FOREST 不思議な森

狭霧

FOREST 不思議な森

〈そんなものが本当にあるのか。あるのなら行ってみたい〉

 津賀伊月は支度をし、まだ誰も起きない日曜の明け方、寮を出た。


 一人で新幹線に乗るのは初めてだ。電車代を引き出す際に確認すると、口座の残金は随分貯まっていた。寮費も食事も天引きだが会社の補助で微々たるものだし、そもそも伊月は無駄遣いをしない。寮からもあまり出ないので着る服にも無頓着だ。

 日曜の朝とあって駅は空いていた。日月の連休を使っているとはいえ、本当ならば可能な限り早く目的地に到着したいところだ。始発の〈やまびこ〉に乗ると盛岡止まりだということで、やむなく二便あとの〈はやぶさ〉を選んだ。伊月は大宮駅からなので、車内にはすでに数人の人影があった。

 指定席に腰を下ろして窓外を見ると、自分の住む町が見慣れない顔で伊月を見返す気がした。それもあっという間に終わり、次には何処を見ても見知らぬ風景だった。

 伊月が幼稚園の時、父母と三人で旅行をしたことがあった。家族旅行と呼べるのは、その一回きりだ。その時にも新幹線に乗ったらしいが、伊月にその記憶はない。ただ覚えているのは、両親の膝の上で遊んでいた事だけだ。新幹線より何より、その事が伊月の中にしっかりと残った。

 だが、そんな幸せも長くは続かなかった。それから五年後に父親が病気で他界した。病名は教えて貰えなかったが、罹ると悪くなる病とだけは教えられた。顔色が悪くなる一途の父を見ているのは、子供心にも辛かった。それを察した父親は自宅ではなく、入院を選んだ。そして入院から一月も見ずに、伊月の父は戻れぬ世界へと去って行った。

 母との二人暮らしになると、生活は苦しくなった。中学に入った伊月は、早々に進学を諦めた。それよりも早く働いて母親に楽をさせたかった。もっと楽になれば、母親も笑顔を見せてくれるはずと思った。だが、その母親までもが逝ってしまった。交通事故だった。夜勤明けの会社員が運転する自動車に轢かれたのだ。疲労からの居眠り運転だった。

 両親を失った伊月を、遠縁の親戚が引き取った。その家に行った当日の夜、伊月に向かって家人は優しげに言った。

「面倒を見てやれるのは中学卒業までな」

 保険金がどうのこうのという話を聞かされたが、何かにサインをさせられたことしか覚えてはいない。そしてその家で中学卒業までの一年半を過ごすと、すぐにさいたま市内の寮のある工場で働き始めた。給料は安かったが居ても良い場所という事が伊月には嬉しかった。

 車両の微かな振動の中、そうした以前のことが脳裏に蘇る。思い出したくないことも忘れたくないことも、時間と共に薄れていく。その伊月を乗せて新幹線はひた走る。眠くはなかったが固く目を閉じた。

 趣味など無い伊月だが、寮ではブログを読むことを楽しんでいた。それは誰の、何について書かれたものでも構わない。ただ、できるだけ〈更新されていないようなもの〉を選ぶ傾向があった。記事は古くて構わない。むしろ、古い方がいいとさえ思った。特別に理由があったわけでは無いが、もう誰も訪れなくなった記事には〈見つけた感〉があるように思えた。書いた本人さえ、その後を書かないのだ。訪問人数メーターがあっても大概数えるほどで、謂わば人気の無い場所という事だ。全員が知っている流行の情報など伊月には用が無い。誰かと共有してその話題で盛り上がるような、そんな相手も伊月にはいない。職場に友人がいないわけではないが、一番大切なものが流行の話題ではないと言うだけのことだった。流行は付いていくか置いて行かれるかの遊びに思えた。置いて行かれるのは沢山だと思っていた。

 夕べも、そんなブログはないかと探していて、一つ見つけた。

「最終更新日――平成八年八月二十五日、か」

 足かけ三十年もの間、少なくとも更新は為されていない。

「〈奇妙な森〉……?ホラー系?」

 ブログ主は〈私〉と名乗る人物だ。様子から男と思われた。古参のそのブログサイトに、〈私〉の記事は二頁しかない。それは〈私〉が少年時代に経験した出来事から始まっていた。

