来訪する女たち
「子供連れ? それは……」
キョウジは一瞬迷うように視線を上に向けたが、すぐにああ、とうなずくと、ノーマン先生が出産の手伝いをしてあげた親子だと言った。頭は働くようだ。
「そう。あの人が勝手に店を紹介してるみたいなの。頼んでないけどね」
キョウジは不思議そうな顔をする。
「お客を紹介してくれてるのに、それが嫌がらせになるんですか」
「あなたにはわからないか」
そう――わかるはずがない。
ロゼッタは自嘲気味に笑うとおおげさに肩をすくめた。そのしぐさを見たキョウジが探るように訊いた。
「相手が女性――だからですか」
「そうね。それもあるわ」
確かに訪ねてくるのはノーマンが旅先で助けた女たちだ。
レスターのような大きな街であればすぐに近くの病院へ行けばいいが、郊外や地方にある村はそうはいかない。医者のいない村だってざらにある。彼女たちが本当に困っていたこともわかるし、ノーマンが手助けしてあげたことも容易に想像がつく。
それは理解している。
無事に出産を終えた彼女たちが店にやってきて、ノーマンに対する感謝を伝えるのは別にかまわない。
ただ――。
どうも居心地が悪いのだ。
知らない女たちに礼を言われても困ってしまう。
それに――。
女たちに店を紹介するというのがわからない。
どうしてわざわざ店を紹介するのか。
彼女たちはみな、遠方に住んでいる。近くに住んでいるわけではないから常連になるわけでもないし、訪ねてくれると言っても何かの用でレスターに立ち寄った時、ついでに寄って行くだけなのだ。
いつも大賑わいという店ではないけれど、ろくでなしの亭主に客を斡旋してもらわなければ立ちいかないほど厳しい状況というわけでもない。
全部ノーマンが勝手にしていることなのである。
つまり――。
ロゼッタはノーマンが気に入らないのだ。
店に来る親子連れが問題ではない。彼女たちに店に寄ってあげてくれと言っているノーマンに腹を立てているのである。
「ノーマン先生、人気あるからなあ」
ティーカップを傾けながらキョウジが場違いなことを呟いた。
何気なく言ったのだろうが、彼の言葉はロゼッタをいらだたせるのには十分な一言だった。
人気がある、というのはやや語弊があるだろう。
たしかに人当たりは悪くないが、ノーマンの場合は単に女好きなのだ。
女性とみればイタリア人のようにすぐ声をかける。
それが診察に来る妊婦であってもお構いなしだ。問診なのか口説いているのかわからない。黙っていても女性がやってくる産婦人科という職業はノーマンにとって天職とも言える。
そんな女ったらしの亭主、さっさと別れちゃえばいいのに――。
そう友人に言われたこともある。
ついノーマンの愚痴をこぼしてしまうので、外から見るとうまくいっていないように見えるのかもしれない。
しかし、ここが複雑なところなのだが、まわりから言われるほど夫婦仲は悪くないのだ。
愛されてはいるし、その実感もある。
そもそもノーマンはロゼッタと別れたがっているわけではないのだ。ロゼッタを捨てて他の女の元に行きたいということではないのである。
彼は単に女性と仲良くなりたいのである。それ以上でもそれ以下でもない。
だからこそ困ってしまう。
「あの人、どうせまたあっちこっちで声かけてるんでしょ」
「まあ、ほとんど妊婦の方ですが」
ふん。
ロゼッタは鼻を鳴らす。
――ほら見たことか。
思った通りだ。わかっていることとは言え、愉快な話ではない。
でも――と、キョウジが続ける。
「患者さんに優しく接するのは当然のことじゃないですか。妊婦はデリケートだって聞きますよ」
「そうでしょうね。どうせ私は妊娠なんかしたことないから優しく接してもらったことはないけど」
余計なことを言ったと思ったがもう遅かった。
ロゼッタとノーマンの間に子供はいない。
彼女が子供を産めない身体だと言われたのはまだノーマンと付き合い始める前のことである。ノーマンもそのことは知っている。知っていて一緒になってくれたのだ。
一時はずいぶん負い目に感じていたこともあったが、今はもう吹っ切れている。
ロゼッタはキョウジを見据えて言った。
「あたしを置いたまま旅に出て、向こうは外で若い女たちと楽しそうにしてるんだから、まったくいい身分だわ」
「まあ、そう怒らずに」
「怒ってないわ」
つい大きな声が出てしまった。キョウジがあわてて取り繕う。
「ノーマン先生が素晴らしい人だってことはロゼッタさんが一番よく知ってるじゃないですか」
そんなことはわかってる。
わかってはいるが、女はそう簡単に割り切れないものなのだ。
そう言うとキョウジはちょっと困ったように複雑なんですね、と呟いた。
「やっぱりあなた、嫌がらせに来たんでしょ」
すると黒い髪の男は、まあ、白状するとたしかにノーマンさんに頼まれては来てますけど、別に嫌がらせに来たわけじゃないんですと打ち明け、気を悪くさせてしまったのなら謝りますと頭を下げた。
おかしな男だ。ノーマンの肩ばかり持っていると思えば、謝るところは素直に謝ってくる。どうも調子が狂ってしまう。
まあ――。
「別にいいわ。あたしのほうこそ大きな声を出してごめんなさいね」
ムキになってしまった恥ずかしさもあってロゼッタも素直に謝った。だいたいこの男に文句を言ったところでノーマンの性格が直るわけでもない。
ふと見ると、キョウジの前に置かれているカップが空になっている。
