キョウジ・ロクセット

 四日前――。

 キョウジ・ロクセットはなだらかな丘陵の広がっている小高い丘の上に立っていた。

 ロンドンから南西に七十マイル。イングランド南部の都市サウサンプトンからさらに西に十マイルほど行ったあたりののどかな牧草地帯である。

 湿気を含んだ生ぬるい風が頬を撫でていく。

 大地に広がる芝の柔らかいグリーンとは対照的に、空は薄暗い灰色の雲に覆われていた。

 陰鬱な天候だ。陽の光の下で見ればもっと美しい風景なのだろうに、いまは全体的にモノトーンのフィルタがかかっているようなくすんだ景色になっている。

 これがこの国のスタンダードな天候なのだ。

 やってきた当初はすっきりとしない天候にずいぶん気分が塞がれたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。住めば都とはよく言ったものである。


 風に乗って、汽笛の音が聞こえてきた。

 遠く、景色の一部に墨のような煙が流れていくのが見える。蒸気機関車の吐き出す煙だ。


 産業革命から半世紀。

 イギリスから始まったこの革命は瞬く間に世界へと広がった。

 産業革命はさまざまな産業を発展させたが、交通の分野も多大な恩恵を受けたひとつである。蒸気機関は船や機関車などに組み込まれ、世界の距離を一気に縮めることになった。

 イギリス国内も鉄道網が整備されており、キョウジもサウサンプトンまで鉄道を使ってやってきた。最近は自動車という鉄道以外の道を走る乗り物も開発されたそうだが、こちらにはまだ乗ったことがない。当然、こんな片田舎でお目にかかることはまずないだろう。

 移動はもっぱら馬車に乗るか徒歩になる。


 キョウジはバックから地図を取り出すと、入念に周りの景色と見比べて現在位置を確認した。

 目的の村、バーウッドまではあと三マイルほどの距離だった。

 いまのところ順調に進んでいるようだ。このまま歩き続ければ二時半ぐらいには着くだろう。

 地図をたたみ、ベルトにぶら下げていた水筒の水を一口飲みながら、キョウジは鈍い色をした空を眺めた。雨を降らす気満々といった様相だ。

 村に入るまでは天気が持ってほしいけれど、期待はまったくしていない。

 ころころ変わる天候はまるで猫の目のようで、いま晴れてると思ったら数分後には雷雨になってずぶ濡れになっていた、なんてことはこの国において茶飯事だ。

 急ぎの旅ではないものの、こんなところで降られては雨宿りする場所もない。早めに出発した方がいいだろう。


 キョウジは小走りに丘を駆け下りた。

 声をかけられたのは田舎道に戻ったときだ。

「キョウジさま」

 耳元に届く、涼やかな中にも凛とした響きのある声――。

 どうやら相棒が戻ってきたようだ。

「セラ」

 見えないのはわかっていたがつい声のした方を向いてしまう。視線の先にはのどかな風景が広がっているだけで、人の気配はまるでない。

 しかし、セラは間違いなくそこにいる。

 彼女の姿を見ようと思っても残念ながらそれはかなわない。

 なぜなら彼女はヴァチカンの教皇庁直下に所属している契約天使なのだから。


 元来、魂を救済するのは教会の仕事と決まっている。

 亡くなった人間の魂は神父や牧師の手によって天へと昇っていく。

 しかし、それはあくまで一般の人が亡くなった場合であり、相手が《残され人レムナント》となると話は別だ。彼らは死んだまま生きているのである。一般の神父などではその魂を天に送ることはできない。

 しかし――だからと言ってこのような存在の者たちを放っておいていいものだろうか。

 悪魔ならともかく、《残され人レムナント》は元々人間である。考えようによっては〝最も救いを欲している者たち〟なのではないだろうか。

 キリスト教の総本山であるヴァチカンをも二分したこの問題は、時の教皇インノケンティウス十二世の『魂を救うのは我々の使命である』という言葉により決着し、悲しき不死者の魂は天に送られることになったのだそうだ。

 議論は終結したが、当然というべき新たな問題が浮上した。


 誰が魂を救済するのか――。

 神父や牧師では送ることのできない魂を誰が天に送るというのか。

 様々な方法が提案され、議論されたが、わかったことは人間の力では救済することは不可能だということだけだった。最終的に教皇庁が出した答えは、救済のスペシャリスト、天使に依頼するというものであった。