 思い出して携帯を手に取った。そのブログを呼び出して、もう一度最初から眺め直した。どうせ時間はあるのだ。


〈一ページ目〉

 夏祭りをめがける倣わしでもあったらしく、我が家では毎年八月末近くに父方の実家がある青森へ全員で帰っていた。毎年とは言え、〈私〉が記憶しているのはその年と、その前年だけで、それ以前は小さすぎて覚えていないし、それ以後は親が行くと言っても〈私〉自身は一度も訪れていない。

 〈私〉にとって最後の青森帰省となったその年、父の実家には祖父しか居なかった。祖母は前年に他界し、彼らにとっての子供は、〈私〉の父しか居ないので、夏の帰省シーズンと言っても、古く大きな家は閑散としていた。

 祖父が子供だった頃には農家をしていたと聞いたが、祖父はその家から国立大学に通った人だ。物静かな人――という記憶がある。

 小学校一年生だった〈私〉は、田舎の早朝の空気が好きだった。夏とは言ってもヒンヤリと冷え、澄んでいた。庭先の草木にとまるイトトンボが珍しく、眺めていたのを覚えている。その〈私〉に声を掛けたのは祖父だった。

「お父さんとお母さんはまだ寝ているようだから、おじいちゃんとその辺散歩しようか」

 意外だった。気むずかしいとまでは言わないが、何しろ会話の少ない人なのだから、そんな誘いもその時が初めてだった。

 細く長い農道の、一方は村の中心部へと続く。そこにはアイスクリームくらいは売っているお菓子屋兼雑貨屋や、小さな郵便局前にはバス停もあるが、祖父はそれとは反対方向へ歩き出した。先には木々が茂っている。脇には湧水の小川が流れていた。種類は知らないが、色鮮やかな小鳥が澄み切った水面近くを飛ぶのも見えた。

 祖父はポツリポツリといった具合に、そのあたりの木のことや生き物の話をしたと思うが、〈私〉には道の先に見える鬱蒼とした森が気になっていた。

「ここら辺も全部おじいちゃんの土地でね」

 自慢というのではなく、まるでそれは社会科の授業のようだったが、祖父は聞かせてくれた。

「いつかはおとうさんの物になるだろうけど、おとうさんにはできなかったな。それにしてもおまえはおとうさんに似ているな」

 言っていることはよく分からないが、〈私〉はただ「ふうん」と言ったと思う。

 小川に掛かる橋は柵もなく、車では通ることのできない小ささだ。橋から下を見ると、さざ波に木漏れ日が輝き、小さな魚の姿もあった。

「おいで、こっちだよ」

 見ると祖父は、低く垂れた枝葉の向こうで待っている。〈私〉は、ふと来た道を振り返った。なだらかな坂の果てに村の家々が小さく見える。どうしようか迷った気がするが、それでも結局祖父の後を追った。

 左右から、道に覆い被さるほど沢山の枝葉が伸びていた。それを半ば掻き分けるように祖父は歩いた。早足なわけではないが、小さな〈私〉には相当大変だったように思う。やがて不意に開けた場所へと出た。祖父は並んで繁る二本の木の間で、背中を見せて立っていた。

「このクヌギから先へは資格のある者しか入ることができないんだ」

 祖父と並んで〈私〉は見た。いま来た道など比較にならないほど大量の木々が茂っていた。道など何処にもない。

「こんなとこ、入っていけるの?何があるの?木ばっかりだ」

 祖父は私を見下ろした。その表情は、後になっても忘れることが出来なかった。驚いている風にも、悲しんでいる風にも見えた。一言、「やはりな」と言ったことだけを覚えている。祖父はしばらく森の奥を見つめていたが、その後は口を開くこともなく引き返した。

