《残され人》と紅茶の香り
ロゼッタがその男、キョウジ・ロクセットと会ったのは五月に入ってすぐのことだった。
ここ数日、街を湿らせ続けていた冷たい雨が上がった木曜日。
窓枠に切り取られた小さな空はまだ半分以上が雲に覆われていたが、それでも時折雲間から太陽が顔をのぞかせていた。出窓に置いているペチュニアの花も鮮やかな色を取り戻し、うれしそうな顔で空を見上げている。
いつもより明るい店内を見ていると、気持ちも自然と軽くなってくる。
ロゼッタは窓を開け、朝の日課である紅茶の補充を始めた。
イギリス中部にある古い地方都市レスター。
中心部にあるレスターレイル駅を降りてすぐ目の前を走っている大通りを南に進み、右に折れたウェリントン・ストリートがマーケット・ストリートにつながる少し手前。
そこに彼女の店はある。
『Forest Hill』というのが店の名だ。
レンガ造りの小さな店には濃い緑の地に金色の文字で店の名前の書かれた看板が掲げられていた。
小さなティーショップだが、ロゼッタはこの店の店主なのである。カウンターの後ろの棚には十八種類の紅茶の瓶が並んでいて、この紅茶を補充するのが彼女の一日の始まりとなっている。
もっとも補充といっても人気のある紅茶は決まっているのでだいたいは四、五種類の補充で済んでしまうのだが。
「よし、と」
ロゼッタはディンブラとラベルの貼られた瓶にふたをして最後の補充を終わらせると、茶葉の詰まった瓶を棚に戻した。
店内には小さなカウンターとテーブル席が三つ並んでいる。もう一つぐらいテーブル席を増やそうと思えば増やせそうだが、あまり詰め込んで窮屈になってしまうのも嫌なので、これぐらいで十分だと思っている。せっかく来てくれたお客さんにはリラックスしてもらいたい。
ポットを火にかけ、カウンターの下に置いていた紅茶の入った袋を奥の倉庫へと片づける。
カウンターとテーブルを拭き終わる頃にはちょうどお湯が沸いているので、そのお湯を茶葉の入ったティーポットに注ぐ。今日はニルギリの葉だ。
葉が開き、ポットの中で踊り出すまでにテーブルの砂糖を補充する。
店内に白い湯気とうっすらと甘い香りが広がっていく。
ロゼッタは紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
心がふわりと安らぐ。
開店前の一杯。
このひとときは店主だけの贅沢だと思う。
カラン――。
と、ドアベルが鳴ったのは表のドアにかかっている看板を『OPEN』にひっくり返して間もなくのことだった。
開いたドアの前に男が立っていた。
大きめの丸首シャツに黒いベストとズボン。左腕には同じく黒い上着を抱えている。はっきりとした顔立ちに黒い髪。ブラウンの瞳が落ち着いた印象を与えている。この辺では見かけない顔だ。
二十歳ぐらいだろうか。少し少年っぽく見えるのは鬚のない口元のせいかもしれない。
「いらっしゃい」
と声をかけると男はおはようございますと挨拶を返した。
「あのぉ、もう開いてますか」
「ええ、どうぞ」
席を勧めると男はカウンターの椅子を引いた。背もたれに上着をかけ、浅く腰を掛ける。
「これ、メニューね」
「ありがとうございます」
男は受け取ったメニューをしばらく眺めていたが、やがて、朝に飲む紅茶をお願いしますと言ってメニューを閉じた。
「OK。ブレックファストね」
ロゼッタは後ろの棚に並んでいる瓶をひとつ取り出した。用意したティーポットに茶葉を入れる。
「感じのいいお店ですね」
待っている間、男は棚に並べられた紅茶の瓶を眺めながら、しかもけっこう種類揃ってるしと目を丸くさせた。
「ありがとう。たくさん飲んでいっていいわよ」
店を褒められるのは素直にうれしい。紅茶の種類も小さな店にしては揃っている方だと思っている。
お湯を注いだティーポットとカップをトレイに乗せ、ロゼッタはカウンターを出た。
「どうぞ」
男の前にカップを置く。
早速ポットに手を伸ばそうとした男に声を掛ける。
「茶葉が開くまでもう少し待ってからカップに注ぐといいわよ」
「なるほど」
男はうなずくとティーポッドから立ち上る湯気をじっと見つめていた。
