後編

 バス停は信号をひとつ渡った先の大通りにあった。以前からそこにあるのか、私が外に出なくなってからできたのかはわからない。周りの店のほとんどは、今はシャッターで閉ざされている。もう少し遅い時刻に来れば、この通りの景色も変わるのだろうか。

「バスのお金はいくらかかるのかしら。先に出しておかないと心配になるわ」

「うーん、いくらだったっけ。たしか二百円くらいだったと思うけど、乗ってから用意したらいいじゃない。両替機も中にあるし」

「そうなの? 私、最近乗り物使ってなくて」

 と、話しているうちにバスは来てしまった。みやちゃんは先に乗りこんでいく。それからドアのそばの機械に、定期のようなカードをかざしてからこちらを振りむく。

「りょうちゃん、IC持ってないんだっけ。じゃあこの紙を取るんだよ」

「これ? わかった、ありがとう」

 みやちゃんに言われて、私もだんだん思いだしてきた。バスに乗ったら整理券を取って、降りるときは料金とともに、それを運賃箱へ入れるんだった。

 私たちは並んで座る。バスはすいていた。座席は半分以上空席で、乗客の多くはお年寄りに見えた。私たちはどこで降りるのか、そういえば聞いていなかったが、二百円くらいの距離ならば、そんなに遠くはないのだろう。みやちゃんといっしょなら乗り過ごすこともないはずだ。私は窓の外を見る。

 バスの速さで流れていく街の景色。それはとても目まぐるしい。新しい店、懐かしい店、看板の文字。久しぶりに見ただけの、生まれ育った街並みなのに、視覚から入ってくる情報があふれるほど多い。テレビ越しには都会から田舎まで、いろいろな場所を見て知っていたのに。四角い画面で切りとられた風景より、目に入るすべての色の迫力が圧倒的で、焼鳥屋の赤ちょうちんまで今の私には荘厳に思えた。

 私はぽかんとしていた。乗客のほとんどは病院前で降りて行った気がする。いくつかのバス停を通りすぎ、乗客はいつの間にか私とみやちゃんだけになっていた。

「次で降りるよ。二百四十円だって。ある?」

 横のみやちゃんからそう聞いて、ポーチにまとめた小銭をあらためてよく見る。

「十円玉が足りない……」

「大丈夫? 両替えする?」

「やだなあ。それ、やったことないんだもん。おつりって出ないの?」

「そうなのよ。でも、もう降りるお客さんはいないし、ゆっくり両替したらいいよ」

「じゃあやってみようかな……」

 やがてバスは街から少しはずれた、ススキが揺れる景色の中で停まる。隣に座っていたみやちゃんは、先に降りなよと私をうながす。

 千円札を握りしめて、私はバスの出口、および運賃箱の方へ歩く。運転手はこちらのことなんて気にしていない。目を泳がせつつ私は両替機を探す。すぐ運賃箱の側面に、両替はこちら、と書かれたお札の投入口がつけられていることに気づいた。私はそこに千円札を入れる。すると、じゃらじゃらと重たい音をたて、投入口のさらに下へあった受け口に、小銭がいっぱい落ちてきた。私はあわてて、それらをポーチにしまおうとする。そうして一度にたくさんの小銭をつかむと、百円玉がひとつ指の隙間からこぼれ、足元に落ちる。拾わなきゃ、でも早く清算もしないと。収拾がつかなくなりそうで、頭が真っ白になる。しかしみやちゃんが素早く百円玉を回収し、落ちたよ、と言ってポーチに入れてくれたので、私はなんとか立ちなおり、二百四十円をしっかり数え、整理券とともに運賃箱へ入れ、清算を完了することができた。

 だから少し慌ただしい足取りで、私はバスから降りたのだった。なだらかな山間では、すっきりとした風が吹く。道端には背が高い笹やススキが生えていて、建物はさっきまでの街並みより少ない。それらも看板を掲げる店などではなく、重そうな屋根瓦の古い民家や、どこかの会社の名前が大きく書かれた、でも色あせて読めないコンクリートの倉庫や、あとはガソリンスタンドくらいで、情報量は街中よりもひかえめだった。