〈私〉は何が何だか判らなかった。散歩だと言っていたが、まるで〈私〉をあの森の近くまで連れて行っただけだった。だが、祖父の考えを〈私〉は後年になって知る事になる。


 村の夏祭りは楽しかった。タップリと遊んで帰る道すがら、とおい闇を指さして尋ねてみた。

「おとうさん、あの森はなにがあるの?」

 母と話しながら歩いていた父は「うん?」と前を見た。

「川があって、木があって、あとはそれだけだよ」

〈私〉は父の言った「木があって」が、行き止まりの森を意味していると思っていた。

「入ったことある?」

 父は不思議そうな顔で言った。

「入る?あぁ、川の奥かい?二度くらいね。子供が遊ぶのにはあの川は良い感じなんだけど、おじいちゃんがね――」

「お義父さんがどうかしたの?」

 母が尋ねると、父は笑って言った。

「小さい頃一度だけオヤジに連れられて行ったことがあるんだが、なんか知らんが家に帰ってきたら〈あそこには行くな〉なんて言ってさ。遊ぶのもまかり成らん!ってわけ」

「まあ、どういうこと?危ないものでも棲んでるの?熊とか」

「さあね?ただ、小川以外行っても楽しい場所ってワケでもないし、俺はホラ、シティーボーイ派だったから」

 そう言うと夫婦で笑い合った。その話はそれで終わった。祖父の家に戻ると祭りの話になり、父はビールを片手に楽しげに話した。母は、東京に戻る支度に追われていた。明けて翌日、〈私〉と両親は自宅のある都内へ向かう為、クルマに乗り込んだ。ナビを見て帰り道を打ち合わせている両親を余所に、祖父は私に寄ってきた。

「いつでもおいで」

「うん」

「いいかい?その時になったら、いつでもだよ」

 その表情は、あの行き止まりの森で見せたものと同じで、ひどく悲しげだった。

 東京に戻った私には当たり前の日常が待っていた。学校に行き、学び、友人と遊んだ。そんな何年かが過ぎるうちに、祖父の家でのことは記憶の隅に追いやられていた。

 ある年のこと、祖父は他界したらしい。らしい――と言うのは、祖父の遺体を見ていないからだ。その時の記憶は鮮明に残っている。或る日を境にして父は頻繁に警察と電話のやりとりをしていた。何か事件というのでもないようだったが、電話をとる父の顔は真剣なものだった。やがて、葬儀があると言って父は出掛けた。どういう理由からか、〈私〉も母も参列していない。帰宅した父は疲れ切った顔をしていた。それでも日々は背中を押す。毎日が流れていく中で、再び悲しみが襲い掛かった。母の死だ。

 明るい母だった。優しげな微笑みで〈私〉を見つめ、いつも黙って〈私〉の話を聞いてくれた。いつまでも一緒だと思っていた母が逝き、家の灯が消えたように思えた。母の死後、〈私〉は友人とも遊ばなくなり、部屋に籠もるようになっていた。

 或る夜のこと、夢を見た。夢なのだから当たり前かも知れないが、ひどく朧な世界だ。〈私〉は木々の中を歩いていた。何処へ行けばいいか判らない――そんな思いだったように記憶している。ただ出口を探し、当てもないままに草を掻き分けて進んだ。そうするうちに、理由は分からないが、そこが祖父と共に行ったあの小川向こうの道なのではないかと思えるようになった。それならば引き返せば小川に出て、祖父の家へ行ける。そう思って〈私〉は急ぎ引き返した。不意に出たのは小川ではなかった。

――森だ……あの、小川の先にあった行き止まりみたいな。

 そこで祖父が見せた表情が蘇った。〈私〉は慌てて引き返した。道を間違えたのだと思った。

 木々の下、草を分けて進み、出たのは――。

「同じ場所だ!」

 行き止まりにある森だった。大きなクヌギの木が左右にあって間違えるはずもない。呆然とする私が森を見ている。夢は、そこで終わった。

 父に黙って出掛けたのは、理由を言っても理解して貰えないと思ったからだ。

 その日の夕方前には祖父の家の前にいた。もう誰も住んでおらず、玄関にも縁側の雨戸にもバツ印のように木が打ち付けられていた。そこには立ち寄らず、村とは反対に向かう小径を急いだ。祖父は言っていた。〈その時になったらおいで〉と。今がその時なのではないかと微かに感じていた。

 子供時代、祖父と来た時とは様子が違っていた。思うほど家から遠くなく、小川は川と呼ぶにはあまりに細かった。枝葉を押しのけて進むのは同じだったが、それもあっという間の距離だ。〈私〉は二本のクヌギを見上げていた。

「ここだ」

 着いたが、それからどうすれば良いかが判らない。木々は密生し、その隙間は見通せない。それでも入っていくことはできそうだった。〈私〉は枝にぶつからないように頭を下げて一歩踏み出した。あとはその連続だった。慣れない場所だからそう早く前には進めないが、それでも三十分以上歩いた。だが、何もない。祖父の表情を思えば、森の奥に何かがあるのは間違いないように思えたが、いくら歩いても同じような木と草の世界だ。やがて日が翳ってきて、〈私〉は諦めた。何もありはしないではないか、と。