「お湯、まだある? お替りは?」
「ええ、まだ入ってるんで大丈夫です」
キョウジはそう言ってポットを軽く持ち上げた。透き通ったブラウンの液体がカップに注がれていく。
「あの、ロゼッタさん」
「何?」
「ひとつ教えてほしいことがあるんです」
紅茶を注ぎ終えたキョウジはロゼッタに向き直って訊いた。
「ノーマンさんはどうして旅に出たんですか。診療所を開いてたって話も聞きましたけど」
改まって聞くので何かと思えばそんなことか。
なあ、ロゼッタ――。
あの時、真面目な顔で語りかけてきたノーマンを思い出す。
いつもつまらないジョークばかり言っていたノーマンが見せた、いつになく真剣なまなざし――。その眼がなぜか目の前にいるキョウジの眼と重なった。
一瞬、ドキリとした。
どうしてこの人とノーマンが重なって見えたのだろう。似ても似つかない風貌なのに。
心の水面をざわつかせた動揺は、しかし顔には出さず、ロゼッタは訊き返した。
「さあ……あなたのほうこそ何か聞いてない?」
「自分にしかできないことが見つかったんだ、とか自分を必要としている人のために何ができるのか考えた結果旅に出ることにしたんだ――っていうようなことを言ってました」
ロゼッタが聞かされた台詞と同じ台詞だった。
それは当てにならない。
キョウジは続ける。
「でもここに来るまでの間に僕も考えてみたんです。ノーマンさんは診療所も開いていた。評判も上々だったそうですね。ということは、ここ、レスターにだってノーマンさんを必要としていた人たちが大勢いたんじゃないかって」
それは――その通りだ。実際診療所には近くの住人だけではなく遠方から診察を受けにくる人もいた。キョウジの言っていることは正しい。
「でもその人たちを置いてまで旅に出たわけでしょう?」
キョウジは首をかしげると、何かこうしっくり来ないんですよねと呟いた。
どうして旅に出たのか――。
この二年間、ロゼッタもずっと引っかかっていることである。
始めは子供の産めない自分に対する当て付けかと思っていた。どこかに女ができて、そのために旅に出るなんて嘘をついて出て行ったのかもしれない。
わたしは捨てられたんだ――。
そう思うとひどく落ち込んだ。
何もする気が起きなかった。店もしばらく休業した。いや、いっそ閉めてしまおうとも思った。
しかし、そんなロゼッタを元気づけたのは、いつも紅茶を飲みに来てくれていた常連客たちだった。
――喧嘩したわけじゃないんだろ? なあに、そのうち帰ってくるさ。
――返ってきたら思いっきりひっぱたいてやればいいのよ。
――気にしちゃだめよ。気にしたら相手の思う壺なんだから。
常連たちはそれぞれの言い方でロゼッタを元気づけてくれた。
そんなやさしい人たちに支えられ、『Forest Hell』は一ヶ月の休業を経て営業を再開させた。
生後半年ぐらいの子供を連れた女性がロゼッタを訪ねてきたのは、営業を再開して三カ月ほど経った頃だった。
ノラと名乗ったその女性は抱いている赤ん坊を見せながら、ノーマン先生のおかげで無事に出産することができました、ありがとうございますと言って深々と頭を下げた。
ノラはバースの郊外ある小さな村に住んでいて、ロンドンに行く用事の途中に立ち寄ってくれたのだそうだ。ノーマンがレスターの近くに行くことがあったら店を訪ねてほしいと言っていたようで、ノラは律儀にその約束を守ってくれたのだ。
肝心のノーマンはというと、ノラの産後の肥立ちが落ち着くのを確かめるとまた旅に出たのだという。
ノーマンが旅をしながら困っている人を助けているというのは本当のようだ。外に女を作られて捨てられたと思い込んでいた自分がなんだか恥ずかしくなった。
『Forest Hell』に時折、幼い赤ん坊を連れた若い女性が訪れるようになったのはこの時からである。
彼女たちはロゼッタに会うと決まってノーマンへの感謝を述べた。
助けられたのだからそれはいいのだが、言われる度に気になることがあった。
ノーマンのことである。
産婦人科医としてのノーマンは優秀だと思う。
子供をお腹に抱えている妊婦たちはナーバスになっていることが多い。彼女たちの気持をリラックスさせるのも産婦人科医の手腕といえる。ノーマンの場合、彼の性格でもあるのだが、患者と医師という垣根を限りなく低くすることで妊婦たちの信頼を得て、関係性を築いていくタイプなのだ。
ロゼッタもノーマンの仕事は理解しているつもりだ。
しかし――。
必要以上に妊婦たちと距離を縮めることはないのではないか、と思うのだ。彼の場合、どう贔屓目に見ても妊婦たちを口説いているようにしか見えないのである。
しかも。
他人の女にそれだけのことが言えるのに、どうして妻であるわたしには言ってくれないのか。
不満は膨み、余計な疑念を呼んでくる。
夫の客なので歓迎はするものの、連れてきた赤ん坊の父親がもしかして彼なのでは……とそんなことを考えて、不安に思うことがないわけでもない。
だが――。
腰の軽そうな夫ではあるけれど、さすがに外で作った子を妻の元に送って寄越すようなまねはしないだろう。
心中穏やかではないのだが、なんだかんだ言ってもロゼッタはノーマンを信じているのだ。
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