残され人レムナント》の魂を救いたいと言う願いは神に受理され、神の使いとして天界より使わされた天使と契約が交わされた。

 今から三百年ほど前の話である。


 キョウジは内ポケットから白金色に輝く懐中時計を取り出した。

 蓋には美しくも繊細な文様が刻み込まれていた。だいぶ年代物だが輝きに衰えは見られない。横についている竜頭を押すとカチリと音がして蓋が開いた。

 静かに時を刻む文字盤の上に小さな女性が立っていた。

 ゆったりとした白い法衣に時計よりもやや濃い金色の髪が揺れる。透き通った白い肌。聡明な淡い碧眼がキョウジを見つめる。

「おかえり、セラ」

 小さな天使を見ながらキョウジは微笑んだ。

「遅くなって申し訳ありません」

「いいって、いいって。気にしなくていいよ」

 申し訳なさそうに頭を下げるセラに、キョウジはおつかれさま、と労いの言葉をかけた。


 各地で救済を行っている契約天使は教皇庁から派遣されている人間と常に二人ペアで行動している。

 神の使徒であるセラがいれば、《残され人レムナント》を見つけてその魂を天国に送ることなど容易いと思われるかもしれないが、事はそう簡単には進まない。

 契約天使は制約によって、持っている力の多くを制限されてしまっているのである。

 三百年前の教皇庁が、あまり頻繁に奇跡を見せられては困る――と言ったかどうかは知らないが、とにかく地上における天使は制約が多い。

 普段、姿を見せることができないのもこの制約のせいだ。

 地上にとどまるにも身を落ち着けられるような依代よりしろが必要になる。

 セラの場合はキョウジの懐中時計が依代になっていて、姿を見せられるのはこの懐中時計に触れているときと言うことになる。

 キョウジはこの制限と言うのが気に入らない。

 手を貸してほしいと言ったのは人間の方である。

 そりゃああちらこちらでポンポンと景気よくと奇跡をひけらかされては問題だろうが、姿ぐらいは見せても問題ないと思うのだ。見えずに困ることがあっても、見えて困るということはないはずだ。

 この役目に着いて間もないころ、セラに言ったことがある。

「こんな待遇、どう考えてもおかしいと思う」

 キョウジは事と次第によっては教皇庁に直談判する気だったのだが。

 セラは一瞬、不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにキョウジの意図を察すると

「気にしないでください。ここでは私たちが来訪者なのです。ですからこちらの世界のルールに従うのは当然のことで、別に変なことではないんですよ」

 と答え、それに――と続けた。

「キョウジさまのお役に立てることが私の幸せにもつながるのです」

 と言って穏やかな笑みを見せたのだった。

 天使というのはとんでもなく寛大な心の持ち主じゃないと務まらないものなんだと感心した覚えがある。


 各地に派遣されているキョウジたち《魂の救世主アニマ・サルバトーレ》――この国では《天国への案内人ヘブンズ・テイカー》と呼ばれている――は月に一度、ヴァチカンで定期報告することになっている。

 キョウジたちのように遠方に派遣されている場合、契約天使が代行して報告に行くことになる。

 長距離を一瞬で移動することも天使の持つ奇跡の力になるわけだが、この場合、制約はかからないらしい。ずいぶんと都合のいい話である。

 今回は新しく就任した枢機卿すうききょうからの面会も入り、予定より時間がかかってしまったようだ。

「もう少しでバーウッドに着くから。それまでゆっくりしててよ」

 セラはありがとうございますと微笑みを浮かべた。 

 移動は一瞬だが、大量にエネルギーを使うことをキョウジは知っている。

 慈愛に満ちた天使は

「それでは少し休ませていただきますね」

 と言うと、丁寧なお辞儀を残してふわりと姿を消した。

 キョウジは懐中時計を胸にしまうと顔を上げる。

 こころなしかさっきより空が暗くなった気がする。雨が降ってくるのも時間の問題だ。

「急ぐか」

 自分に言い聞かせるようにつぶやき、歩き始めようとした時だ。

 耳元で声が聞こえた。

「キョウジさま」

 セラは言いにくそうに続けた。

「そちらは反対方向になります」


   *


「まいったな……」

 結局、キョウジが目的地であるバーウッドに着いたのは時計の針がすでに五時をまわった頃だった。セラと話したのが一時半だから高々三マイルの道のりに三時間以上かかったことになる。

 どこで道を間違えたのだろう。まったく心当たりがない。

 いつもはセラの案内ナビゲーションがあるからいいのだが、彼女がいないと途端にこの有様である。情けないことこの上ない。

 ロンドンのアパートメントにいるメイドには、キョウジは方向感覚ってものが欠けてるのよと帰る度に笑われる。

 悔しいが、たしかにその通りだ。生まれ変わったとしても伝書鳩にはならない方がいいと思っている。弱り目に祟り目とはよく言ったもので、降り始めた雨でコートはずぶ濡れ。村に付いた頃にはすっかり濡れネズミのようになっていた。

 こんな成りでは人探しなどできるはずもない。


 まずは泊まれる宿を探さなくちゃあなぁ――。

 幸い小さな村だったので、宿はすぐに見つけることができた。村の中心に近いところにある古めかしい二階建ての建物だ。もともと民家だったところを改築して宿屋にしたようだ。

「こんばんは」

 と、ドアを開けると、暖炉の方からいらっしゃいという嗄れ声が聞こえた。小柄な老人が安楽椅子に座っている。

「泊まりたいんですが、部屋はありますか」

「もちろん」

 老人は立ち上がると、いまなら泊まり放題じゃと少し自虐的な笑みを浮かべた。

 特に名所があるわけでもない郊外の村である。部屋が空いているのは当然だろう。

 受付のカウンターで宿帳に名前を記入していると

「ほら、これを使うといい」

 と乾いたタオルを渡された。

「ありがとうございます」

 礼を言って雨に濡れた髪を拭く。

「今日はほかにもお客さんがいるんですか」

「ああ、医者の先生がちょっと前から泊まってるよ」

「へえ。お医者さんですか」

 老人は壁にかかっている鍵をひとつ取ると、これが部屋の鍵だと言ってキョウジの前に置いた。

「部屋は二階の一番奥を使ってくれ」

「わかりました」

 鍵を受け取り、部屋に向かおうとしたキョウジはそこで思い出したように訊いた。

「そうだご主人――」

 内ポケットから一枚の写真を取り出し、この人ご存じないですかとカウンターの上に置く。

 老人は手に取った写真を顔から離すように遠ざけ、目を細めて眺めると、やがてああ、と頷き

「こりゃあんた、いま言った医者の先生だよ」

 と笑った。

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