隣は何を
一河 吉人
隣は何を
「あのー、すみませーん」
「あ、内見の方ですか? どうぞ上がって下さい」
肌をさすような寒さもようやっと和らいできた二月の末、僕は住宅の内見へと足を運んでいた。
と言っても……
「あの、内覧というか、実は隣りに住んでる者でして……」
頭を下げつつ、恐る恐る申告する。
そう、ここはマンションの一室。そして僕はその隣に住んでいるのだ。
モデルルームで夢を語る家族連れならともかく、契約する気のない人間がマンションの下見なんて冷やかしと言われても仕方がない。嫌味を言われたり追い返されたりも覚悟していたんだけど……
「こちら内装がどんなふうになってるのか気になって見に来たんですけど、大丈夫でしょうか?」
「ええ、もちろんです! どうぞどうぞ」
そんな僕の心配も、スタッフさんの咲くような笑顔に吹き飛んでしまった。
案内してくれたのは、まだ若い女性だった。長い黒髪に黒のスーツ、タイトスカートから伸びる足がスラッときまってて、こんなお姉さんに担当してもらえるなんて運が――いけない、今日は部屋を見に来たはずだ、余計な感想は慎もう。
たたきに上がってスリッパに履き替える。玄関はあまり変わらないんだな、靴箱が新しくなっているくらいだ。
うちのマンションは四階建てで一階と二階、三階と四階が同じ物件。それが四セットで一棟に八つの家が入る形だ。ここは右上の端なので、外壁部にうちにはない窓が一つ増えている。やっぱり隣がいないのは羨ましなあ。
「いやあ、ほんとすみません」
「いえいえ。内覧のお客様からここと同じようにリフォームしてほしい、とご要望をいただくことも多いんですよ」
なるほど、きちんと仕事につながるなら安心かな。
お姉さんについて入ったリビングダイニングキッチンは、白い壁と黒い床のコントラストがオシャレな雰囲気を醸し出していた。上が玄関、LDK、トイレで下が個室三つにバス、トイレなのは同じはずなんだけど、なんというかこう、世代が違う。天井の照明も全部埋め込み式になってるし、電球丸出しのうちと隣同士とは思えない。
「へえ、結構変わるんですね……」
階段の場所や仕切りの位置、壁紙や床なんかで随分と印象が違うもんだ。うちも数年前にリフォームしたばかりだけど、最低限しか手を付けなかった。お陰であちこちに昭和感が残っているけど、ここはもう立派な令和の物件だな。
大小差異は多いんだけど、その中でも最たるものは
「やっぱり、このカウンターキッチンですね」
「ふふ、お目が高い」
壁からせり出したキッチンが、リビングをにらみながらど真ん中に鎮座していた。
「これだけで、急に現代的な感じがでるものですね」
キッチンの裏側に回り部屋を見渡すと、ふいに情景が浮かんでくる。見たこと無いはずの、でもどこか懐かしい風景。テーブルを囲み、食事を待つ子どもたち。僕は急かされながらパスタをよそおい、妻がそれを運んで――
「どうです? いい眺めでしょう」
「わっ!」
想像上の
「そ、そうですね。色々とイメージが湧いてきます。この辺にテーブルを置いて、あのあたりに壁掛けの大型テレビを設置して」
「ああ、いいですね!」
お姉さんさんがうんうんと頷く。
「カウンターでつまみを作りながら、お気に入りの映画を見つつビールを開けていくんですよね!」
「アル中じゃないか!!」
僕は思わず叫んでいた。妻はそんなことしない!
「む、失礼ですね。お酒に溺れてなんかいません」
僕の言葉に、お姉さんが少しむくれる。
「私はきちんと節度を守った、清いお付き合いを――ああ、清酒もいいですねえ」
ダメだこの人……。
「いやいや、飲みながら調理するのは大分アウトな気がしますよ。火事にでもなったら大変ですし、せめて料理ができるまでは我慢しましょうよ」
「ふっふっふ。お隣さん、まだまだ甘いですねえ」
彼女はそう言って、キッチンをペシペシと叩いた。
「そんなこともあろうかと、見て下さい! キッチン周りはオール電化、ベロンベロンの酔っぱらいでも安全な設計になってます!!」
「やっぱりアル中じゃないか!!」
「いいですよね、オール電化。私も何回かアフロヘアーになりかけましたから、安全なキッチン飲み環境の大切さは重々承知してます」
「まずアルコールの恐ろしさを承知なさったほうがいいんじゃないですかね……」
ぬらぬらと黒光りするIHコンロの輝きがすっかり色褪せて見える。これじゃフールプルーフならぬドランカープルーフだよ!