 私が辺りを見ているうちに、みやちゃんはもちろん降りて私の横に来ていたし、お客のいなくなったバスもとっくに走り去っていた。

「じゃあ行こう! ここを下りて行った先に、釣り竿を貸してくれるキャンプ場があるの。そこの川では、今ならニジマスを釣らせてくれるし、その場で食べることもできるの!」

 みやちゃんは、藪のあいだの狭い下り坂に入っていった。道の前にはたしかに、この先管理釣り場、という手書きの案内板が立てられていたが……

「そんな道に入っていくの、危ないよ」

「だからりょうちゃんと来たんだよ。あたしひとりじゃ、管理人さんにダメって言われてしまうの。保護者同伴じゃないと、って」

「うん? そうなんだ……?」

 私もみやちゃんに続いて、落葉の積もった登山道のような下り坂を歩いていく。ふくらはぎの裏がつっぱりそうだ。尋ねたいことはあるはずだが、歩くのに精いっぱいで、何も言葉にできず、彼女の背中を追いかけながら、落葉樹の森の奥へ奥へと下っていった。

 そうしていると、狭い道のむこうに透明な、緩やかな流れの川が見えてくる。それから小さなログハウスもあるらしい。川のそばには、学校の運動場にあったものとだいたい同じ、コンクリート造りの水道がいくつも連なって設置されているように見える。

 ひらけた河原まで下りてくると、ログハウスのかげにキャンプ用のテントがひとつ張られているのもわかった。傍らには釣りをする少年と、その子を見守る母親、バーベキューセットを組みたてる父親の姿があった。

「渓流ニジマス釣り……おとな三千八百円、こども三千円」

 ログハウスの前に立つのぼりを、ぼんやり私は読みあげる。

「そうなの。もしりょうちゃんも竿を借りるなら、けっこうお金かかるけど、保護者ってことならタダで釣り場に入れるの。釣り竿はふたりで一本になるけど。……ごめん、先に言っておくべきだったかも」

「ううん、私はひとりで釣りなんてできないから、最初から見てるだけのつもりだったわ、気にしないで。でも、三千円もかかるのね。みやちゃん、そんなにおこづかいがあるの?」

「うん。お年玉とか、ほかに使わないから。クリスマスと誕生日プレゼントも、いろんな釣り場の入場券にしてもらってるの。あっ、でもこの前はお魚をさばけるナイフを買ってもらったんだっけ。あとでりょうちゃんにも見せてあげるね」

「すごいなあ。みやちゃんは本当に魚が好きなのね。釣るのも好きなのは知らなかったよ」

「そうなの。中学生になったらおこづかいが増えるから、絶対に自分の釣り竿を買おうと決めてるんだ。それに本当の渓流釣りだって行きたいんだよねえ。釣りって、面白いよ。りょうちゃんもやってみない?」

「どうしようかなあ。大変そうだな……」

 釣りをする自分……全然想像がつかない。みやちゃんはこの釣り場に関しては手慣れているようで、半開きだったログハウスの扉を引いて、声をあげる。

「ごめんください! 釣り場の利用と、竿のレンタルお願いします!」

 私も薄暗い屋内を覗きこむ。壁に立てかけられた何本もの釣り竿と、何も泳いでいないからっぽの水槽が目に入る。天井からはハンガーがいくつも吊り下がっていて、さっきの子が着ていたものと同じ、目を引くオレンジ色のライフジャケットが陳列されていた。

