。君のような美しい女性に覚えてもらえるのであれば僕も鼻が高い」
「まあ、先生ったら」
ケイトは、先生はお上手ねぇアルバートと籠の中の息子に声をかけた。アルバートは柔らかそうな笑顔を浮かべてすやすやと寝息を立てている。ノーマンも籠の中を覗き込む。
「アルバート、君は幸せ者だぞ。こんなにお母さんに愛されてるんだから」
「いまはデビットの方がこの子にメロメロなんです」
ケイトは猟師である夫の名を出すとちょっとふくれた。
「そうなのかい」
「ええ。帰ってきたらアルバート、アルバート、アルバート。もぉこの子のことばっかり。私のことなんか見向き見しないんですから」
「そりゃひどい」
ノーマンは大真面目に同意する。
「子供がかわいいのはわかるが、だからって君を放っといていいなんて、そんなことはあってはならない」
「先生からも言ってやってくださいよ」
「僕ならいつだって一緒にいたいがなぁ」
「先生はやさしいですわ」
「今度デビットに会った時には僕からもバシッと言っとくよ」
「お願いします」
ノーマンはケイトの隣に立つとそっと肩に手をまわした。彼女を見つめるまなざしに力を込める。
「ケイト。寂しいときはいつでも呼んでくれ。僕はずっとそばにいるよ」
「うれしいわ、先生」
見つめ返すケイトの瞳もしっとりと濡れている。
二人の距離が近づいていく。ノーマンはささやくように言った。
「アルバートも寝てしまった。どうだい、これから二人で――」
「あら、先生。今日はサリーのところに行くんじゃありませんでした?」
ケイトはノーマンの誘いを皆まで言わせずはぐらかした。
たしかにサリーのところに行かなくてはならないが、しかし、まだ時間は十分ある。
ノーマンはああ、行くよ、と頷いた。
「だがまだ時間がある。ケイト、時間というものはかけがえのないものだ。時間は二度と戻らない。こうしている間にも、静かに、しかも一秒ずつ確実に僕らの時間は妖精どもに削り取られていく。もう一刻の猶予もないんだ。さあ、二人で大切な時間を過ごそう」
ケイトの両肩を支えるように包んだ両手に力を込める。
「先生……」
「ケイト」
いままさに抱き合おうとした時、胸に手が当てられた。ケイトが上目遣いで見つめている。
「先生、これ以上はダメ。デビッドに撃ち殺されちゃうわ」
「おっと、そいつは困る」ノーマンは両手を放すと大げさに驚いた表情を作った。
「猟師の旦那さんは恐ろしいなあ」
ケイトとノーマンの間に笑い声が漏れた。
と、その時だ。
ピィィィィィ――。
まるで二人を分かつように甲高い蒸気音が鳴り響いた。音はキッチンの方から聞こえている。
そういえばさっきケイトがキッチンに行っていたが、あれはお湯を沸かしに行っていたのか。火にかけられているケトルがまるで嫉妬に狂ったかのように叫び声をあげている。
「ごめんなさい、先生」
ケイトはノーマンの腕をするりと抜けるとキッチンへと駆けていった。
彼女の姿を追いかけるように傍で小さなくしゃみが聞こえた。音の方に目を向けると籠の中のアルバートがもぞもぞと動いている。
やれやれ。子供にはかなわんな――。
ノーマンはにっこりと笑うとずれたタオルをかけ直した。
アルバートの手がノーマンの指に触れた。ノーマンは手袋をはめていたのだが、その手袋越しにきゅっと握りしめてくる。まだ眠っているから反射的につかんでいるのだろう。ためしに少し振ってみたが放す様子はない。何度か振って遊んでいると、キッチンからケイトが戻ってきた。
二人分のティーセットが乗せられたトレイを持っている。
テーブルにポットを置きながらケイトが言った。
「今日の先生、素敵でしたよ。八十五点あげます」
「高得点じゃないか。もうひと押しだったなあ」
ノーマンは大げさに肩をすくめると、いつも通りの明るい口調で続ける。
「デビットのライフルとケトルがなければもっと行けたかなあ」
「次回の課題ですね」
「難題だ」
必要以上にしかつめらしい表情で答えたノーマンを見てケイトが笑った。その笑顔を見てノーマンも破顔する。どうやら今日はここまでだ。
それから二人は紅茶を飲みながら談笑した。
ノーマンはケイトの話に耳を傾ける。女性と話すのは楽しいが、楽しい時間というのは往々にして早いものだ。
腕時計に目を落とす。もうすぐ二時になる。サリーとの約束を守るにはそろそろ出発しなければならない時間だ。
「さてと――」
話も落ち着いたところだし、引き上げるタイミングだと判断したノーマンはそろそろ行くよ、と言って腰を上げた。
ケイトもテーブルを立ち、部屋の隅に置いてあったノーマンの荷物を取って来てくれた。
カバンと帽子を手渡しながらケイトが訊く。
「いつぐらいになりそうなんですか、サリーは」
「そうだなあ。あと数日……来週までには産まれると思うよ」
「そうですか」
ケイトは胸の前で両手を組み、サリーにも元気な子が産まれますように、と友人のために祈りを捧げた。
紅茶の礼を言って帽子を被る。
玄関先まで見送りに出てきたケイトは改まった口調で言った。
「先生。今日は本当にありがとうございました」
「ああ、別れがつらいなあ。胸が張り裂けそうだよ」
「冗談でもうれしいです」
「本当さ。寂しかったらいつでも呼んでくれ。飛んでくるから」
「それこそ胸が張り裂けちゃいますよ」
「それもそうだね」
先に笑ったのはノーマンの方だった。つられてケイトも笑い出す。
ひとしきり笑った後でノーマンはそれじゃまた、と言ってケイトの家を後にした。
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