第22話 至上の叫び

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!


凄まじい轟音が鳴り響く。ばさばさばさっと、校庭中の木々が激しく震える。


頭がぐわんぐわん揺れ、胃の中をかき混ぜられるような、地獄の感覚が全身に行きわたる。


地球が壊れるほど、大きく、強く、長い揺れが収まるまで、俺は地面に投げ出されたまま、指一本も動かせなかった。


永遠のように感じられた長い揺れは、実際には一分ほどで収まった。


「……」


先程まで轟音に満たされていた空間を、今度はまっさらな静寂せいじゃくが満たす。風もなにもない。白い雪だけが、何事もなかったかのように空から舞い降りていた。



と、その時。


本能に直接危険を訴えてくる、気味の悪い音が鳴り響いた。


『地震です。…地震です。…地震です』


無機質な女性の声が、嫌な音と交互に、地面に転がる俺のスマホから発せられた。ぞくり、と背筋が凍りつく。



「間宮くん…!怪我はない…?」


杵村さんが俺の側に駆け寄ってきた。その顔は恐怖と焦りに満ちていた。


「あ、ああ。杵村さんこそ…」


言いながら、ふらつく足で立ち上がる。


「ものすごい揺れだったね…」


杵村さんが、自分のスマホをさっとスクロールする。


『緊急地震速報です。7時5分頃、鳥取県で地震が発生しました。最大震度は鳥取県西部で震度7、マグニチュードは7.8』


「震度7…」


俺は呟く。


「東日本大震災で観測された最大震度も、7だったよね」


杵村さんが呟き返す。未曾有の大災害となった東日本大震災。そこで発生したのと同じ強さの揺れが、たった今鳥取を襲ったというわけか。


『津波の発生の可能性が考えられます。海岸付近の方は、ただちに避難してください。はい、えー…津波情報が発表されました。大津波警報が発表されています。繰り返します。大津波警報が発表されました。…大津波警報が発表されたエリアは、鳥取県、島根県、山口県…』