「やあ、宮地の社長のお孫さんかい。今日も旦那……いや、爺ちゃんと来たのかな?」

 奥からは初老の男性がやってくる。無論、私の知らない人だ。怖いやら、気まずいやらで、私はログハウスからやや離れ、聞き耳をたてることにした。

「爺ちゃんは今日は仕事。だから婆ちゃんの友だちがついてきてくれたの」

「そうか、社長の友だちか。おてんばで迷惑かけなさんなよ。じゃあ、今日も好きな竿を選んでいきな」

「あれ? この前の軽い重りは?」

「それなら、あっちのちびっこに貸したよ」

「えっ、あれは難しい仕掛けじゃないかな。特に今日みたいな流れだとさ。あの子、まだ小学一、二年生くらいでしょ」

「まあまあ、そうやって覚えていくんだよ。お嬢ちゃんだって、三年前はそうだっただろ。背だってあの子より小さくて……」

 ……

 ログハウスからは、みやちゃんと管理人が何やら話している声はする。だけど私は耳をかたむける気になれなかった。

 絶え間なく揺らぐ川面を、こもれ日があざやかに輝かせている。清らかな自然の中で、私は思い悩み、立ちつくしている。

 私は五十歳。だいたい五十歳。二十五歳から今まで実家で休んでいるだけの……。実は、ちゃんとした年齢は、本当は五十三歳なのだ。

 つまり、休んだ時間は、正しくは二十八年。けして引き算もできなくなったわけじゃない。自分が五十三歳だと、頭ではわかっている。単にものごとを歳で考えるとき、キリがいいよう自分を五十ちょうどだと――四年前なら四十五、九年前なら四十歳だと――勘定するくせがあるだけだ。

 この感覚的な齢の自認、それと実数の差なんて、多分大したことはない。でもなぜ急に、どんぶり勘定からこぼれた差違が、絶望的な歯車の狂いのごとく思われてくるのだろう。

「りょうちゃん、あたしたちはもう少し下流で釣ろう。あのあたりの岩陰に、落ちついたニジマスがいると思うの。ね、りょうちゃん。どうかしたの?」

 思っていたよりも細く、短い竿を手にして、みやちゃんはすでに戻ってきていた。

「あの、みやちゃん。その……」

 彼女に聞きたいことなのか、私から伝えたいことなのか。言葉がまとまらないまま、竿の先から垂れる釣り糸の、ちりちりと揺れながら光る様子を目に映していた。それなりにだるい、ゆっくりとした時間が流れる。

「うん。りょうちゃんのペースでいいから、話したいこと思いだしたらまた教えてね」

 みやちゃんは優しくそう言ってから笑い、行こう、と岩場の方に私をつれて歩いていく。

 なんだろう……この混乱は。さっきまでには感じていた、河原の石で研かれたそよ風、緑が呼吸するやわらかな空気の味は、私自身の汗の蒸気で、鼻に入るまでにかき消えてしまっている。

 河原のある地点でみやちゃんは、保冷バッグで川の水を汲み、私たちの足元に置いた。いつからか持っていた、ピルケースのようなプラスチックの容器も開ける。中には見たことのない、まるまる太った芋虫が入っていた。それを一匹つかもうとするみやちゃん……。

「これ、ブドウムシ……怖かった? えっと、釣りって、イクラとかでもできるよ!」

 私はよほど怪訝な顔をしていたのだと思う。そう、私は蛆とか、そういう虫が嫌いだった……どうして我が家をあんなになるまで放置してしまったのだろう。みやちゃんは私に背を向けて、芋虫を見えないようにしてくれる。でも、その手つきから、釣り針に芋虫を刺していることはわかった。ちょっと私にはできかねる作業だ。

 そうしてみやちゃんは、お菓子食べながらゆっくりしてていよ、と言い残し、私をおいて浅瀬へ入っていく。体に比べて大きく見える、丈夫そうな長靴を履いているにもかかわらず、みやちゃんが歩く川面に水しぶきはあまり立っていない。糸を垂らす場所を慎重に探しているようだ。

 私は手ごろな、平たい岩の上に腰かけた。リュックを下ろし、コーラ味のキャンディを一粒つまむ。チョコレートは歯にしみるので、今は食べたくなかった。キャンディは思ったとおりの、酸味のある甘ったるい味がした。

 みやちゃんの手元で、笹に似た、鋭い竿がしなる。糸は半透明で、針や重りも小さいので、ウキが浮かんでくるまでは、どこに投げ入れたのか私には見えなかった。

釣り糸の真ん中あたりにつけられた、矢羽に似た目印が、風か、川の流れかによって、ひらひらと回っている。片手で竿を支えつつ、みやちゃんはポケットに手を入れて、ミント味ののど飴を取り出し、口に運んだ。

 つやつやした、みやちゃんの黒いおさげの房が、ウキや、目印や、遠くのススキと同じように、下流へ向かって吹く風に揺れている。

 上流の方にはさっきの家族連れのほかにも、けっこう釣り人がいるようだった。それでも子どもはあの男の子と、みやちゃんだけだ。

 することがないし、スマートフォンで何か見るにも頭が疲れるので、私は下流の方の、山間の先に開けていく空を見ていた。山から飛び出た一本の針葉樹の先端を眺めて、その上をすじ雲が通りすぎて行くのをおとなしく、膝を抱えて待っていた。塗ったみたいに青い、平坦な秋空の内側を、私なんかの想像よりもずっと駆け足で雲は流れていく。空って動くんだ。当たり前だけど……生きているように、刻一刻とうごめいているなんて。膨大な情報量で、とてつもない解像度を持って、瞬きの何兆分の一ごとの間に更新されていく雲。私は気が遠くなる。今までは我が家に守られていたのに。意識が空へ散らかっていく心地だ。