「でも、今みたいにキッチンの壁にタブレット掛けて、コンロでするめ炙りながら飲むのも捨てがたいんですよねえ……」
「危ないですから止めて下さい」
「ええ……? でも残業終わって帰ってきて、クタクタでもう何もする気が起きない。待てますか? そんなとき、おつまみを作り終えるまでビールを開けるのを!」
お姉さんは恨みがましい目つきで僕を見上げた。
「今だって必死で我慢してるのに!!」
「普通にアル中ですよ!!!!」
大丈夫かこの人!?
「お客様、先程から失礼ではないですか? 私のこと、知りもしないのに」
「た、確かに……申し訳ありません」
いや、発言を素直に受け取れば完全にアウトなんだけど、でも実際の行動を知らないのに決めつけはよくなかった。ディティールを誇張して話を盛り上げるなんて、よくあることじゃないか。
「というわけで試してみましょう」
お姉さんが冷蔵庫を開けると、そこにはびっしりと並んだビールの缶。
「やっぱりアル中じゃないか!!!!」
僕は叫んだ。
「どうです? 一杯」
「どうです? じゃないですよ!!」
「そ、そうですよね、さすがに何の理由も無しでは……あ、じゃあ契約成立記念ということで!!」
「どさくさに紛れて売りつけようとすんなや」
お姉さんの手からビールを奪い取り、冷蔵庫に戻す。そんな悲しそうな顔してもダメですからね!
「残念です。一度キッチン飲みの快適さを味わっていただければと思ったんですけど……ほら、いつもは少しぬるくなっちゃう三本目や四本目も、キンキンに冷えた状態で取り出せるんですよ?」
二本目は大丈夫なのかよ。
「そもそもですね、僕はそんなにお酒飲まないので。キッチはもういいですから、他には何かないんですか?」
「ええ……まあ、はい。もちろんございますよ。こちら床下収納です!」
お姉さんが床のドアを開けると、四角い穴が顔を出す。おお、そう、こういうのだよこういうの。
「収納って、一階じゃなくてもつけられるんですね」
「どうしても浅くはなっちゃいますけどね」
「これだと三十センチくらいですか? 容量はともかく、秘密の隠し場所みたいでちょっといいですね」
「はい。人の心理的な盲点を突いた隠し扉、ここなら密造酒を隠すのにぴったり!」
まずそのニーズが無いよ!
「そして、こちらの天井収納です。密造酒を隠すのにぴったり!」
「隠すな」
いつの間にか取り出した踏み台に登り、お姉さんが天井を持ち上げている。密造酒はともかく、屋根裏には正直心が動く。
「実はここから天井裏に登れるようになっていまして」
「え、天井裏って登れるんですか?」
「そうなんです! 配管なんかもありますからそんなに広くはないですけど、リビングの上を通って、なんとお隣の部屋の上まで!」
「犯罪だよ!」
っていうかうちだようち!!
「繋げようと思っていたんですけど、管理組合の許可が下りなくて」
「当たり前だよ!!」
「でも、家主の許可が取れればいけると思うんですけど……」
「いかなくていいよ! そんなチラチラ見てきても駄目だよ!!!!」
「残念ですね……屋根裏で飲むお酒は、また特別な味わいがあるんですけど」
「それは……秘密基地みたいでちょっと楽しそうではありますけど」
っておい、もしかしてうちの上で飲んでたんじゃないだろうな?
「禁酒法時代のアメリカみたいでワクワクしますよね!」
「犯罪じゃないか!!」
「隠し部屋で、人目を忍んで飲む密造酒。これが世に云う花鳥風月です」
「無い、全部ないよ! あるのは暗闇と脱法精神だけだよ!!」
「アル・カポネも、きっとこんな気持だったんですね――なんて、アルを想い、アルを重ねる」
「アル中だよ!!!!」
全く、内見に来てよかった。知らぬ間にうちの天井裏を犯罪組織のアジトにされるところだった。
「とにかく、床下も天井裏も、密造酒なんて置かないですから!」
「え、お客さん。もしかして、表に出してるんですか? 管理が楽なのはわかりますが気をつけたほうがいいですよ? 結構あるんです、通報」
「無いよ!! そんな一家に一台密造酒みたいに言われても困るよ!」
「え……ああ、粉の方!」
「違うよ! 全然違うよ!!」
「ご安心を、ここはオール電化。電源周りも強化してありますし、いろんなライトをガンガン炊き放題ですよ」
「炊かないよ! カラフルなライトで特殊な植物を育てたりしないよ!!」
「そうでしたか」
「そうだよ!」
「残念です。サボテン、可愛いのに……」
知ってるよ! ばあちゃんが残していったミニサボテン、ベランダで育ててるよ!!