「!」


杵村さんの、息を吞む音が聞こえた。画面の中のアナウンサーが、鬼気迫る声で避難を呼びかけていた。俺たちの間を埋める沈黙を、ゆっくりと顔を上げた杵村さんが、破った。



「津波が来るわ」




*******


「津波が来るぞ!」

「高台に逃げろ!」

「川から離れて!」

「いいから走れ!」



逃げ惑う人々。飛び交う叫び。


そして、舞い落ちる雪。


「本気なのね…」


私は、この世界に問いを投げかける。


「どうして、私をこっちに来させたの?どうして、私の願いを叶えてくれたの?」


答えは当然、返ってこない。その代わりというべきか、矛盾を示す淡い雪だけが、静かに降り続けていた。


りっくんを失くし、私の人生から光が消えた。


ただ流れていく時間に身を任せて、鬱屈とした、夢も希望もない日々を過ごした。


だけど奇跡が起きて、二度と会えないはずのりっくんに、また会えた。


私が会ったりっくんは、私の知るりっくんより、背が高くて、髪も長くて、どこか大人びていた。悪戯っぽい笑みで笑う小学生のりっくんは、もういなかった。


いたのは、高校生の間宮律という一人の青年だった。


だけど、変わらないものもあった。


それは、あの日公園で、泣きじゃくる私に手を差し伸べてくれて。


わざわざ私に、新しい髪飾りを贈ってくれて。


そんな、真っ直ぐな優しさだけは、あの日のままだった。


夜の海で倒れていたところを助けてくれて。お腹が空いて死にそうだった私に、焼きそばを作ってくれて。私の記憶を取り戻すために、手を貸してくれて。


ショッピングモールで落とした髪飾りを、また一緒に探してくれて。


雪の降る夜、一人バス停で落ち込む私を、元気づけてくれて。


妹の明里ちゃんにも、本当にお世話になった。まだ中学生とは思えないくらい、しっかりした、太陽みたいに明るい子だった。


明里ちゃんなしでは、この数週間を乗り切れなかっただろう。



こんなに楽しくて、充実した夏は他になかった。胸を張って「精一杯生きた」と言える、そんな夏だった。私は、幸せだった。


…幸せだった、はずなのに。



「どうしてこんなに、胸が痛いの…?」


溢れる涙が、視界を濁す。


死刑台の上で、私は世界に向かって問い続けた。




*******



「なぎさ―!なぎさ―!!」


はち切れんばかりの大声で、好きな子の名前を叫び続ける。


思春期の男子なら誰もが憧れるシチュエーションだが、羨望の眼差しはただの一つもない。奇異の視線すらない。


俺と反対方向に走る人々の目に映るのは、恐怖と焦燥だけだった。


「はあ…はあ…っ」


今にも爆発しそうな心臓の痛みに、立ち止まる。叫びながら街中を走り回ったせいで、ちぎれそうなほど喉が痛い。手をついた膝はぷるぷる震えている。


「まだまだ…っ!なぎさ―!!もしいたら返事をしてくれ―!!」


それでも俺は、走る。悲鳴を上げる脚に鞭を打ち、がむしゃらに腕を振る。


諦めなんて感情は湧いてこない。胸の内にあるのは、ただ凪沙に会いたいという、純度100のダイヤより透き通った想いだ。


「うわっ!」


地震で隆起した道路に、足をすくわれる。俺は勢いよく地面に叩き付けられた。鼻に鈍い痛みが走る。


「邪魔だ!どこで寝転んでんだ!」


どかっ!と、誰かの靴が肩にぶつかる。うつ伏せのまま顔を上げると、作業着姿の男の背中が見えた。


「ママ、もう苦しいよー」


「あと十分で津波が来るのよ!?いいから走りなさい!」


エプロン姿の母親に手を引かれる、泣きそうな顔の男の子。


俺は立ち上がり、ポケットからスマホを取り出す。


現在7時20分。津波到達予想時刻は、7時30分。


タイムリミットが、迫っていた。


「くっ…!なぎさ―!」


そしてまた、走る。



ぐにゃりと曲がった街灯をくぐり抜け、古びた公園に辿り着く。


「ここは…」


微かに見覚えがあった。今はベンチ一つしかないが、ブランコやすべり台があれば、記憶の中のあの公園と完全に一致する。


…凪沙と初めて出会った、あの公園と。


「頼むから…逃げていてくれよ…」


掠れた声で呟く。もし凪沙が避難を開始していなければ、事態は絶望的といっていい。いや、もはや一縷の望みすら残されていないかもしれない。既に自ら命を断った可能性もあるからだ。