「りょうちゃん、ほら!」

 舌の上のキャンディは、気づかないうちに消えていた。息を吸うと、かすかなコーラのかおりが喉から鼻に通りぬけた。浅い川面にしぶきを立てる、長靴の足音が近づいてくる。

「きゃっ……なに!」

「ニジマスだよ!」

 ぎらぎらと、七色に光る鱗を振りみだす魚を釣り糸からさげ、みやちゃんが今日までで一番楽しそうな笑顔をして走り寄ってきた。私はつい立ちあがり、飛びのくように離れる。みやちゃんは私を気にすることなく、水の満たされた保冷バッグへ魚を入れる。それから暴れる魚体をためらいなく握り、思いきりよく釣り針を外した。

「きれいで、しっかりした体つきでしょ。これはおいしいと思うよ!」

「そ、そうなんだ……おいしそうなんだ」

 目の前で生きている魚に、私はそんな感想を持てなかった。こわごわ保冷バッグを覗きこむと、もちろんまだ元気そうなニジマスが、狭く冷たい水の中を泳ぎまわっていた。魚については詳しくないが、よく食べる塩焼きのサンマなんかと、おおむね同じくらいの長さがあるように見える。

「このペースでもう一匹釣れたら、いい感じにお昼になるし、いっしょに焼いて食べよう」

「この……魚を?」

「うん。そんなに変わった味でもないし、鮭が嫌いじゃなかったら食べれると思うけど。もしかして、そもそも魚、嫌いだった?」

「そんなことはないけど……」

「そうだよね。知ってるよ。りょうちゃん、お母さんがスーパーで働いてたでしょ」

「え、その話、みやちゃんに言ったっけ」

「ううん、婆ちゃんに聞いた。鮮魚コーナーで働いてる人に、同級生のお母さんがいるんだって。その人、お惣菜のアジフライをね、おいしいからうちの子にも食べてほしいって、いつも買って帰ってたって」

「同級生……誰の?」

「婆ちゃんのだよ?」

 みやちゃんはきっと、簡単な話をしているのではないか。だが私は飲みこめないし、それを伝えようとも思わない。私はぼんやりと

首をかしげる。そういえば同じようなしぐさを、母の葬儀で来た親戚の前でもやっていた。みんな早口で、難しい話をつらつら続けていたから……。そして理解の遅い私に、誰もがいらいらしていた気がする。

「じゃあ、また釣ってくるから!」

 みやちゃんは私がいてもいなくても、構わず釣りを楽しむと思う。ここにいるのは私でなくとも良かった。そして、私でも良いのだ。


「ほら、どっちもいいニジマスでしょ。上流でみんな釣ってるけど、それにかからないで下流の静かなところまで泳いできたのって、放されてからしばらく経った個体が多いの。だから自然の餌を食べて、上流のより元気でおいしいニジマスがよく釣れて……」

 みやちゃんが抱える保冷バッグの中では、続いて釣れた二匹目のニジマスも泳いでいる。すっかり私たちの真上まできた太陽が、魚の背の鱗を照らし、鏡面のように光らせていた。

「これ、どこに持っていくの。焼いてくれる人がいるの?」

「自分たちで焼くんだよ。焚き火台も貸してもらえるから、すぐにできるし」

「でもその魚……あの虫を飲みこんでいるんでしょう? なんだか嫌だな」

「そうだけど、普通にさばいたら胃も捨てるし、大丈夫だよ」

 むかった先は、運動場の手洗い場に似た、コンクリート造りの流し台の方だった。そこに保冷バッグを置いてから、みやちゃんは自身のリュックからいろいろ取り出す。重そうなキッチン鋏、ビニール袋に入った鉄の串、シリコン製のまな板と、我が家にもある食卓塩。そして持ち手までステンレスでできた、小さなキャンプ用のナイフを流し台のふちに並べていく。これを見て私はやっと、この子は本当に生きた魚を調理できるのだ、と感心した。私はアジを三枚におろしたこともない。