「まあ、それは素敵ですね!」
「と言っても大して世話してるわけでもないんですけど。たまに水やって、冬は鉢植えを玄関に移すくらいで」
「お祖母様の思い出とともに生きていく。そんな生活も素敵ですよね……」
お姉さんが、優しい目を僕に向ける。
「いや、ばあちゃん生きてるんで……」
コロナが流行りだした頃、老人の一人暮らしは怖いと兄夫婦の近所へ引っ越してもらうことになったのだ。空いたこの家を僕が貰ってリフォーム、会社は遠くなったけど最近はテレワーク中心だし特に問題はない。今までの1Kのアパートと比べ家族用のここは個室も多く、うち一つを仕事用に割り当てられるのでむしろ助かっているくらいだ。
「あ、すみません。私……」
「いえいえ、こちらも言葉足らずで」
「つまり、老い先短い老婆を追い出し、のうのうと居座っている、と……」
「違っ……いや、違わないけど、悪意のある言い方は止めてくださいよ!」
言葉が過ぎるんだよ!!
「終の棲家を奪ったどころか、なけなしの老後資金まで……」
「奪ってないですよ!」
た、確かにリフォームの資金も少し出してもらったけど……!!
双子が生まれててんてこ舞いの兄夫婦の子育て即戦力として、ばあちゃんは八面六臂の大活躍を披露してるらしい。この前会ったらなんだか若返ったみたいで、苦手だったスマホどころかタブレットまで使いこなして孫をあやしていた。ばあちゃんも嬉しい、兄貴もうれしい、僕も嬉しいのWin-Win-Winだ。決して資産を巻き上げたとか、そういうのではない。ちなみに、気の早いばあちゃんは「ひ孫が生まれる前にパソコンも覚えたい」と、すでに次世代機を見据えていた。
「なるほど、生前贈与とは確かに気が早い……」
「いいかげん気を悪くしますよ」
「いえいえ、これは大事なことなんです。私達も商売ですから、物件はおすすめします。ですが、買わせて終わりというわけではありません。充実した生活を送っていただくにはアフターケアも重要ですし、ライフステージの移り変わりをサポートするため、リフォームのお手伝いもいたします。例えばこの物件も極力段差を取り払ったりと、バリアフリー化を進めています」
そういえば、ちらりと見えた階段には手すりが設置されていたな。
「そして、新たな生活を送るに際し今の住居が重荷になる、という例は珍しくありません。手放そうにも買い手がいなければ、どうにもなりませんから。その点、お祖母様は人間的に最も安心できるご自分のお孫さんにお譲りできた、理想的なケースの一つですね」
お姉さんはそう言って微笑んだ。
そう、ばあちゃんが守り、母さんが育ってきた家。そんな思い出の詰まったマンションを、僕は受け継いだのだ。恥ずかしい扱いはできない。
「孫に家を継がせ、ご自分はひ孫さんの成長を見守りながら過ごす。素敵な老後ですね。この部屋も、素敵な方と出会えるといいんですが」
「……そうですね」
「腕のいい杜氏の方に」
「犯罪を推奨するようなことは止めてくださいよ!」
思い出の詰まったマンションを密造のメッカにするな! ここは静かに余生を過ごしたいお年寄りも多いんだよ!
「孫二人がハイハイで動き回る姿を眺めながら、カウンターでつまみを作りつつビールを飲む。素敵な、最高の老後ですねえ」
人のばあちゃんをアル中みたいに言うな。
「残念ながら孫はオプションにつけられませんから、眺めながら飲むわけには行きませんが……」
お姉さんが指を立てる。
「かわりに、このマンションには素晴らしい景観があります」
話の持って行き方に多少思うところはあるが、そう、ここは大変見晴らしがいい。
築うん十年の四階建てが? と思うだろうけどからくりは簡単、小高い丘と自称する山の上に建っているのだ。駅から歩いて十分、市内まで電車で十分……と言うと聞こえはいいが実際は移動が大変、駅から我が家までひいひい言いながら坂道を登ることになる。近所の学生やおばちゃんが乗る自転車はみんな原動機付きだ。
「一般的にタワーマンションとは二十階以上のものを指しますが、一階三メートルとして高さ六十メートル。そしてこの部屋が丁度海抜六十メートルほどです、景色だけならタワマンにも負けませんよ」
「はは、なるほど。ずっと四階建ての普通のマンションだと思っていましたが、実はタワマンだったとは」
「しかも最上階ですよ」
窓辺に並び、外を眺める。階下に広がる町並みと、遠くに見える海。左右に伸びる路線には電車がすれ違っている。近隣を一望できるのは、このマンションの大きな売りだ。
「生活するにはちょっと不便だけど、この風景には変えられないですね」
「ええ……」
雀が飛び立つ。どこからか、子どもたちのはしゃぐ声がする。
「……一つ残念なのは、下の住人がいない点ですね。タワマンから階下の人間へのマウンティングを取ったら面倒くささしか残らないのに……」
い、いくらなんでも言い過ぎだ! もっといいところもあるだろ? ほ、ほら、ポエムの題材になったりとか……!!