 悪ふざけをするとは到底思えない祖父のあの表情は気になったが、母の死と奇妙な夢のせいで自分がおかしくなっていたのだと思おうとした。引き返すことに躊躇はなかった。だが――。

 戻る道が判らない。真っ直ぐに歩いたつもりが、振り返って見ればそもそも獣道程度すらなかった場所を来たのだ。木々に目印もない。私は焦り、速度を上げて前へと進んだ。

 どれほどそうしていたろう。やがて疲れた〈私〉は一本の木の下で座り込んでしまった。その時点でも恐怖はなかったが、父が心配だった。連絡を取ろうにも携帯電話は圏外だ。そしてついに陽は落ち、深い森には闇が訪れた。

 初めのうちは携帯電話のライトが使えたが、朝までそうしていなければならないなら、できるだけ電池は倹約したかったので、消してしまった。昼間は快晴だったので、月くらいは出ていそうなものだが、そんな微かな明かりさえない。目を精一杯開けては見るが、目の前には闇しか無い。真の闇――それは都会で見ることの出来ない代物だ。

 〈私〉は気が強い方ではない。ケンカなんてしたこともない大人しさだ。自覚はないが、恐らくは臆病な方だと思う。その〈私〉が、恐怖を感じないことがまず不思議だった。獣がいたら――或いは霊的なものがいたら――と想像はするが、なぜか怖いと思えなかった。きっと恐怖のすべてが、喪失を基本とするからだろう。獣に噛まれればケガをする。それは健康の喪失だ。失うことを恐れるからその原因となり得るものに恐怖を覚える。〈私〉には、その心当たりがなかった。

〈私〉は両膝を抱き、顎を乗せて目を閉じた。疲れていたのだ。すっぽりと〈私〉を包む非日常が、何もかも恰好ばかりに思える街の暮らしよりも不思議なほど身近に感じられた。それでも、探しても探しても見つからないものなら、帰るしかないのだろうか――そう思った。帰る場所など何処にあるのだろうと思った。寮だろうか。あの六畳の部屋だろうか。あそこに居さえすればずっとそうしていられるのだろうか。やがて〈私〉は、いつの間にかうたた寝をしていた。

 深く眠ることは出来なかった〈私〉が薄目を開けると、それまで見えていなかったものが木々の隙間に見えた。

「明かり?」

 驚いて〈私〉は立ち上がった。携帯をライトモードにして草の中に入っていった。手探りで進むと、木々の間に見えるそれが揺らいでいることに気づいた。炎に違いない。熊や山犬なら火など使うはずがない。人間に違いないと思い、電池の減りなど気にもせずに勇んで進んでいった。

 不意だった。「え?」と声が出るほど呆気なく森の外に出た。そこは緩い傾斜の丘の上で、先にはユッタリとうねる草原が広がっていた。今まで見た経験がないほど大きな月が丘の果てに見え、世界を柔らかく照らしていた。

 見えていたはずの炎がないことに気づいたが、森の外に出られたことで安心し、気にならなかった。だが、出られたとは言え、祖父の家の近辺でないことは明白だ。そこは、例えるならば物語にある西欧の牧場とでも言うのか。手作りらしい木の柵が延々と続き、遠くでフクロウの鳴く声が聞こえるだけで、他に物音もなく、動くものもいない。丘の下方に一軒の家が見える。とにかくまずそこへ行ってみようと考え、〈私〉はなだらかな坂を下りていった。


〈二ページ目〉

 母屋らしい建物に寄り添うようにあるのは、母屋よりは少し小さな小屋だ。そのどちらの木窓からも仄かな明かりが零れている。怪しまれるかも知れないという躊躇はあった。それでも、祖父の家のある村への道を聞かなくてはならない。携帯はここでも圏外な上に、どのアプリも反応しないのだ。