「りょうちゃんもやってみる?」

「え、何を?」

「ニジマスをさばいて、串に打つの」

「いや、無理。やったことないし、生きてる魚なんてつかめないじゃない」

「そう? だったらちょっとヒマになるかもだから、その辺お散歩してていいよ」

「それも疲れたから、あそこで座ってるね」

 流し台のやや手前に、輪切りにした丸太をそのまま置いただけの、不格好な椅子がある。私は古いリュックを下ろし、丸太に腰かけ、再びコーラ味のキャンディを口に入れる。

 そうして、小さな手にキッチン鋏を持った、みやちゃんの後ろ姿を見ていた。流し台の、蛇口の下に置いた保冷バッグから、魚の暴れる水しぶきが立つ。みやちゃんはなんてこともない様子で、尾ひれをばたつかせる魚の一匹をつかみ上げ、それの頭に鋏の刃を当てた。

 少し離れた私にも聞こえるほどの、ばつん、といった、ニッパーで配線をねじ切るような音が聞こえた。そのとたんに魚は暴れるのをやめ、子どもの手の中でぐったりとうな垂れる。続けてもう一か所、尾ひれに近い部分の背骨も音を立てて切断されたニジマスの体色は、この一瞬で心なしか輝きを失った。そうやって殺した魚を、みやちゃんはまな板の上へと置いた。神経の反射か何かで、魚の体はまだぴくぴく動いている。目の前でこの大きさの生物が死ぬ場面を、そういえば私は見たことがあっただろうか。すぐにみやちゃんは保冷バッグからもう一匹のニジマスを捕えて出し、同じ手つきで殺していく。

 不規則に筋肉を震わせる、まな板の上の魚。管理釣り場の放流魚とはいっても、さっきまで広い川で自立して生きていたのだ。昨日食べた冷凍焼けしたカマスや、母がよく買ってきたフライのアジも、自然の中で成長し、誰かが責任を持って殺したものなんだ……。

 みやちゃんはニジマスの片身に、ナイフの刃の裏を当て、鱗を削いでいく。光る銀色の粒が、みやちゃんの手元で飛び散っていく。それから蛇口をひねり、もうまったく動かなくなったニジマスを、流水でよく洗っていた。

 その様子をもう少し近くで見てみたくなった私は、口の中で薄べったくなったキャンディを噛み砕き、丸太から立ってみやちゃんの後ろから流し台を覗きこんだ。二匹の鱗を落とし終わって、銀の粒が貼りついたナイフとまな板をきれいに流したみやちゃんは、やわらかそうな白い魚の腹を、真新しい刃で迷いなく裂いていく。どろりとした赤黒い内臓が、鱗を剥がれて薄暗い体色となったニジマスの内側からあふれてくる。魚にこんな、生々しい臓器があったんだ。そしてこれらは、つい先ほどまで、その身すべての器官を調和させ、自律して生きるひとつの生命として、明日も、明後日も存在し続ける力を持っていたのだ。何億年、自然の中で試行錯誤してきた結果、あらゆる生命はそうなった……私が漫然と食べてきた魚の一匹一匹も。

 魚の内臓がビニール袋に捨てられていく。このどれかが胃で、さっき餌にしていた虫も飲まれて入っているのだろう。みやちゃんは、空洞になった魚の体内を流水で洗い、ナイフで内側の血合いを掻き出していく。真っ赤に染まった水が、排水溝に吸われて消える。

「りょうちゃん、串を打ってみない?」

 私に気づいたみやちゃんは、血の抜けた魚を手にしてそう言う。

「どうやればいいのかわからない。頭から、しっぽに向かって串を通せばいいの?」

「一直線だと身が崩れちゃうから、エラから串を一回出して、縫いつけるみたいに通していくの。変になってたらやり直してあげるし、ちょっとやってみてよ」

 もうすっかり、冷凍庫にあった干物と同じ、ただの食材に変わったニジマスと鉄の串を、私は素手でみやちゃんから受け取った。滑りやすそうだった体表は、水道水で流されて、みやちゃんが殺したときよりずっと持ちやすくなっているのだろう。私は隣の蛇口の前で、冷たくやわらかい、しかし部分的に硬く尖った、命だった食材の口にゆっくり串を刺していく。ぷち、と魚の奥で、喉に穴があいた手ごたえがする。ここから漫画やテレビ番組でよく描かれる、野生的な焼き魚の形にしていかなければならない。失敗してもみやちゃんはやり直せるらしいけど……

