内見に行ったアパートに、野良の上腕二頭筋が棲みついていた

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

内見に行ったアパートに、野良の上腕二頭筋が棲みついていた

 第一志望の大学に落ちて、滑り止めの大学に通うためのアパート探しという現状を、どうやったら楽しむことができるだろう。

 もっとも第一志望の大学ですら、一人暮らしをしたいという目的を最優先に考えたから、そちらに受かっていたところでたいした違いはなかったかもしれない。

 その程度のものだった。私の新生活への夢と希望は。


「……告知義務があるとかではないんですけどね。事故物件とかではないので。

 でも行けばすぐ分かることですし、値段が安い理由ですし、先に伝えておきますと」


 内見予定のアパートまで歩きながら、不動産屋のお兄さんはずっと正面を見たまましゃべっている。

 ひょろっとしているけど、顔立ちが最近話題の映画に出てるなんとかって俳優にちょっと似てる。映画は見てないけど。来る途中にも大きなポスターを見かけた。


「この部屋ですね、野良の上腕二頭筋が棲みついてるんです」


「はあ」


 気のない返事をしてしまう。

 不動産屋さんはあいかわらず目線を正面を向けたまま、話し続ける。


「まあそれだけといえばそれだけで、でかいですけど噛みついたりはしないですし、かといってじゃれてくるわけでもなくて、本当に勝手に棲みついてるってだけで」


 このお兄さんは、そういえばずっと目を合わせたことがないな、なんてことを考えていた。


 筋肉は別に、好きでも嫌いでもない。街を歩けばときどき筋肉を散歩させている人を見かけるし、熱心に筋肉を育てている人のうちのこ自慢とか、SNSに自慢の筋肉の動画を上げたりとか、話題の芸能人が筋肉を飼い始めてその筋肉の種類がトレンドワードに上がったりとか、そういうのは見聞きするけど、私には縁のない話だった。部屋にただいるだけなら、別にどうでもいい。


 いるだけ。

 自分で考えたそのワードに、自分で嫌悪感を感じてしまう。


「ここです」


 アパートについて、不動産屋さんが扉を開けた。

 玄関に入ってすぐ、はたりと足を止めてしまった。


「……でっか」


「でかいですよねえ……」


 玄関からすぐ見える、畳の部屋。

 その部屋の窓際の日が入るちょっとすみっこに、上腕二頭筋はちょこんと鎮座していた。

 いや、ちょこんってサイズじゃないけど。上腕二頭筋って、いわゆる力こぶの筋肉だけど、このサイズは。


「消火器くらいありますね……」


「まあでも、本当に人にちょっかいかけたりしないんで……なんなら女性の一人暮らしって何かと物騒ですから、いた方がかえって安心できるかも……

 エサも勝手に出ていって野生のプロテイン捕まえて水で溶いてますし、あっなので水道代は大家さんが負担してますから、そういう意味でも経済的にはいいかと思います」


 この不動産屋さんのトーンはよく分からない。あいかわらず目を合わせないし、早口になったのは頑張って売ろうとしてるのか、思いついたことをただ適当にしゃべってるだけなのか。


 上腕二頭筋の方に目を向ける。

 上腕二頭筋はあいかわらず日が当たるか当たらないかのすみっこにいて、マイペースに腹筋運動を始めた。

 上腕二頭筋が腹筋って、何を言ってるんだろうという感じだけど。そう表現するしかない動きをしているし。


「ええと、ひとまず内装見ますか……そのための内見ですし」


「そうですね……」


 不動産屋さんに続いて、部屋に上がって、見て回った。

 少しせまいけど問題ない。設備も古すぎるとかはなさそうに見える。交通の便も悪くなかった。

 そして見ている間も、上腕二頭筋はただそこにいるだけで、私たちのことを気にするでもなく、あるいは気にしないようにしているのか、ただそこにいた。




 結果的に、私はこのアパートに住むことになった。

 やっぱりお金の都合が大きい。上腕二頭筋も、本当にただいるだけで、ときどき勝手にプロテインをりにいって勝手に蛇口をひねって水で溶いて飲んだり水浴びしてるだけで、なんの干渉もしてこないし。

