第23話  この恋だけは

カンカンカンカンッ。


軽快な金属音を響かせ、雑居ビルの階段を駆け上がる。


広大な廃墟と化した街を走り回った疲れも、これから襲い来るであろう津波に対する恐怖も、全て忘れていた。



ただ、もう一度凪沙に会いたい。



その一心で、脚を動かし続けていた。



「なぎさっ!」


バタン!と大きな音を立てて、屋上の扉を開け放つ。


「間宮くん…」


そこにいたのは、やっぱり凪沙だった。


舞い落ちる雪を髪に浴び、壊れた街を背景に佇むその少女は、やっぱり凪沙だった。


俺のいない世界から、自分のいない世界にやって来た、かつての俺の幼馴染、東雲凪沙だった。


「やっと…見つけた…」


無事な姿に安堵する。すると、全身から力という力が一気に抜け落ちた。


ひと夏を謳歌し、枯れ果てる向日葵のように、俺はがくりと膝をついた。


そんな俺を見た凪沙の肩がぴくりと動き、僅かに手を伸ばす。


しかしその手は、弱さを振り払うように、もとに戻される。


「…どうしてここにいるのよ」


俯き顔の凪沙。最後の力を振り絞り、立ち上がった俺は大きく胸を張った。


「お前を助けるために決まってるだろ」


「…!」


凪沙の顔色が変わる。


「あなた、何考えてるの!?もう津波がやって来るのよ!?米神市はじきに、街ごと飲み込まれて、破壊されるのよ!?こんな状況で避難しないなんて、馬鹿じゃない!!」


「馬鹿はお互い様だろ。それに俺はまだ、生きる希望を捨ててない。自ら命を断とうとしてる、どこかの誰かと違って」


「…!間宮くん、あなた…!」


「凪沙」


きつく歯を嚙み締める凪沙に向かって、真っすぐな視線を向ける。


「俺と一緒に逃げよう。津波からも、世界からも」


「!」


凪沙の白い顔が、青く染まっていく。貝殻の髪飾りは、美しい輝きを保ったまま。


「並行世界から来たお前に、『死』以外の選択肢がないなんて、誰が決めたんだ。…何か他の方法があるはずだ。だから、それを一緒に探そう」


これは賭けだった。その上、成功確率の極めて低い、危険な賭け。


…それでも、進むしかなかった。


「そんなこと言っても…私はこの世界にとって、矛盾そのものなのよ!?そんな私が、報われる結末なんてあるはずが…」


「それが何だよ。世界にとっての矛盾?そんなの、心底どうでもいいよ。…今、目の前にいる凪沙は、俺にとっての真実なんだ。誰が何と言おうと、関係ない」


「間宮く…」


「あの日みたいにさ。もう一度、俺に凪沙を助けさせてくれないか…?」


りっくんとシノが、初めて会った日。


時空を超えてなお、俺と凪沙を繋ぎとめ続けた、記憶の欠片。


「どうしてよ…どうして今になって、そんなこと言うのよ…」


真っ青だった凪沙の顔が、今度は真っ赤になった。


「私はずっと、待ってたのに…。一人で、あなたのいない世界で、ずっとずっと、待ってたのに…!」


「おい、なぎ…」


「わたしはっ!あなたにっ!ずっとずっと!会いたかった!助けてほしかった!」


綺麗な瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。


その涙に、どれほど長い間、抱え続けた苦悩や痛みが含まれているのか、俺には知る由もない。


「あの日みたいに、落ち込む私に手を差し伸べてくれるって!そんな叶うはずのない期待を抱き続けて!馬鹿な自分に毎日呆れて!それでもあなたを忘れることはできなくて!」


「……」


「私の前から先にいなくなったのはあなたじゃない!『絶対戻って来る』って約束したのに、勝手に死んだのはあなたじゃない!頭の片隅に残り続けて、私を恋焦がれさせ続けたのは、あなたじゃない!!」