 魚の身をつぶして、鉄の串が刺さっていく。エラからいったん体外に出すんだっけ。硬い部位に引っかかったけど、これは強引に突き破らないといけないのか、それとも刺す部分を間違ってしまったのか。わからないなりに押しこむと、魚の皮を穿って、鉄の串の先端がエラの近くから飛び出てきた。これを、また縫うように……? 私は魚の背骨をやや強引に曲げて、さらに押しこんだ串の先端を再び腹のあたりに刺す。すると、まあ当然なのだが、その裏の身からまた串が飛び出てくる。これでいいのか。

「それで合ってるよ! いい感じ!」

 不安になっていると、みやちゃんが話しかけてくれた。その手には、すでに串に通したもう一匹のニジマスがあった。たしかに私が打ったものと、同じ形になっているようには見える。

「これも持ってて。塩を振るから」

 その手にしていたもう一本の魚の串を私に持たせ、みやちゃんは食卓塩を振りかけた。

 ニジマスの表面に、塩がぱらぱら降りそそぐ。両手で串を持つ私は身動きできず、細かな塩が湿った魚に引っついていくのを見ていた。

「そしたら私はこっちでお片付けするから、りょうちゃんはあっちで待ってて。リュックは後から持って行ってあげる。好きな焚き火台のところに座っていてね」

 わかった、と私は返事して、黒っぽい行灯のような焚き火台が並ぶ、上流の川辺へと歩いていった。私なんかがひとりで二本の串を持ってうろうろしていたら変じゃないか、と思ったが、誰もこちらなど見なかったし、何ならある焚き火台では、ひとりで五、六匹もの焼き魚を作っている女性の釣り人がいた。

 私は両手がふさがったまま、手近な焚き火台のそばの、折りたたみ椅子へとまた座る。

 上流から吹いてくる風が、煙と、淡水魚の微妙な生臭さを私の顔に当ててくる。ススキの白い穂がいっせいにざわつくのも見える。あの古いリュックは……思えば私が子どもだったころ、電車を乗り継ぎどこかの山へと、母がハイキングに連れていってくれたとき、背おっていたものだった。私は緑の中をただ歩くだけの行楽を、当時はつまらなく思った。しまいにはもう帰りたいとぐずったので、以来ハイキングに行くことはなく、リュックも物置で眠ることになったのだ。……母はよく、花畑や紅葉を見ながら散歩するような、のんびりとした旅番組を見て休憩していた。もしかしたら家族である私と、さまざまな場所を歩いて過ごしてみたかったのかもしれない。こういった釣りなんかにも、実は興味があったのではないか。私が今さらそれに気づいたって、どうということもできないけど……。

 火をつけることもなく、というか両手がふさがっていてできることもなく、私は座って待っていた。そのうちに小さな体でふたつのリュックを持って、こっちの方へ歩いてくるみやちゃんの姿が見えた。みやちゃんは折りたたみ椅子の後ろに荷物を置いてから、自身のリュックを開けてチャッカマンと、小さな石鹸らしき何かを出してきた。

「待っててくれてありがとう! じゃあ早速焼いていくからね」

 そうだそうだ、この石鹸は着火剤だ。形は違うし多分同じものではないと思うけど、高校生のころの修学旅行の夕食で、鍋を温めていたそれと似ている。みやちゃんは一本ずつ魚の串を受け取って、焚き火台のくぼみに串を引っかけ、うまく立てていく。そして焚き火台の中に用意されていた薪のそばへ、炎がうまく移るよう錠剤を投げ入れて、チャッカマンの火をつけた。

 種火は人魂のように、静かに安定して燃えていく。すぐに薪からも煙がのぼり、炎があがった。私は家のグリルしか使ったことがないのでわからないけど、どうも魚が火から遠い気がする。でもみやちゃんは特に串を動かすこともなく、楽しそうに炎を見ているので、少なくともひどく間違った焼き方ではないのだろう。ゆるやかな風は吹いたり止んだりをくり返している。そのため火加減にはムラが生じているが、魚は順調に焼けていっているようだった。ニジマスの皮に焼き目がつき、ヒレなどの薄い部分は端から黒く焦げていく。透明だった目は白くなり、脂は焚き火の中へ溶け落ちる。煙たさにまぎれてだんだんと、焼き魚の香ばしいかおりがただよってくる。

