異国の言葉は語りかける

月井 忠

一話完結

 それは私が社会に出てから、初めての夏でした。


 街の不動産会社に就職した私はある日、一人の客をアパートに案内しました。


 小柄でとても物静かな男でした。

 もしかしたら、私が女だったから気恥ずかしくて喋れなかったということもあるかも知れません。


 彼から話しかけてきたことは一度もなかったと記憶しています。

 ですが、彼について覚えているのはそれだけで、今では顔も思い出せません。


 何件目かの物件で、そのアパートにたどり着きました。

 いわくつきの物件です。


 会社でもそのことは噂になっていて、何度も聞かされました。


 そのアパートには一人しか住んでおらず、他は全て空き家です。

 駅から遠いこともあって、なかなか人が入らないのです。


 そして、不思議なことに立て続けに内見の方がお見えになるのです。

 しかもそれは決まって202号室でした。


 ちなみに、このアパートに住んでいる唯一の住人は203号室にいます。


 他にも部屋は空いているので、角部屋の201はどうですかと勧めても、皆202を内見したいと言うのです。

 そう、皆202を内見して、しばらくしてから、やっぱりやめたと言ってキャンセルされるのです。


 その時私が案内した男も、同じように202号室を指定してきました。


 みんな、部屋の地縛霊に呼ばれたのかもな。

 上司はそんな冗談を言っていました。


 私は何か犯罪でも行われているのかも知れないと考え、内見中、ずっと男を見張っていました。

 しかし、男は静かなままで、何か特別なことをしたようには思えませんでした。


 夏の暑い日でした。


 閉め切られたその部屋は熱がこもり、じめじめとした暑さが増しているようでした。

 私は部屋の窓を開け、風通しを良くしました。


 セミの声が迎えます。

 青空で雲一つない空がありました。


 その時、どこからともなく聞いたことのない言葉が聞こえてきました。

 異国の言葉だと思います。


 ですが妙な感じで、まるで時報のように同じ単語を繰り返しているのです。

 もしかすると、このアパートに唯一住んでいる203号室から聞こえてくるのかもしれない。


 当時はそう思いました。


 結局、静かな男は部屋で何をすることもなく、それまでの内見とさほど変わる所はありませんでした。

 それから男を連れ会社まで戻ると、しばらく考えさせて欲しいと言って男は帰っていきました。


 案の定、ほどなくして男から連絡があり、他の物件を当たるということで話はなくなってしまったのです。


 また、いわくが増えたなと上司は笑っていました。

 結局私は、202号室の謎を解けなかったのです。


 それから、随分時が経ちました。


 私は結婚を機に不動産会社を辞め、子供を産んでからは育児に追われる日々を送っていました。


 子供が小学生に上がる頃、テレビを付けたまま掃除をしていると、不意に記憶が蘇ってきました。

 あの異国の言葉を聞いたのです。


 私はすぐにつけっぱなしになっていたテレビの所まで戻りました。

 番組では、その国のニュースをやっていました。


 その国の住民が話す言葉は、確かにあの時聞いた言葉と同じでした。


 暑い夏の日、内見で訪れたアパート。

 窓の外から聞こえてきた、耳慣れない言葉。


 そうか、あの国の言葉だったんだ。

 学校でその国の名は習ったものの、その時まで身近に感じることはなかったその国。


 私はその時、初めてその国を認識したのだと思います。


 それから、また数年経ちました。


 私が再びその国に注目したのは、とある報道でした。

 その国は工作員をわが国に差し向け、諜報活動をしていたという内容でした。


 しかも、その諜報活動の中には、わが国の国民を拉致して、あの国に連れて行くというひどい内容でした。

 あまりにもショックで初めは信じられませんでした。


 しかし、時が経つに連れ、被害者の家族だと名乗る方たちが増え、ついにはあの国も認める事態となりました。


 私はとても怖くなりました。

 一つの国がそんなことをするのかと、今でも信じたくはありません。


 そして、私は恐怖とともに、自らのあさましさにも気づかされるのです。


 被害者の中には私と同じ年代の方もいました。

 彼女、彼らがどんな思いをしているか、そういったことには思いを馳せず、つい思ってしまったのです。


 私でなくてよかった、と。


 あの後、結婚をして、子供を生み、裕福ではないけれど幸せな日々を送っている。

 あの時、同じような目に遭っていたら、決して得られることのできなかった日々。


 そんな風に思ってしまったのです。

 私は自分が嫌いになってしまいそうでした。


 だから目を背け、あの日のことを記憶から呼び起こし、冷静に分析することで気を紛らせました。


 あの夏、私が聞いたあの国の言葉。

 不自然に途切れ途切れで、まるで時報のように聞こえた声。


 あれはなんだったのでしょう。


 あのアパートには内見に来る方が何人もいらっしゃったのに、誰一人として住む方はいませんでした。

 そして、アパートに住む唯一の住人。


 その部屋から、あの声が聞こえてきたように思うのです。


 私は推測を始めました。


 あの部屋の住人は、あの国の諜報員だったのではないか。

 だから、あの国の言葉が漏れ聞こえてきたのではないか。


 そうすると、内見に来ていた方は誰だったのでしょう。


 もしかすると、我が国の公安か何かで、諜報員のことを見張っていたということなのでしょうか。

 ですが、内見はほんの一時のことです。


 見張るなら、もっと長い時間が必要な気もします。


 そこで、私は逆なのではないかと思いました。


 内見に来ていたのは仲間の諜報員だったのでは。

 何か情報の受け渡しの必要があり、そのために内見に来ていたのでは。


 しかし、私は男のことを見張っていましたが、怪しい動きはありませんでした。

 隣の部屋と物を受け渡すということはなかったはずです。


 私は、思わずあっと声を上げてしまいました。


 あの異国の声だ。

 ラジオか、もしくは録音された声を何度も繰り返し、それがなにかの暗号になっていたのではないか。


 私はそれに気づいた時、背中に寒気を感じました。


 壁一枚を隔てて、諜報員は何かをやりとりしていた。

 私はそれと知らず、あの国の諜報員を案内し、誰かを危機にさらす手伝いをしてしまったのかもしれない。


 国家という血も涙もない冷徹な組織が、国益というただ一つの目的で、誰かを無慈悲に連れ去る。

 その現場に私もいた。


 まるで、大きすぎて全身を窺うこともできない獣の、冷たい牙に触れた思いでした。


 もちろん、これはただの推測です。

 情報のやりとりなら、もっと安全で確実な方法はいくらでもありそうなものです。


 これはただの妄想に過ぎない。

 私はそう決めつけることにしました。


 頭で描きあげた推測を消しさり、それ以降考えることを止めました。


 更に何年か過ぎ去り、今となります。


 記憶とは残酷なものです。

 意識して頭から消し去ったはずでも、忘れた頃に夢を見るのです。


 暑い夏の日。

 私は小柄で物静かな男を一軒のアパートに案内します。


 内見なので部屋には何もありません。

 空っぽの部屋に男は足を踏み入れ、ただそこに立っています。


 暑さに耐えきれなかった私は窓を開けます。


 すると、外から聞いたことのない異国の言葉が聞こえてくるのです。


 そんな夢を見るのです。

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