第21話 奇跡という名の罪
「間宮くん?」
鼓膜を通して伝わる声に、思わず驚く。
「あ、ああ。ごめん。どうかした?杵村さん」
向けた横目のすぐ側には、心配そうに俺を見つめる杵村さんの顔があった。
「はい、晩ご飯。…とは言っても、慎ましやかなものだけどね」
静かに笑う杵村さんが、俺にカップラーメンと箸を差し出した。カップのふたの隙間から、もくもくと煙が上がっている。
「ありがとう。わざわざ作ってくれたのか?」
「さっき、『明里ちゃんとご飯用意してくるね』って言わなかった?」
「え?あ、ああ。そういえばそうだったな」
俺はさも思い出したかのように言葉を返した。その時、杵村さんの隣でカップ麺を食べている明里と目が合った。
「……」
数秒ほど重なり合った視線は、明里の方から外された。
手元のカップ麺に視線を落とす。醤油スープの香りが、煙に乗って鼻に運ばれてくる。しかし食欲は湧いてこない。
「はやく食べないと、麺が伸びてうどんになるよ?」
「うん。でも、いまいちお腹空いてなくて」
俺の言葉に、ほんの少しだけ眉をひそめる杵村さん。
「非常時なんだから、食べられる時に食べなきゃダメよ」
「そうだな。…ごめん、杵村さん」
まったくの正論に、素直に謝る。こんな時になんて呑気なこと言ってんだ、俺。
「別に謝ることじゃないよ。…間宮くんの心は、きっと別の場所にあると思うし」
小さく呟いた杵村さん。その横顔は、どこか寂しそうに見えた。
突然高熱を出した凪沙は、あの後すぐに病院に運ばれた。
風邪なのか、なにか他の病気なのか、原因はわからない。
ただ、俺の心には巨大な不安がのしかかっていた。そしてそれと同じくらい、あることも気になっていた。
『りっくん…私をおいていかないで』
意識を失った凪沙が、呪文のように繰り返していた言葉。
「おいていかないで…」
体育館の高い天井を見上げて、俺は呟く。
薄い畳の上に寝かせた体は、節々が痛んだ。
かなり疲弊していたが、頭は考えることを
凪沙がシノであることは、ほとんど確定していた。
そして、凪沙の記憶上にいた男の子が、俺であることも。
カツサンド。小学校。あったはずの家。東雲とシノ。そして、凪沙の髪飾り。
俺と凪沙の間に存在する奇妙な記憶の一致は、かつて二人が幼馴染だったことを物語っていた。……とある致命的な矛盾を除けば。
一つ、また一つ。
体育館の大きな照明が消されていく。消灯時間だ。
暗闇が広がるにつれ、周囲のざわめきも徐々に静まっていく。
館内は、すっかり夜の
「舞夏さん」
俺と杵村さんに挟まれる形で横になっている明里が、囁き声を出す。ちなみに杵村さんのお母さんは、俺たちから少し離れたところで眠っていた。
「どうしたの?」
杵村さんが優しく囁き返す。
「なにか、話してくれないかな」
「……」
杵村さんは黙り込む。消灯後の会話はマナー違反だ。周りの迷惑になる。だけど、明里から発せられた声には、先行きの見えない不安が見え隠れしていた。
杵村さんも同じことを感じたのだろう。明里の懇願に、甘く囁き返した。
「わかったわ。ただし小さな声でね。…これは、前に本で読んだ話だけど…」
それから、杵村さんの話が始まった。なんとなく、俺も耳を傾けてみた。
それは、突然人格が変わった男の話だった。
温厚で誰にでも優しかった男が、ある日を境にガラッと性格が変わった。口調が荒くなったり、他人に暴力を振るうようになったり。周りの人は、当然困惑した。
そんなある日、殺人事件が起きた。犯人は、
警察の取り調べで、男は奇妙な供述をした。『俺は、もう一つの世界から来たんだ』と。それから真実が明らかになった。
実は男は、並行世界からやって来ていて、こっちの世界にいたもう一人の男は、既に殺されていた。殺人犯の方は、幼い頃に両親を亡くし、それ以降グレて、人を殺めてしまう。しかしこっちの世界の方は、両親が生きていて、毎日幸せに暮らしていた。
つまり幼い頃に、両親が死んだ世界と生きた世界で、分岐が起こっていたのだ。
男は自分の親が死ななかった世界に行って、人生をやり直そうとした。しかし結局、環境により歪んだ性格は変わらず、同じ過ちを繰り返してしまった…。
「たとえ世界が違えど、一度形成された人格は変わらない…作者が伝えたかったのは、こういうことかな?」
話を聞き終えた明里が尋ねた。
「どうだろうね。勿論そういう解釈もあると思うけど、結局は作者にしかわからないことも多いんじゃないかな。…そろそろ寝よっか、明里ちゃん」
「うん。話、おもしろかった。おやすみ舞夏さん」
「おやすみ」
二人の囁き声が、暗闇に薄く響く。
そして俺は、毛布の下にある自分の体に走った痺れに、一人ぞくぞくと震えていた。
両親が死んだ世界と、両親が生きた世界。