 始まった大学生活もつつがなく、大きな事件もイベントもなく、恋人も特にできたりはせず、ほどほどの友人関係を作って過ぎていった。

 部屋に友人を呼んだりはしなかった。別に上腕二頭筋に気遣ったりしたわけじゃない。いるだけの相手に気遣ったりするのも変な話だし。


 それとも、気遣ってほしいのだろうか。

 私は、気遣ってほしいと思っていたんだろうか。




 ある日、ひどく風邪をひいた。

 まったく動けないわけじゃないけど、動くのはしんどい。こういうときのための準備をちゃんとしていなかった自分を呪った。

 お腹はすく。でも料理したりするのは無理。そのまま食べられるようなものは、何かあっただろうか。布団にずっと横になったまま、ぼうっと考えた。


 目を横に向ける。部屋のすみに上腕二頭筋。閉めたカーテンから透ける陽光を浴びるか浴びないかの場所で、スクワットらしき動作をしている。上腕二頭筋だけどスクワット。

 いつも通り。ただいるだけ。いつも通り。


 ぼうっとした頭で考える。

 誰かに頼るか。友人。呼んだことない。こういうときに家まで来てくれるほどの関係性を築けているか、私には自信がない。

 親。遠すぎる。それに呼んでも来てくれるかどうか。想像して、確かめるのが怖くなった。来ない方にだろうか。それとも、来る方にだろうか。


 寒気を感じて、布団を深くかぶり直した。

 一人だっていう実感を、寒々と感じる。いや、一人でもないけど。上腕二頭筋がいるけど。いるだけだけど。


「あー……つらい」


 なんとなく、声を出した。

 返事はない。期待したわけでもない。ここにいるのは上腕二頭筋だけだし。


「……私さあ。母子家庭だったんだけどさあ」


 さみしさのせいだろうか。こんなことを話してしまうのは。病気の心細さというのは、思った以上につらいものだったのかもしれない。それとももともと持っていたさみしさが、病気をきっかけにあふれ出してしまったのだろうか。


「なんだろうな。愛されてないわけじゃなかったんだと思う。ただなんかね、距離があった。私が距離作ってただけかもしれないけど……」


 ぽろぽろ、ぽろぽろと、言葉を吐き出してしまう。

 ただそこにいるだけの上腕二頭筋に、なんでこんな話をしてるんだろう。けれどきっと、ただそこにいるだけの上腕二頭筋相手だから、こんなことを言えるのかもしれない。

 あるいは、ただいるだけの相手だからこそ。


「お母さんのね。友達が、来ることがあって。別に何かあるわけじゃないの。ただ私はそこにいるだけで、私に何か求められるわけでもないし、私も何もしないし……ただいるだけで……ただ一人で、私のやりたいことやってただけで……」


 本を読んだり。絵を描いたり。ただじっと。一人で。

 そう求められたわけでもない。私がそうしていただけ。

 ただ、目立たないように。


「……私の家なのにね」


 上腕二頭筋は返事をしない。聞いているのかも分からない。ただあいかわらず、スクワットを続けている。


「それでさ。一人暮らしをしようと思って……でもよく分からないね。一人になりたかったのか、さみしかったのか」


 ただいるだけの上腕二頭筋に、ただ話した。

 聞いているのか分からないけど、ただ、話した。


 ふと、上腕二頭筋が筋トレをやめて、のそりと部屋の外へ出ていった。

 目で追った。上腕二頭筋は玄関横の筋肉用出入口から、外へ出ていった。


 一人になった。

 カーテンを閉めた薄暗い部屋で、ひとりぼっち。


 なぜか、うすら寒くなった。風邪の寒気よりももっと、体の芯が冷えるような感覚。

 上腕二頭筋は、何を思って出ていったんだろう。ただいるだけだった場所に、後から入ってきた私のことを、どう思っているんだろう。

 私は何を期待していたのか。何を期待されていると思ったのか。いろんな思考がぐるぐると回って、風邪のだるさとないまぜになって、体が沈み込むように思った。


 どのくらいの時間が経ったんだろう。上腕二頭筋が戻ってきた。

 目をやる。玄関口にいる上腕二頭筋は、プロテインを捕まえてきていた。いつもより、量が多い気がする。


 もしかして、私の分も獲ってきてくれたのだろうか。


 私の見ている先で、上腕二頭筋はシェイカーにプロテインを全部入れた。蛇口を開けて水を入れて、シャカシャカと振って溶かして、普段より量の多いそれを、一人で全部飲み干した。そしていつもの部屋のすみに戻ってきて、スクワットを再開した。

 私はぼうっと、それを見ていた。しばらく見ていた。それからのろのろと布団からはい出して、冷蔵庫を開けて、生のキャベツとソーセージをかじった。




 四年間の大学生活を終えて、この部屋での暮らしも終わりとなった。

 荷物をまとめ終えて、すでに大物は引越し業者に預けて、手元にはバッグがひとつと、この部屋の鍵。


 部屋のすみに、目を向けた。

 今日もやっぱり、日の光が当たるか当たらないかの定位置で、上腕二頭筋は腹筋運動をしていた。

 ただいただけの存在。なんの干渉もせず、なんの気遣いもせず、ただずっとそこにいただけの、同居人。


「じゃあね」


 それ以外に言う言葉もない。何も思いつかないし、他の何かが必要だとも思わなかった。

 部屋を出て、最後にもう一度中を見て、やっぱり上腕二頭筋は変わらず、筋トレをしていた。

 扉を閉めて、鍵をかけた。




 それからときどき、思い立っては物件情報を見てみた。

 あの部屋の情報は出ていることもあったし、出ていないこともあった。

 そして出ているときには、やっぱり私が借りたときと同じ格安価格で、それはつまりまだ上腕二頭筋がいることを示していた。

 今もあの場所に、上腕二頭筋がいる。


 私は物件情報のページを閉じて、メッセージアプリに切り替えて、母からの返信にさらに返信を返して、アプリを閉じて、仕事に戻った。

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