素直に聞いて待っている姿はお預けを食らった犬のようでユーモラスに見える。
視線を感じたのか男は不思議そうな顔をロゼッタに向けた。ちょっと見過ぎてしまったかもしれない。ロゼッタは照れ隠しに軽く微笑むと、もういいわよと声をかけた。
男はうれしそうに、はいと答えるとティーポットを持ち上げ、カップに向けて傾けた。
白いカップに琥珀色の透き通った紅茶が注がれ、ブレックファストのはっきりとした香りが広がっていく。
カップを持ち上げた男は一度顔の前で動きを止め、立ち上る香りをかいだ。
それからゆっくりとカップの端に口を付ける。
じっと見ているとまた視線を返されそうだったので、ティーカップを拭きながらそれとなく様子をうかがう。
「うまいです」
一口目を飲んだ男は相好を崩した。
「良かったぁ」
ロゼッタも笑顔を返す。いままでマズイと言われたことはないが、この一瞬だけはいつも緊張する。せっかく入れた紅茶なのだから、やはりお客さんには美味しいと言ってもらいたい。
カップを置いた男が言った。
「レスターに来たのは初めてだけど、いい町ですね」
「そうねぇ。新しいものはないけど、歴史のある建物ならたくさんあるわよ」
産業革命と鉄道の開設によって人口が急増しているが、レスターはイギリスでも最も古くからある町のひとつだ。その歴史は二千年近くまで遡ることができる。いまでも古代ローマの遺跡が残っているし、中世の建物も数多く残っている。レスター城址や聖メアリ・デ・カストロ教会、とりわけレスター大聖堂は町のシンボルにもなっている。
「落ち着いた雰囲気で僕は好きです」
「レスターに住む者を代表して歓迎するわ」
二口目を飲んだ男に訊く。
「この辺では見かけないけど、旅行か何か?」
「まあ、そんなところです」
「いいわねぇ、あたしもどこか出かけたいなぁ」
旅をするなら若いうちのほうがいいと思う。
あと五歳若ければ飛び出していく行動力もあったのかもしれないが、来月で二十七だ。店もあるし、開けておかなければならない理由もある。
「ま、店があるから遠出はできないけどね」
「あの――」
男はティーカッブを置くとロゼッタの顔に目を向けた。
「――ロゼッタさん、ですよね?」
「そうだけど――」
ロゼッタは男の顔を見直してみる。
誰だろう。記憶の引き出しをひっくり返してみたが、男に見覚えはない。今まで会ったこともないはずだ。
男はロゼッタの困惑に気がつかず、ああ、やっぱりあなたがロゼッタさんでしたかぁと納得したように頷くと、キョウジ・ロクセットと言いますと名乗った。
やはり記憶にない名前だ。
「どこかで会ったかしら」
「いえ、初めてです」
とすると――。
ロゼッタは内心ため息をついた。
「……わかった。あの人ね」
キョウジは一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに
「ええ、ノーマン先生に聞きまして」
と微笑んだ。
ノーマンというのは産婦人科医のトマス・ノーマンのことだ。元々はレスター総合病院に勤めていたが五年前に独立し、診療所を開業。しかし、その診療所も現在は後輩の産婦人科医に任せ、本人は旅に出てしまっているといった迷惑な男だ。
ついでに付け加えるとロゼッタの夫でもある。
出奔してからもう二年の月日が経とうとしているが、その間一度も帰って来ていない。
「……ホント困った人」
放蕩夫に対して呟いたものだが、キョウジには聞こえなかったらしく、旅先で出会ったというノーマンのことを話し始めた。
「立派な方ですね。旅をしながら困っている人を助けて歩くなんて」
「さあ、どこまで役に立てているのやら」
「僕もあちこち旅をしてますが、ノーマンさんのような人にはなかなか会ったことがないです」
「あの人より立派な人なんてたくさんいるわ」
苛立ちが言葉の端に出てしまっていたのだろう。キョウジが怪訝な表情を浮かべた。
「……何だかあまりよく思ってないよう気に聞こえますけど」
「そんなことないわ」
「結構気にされてましたよ、ノーマン先生」
「何を?」
「あなたのことです」
「嘘」
あの人に限ってそれはない。