並行世界から来た男。
脳裏に微かな記憶が蘇ってくる。
あれは、凪沙と二人で図書館に行った時だった。
凪沙が記憶喪失に関する文献を読み漁っている最中、俺は、ある科学の本に夢中になっていた。
…たしかそこには、一つの解釈としての、並行世界に関する記述があった。
世界は可能性の数だけ存在する。量子力学の領域では、そのように考えないと説明がつかない事象が数多くあるらしい。
…そしてそれは、たった今、凪沙が置かれている状況と全く同じだ。
凪沙が、俺の幼馴染の東雲凪沙―シノ本人であるなら、凪沙は死んでいないとおかしい。これが唯一にして最大の矛盾点で、ずっと俺の頭を悩ませてきた。
だけどもし。
俺が生きている世界は、十年前に凪沙が死んだ世界で。
あの日、夜の皆生で出会った記憶喪失の少女が。
この夏を共に過ごし、灰色だった日常に彩りをくれた、あの少女が。
十年前の地震で、命を落とさなかった世界から来た、もう一人の東雲凪沙だったなら。
……全てに、説明がつく。
プルルルルルル。
「ん…?」
半分だけ瞼を開ける。顔の横に置いたスマホが震えていた。
「朝っぱらから誰だよ…」
重たい頭を起こす。薄暗い体育館の床に、何十人もの人たちが横たわっていた。
そういえば俺たち、避難してたんだ。
ゆっくりと昨日の記憶が蘇ってくるのを感じながら、今なお鳴り続けるスマホに視線を向ける。
「な…っ!」
絶句する。発信主は祖父母が営む病院だった。そしてそこは、突如意識を失った凪沙が、ほんの昨日運ばれた病院でもあった。
すぐに立ち上がり、寝ている人たちの隙間を通って、校庭に出た。
真夏の太陽の輝きと、アブラゼミの声に包まれる―と思ったが、空は厚い雲に覆われ、いつもはうるさいセミたちも静まり返り、世界は灰色に変わっていた。
嫌な予感を胸に、俺は病院からの電話に出た。
「もしも…」
『間宮律さんの携帯で間違いないですね!?実はかなり大変な事態になっておりまして…』
電話の奥から、女性の慌てた声が流れ込む。耳がキーンとなり、同時に心臓の鼓動が一段階早まった。
「あの、どうされたんでしょうか。まさか凪沙に…」
『凪沙さんの姿が、どこにも見当たらないんです!』
「え…」
瞬間、頭が真っ白になる。規則的な鼓動をやめた心臓が、何かを訴えるように荒れ狂い出した。
『六時頃、容体を窺いにお部屋を覗いた時には、既にいなくなっていて…凪沙さんは、昨日から高熱で意識不明のままでしたので、もしもの事があればと思い、現在職員総出で探し回っているのですが…』
ぐるぐると
『もしかして間宮さんの方に来ていたりは…?』
「いえ。来てません…」
ほとんど勝手に口が動いた。
「見つかり次第また連絡する」と残し、通話は切られた。
「……」
呆然とその場に立ち尽くす。無色無音の世界に、心が侵食されていくような気がした。
「さむ…」
ぶるっと肩を震わす。八月なのに強烈な寒気がした。精神が乱れ、体がバグを起こしているようだ。
「間宮くん!」
後ろから声が聞こえ、ハッとして振り向く。
「急に体育館を出ていって…何かあったの?」
眠たげな目尻に憂いを
「杵村さん…」
たくさんの言葉が頭の中で渦巻く。だけど結局どれを口にすべきかわからず、選んだのは沈黙だった。
「良ければ話してくれない?何か力になれるかも」
「……」
杵村さんは本気で俺を心配してくれている。ここは素直に相談すべきか。しかし…
正体不明の何かが俺をためらわせていた。
その時。
プルルルルルル。
再び俺のスマホが、音を鳴らした。急いで確認すると、「非通知」の表示。
「出たら?」
杵村さんが言った。
「ああ」
拭えない不信感をよそに、スマホを耳元に当てた。
『もしもし、間宮くん?』
「その声は…凪沙っ!?」
俺の言葉に、目の前の杵村さんの細い肩が僅かに揺れた。
『ええ。私は間宮律…もとい、「りっくん」の幼馴染の東雲凪沙よ』
「……っ!」
電話口から伝わる澄んだ声音は、ゆっくりと、しかし確実に、俺の心を動かした。
『やっと全部、思い出したわ』
「凪沙…」
互いの存在が、確定した瞬間だった。
「……ってそうだ!おい凪沙、病院抜け出してどこにいるんだよ!?」
感慨にふけるあまり、重大なことを忘れていた。
『その点については心配無用よ。熱は引いたし、体調も戻った。だから
「今言った全ての行動が十分心配に値するんだけどな…」
俺は深い溜息を吐いた。少しの安堵も含めて。
『だけど、これから起こる事については心配が必要よ』
「え?」
凪沙の声色が一気に変わった。
『
「俺が死んでいた…?」
つい驚きが走るが、可能性の数だけ分岐が起こる以上、なんら不思議ではない。俺が震災で命を落としていた可能性は、誰にも否定できない。
『一%でも可能性があれば、新たな世界は生まれる。だけど裏を返せば、可能性がゼロの世界は存在し得ない。…これが何を意味するか、わかるかしら』
「可能性がゼロ…」
たとえば、奇跡。
起きるはずのないことが起きた時、人はそれを奇跡と呼ぶ。
だとしたら、奇跡は可能性に含まれない。
「……!まさか…っ!」
そこまで考えて、ようやく凪沙の言葉の意味するところを理解する。
『そう。量子力学の多世界解釈では、並行世界間の移動や干渉は本来あり得ないの。だから…私がこの世界に存在することはあり得ない。あってはならないの』
「そんな…」
奇跡という矛盾。そしてその矛盾の象徴である凪沙。
精工な論理を基に成り立つ世界からすれば、凪沙の存在は欠陥そのものだ。
だとしたら世界はどう動くだろう。
それはきっと、考えるまでもないほどに単純明快だ。
『おそらく私は、この世界に殺される』
「……っ!」
嘘だと思いたかった。
だけど現実は残酷だ。
正しい論理にそぐわない記述を、プログラマーが排除するように。
世界は、「東雲凪沙」という存在を抹消するだろう。
「あ…」
ふいに杵村さんが、空を見上げた。それにつられて、俺も視線を上げる。
空から降ってきたのは、白い雪だった。
ひらり。淡い粉が
先程から感じていた寒さは、幻覚ではなかった。
『雪が降ってきたわね』
凪沙が、不自然なくらい落ち着いた声で言った。
『この夏、二度目の雪。私がこっち側に干渉した影響でしょうね』
「!」
真夏に雪という矛盾。それは、世界が鳴らす警笛なのかもしれない。
「凪沙の存在を認めることは決してない」という。
「俺は…一体どうすれば」
『間宮くん。あなたの取るべき行動はただ一つよ』
凛とした、力強い声。死を突き付けられた人間のそれとは思えない。いや、死を覚悟した人間だからこそ出せる、魂の尊厳なのかもしれない。
『おそらくまた…大きな地震が起きる。手遅れになる前に、明里ちゃんと杵村さんを連れて逃げて』
「また地震が起きる…?」
悪寒が背中を駆け上がった。突如迷宮に閉じ込められたような困惑と、底知れぬ恐怖が、俺の頭を覆い尽くした。
『ええ。限りなく確信に近い予感がするの』
「だったら凪沙も逃げないと。病院のすぐ近くにいるんだよな?俺が迎えに行くから、一緒に避難…」
『それは出来ない』
「な…っ!」
一瞬スマホを落としそうになる。意識を集中させて、折れそうなくらい強く、再度スマホを握り締めた。
『地震が世界によって意図的に起こされたものだとしたら、その目的は何かしら?…無論、私を殺すためでしょうね。ならば私が逃げる理由はないわ』
「そんなこと言ったって…!凪沙まさかお前…」
『むしろ、私が生きようとあがけばあがくほど、関係のない人まで犠牲になるわ。私の息の根を止めるその時まで、世界は地震を起こし続けるでしょうから』
「どうしてだよ…どうして凪沙が…」
目の奥が熱くなり、視界が涙で滲む。
どうして凪沙が、犠牲にならないといけないんだ。偶然起こった奇跡に巻き込まれ、こっちの世界に迷い込んだだけなのに。
記憶を失って、現実との矛盾に苦しんで。
それでも真っ直ぐに、前を向き続けた凪沙が、どうして命を落とさなきゃいけないんだ。
不条理なんて言葉で語れない、はるか遠い空の彼方まで届くほど、胸に広がる果てしない悔しさ。…まだ十七歳の俺は、この気持ちをどうすればいいのか分からなかった。分かりたくなかった。
『ねえ間宮くん』
電話の向こうから、優しい声が響いてくる。
『私、こっちの世界に来れて、これっぽっちも後悔してない。だって、全部私が望んだことだもの。間宮くんのいる世界に行きたいって、ずっとずっと、願ってた』
「凪沙が…望んだ…?」
『うん。私、あっちの世界で間宮くんを…りっくんを失ってから、ずっと何も出来ずにいた。動き出せずにいた。だけどこっちに来て、りっくんと出会えて、また私は前を向くことが出来た。永遠なんてものに手を伸ばすくらい、楽しい時間が過ごせた』
「なぎ…」
『あなたと過ごした、この夏を忘れない。…さようなら』
「なぎさっ!!」
叫んだ時には、もう通話は切れていた。固く握り締めていたはずのスマホが、するりと手を抜け、砂の上に落ちた。
「間宮くん…」
杵村さんが側に寄ってくる。俺は俯けた顔を上げることが出来ず、零れ落ちた涙が描く模様と、その上に降りる雪をただ眺めた。
世界は白に覆われていた。俺の心も白に覆われていた。
…凪沙。
俺は、お前を…
「きゃっ!」
ぐらぐらぐらぐらぐらっ!
突然、世界が傾いた。
地核が揺らぎ、反転する視界。
…終わりの、始まりだった。
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