それは、十年という月日の間、必死に封じ込められていたはずの、心の叫びだった。


異なる世界線上にいた俺が、本来決して聞くことのなかった、魂の声だった。


「それなのに…どうしてまた、こんな時になって、助けてくれるのよ…どうしてそんなに、優しいのよ…」


顔を手で覆い、膝から崩れ落ちる凪沙。


俺はゆっくりと歩み寄って、そっと手を伸ばす。


「自己満足とか、憐憫とか、そんな難しい気持ちじゃない。…俺は、もうどうしようもないくらい、凪沙のことが好きなんだ。だから助けたい。凪沙に、死んでほしくない」


どこまでも真っすぐな君と出会って、正確には十年ぶりに再会して、俺は変わった。


学校に馴染めず、無気力で、夢も希望もない。


いつしか時を刻むのをやめた世界で、前を向くことすら忘れてしまっていた。


だけど君が現れて。


お腹を空かした君に作った焼きそばは、瞬く間に平らげられて。


明里以外の人間に、自分の料理を「おいしい」と言ってもらえたことが、すごく嬉しくて。


颯爽と現れ、不良の岩田たち相手に一歩も退かない君に勇気を貰って。


小学生ぶりに、人の顔を思い切り殴った。戦うことを思い出した。


明里がさらわれた時だって、君は自分の危険を顧みないで、俺と共に戦ってくれた。


嚙み合わない記憶と現実に苛まれながらも、君の目には前しか映ってなかった。


「無数に存在するどの世界の俺より、この世界の俺が一番、凪沙のことが好きなんだ」


どんな結末を辿ろうと。


どんな未来が待っていようと。


命が尽きるその時まで、ありったけの愛を叫び続けたい。


「…間宮くん、あなた自分が何言ってるか分かってる?」


手で顔を隠したまま、凪沙が言った。声からして、少し落ち着いたようだ。


「もちろん。冗談じゃなく本気で言ってる」


「…聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいの臭い台詞ね、という意味合いで言ったのだけれど」


凪沙は立ち上がり、ようやく顔から手を離した。紅潮していた。泣いていたからだろう。多分。


「俺に会いたいあまり、奇跡まで起こした、凪沙にだけは言われたくないな」


「う、うるさいわね!それ以上言うと殴るわよっ!?」


さらに顔を赤くして、瞳をキッとさせる凪沙。


その姿が、たまらなく愛しかった。


「凪沙…」


俺が、その長い髪に手を伸ばそうとした時。



どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど!


轟音が鳴り響いた。


ついに、津波がやって来た。



『米神市からお知らせします。現在、米神市に大津波警報が発令されています。予想される津波の高さは、七メートル。市民のみなさまは、早急に高台へ避難してください。繰り返します…』



響き渡る防災無線。俺は、どこか途方もない虚しさを覚える。


現時点で街に残された人間が、生きて帰れるはずがなかった。



どおんっ!!


大きな音を立て、崩れていく家々。


どおおおおおっ!と、唸るように押し寄せる濁流に、あっけなく飲み込まれていく。


車も、家も、柱も、木々も、海から来たであろう船までも、ありとあらゆる物たちが、黒い津波によって流されていく。


絶望を絵に描いたような光景を、俺たちは静かに見下ろしていた。


「もう手遅れね」


凪沙が呟いた。


「やっぱり、私が死ぬ以外に道はないのよ。私のせいで、街も日常も壊されて、みんなが悲しむなんて、そんなことあってはならない」


微かに震える唇を動かして、紡ぐように言葉を続ける凪沙。


ちらほらとしていた雪は勢いを増し、斜めに吹き荒れる吹雪になっていた。


刻々と水位を上げ、地上を黒に沈めていく波。


泣きたいくらい眩しかった夏は、死にたいくらい冷たい冬になった。


「私、あなたのことが好きよ」


そっと、口ずさむように、凪沙が言った。


「今も昔も、こっちの世界でもあっちの世界でも、あなたが好き」


足元が、わずかに傾く。


「どこか他の、私たち二人が死ぬことのなかった世界だったら、よかったのだけど…」


徐々にビルが、傾きを増していく。


もう、波に呑まれる寸前だった。


「凪沙」


俺は、凪沙の手を取った。


「キスしよう」


「…ええ」


目を伏せたまま、凪沙が言った。


俺は凪沙の体を抱き寄せ、向かい合う。


鼻と鼻が触れ合う距離まで、そっと顔を近付けた。


「好きだよ」


「私も」


互いの息遣いが聞こえる。


ほんのり赤らむ頬に、桜色の唇。


凪沙の美しい顔に、笑顔が咲いた。


「…やっぱり、この世界も悪くなかったかも」


俺は、ちょっとだけ笑った。


そして、静かに顔を寄せた。



壊れゆく世界で、俺たちは、唇と唇を重ねた。



そして、暗く冷たかった空が、柔らかな白い光に包まれた―









































































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