「お酒の搬入も面倒ですし」
これが一番の理由だな。
しかしここが二十階相当なら、四十階と五十階建てのタワマンは凄いことになってそうだな。うちはあくまで山の上だから地表までは近いけど、四十階なんて下を見たら気絶してしまいいそうだ。僕はなんだか恐ろしくなって窓のサッシに手をかけ、
「ああ、そういえばここは二重窓なんですね。実際どんな感じなんです?」
「やはり一重とは全然違いますね。どうです? 今なら補助金も下りますよ」
「うーん」
あればいいんだろうとは思うが、今もそんなに困ってないんだよなあ。でもこんな感じでリフォームも最低限だったし、いい機会だから手を入れてみるか? やるなら早いほうがコスパもいいし……。
「夏は涼しく冬は暖かく、それに防音効果も高くて騒音をシャットアウト!」
「あー、それもありますよね。リモートの会議も多いし……」
「少々の悲鳴や叫び声も、ご近所迷惑になりません!」
「なるよ!」
めちゃくちゃアウトだよ!!
「ああ、お隣さんでしたか。確かにそれならバレてしまうかも……」
なんでそんな苦虫を噛み潰したような顔してるんですかね。
「……いくら欲しいんです?」
「いらないよ! 普通に通報するよ!!」
「……お隣さん、残念です」
「どうして僕を消す直前みたいな口調なんだよ!?」
お姉さんは口の端だけを上げて、悪そうにニヤリと笑った。
「いやいや、何なんですかその顔は!」
「ふふ。それより、下も見てみましょう」
「いやいや、気になりますから!!」
僕らは下の階へと降りた。階段の下は収納スペースで、隣がトイレだ。
「あー、やっぱウオッシュレット付きのトイレに変えてますよね。いいなあ」
配管も
「給湯器も更新していますから、追い焚きも可能ですよ。浴槽も交換しています」
「いいですね、うちなんか未だにホーローですよ」
ペタペタと触ってみると、なめらかな手触りで入り心地も良さそうだ。
「サイズは同じですが、ほら、湯垢のつきにくい最新の素材です」
「へえ」
「あと、お湯も冷めにくいんです」
「ほお」
「さらに、どんなに血で汚してもルミノール反応が出ない!」
「犯罪! 犯罪の匂いしかしないよ!!」
メーカーもなんでそんなもの作ってるんだよ!!
「もちろん、窓は二重です」
「もちろんじゃないよ! どんなニーズを想定してるんだよ!!」
「最近はほら、料理ブームですからね。豚の一頭買いをなされるお客様も増加……したような気が……したりしなかったり……」
なんで声が小さくなるんだよ。そこは言い切ってくれよ!!
「まあ、他にも色々と使い道がですね……あ、お隣さん、もしかして山に埋める派ですか?」
「犯罪を前程した二択を投げかけるな!!」
「全く……いくら欲しいんです?」
「だからいらないよ!!!!」
「海と山、どちら派です?」
「畳の上で死んで火葬場で焼かれる派だよ!!!!」
死体処理の方法を被害者に選ばせるなよ!!
「ここの市のゴミ処理場は新型ですからね、大抵のものは燃えるゴミに出せるらしいですよ? 便利な時代になったものですね……」
だから何なんだよそのニヤリ顔は!!