 おずおずとノックしてみた。これも手作りに見える木戸が静かに開いた。姿を見せたのは少女だった。

 背は百七十センチの〈私〉より少し小さく、栗色の髪を三つ編みにしていた。

「あの――」

 村への帰り道を知りたいと告げると、意外な答えが返ってきた。

「知らない、そんなの」

 ビックリして少女を見たが、揶揄っている様子はない。〈私〉は振り返って丘の先を見た。月明かりの中に黒々とした樹海が見える。それを指さして言った。

「あの森の向こうか、方向は判らないんだけど、とにかく村が――」

 言い終わる前にやめた。少女は首を傾げていた。

「だって――こんな時間になったけど、実際に歩いた距離なんて数キロかそこらな筈なんだ。だから知らないとか、そんな――バカな話は……」

 少女は黙ったままだ。〈私〉は項垂れた。疲れが出たのだと思う。身体に力が入らなかった。それを見て少女は言った。

「休む?狭いけど……」

 そう言い、招き入れてくれた。

 丸木でできた小屋の内側は意外なほど温かかった。見れば小さな暖炉で炎が燃えさかっている。その前に置かれたロッキングチェアには、編みかけの編み物が置かれている。そう言えば母にもセーターを編んでもらったことがあった。

 椅子を勧められ、腰を下ろすと少女は奥へ行き、戻った時にはその手に湯気の立つカップがあった。

「飲む?」

 それを受け取り、礼を言って一口啜った。熱かったけど美味しいレモネードだ。美味しいというと、少女は微笑んでロッキングチェアに腰を下ろした。

「ねえ、本当に知らない?村のこと」

 少女は頷き、小さな吐息を零した。

「なんていう村?」

 口から村の名を出そうとして〈私〉はドキリとした。記憶のそこだけ、ぽっかりと抜け落ちていた。村の名が出てこない。

「えっと……あの……あれ?なんだっけ……あの森の外の――」

 少女は怪訝な表情を見せている。

「森の向こうには何もないわ?」

「何も無いわけ無いじゃないか!あの森の外には、えっと…たしか……広い世界が……」

 考え込んだ〈私〉に少女は言い切った。

「ないわよ。あるはずないでしょ?」

「なんでだよ!」

 言い返すと、少女は静かに言った。

「ここだけだもの。ここが世界だもの」

 何を言っているのか判らなかった。少女の頭がおかしいのかも――とも思った。だが、彼女の様子は理知的だ。揶揄っている風にも見えない。静かだがしっかりとした口調で少女はもう一度〈私〉に言った。

「世界はこれで全部だもの」


 そんなバカなことが――と言いかけた〈私〉を遮るように少女は言った。

「あなたは、なんて言うの?名前」

 脳はパニックを起こしているが、そう言えば自己紹介もしていなかったことを思い出した。

「〈私〉は――〈私〉の名前は……」

 思い出せない。名前も、住所も何も思い出せない。言葉に詰まってしまった〈私〉はひどく狼狽えて見えたのだろう。少女は慰めるように言った。

「気にしないで。私の名前を教えて上げる。私はホリーホックよ。ホリーで良いわ」

「外国の人?」

「ガイコク……?」

「なぜ同じ言葉が話せるの?」

「コトバ……?」

 話が通じていない。ホリーホックと名乗った少女は、流暢に〈私〉と同じ言葉を――。そう思った時、ハッとした。

――言葉……どこの……?

 自分の頭がおかしくなった気がした。言葉を一つ探そうと思うたび、それは頭の中から消えていた。他の事は消えていないのに、思い出そうとすることだけが思い出せない。〈私〉の使っているこの言葉は、一体どこの……何語だろうか?一体いつから色々な事が頭から欠け落ちていたのだろう?言葉ってなんだっけ。〈私〉は何を気にしているのだろう。

「言ったでしょ?この世界はここだけ。他には何もないの。丘の上の森は世界の果てで、この家から先には何にもないわよ?だから訊いたの。あなたはどこから来たの?って」

 少女の話すことはメチャクチャだと思った。

「名前がないのは困るでしょ?私が付けて上げる。そうね――」

 少女は少し考えてから言った。

「リグというのはどうかしら?」

 少女は何を言っているのだろう。〈私〉にはちゃんと――ちゃんと……。

「ね?良い名だと思うわ?リグ!」

 嬉しそうに笑う少女に、〈私〉は尋ねてみた。

「リグって、どういう意味?」

 少女は驚いた様子で尋ね返した。

「イミ?イミって何?なんとなくリグかなって思ったから付けたんだけど」

 問われ返され、〈私〉は戸惑った。意味とはなんだろう?頭の中でその言葉を繰り返すうちに、〈私〉の中から〈意味〉はどんどん遠ざかった。仕舞いにはその言葉そのものを思い出さなくなっていた。