「いや、嘘じゃないですよ」
ロゼッタは信じない。
「私のことなんて言ってないでしょ」
「どうして嘘だなんていうんです?」
「ホントに私のことを気にしてるんだったら普通自分で確かめに来るものじゃない?」
ロゼッタの投げかけた問い掛けに黒髪の男は、それもそうですねと言って考え込む素振りを見せた。
もうそれ自体が答えのようなものだ。
だいたい二年もほったらかしにしているくせに、他人を寄越して私のことを気にしている――なんて言われたところで素直に受け取れるはずがないじゃない。まったく何を考えているのやら。
それでもキョウジは、忙しいから来られないんじゃないですかねとノーマンをかばうようなことを言った。
「忙しいねえ……」
行先も決めず勝手に出た旅のどこがどう忙しいのかロゼッタにはまったく理解できなかったが、代わりにわかってきたこともある。
どうもこのキョウジという男は一向に帰って来ないろくでなしの亭主のことをフォローしに来たらしい。
「ところで――」
漂い始めた不穏な空気を感じたのかキョウジは話を変えた。
「この店はロゼッタさん一人で切り盛りしてるんですか」
「そうよ」
「忙しい時は大変じゃないですか」
「そうでもないわ。見ての通りヒマだし」
ロゼッタは客の一人しかいない店内に目を向けて肩をすくめた。
「あ……ああ、まあそうですね。ヒマだと寂しくなりませんか」
結構失礼なことを言っているが、どうも本人にその自覚はなさそうだ。こういう相手はムキになるだけ損だ。
ロゼッタはできるだけクールに答えた。
「別に。慣れてるから。それにショーンもいるし」
「ショーン?」
キョウジは目を丸くする。新しい男でもできたと思ったのかもしれない。少し変わった男だが、意外にわかりやすいところもあるようだ。
ロゼッタは笑いながら言う。
「猫よ。そのうち顔を出すと思うわ」
と――言った傍からにゃーんと声がした。
「お?」
キョウジが声の方向に目を向ける。
「噂をすれば、ね」
開けたままにしていた表のドアから白と黒のツートン柄の猫が顔をのぞかせていた。
ロゼッタは平たい皿にミルクと水を入れると一番奥にあるテーブルの下の床にそっと置いた。
そこがショーンのお気に入りの場所なのだ。
いつも午前中にやってきて、昼過ぎぐらいまでこの店で過ごし、ふいと出ていってしまう。
ショーンは客のキョウジには目もくれず、まっすぐ皿の前まで来ると、小さい舌でミルクを飲み始めた。客がいてもいなくてもショーンの行動は変わらない。そんなところも気に入っている。
「そんなにあわてなくてもミルクは逃げないわよ」
ひざを折って眺めていると、気になったのだろう。キョウジも隣にしゃがみ込んで食事中のショーンを覗き込んだ。
「飼ってるんですか」
「うちのじゃないわ。でもだいたい毎日こうして来てくれるの」
ショーンと言うのはロゼッタが勝手につけた名前だが、野良猫にしてはきれいだから、もしかするとどこかの飼い猫なのかもしれない。
気まぐれな猫だけど帰って来ない亭主よりはよっぽどいい。
「おまえ、ショーンっていうのか」
キョウジはショーン、ショーン、と呼びかけたが、食事に夢中になっている猫はまったく見向きもしない。
キョウジは肩を落として、つれないな……おまえと寂しげに呟いた。
その姿があまりにも情けなかったのでロゼッタはクスリと笑ってしまった。
「猫、好きなの?」
「動物は好きなんですが、残念なことに好かれたためしがないんです」
どうやら――。
この人は違うみたいね。
「キョウジって言ったっけ、あなた変わってるわね」
「そうですか?」
キョウジはどうしてそんなことを言われるのかわからないといった表情でロゼッタを見た。やっぱり変わっている。
「あたし、またあの人の嫌がらせかと思ってた」
「嫌がらせ? どういうことですか?」
ロゼッタは立ち上がるとカウンターの中に移動した。
キョウジもティーカップの置いてあるカウンターに座る。
「いつもは――」
女性が来るのだ。
子供を連れて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます