第24話 いざ生きめやも

「あれ…」


そっと瞼を上げる。薄暗い天井が視界に映った。


りーりーと虫の鳴く声が、微かに鼓膜を揺らす。


っ…」


寝起きで痛む頭を押さえ、体を起こす。


ポケットからスマホを取り出す。画面の光が眩しく、一瞬顔をしかめる。


七月二十二日、午後八時五分。


学校から帰って、明里と夕飯を食べた後、自室のベッドで眠りこけていたらしい。


「……」


しばらく、固まったみたいにボーッとした。


やがて、今日の放課後、杵村さんに渡された、一枚の紙のことを思い出した。


「はあ…」


重たい息を吐き、床に放り出したスクールバッグに手を伸ばす。


ベッドの上に、進路調査票を広げた。


「何も浮かばない…」


頭の中は、空っぽだった。まあ当然と言えば当然か。


記入を早々に諦め、ベッドから降りようとする。その時、ポケットからチャラ、と音がした。


「ん?」


不思議に思った俺は、音の正体を取り出し、手の平を見下ろした。



それは、真珠の貝殻の、綺麗な髪飾りだった。



明らかに俺の物ではない髪飾りに、なぜか強く目を引かれた。


「この髪飾り…どこかで…」


強烈な既視感が襲い掛かる。ゆっくりと、頭の中で、記憶の断片を手繰り寄せていく。


「!」


脳内に、一筋の光が差し込む。同時に、全身の毛が一斉に逆立った。


「凪沙…」


その名を口にした瞬間。


彼女と過ごした夏の思い出が、走馬灯のように脳内を駆け巡った。


同じちゃぶ台を囲み、同じご飯を食べた。


自転車に乗って、小学校を見て回った。


夕立のバス停で、静かに身を寄せ合った。


不良たちに、二人で立ち向かった。


雪の夜、子どもみたいにじゃれ合った。


沈みゆくビルで、最初で最後のキスを交わした―



「なぎ…さ…」


俺の頬をつうっと伝った涙が、ぽた、と髪飾りの上に落ちた。


それを見た瞬間、俺の中の何かが決壊した。



その日は、一晩中泣いた。





翌日、目を覚ました俺は、二人分の朝食を作った。


「なあ明里」


茶碗をかきこむ明里に、俺は尋ねる。


「ん?どったの、おにいちゃん」


もぐもぐと咀嚼しながら、明里が視線を向けてくる。


「『凪沙』って名前に、聞き覚えはあるか?」


俺の質問に、明里は小首を傾げた。


「なぎさ…?そんな人、知らないけど」


「…そうか」


悲しい予想は、当たっていた。


「でも、すごく綺麗な名前だね。女の子でしょ?おにいちゃんの好きな人?」


明里がニヤケ顔を作る。俺は微かに口角を上げた。


「そうだよ。…俺の、大好きな人だ」


言ってから、俺は顔を俯けた。明里にこういうことを言うのは、さすがに恥ずかしい。


「…おにいちゃん、熱でもあるの?」


啞然とした明里の手から、するりと箸が抜け落ちた。


「いつも通り平熱だよ。早く食べないと遅刻するぞ」


空になった食器を持ち、俺は台所に向かった。


「これが噂の、恋の病…?」


明里の呟き声が、後ろから聞こえてきた。






結果から言うと、おそらく凪沙は死なずに済んだ。


奇跡を起こし、並行世界間の移動を成し遂げた凪沙は、世界にとっての矛盾であり、排除の対象だった。


そのため、世界は凪沙を葬るために、地震と津波という大災害を引き起こしたわけだが…


俺は、そっと自分の唇に触れる。


真夏の太陽が、高校への通学路を明るく照らしていた。


「俺は、凪沙を救えたのか…」


あの時交わしたキス。


あのキスこそが、俺が信じたもう一つの希望だった。


この世界に凪沙が存在することがダメなら、もといた世界に帰ればいい。


それが、俺の考えついた至極単純な解決策だった。


ではなぜキスをしたのか?


これについては、今思うとかなりナルシストな理由で、正直恥ずかしい。


だけどまあ、あっちの世界の凪沙は、亡くなった俺に対しての未練が募るあまり、こっちの世界に来てしまったわけだから。


その俺に対する未練を払拭できれば、あっちの世界に帰れるんじゃないかって。


…未練を払拭する具体的な方法で、キス以外に思いつくものがなかったのだ。


すまん凪沙。でもまあ、両想いだったからセーフだろう。




あれこれ考えている内に、いつの間にか教室の前まで来ていた。


閉じた扉の中から、ガヤガヤと話し声が聞こえてくる。


中に入ると、数人のクラスメイトから視線を向けられた。


俺は一瞥もせず、真っすぐに、友達と談笑している一人の女子生徒のもとに向かった。


「杵村さん」


声を掛ける。すぐに気付いたおさげ髪の少女は、友達に断りを入れてから、俺の前まで歩いて来た。


「おはよう間宮くん。どうしたの?」


少し眠たげな瞳が、俺を見上げた。


「単刀直入で悪いんだけど、『凪沙』っていう名前に聞き覚えはないか?」


「……」


人差し指を顎に当て、宙を見る杵村さん。何秒かして、首を横に振った。


「聞き覚えは…ないわ。もしかして、その人を探してるの?」


「いや、そういうわけじゃないけど。突然変なこと聞いて、悪かった」


「ううん。別に全然大丈夫だよ」


優しく微笑む杵村さんと目を合わせながら、俺はポケットの中の髪飾りに触れた。ひんやりとした感触が手に広がる。


…やっぱり、俺以外の人間は全員、凪沙のことを忘れている。


もっと言うと、時間遡行が起こっていることに気付いていない。


俺と凪沙が最後に会った日は、八月三日だった。


そして今日は、七月二十三日。昨晩、俺が目を覚ました時の日付は七月二十二日だったから、十二日、つまり約二週間、時間が遡っている。


「間宮くん?」


黙り込んだままの俺に、不思議そうな顔を向ける杵村さん。


「ごめん、考え事してた。…あと杵村さん、これなんだけど」


俺はスクールバッグから、例の進路調査票を取り出した。


「予想より早かったね。もっとギリギリまで粘ると思ってた」


杵村さんは意外そうな調子で受け取った。


「まあ、適当に埋めた感じだけどな。杵村さんも、難しく考え過ぎずにな」


「え?う、うん。ありがとう…?」


俺は杵村さんに軽く手を振り、自分の席に着いた。同時に、始業のチャイムが鳴った。





窓から、空を流れる雲を見つめる。夏の空は、今日も青空だ。


授業を聞き流しながら、時間が巻き戻った理由をひたすら考えていた。


…世界は可能性の数だけ分岐し、存在する。


逆に言えば、可能性のない世界は存在し得ない。


この並行世界論が正しかったからこそ、可能性を越えた「奇跡」を生んだ凪沙が、矛盾として扱われたわけだ。


では、もう一つの世界から来た凪沙が、七月二十二日から八月三日まで存在したこの世界は、可能性としてあり得たものだったろうか?


答えはノーだ。


この世界で凪沙と過ごした二週間は、本来あったはずのない二週間だった。


凪沙という奇跡に干渉された、この世界におけるあの二週間もまた、存在し得ない奇跡の時間だったのだ。


だから、あの時間を「なかったもの」として、世界は時計の針を巻き戻したのだろう。当然、消えた二週間の記憶も失われる。明里と杵村さんが、凪沙のことを忘れてしまったのも、おそらくそのせいだ。


…だけど、どうして俺だけ、凪沙のことを思い出せたのか。


どうして、凪沙の髪飾りが、俺のもとに残されていたのか。


いくら考えても、それだけは謎のままだった。





昼休憩。


席を立った俺に、柄の悪い男子生徒が近寄ってきた。


「間宮ぁ、悪いんだけど、金貸してくんね?」


岩田だった。くすんだ金髪を逆立たせ、カッターシャツのボタンを全開にしている。


「すまん、あいにく俺も金欠なんだ。他をあたってくれ」


軽くあしらうと、岩田の態度が豹変した。


「あぁ?なんか今日は偉そうだな、間宮。一円も持ってないわけはねえだろ?」


「そのくらいはある。ただ、お前に貸す金は一円もない」


「んだとてめエ…!」


岩田が鋭い眼光を向けてきた。俺は臆せず、睨み返す。


ぴりぴりとした空気に気付いたクラスメイトたちが、チラリと俺たちを窺った。


「やめなよ二人とも!それ以上続けるなら、先生呼ぶよ?」


杵村さんが、俺たちの間に割って入った。うちのクラスは、揉め事の仲裁も委員長が務める。


「ちっ…」


ばつが悪そうな顔で舌打ちして、岩田はとっとと教室を出て行った。


俺は何でもない調子を装い、静かに自分の席についた。


心臓の方は、ずっとバクバクしていた。






ざざー、ざざー。


寄せては返す波が、どこか寂し気な音を奏でる。


潮の香りを孕んだ風が、頬を撫でては過ぎ去っていく。


「凪沙と再会して以来か」


目を細めて、呟いた。


夕暮れの皆生は閑散としていて、俺以外に人の姿はなかった。



さく、と音を立て、足を踏み出す。


夕日を反射して輝く水面を横目に、俺はゆっくりと浜辺を歩いた。



「あの時も…こんな感じだったっけ」


夜の皆生、薄暗い浜辺を歩いていた時。


記憶を失い、砂の上で眠っていた君と出会った。


そんな君が、実は世界線を越えて、遠路はるばる俺を訪ねてきた、幼馴染だとは思いもよらなかったけど。



「…世界は進む、か」


沈みゆく夕日を見て、ひとりごちる。


日が暮れ、夜になり、そしてまた朝が来る。


今日が終われば明日になり、明日が終われば明後日になる。それが終われば、また次の日がやって来る。


高い壁にぶつかれば、人は誰しも立ち止まる。


壁の高さに息を呑む人、その場に留まる人、後ろを振り向き過去に縋る人。


百人いれば、百人の選択がある。



しかし、どの選択肢を取ろうが、結局世界は進むのだ。時計の針を止めることは、誰にも出来ない。


ならば俺たちは、進むしかないのだろう。置いていかれないように、前に前に、走り続けるしかない。



俺は、ポケットから凪沙の髪飾りを取り出した。


かつての俺が、かつての凪沙に渡したもの。



夕焼けに染め上げられた、どこまでも赤い空を見上げる。


水平線の残光が、手の平の髪飾りを淡く照らしていた。


そして俺は髪飾りを握り締め、その手を大きく振りかぶった。



「うおおおおおおおー!!!」



力いっぱい、真っすぐに。



髪飾りを、海にはなった。



「はあ、はあ…」


呼吸が加速する。両目から涙が零れる。


投げられた髪飾りは見えなくなり、やがて遠くで水が跳ねた。



俺を待つのは、明日も暑い夏なのだ。





























































































































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証明できない君と世界 霜月夜空 @jksicou

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