 少女は、ずっと前からそうであったかのように〈私〉をリグと呼び、〈私〉も自分をリグだと思うようになっていった。奇妙な話だが、そうなのだ。

 その日から〈私〉はホリーと暮らすようになった。暮らすと言っても難しいことは何もない。家の脇の池には沢山の魚がいて、夕食にはそれを獲り、焼いて食べた。その他にも戸棚にはいつ開けてもパンやお菓子があり、裏庭には野菜や果物がいつもなっていた。

 ホリーは優しかった。いつも微笑み、語りかけてくれた。ホリーの優しさの中でも一際感じたのが、ケガをしないでね――という気遣いだ。

「池でケガをしないでね」

「包丁でケガをしないでね」

 しまいには部屋の中でも「テーブルにぶつかったりしないでね」と言った。

「なぜそんなに気にしてくれるの?」と問うと、ホリーは微笑みを浮かべて言った。

「だって、リグが大好きなの」

 何ひとつも欠けていない日々だった。心は満たされ、少し寒い夜でもホリーと肩を寄せ合えば心の底まで温まることができた。

 そんな日々が続いた或る日、〈私〉は魚を捕まえる為に池の畔に立っていた。水面に映る自分に目が行った。その顔はどこかで見た覚えがある。誰だったか思い出せない誰かだ。その男はひどく寂しそうな顔をしていた。

「何を見てるの?」

 尋ねられた。我に返って振り向くと、ホリーは見せたこともないほど寂しげな顔で〈私〉を見つめていた。

「何って」

 ホリーは、たった今まで〈私〉が見ていた方向に視線を向けたが、すぐに逸らし、家の中へ入っていった。〈私〉はもう一度その方向を見た。なだらかな坂の草原が遠くまで続いている。その丘の上に鬱蒼とした森が見えた。それがひどく気になったが、ホリーの呼ぶ声に返事をし、家に入った。

 その日から〈私〉は、気づくと森を見ていた。なぜなのか理由は自分でも分からないが、気になって仕方がなかった。そんな〈私〉をホリーは気にしていた。〈私〉の前で何処か懐かしく思える歌を唄い、美味しい料理を作り、微笑んで甘え、抱きついて頬を寄せたりもした。だが、ホリーの笑顔の消える日は、突然訪れた。

 池の魚を捕まえようとしていた〈私〉は、苔で滑ると知っていた岩に不用意にも足を掛けたのだ。足は滑り、岩に足をぶつけて水の中に落ちてしまった。音に驚いたのか部屋の中からホリーが飛び出してきた。

「平気だよ。ちょっと擦りむいたけどね」

 そう言って笑う〈私〉を見るホリーの目には涙が浮かんでいた。

「どうしたの?そんなに大きなケガじゃ――」

 ホリーは背を向け、部屋の中へと駆けていった。〈私〉は慌てて後を追おうとしたが、不意に妙なことを思い、それが口をついて出た。言った自分でも、何のことかも判らなかった。

「帰らなきゃ」

 言って即座に「え?」と声が出た。

「帰る――って、どこへ?」

 視線は森を捉えた。幸せだけでできている世界。世界はここだけなのに、一体何処へ帰るというのか――そう自問したが、幸せの温かなモヤが晴れていくのを感じていた。歩き出した〈私〉を、ホリーが戸口に立って見つめていた。泣いている。なんて悲しそうなんだろう。こんなに悲しませているのは〈私〉なのか――そう思うと胸が張り裂けそうになる。そう言えば〈私〉が知る限り、ホリーはケガをしたことがない。それに思い当たると〈私〉の中に一つの可能性が浮かんできた。

「……ごめん、行かなきゃ」

 そう呟いた〈私〉を、ホリーはもう見ていなかった。ただ俯いて言った。

「戻ったらもう二度と会えない」

 〈私〉を怖がらせるような言い方ではなく、ホリー自身が怖がっているような、そんな言い方だった。

「同じ世界はふたつないの。同じ場所に行く道もないの。それを選ぶのは自分でも、世界も道も同じようにリグを選ぶのよ。二人いないリグを」

 言っている意味は正直分からない。ただただ〈私〉には〈帰らなくてはならない〉という思いだけがあった。〈私〉はホリーに身体を向けて頭を下げた。

「たくさんありがとう、ホリー」

 少女は顔を上げずに「いいの、リグレット」と呟いた。それは彼女が付けた〈私〉のフルネームだったのだろう。〈私〉は背を向け、丘を目指して歩き出した。その先にある鬱蒼とした森が、なぜだろう〈私〉を呼んでいるような、そんな気がしたのだ。