「みやちゃんは、どうして私を誘ったの?」

 私はふと、ずっと気になっていたことを聞いてみた。この子は私がかつて遊んでいた、同級生のみやちゃんの孫なんだ。自分の子がおらず、またさすがにお婆さんとはまだ呼ばれたくない歳の私にとって、同級生にこんなしっかりした孫がいるなんて実感できない。二代続けてよほど若くして子どもを持ったか、と引き算もしてみたけども、そう極端なほどの早婚ではないことがわかり、私はあらためて自分の過ごした年月の長さを思い知った。それはそうと、なぜこの子自身は一度も会ったことのない祖母の同級生、それも特別仲が良かったわけでもない引きこもりの家と名前を知っていて、しかも当たり前みたいな顔で訪ねてきたりしたのだろう。

「うちの婆ちゃんと、りょうちゃんのとこのお母さんが仲良かったんだ。宮地シーフードっていう婆ちゃんの会社が、スーパーにいろいろ卸してて……りょうちゃんのお母さんは鮮魚コーナーのベテランだから、商品の受け取りとか、発注もしてたんだ」

「へえ、うちのお母さん、そんなことしていたんだ。私には仕事の話してくれないから、ずっとレジの店員さんだと思ってたわ」

「レジも大変そうよね。でもりょうちゃんのお母さん、お客さんとも仲良かったし、接客も得意だったんじゃないかな。で、喋ってるうちに、スーパーから見えるあの家に住んでるって話になって、昔遊んだりょうちゃんのお母さんだって気づいたらしいのよね」

「そうだったの……」

「婆ちゃんも、りょうちゃんのお母さんも、シングルマザーだったし話が合ったみたい」

「みやちゃんのお婆ちゃんは凄い女性なのね。女手一つで子育てして、しかも社長だなんて。それに好きなことで成功するなんて素敵だわ。私と遊んでいたころから、魚が好きってよく言っていて……あのスーパーのアジフライも好きだったっけ。うちのお母さんもその影響で、よく買ってくるようになったのかしら?」

「どうなんだろう。あのアジフライとってもおいしいよね。私も婆ちゃんにおすすめされて、大好きになったんだよ。今もときどき、婆ちゃんの仏壇にはおそなえしてるし」

「えっ、死んじゃったの」

「うん。今はお父さんが社長やってる」

「で、でも、まだ五十三歳じゃない」

「死んだのは去年だから五十二歳のころかな。交通事故だから年齢は関係ないやつだけど、みんな早すぎるって悲しんでたな……」

 私が母へ甘えている間に、会社を建て、孫の顔を見て、一生を終えた同級生がいる……。私と彼女には同じ年月が与えられていたはずなのに。今までの時間が途方もなく思えて、またしても気の遠くなる心地がしてくる。

 呆然としている私をよそに、みやちゃんは紙皿をリュックから取り出す。それから火鋏で串の持ち手をつかみ、焼けた魚を皿の上に乗せる。そして私にさし出した。

「お箸ないけど、串はすぐ冷めるから、もうちょっとしたら食べれるよ」

 全身がまんべんなく焼けた、どこの食卓にのぼっていても違和感のない、おいしそうな焼き魚がそこにあった。ほくほくとした湯気が乾いた秋風に消えていく。

 母は女社長の死を知っていたのだろうか。喪服を着て出かける姿はもちろん見たことがあっても、それが去年だったか覚えていない。けっこう、親しかったらしいけど……それに母は、その女社長と私の話もしていたようだ。

「ね、私についてはどんなふうに聞いてた?お母さん、私のこと、どう思ってたのか……」

「元気になってほしい、って言ってたって」

「……そう」

 みやちゃんが自分の皿から串を素手で取ったので、私も少し熱が残るそれを手にした。ニジマスの背に、子どもの小さな歯型がつく。白い身と細かな骨が、わずかにこぼれて河原の石に落ちた。