…だけどもし。


もし、凪沙がまだ息をしていて。


死という絶対的な世界に踏み込むことに、ほんの少しでも躊躇いを感じていたなら。


「俺がもう一度…手を差し伸べることが出来る」


そう考えるだけで、体から無限に力が湧き出た。それは、終わりを迎えた花火が最後に散らす、儚くも美しい火柱とよく似ていた。


ぴろん。


ポケットから間の抜けた音がした。スマホを見ると、明里から一通のLINEが届いていた。


『信じてるよ、おにいちゃん』


「……!」


短いメッセージ。だけどそこに込められた思いは、脆くて、複雑で、熱かった。





「それはだめよ、間宮くん。絶対にだめ」


数十分前。


凪沙を探しに街に戻ると言った俺を、杵村さんは全力で止めた。


「凪沙は今、死のうとしてるんだ!俺が止めなきゃ、凪沙は…」


「自分の命を優先すべきよ」


俺たちは真っ向から対立した。杵村さんの顔にいつもの柔らかさはなく、あるのは厳しさだけだった。


「間宮くん、もう少し冷静に考えて。あと30分もしないうちに、津波が迫ってくるのよ?今から街に行くなんて、それこそ自殺行為だよ」


「だから何だよ。凪沙を見捨てて助かる命なんて、俺はいらない」


そう言って、踵を返す俺。すると、突然俺の手を柔らかな感触が包んだ。


「間宮くんが死んだとして、明里ちゃんはどうするの?妹を一人置き去りにして、あの世に旅立つの?」


俺の手を握りしめた杵村さんが、必死に訴えるような瞳で見上げてくる。


「明里を置き去りになんて、出来るわけが…」


「だったら、今すぐ逃げるべきよ。救える人間には、限りがあるのよ」


「…っ!」


気付けば俺は、杵村さんの手を思い切り振り払っていた。杵村さんは小さく叫んで、地面に尻餅をついた。


「……」


「……」


無言で見つめ合う。ようやく自分がやった行為を理解すると、凄まじい自己嫌悪が襲いかかって来た。


「ごめん杵村さん…俺…」


「死んじゃ嫌」


「え?」


立ち上がる杵村さん。少し歩いて、再び俺の手を握ってくる。


「私、間宮くんが死んじゃうの、すごく嫌」


俺を見上げる杵村さんの表情から、先程までの厳しさが消えた。代わりに現れたのは、幼い子が駄々をこねるような、そんな表情だった。


「杵村さん…」


「間宮くんにもう会えなくなるなんて、そんなの嫌だ!絶対に嫌だ!」


声を荒げ、俺の胸に顔をうずめる杵村さん。ぐすん、ぐすんと鼻が啜られ、なにか熱いものが俺の服を濡らした。


「お願い…行かないで…」


涙が滲む瞳で見つめられ、気持ちが揺らぎそうになる。


「だけど俺は…凪沙を…」


「お願いだから!行かないで!」


「くっ…」


あれほど胸が痛んだのは、多分人生で初めてだった。引き剝がそうにも、腕が震えて動かなかった。


「おにいちゃん!」


その時、声が聞こえた。


「明里…!」


「きゃっ!」


体育館の方から駆けて来た明里が、勢いをつけたまま、杵村さんに体ごとぶつかった。


その衝撃に耐え、なんとか踏みとどまった俺だが、杵村さんは再び尻餅をついた。


その瞬間、俺は自由になった。


「間宮くん!だめ!」


すぐに立ち上がった杵村さんが叫ぶ。俺はまだ、動けずにいた。


「おにいちゃん!行って!」


「!」


明里の声で、我に帰った。明里は、俺の手を掴もうとあがく杵村さんを、必死で押さえ付けていた。


「凪沙さんのところ、行くんでしょ!?だったら早く、走って!」


「明里…」


途端に全身の細胞が、目を覚ましていく。心と体が一つになり、向かうべきゴールが、色鮮やかに定まった。


「凪沙のもとへ」


脳が発した信号を受け取った体が、動き出す。


杵村さんの悲痛な叫びを背中で噛み締めた俺は、ラストランのスタートを切った…。





そして今。


「はあ…はあ…」


全身汗まみれの俺は、道路の真ん中で膝に手をついていた。


もう周囲に人はいない。壊滅した家々だけが残った、空虚な街並み。


それもそのはず、現在の時刻は7時29分。


津波到達まで、一分を切っていた。



「なぎさ―!なぎさ―!」


ダメ元で名前を呼ぶが、やはり返事はない。俺の叫びは、雪降る空に消えていった。


「はあ…はあ…もう、これまでなのかよ…」


遠くで、サイレンが鳴り響いていた。


もう津波が来てしまう。


「くそ…!くそ…っ!」


世界はどうして、こんなにも残酷なんだ?無数にある世界の中から、どうしてよりによって、こんな結末を辿る世界を、俺は選んだんだ?


誰に向けてのものかは分からない。ただひたすらに、俺は問うていた。


拳を握りしめ、灰色の空を見上げる。


どうして、どうして―。



「……?」


その時、声が聞こえた気がした。


俺と同じように、答えのない問いを投げ続ける、そんな誰かの。



「間宮くん…?」


道路脇、鈍色にびいろのビルの屋上。


雪のように真っ白な病衣を纏い、俺を見下ろす、凪沙の姿があった。









































































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