 森は、初めてここに来た夜よりも近くに感じられた。


 森の縁で立ち止まり、木々をすかして先を見た。生い茂った木々の幹、豊かな枝葉に隠されたその先は見えない。それでも行かなくてはならない。その時はまだ、なぜ行かなくてはならないのかも虚ろなイメージだった。

「待っているから」

 独り言だった。判らないから、歩き出してみた。歩いた先にしか無いものがあるような、そんな気で。

 どれほど歩いただろう。まだ陽は高く、鬱蒼とした中にも木漏れ日はあった。その方向で正しいかも判らないが、足が選んだ方へと進んでみた。驚きは、不意に訪れた。

「ここは――」

 見覚えのある二本のクヌギがそびえている。私を見下ろし、何か言いたげにさえ見えた。

「そうだ――おじいちゃんの家……〈私〉の家……お父さん……帰らなきゃ……」

 ポケットにあったことすら忘れていた携帯電話を取りだした。日付は、家を出た日のまま。時刻も祖父の家に着いた時に確認してから十数分しか経っていない。突然携帯が鳴動した。父からの着信だ。出ると、大きな声が聞こえた。

「何やってるんだ!どこにいるんだい?早く帰って来なさい!心配させないでくれ!おまえに何かあったら、お母さんに申し訳が――」

 帰りの新幹線では自分が変になった気がしていた。ホリーという少女――ここだけしかないと言っていた世界――楽しい日々――そして、自分のことを何もかも忘れて過ごしたこと。

「なんだったんだろう……」

 判らないことだらけのまま、家に帰り着いた。

 その夜、気になって調べてみた。少女が言っていた少女の名前――ホリーホック。それは日本では〈葵〉を意味している。そして彼女が僕に付けてくれた名前――リグレットは〈心残り〉や〈後悔〉を意味している。

「葵……」

〈私〉は呟いた。それは、亡くなった母の名だ。その夜は、涙の止まらない夜だった。


 読んでくれた人は、これが創作の物語だと思うのでしょう。それでいいです。こうして人の目につく場所に書いて残す理由は、ウケたいからではありません。もしかしたら〈私〉以外にも居るのかも知れない――そう思うからです。

 見たことのなかった母のアルバムがあって、その中に母の子供時代の写真も幾枚かありました。ご想像の通り、そこに居たのはホリーでした。驚きはしませんでした。〈私〉は一枚をアルバムから抜き取るとポケットに仕舞いました。

 本文は帰宅後すぐに、忘れたくなくてノートに書きましたが、この後書きは、あの日の不思議から十二年後に書いています。父も昨年亡くなり、今は〈私〉一人で暮らしています。色々な事が毎日あって、退屈などしてはいませんが、それでも最近時々思うのです。もう一度ホリーに会いたいと。

 これを書き終えたあと、私はあの森へ行こうと思います。もしも可能ならば、ホリーにこちらの世界を見せて上げたい。彼女が望むかは判りませんが。


 伊月は眺めていたそのブログ頁を閉じた。場所は暗唱出来るほど覚えている。新青森駅からバスで一時間。ブログにあるとおりの風景の中に、小さな村が見えた。寂れた雑貨屋の前でバスを降り、クルマ一台がやっと通れそうなほど狭い農道を行く。傍らには澄み切った水が細々流れているのが見える。小川と呼ぶには小さすぎるその縁を歩いて行くと、片側に古びた家があった。もう誰も住んでいないだろう事は見ただけで判る。

 伊月はその先へと歩を進めた。小さな橋がある。所々が腐り、渡るのが怖いほどだ。その先に、木々が生い茂っている。躊躇わずに進んでいくと、不意に巨大なクヌギが二本あった。

 少しの間その奥を見つめていた伊月は、一歩前に出た。後書きの最後の文章を呟きながら。

「君にはどんな世界が待っているんだろうね。どんな場所にしろ、それは心の底で君が求めた世界だと思うんだ」

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FOREST 不思議な森 狭霧 @i_am_nobody

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