「みやちゃんは、どうして私を誘ったの?」

「うん? さっき言ったとおりだよ。うちの婆ちゃんがスーパーに商品を卸してて……」

「えっと、そうじゃなくてね。ほかにも頼りになる大人はたくさんいると思うの。でも、一度も会ったことのない、プータローのおばさんに声をかけてくれたのはどうして?」

 みやちゃんは考える間もなく、すぐ答える。

「あたしのお父さんの連絡先知らないから。もうみーんな、あたしが来たらお父さんに電話かけちゃうんだもん。りょうちゃんは多分、チクれないでしょ? ていうか、みやちゃん、って最初に呼んできたじゃない。てっきりあたしのこと、もう知ってるのかと思ったよ」

「……あはは。そっか」

 私は笑ってみせてから、みやちゃんと同じようにニジマスの背をかじった。ほろほろとした白い身は食べやすい。新鮮な、淡い味がする。川のかおり、やや焦げた脂のかおりに塩味がのって、信じられないほどおいしい。

「どう?」

「こんな魚、初めて食べたよ。今までで一番おいしい。どんな魚よりも。私をつれてきてくれてありがとう、みやちゃん」

「よかった! でも、そうなんだ」

みやちゃんはもう一口、ニジマスの身を食べてから首をかしげる。

「あたしはスーパーのあのアジフライが一番好きな魚かな。あの味、うちの家族はみんな大好きなの。りょうちゃんも、よく味わって食べてみてよ」

 そうだったっけ。だらだらと食べていたアジフライだから……どんな味だったか、あまり思いだせない。でもあの一匹一匹も、このニジマスのように生きていて、誰かが捕まえ、スーパーに卸し、料理したのだ。そして母も、その魚がフライになっていく過程にかかわり、私に食べさせたくて買ってくれた……

「そうね。明日にでも食べてみようかしら」

「それでもやっぱり、釣った魚を自分で焼くのも格別よね。よかったら、またいっしょに釣りに来ようよ」

「いいよ。でも今度からはお父さんに許してもらわないとね」

 みやちゃんは難しい顔をした。その様子がかわいらしくて私は笑う。

 母が私にしてきたことは、もし精神の専門家などに言わせれば、けして正しくはなかったかもしれない。しかし、私は大切にされていた。ほんの少しも嫌われてなどいなかった。二十八年、手探りのまま暗闇にいたのは私と母だった。そして、それ自体は未だ善でも、悪でもない。母の言うとおりだった。


「鮮魚コーナー希望ですか。たしかに人手は足りていない部門です。それに、この住所は……もしかして、リーダーのお嬢さんですか」

 あれから私は家を片づけた。服を買い、髪を切り、毎日外へ出て、今の街を見て歩いた。二代目社長とも知りあい、次はしっかり許可を得てみやちゃんを預かり、釣り堀に遊びに行った。引きこもりだった私に初めてできた、LINEの友だちは二代目社長である。

 そうして魚が大好きな家族と親しくなり、私はやがて母がしてきたように、魚に携わる仕事に就いた自分を想像するようになった。

「はい。長いこと仕事から離れていたもので、今から母のようになれるかはわかりませんが、母の仕事については誇りを持っています」

「そうなんですね。お体はもう大丈夫ですか」

 履歴書に視線を落とす副店長は、やはり母から私について聞いていたのだろう。私は自信を持って、もう大丈夫です、と答えた。

「それは何よりです。しかし、楽な仕事でもありませんよ。そもそも働きだそうと思ったきっかけはなんですか?」

「微力ですが私が自立することで、私と同じような境遇の人たちを勇気づけられたらと思ったんです。それと鮮魚コーナーで働く母の話などを聞くうちに、今までいただいてきた命や、食品に携わる人々へのありがたさを感じるようになって……そうして生かしてもらった時間を無駄にしないためにも、働いて、私の人生の恩を返していきたく思いました」

「そうですか。ありがとうございます。……結果は追って、三日以内にお電話いたします」

 手ごたえはわからない。ここが駄目でも私はまた、あきらめずどこかに応募するだろう。

 スーパーを出ると、あの日よりも少し薄く見える影が私の足元に伸びていた。冷たくなった風も吹く。アジの旬は過ぎたが、川魚はこれからもっとおいしくなっていく季節だ。

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魚の命 ファラ崎士元 @pharaohmi_aru

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