【KAC20242】ギリギリが止まらない(時間も心も)

青月クロエ

第1話

 古いアパートの一室。ビアービールの空瓶、体臭と香水が染みついた衣類、その他諸々が床に散乱する八帖ほどの部屋で、女は泥のように眠りこけていた。派手な化粧とドレスで武装し、一晩中大勢の酔客相手に微笑み、おしゃべりや酒の相手をする疲労は並大抵じゃない。ちょっとやそっとじゃ目を覚まさないだろう。そう思われたが。

 玄関をけたたましくノックする何者かにより、彼女の安眠は破られた。


 一瞬で目も頭も冴える程のノックに無性に腹が立ち、無視を決め込んでやろうか。ベッドの中、寝返りを打ちかけ、やめる。

 ノックの主は同居人かもしれない。自分が仕事に出かけた後、ふらっと出て行くことがしょっちゅうあるし、鍵を持っていかない場合もしばしばだ。

 無視して怒られたくないので、さっと起き上がる。


「今開けるから。ちょっと待ってて」


 鍵とチェーンを外し、扉を開け放す。

 女の予想は見事に外れていた。


「あんた誰?」


 扉を開け放した先にいたのは、でっぷりと貫禄ある風貌の同居人ではなく、二十歳前後のひょろりとした長身青年だった。よく見ると分厚い経典本を小脇に抱え、黒い詰襟の司祭平服キャソックを着ている。


「あー、勧誘ならごめんだよ。他当たってくれな……」

「いいえ、勧誘などいたしません。貴女の悩み、苦しみに寄り添うため、神に導かれてやってまいりました」


 何言ってるんだこいつ、と、問答無用と追い返そうとしたが──、少し癖のあるブルネットの前髪の下、さわやかで端正な顔立ちに数瞬ぼうっと見惚れてしまった。

 更に追撃するかのように、にこりとやさしく微笑まれ、女の心はたちまちこの青年聖職者の虜となった。面倒な酔客や粗暴な同居人の機嫌を窺う日々に疲れ、今さっき起きたばかりの左程頭が働かない状態が更に輪をかけていた。

 だから、部屋の奥、ベランダの窓に人影が現れたことも、バーナーで窓を炙り、鍵付近のガラスを破ったことも気づく由もなかった。最も、人影が静かにガラスを破るタイミングで、青年聖職者の十字架のペンダントが切れ、盛大な音を立てて経典を落としたため、二人揃って慌てふためいていたのもあるが。


 ガラスを破った場所へ手を突っ込み、鍵を外すと、人影こと鳶色の髪を無造作に一つ結びにした少女は、音もなく室内へ侵入した。

 あいつ青年聖職者が無駄に良い顔と無駄によく回る口で女を引き止めている間に、証拠のを見つける。それが少女の役目だ。

 足の踏み場もない寝室を顰め面で、さっと視線を巡らせたかと思うと、猫のような忍び足で大胆に短い廊下へ進む。女が少しでも振り向いたらおしまい……、物音はともかく心臓の音が外まで響かないか、有り得ないと分かりつつ気になってしまう。


 女がちら、と振り返りかけた時、少女は間一髪、廊下左側の洗面所へ踏み入っていた。

 洗面台の開き戸を静かに素早く開く。山積みの化粧品の空き瓶、いつ買ったものわからない、使いかけの化粧品が飛び出しかけ、慌てて扉を閉じる。こんな場所にブツがあってたまるか!


 次に風呂場とトイレの扉を開く。

 天井、壁、床、便器と浴槽を仕切るカーテンなど、どこもかしこも黒カビが目立つ。浴槽にこびりついた垢は肉眼で確認できるし、便器からはそこはかとなく悪臭が漂ってくる。少女のしかめ面は益々酷くなる。せっかくの大きな猫目が特徴的な、可愛らしい顔が台無しだ。


 しかめ面を更に心底嫌そうに歪め、少女は便器の貯水タンクの裏側、下側を探り、浴槽の上に乗って上部の棚を確認。ブツは……、ない!


 きぃぃいいい!と金切り声を上げ、癇癪を起こしたいのを堪え、風呂場を後にし、慎重に廊下へ戻る。ほんの一瞬、目が合った青年の薄灰の瞳が『まだ見つからないわけ?さっさとしてよね』とイヤミたらしく語ってくる。『うるっさいっっ!!』と殺意を込めて睨み返し、廊下を挟んで洗面所の反対側、コンロと流し台周辺を探る。

 しかし、ここにもブツはない。何年前の代物か判別つかない粉チーズやタバスコの瓶、黒い羽虫の死骸が転がっているのみ。黒いヤツを発見した時、叫ばなかったことを後で誰かに褒めて欲しい。アタシ、汚部屋の確認しにきた訳じゃないんだけど!犯罪の証拠品探索で内見しに来たんだけども!!


 女が振り向かないのを警戒しつつ、少女は再び居間兼寝室へ戻る。

 いくらあいつが顔と口が上手くても時間に限りはある。でも、少々乱暴なやり口で侵入した以上、後にも引けない。

 隠し場所としてはあまりにベタだけど……、と、ベッド脇、そこだけやたらと綺麗にされた鏡台の引き出しを開ける。


「あった!見つけた!!」


 違法薬物と思われる白い粉や葉巻が入った透明な袋を、玄関の青年に向けて高く掲げてみせる。ここで初めて女は少女の方を振り向き、振り向くなり、甲高い悲鳴を上げた。


「彼氏に隠すよう頼まれたんでしょ?」


 青年はさっきまでとは打って変わり、軽薄かつ褪めた口調へと切り替わっていく。さわやかな笑顔も変わらないが、人を食ったような目つきへと変わっていた。


「あんたたち、ひょっとして……」

「僕たちの正体なんてもうわかっただろうし、いちいち明かす必要なくない?それよりさ、彼氏がおたずね者の賞金首って知らなかった?そんなわけないよね?まぁ、知ってようが何だろうとヤバいブツ隠し持ってる時点で共犯だよね。てことでおねーさん、僕たちに詳しく話聴かせてくれない?」

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【KAC20242】ギリギリが止まらない(時間も心も) 青月クロエ @seigetsu_chloe

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