お姉さんのペースにすっかりツッコミ疲れしてしまった僕は、メインだったはずの個室の見学もおざなりに、早々に引き上げることになってしまった。模様替えの参考にするつもりだったんだけど、もはやそれどころではない。というか、真面目に犯罪に巻き込まれる危険がある。僕はスニーカーの靴紐を結ぶと立ち上がった。
「まったく、普通によさそうな物件だったのに、これじゃお姉さんのせいで全然買う気が起きませんでしたよ」
「まあ、そこはどうしても好みが出る部分ですから……」
「好き嫌いの問題じゃないですよ!」
「きっと、私の話で購入を決意なされる方も……いらっしゃたり……いらっしゃらなかったり……」
「あの説明聞いて買う人間全員犯罪者だよ!!!!」
「アンケート……は、お忙しそうですし結構ですよ」
「顧客満足度調査のあからさまなチェリーピッキング!!」
「こちら、今回のお土産となっておりまーす」
「あからさまな買収!!!!」
◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇ ◇◇◇◇
「え、売れたんですか? お隣」
回覧板を届けてくれた左隣のおばあちゃんから、思わぬ情報がもたらされた。あれから
数ヶ月、お隣に動きはなかったんだけど随分と急な話だ。
「昨日、荷物を運び込んでたのを見たよ」
「全然気づきませんでした。しかし、あんな噂が立ったのに買う人もいるんですねえ」
あれからしばらく、この一帯では怪情報が飛び交った。「山の上のマンション、殺人事件が起こったらしいよ」やら「大麻を栽培してた人が捕まったんだって」なんてのはかわいいほうで、夜な夜な怪しいミサが催されいる、果てはマフィアの拠点になっている、なんて根も葉もないが出処だけははっきりしている噂がまことしやかに囁かれたのだ。最も、一番拡散に加担してたのは面白がった当の住人たちだったんだけど。
「人の噂もなんとやらだからね、ほとぼりが冷めたんだろうさ」
密造酒のボスということになったおばあちゃん(梅酒製造三十年のベテラン)と別れ、回覧板を確認。あー、枝の伐採、ってもうそんな時期か。あ、そろそろベランダのサボテンに水をやらないと。
サンダルをつっかけベランダへ出て、霧吹きでプシュプシュと水を吹きかける。おお、よしよし、今日も元気だねえ。しかし最近は温暖化も酷いし、夏も部屋の中に入れたほうがいいのかね?
水やりを終えて背伸びをする。うーん、やっぱりいい眺めだなあ。あ、確かに枝が伸びてきてるかも。
そうやって、階下の街路樹を確認しようとベランダから身を乗り出したところで。
バッチリ目があってしまったのだ。
「ああ、お隣さん。おはようございます」
黒髪を春風に揺らす、あのときのお姉さんと。
右手にねぎま、左手にヱビスのロング缶を持ったジャージ姿のお姉さんと。
「あ、あっ……」
「あ? ああ、アルコールですか?」
「……いえ、違います」
「困りましたね、自分の分しか用意していないんですが……仕方ありません、輝かしい二人の再会です。ここは私が涙を飲んで」
「いえ、結構ですから」
「何ですか、私の酒が飲めないっていうんですか!」
「面倒臭いなこの人……」
「私の涙が飲めないっていうんですか!!」
「面倒くさいなあこの人!!」
ただの酔っ払いじゃないか!!
しかもかなり性質の悪いやつだ……思わぬ再開に心を踊らせてしまった自分が馬鹿らしい。
「いやいや、流石に日曜の昼から飲むのはないでしょう?」
「?」
お姉さんはコテン、と首を傾げた。
「朝からですけど?」
「なお悪いわ!!」
「昼から飲んでたのは昨日ですが、いつの間にか寝てて気づけば朝だったんでリセット、ノーカンです。だから今日はまだ三本目ですよ」
今日のお姉さんは一段とギアが上がっているというか、ああ、そうか、あの日はあれでもシラフだったんだな……。
「っていうか、仕事場で飲んでいいんですか?」
「それがですねー」
あ、ちょっと待ってください、と四本目を開ける音。
「この部屋、私が肝入りでリフォームの指揮を取ったんです。全身全霊を込めた結果とてもいい物件になったと思ったんですが、何故か買い手がつかなくて。どうやら変な噂が立っちゃったみたいで、困ったものですねえ」
風評被害ですよお、と発生源は缶を傾けた。
「うちも出血覚悟でお大幅値下げしたんですけど、それでも駄目で。で、責任を取らされて」
瞬間、強い風が吹き――ようやく、俺は全てを理解した。
こ、この女――
「というわけで、これからよろしくお願いしますねえ」
――この女、とんでもないワルだ!!
「いやあ、それにしてもいい景色ですね。ねえ、お隣さん?」
彼女はそう言って、あのときと同じ顔でニヤリと悪そうに笑った。
隣は何を 一河 吉人 @109mt
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