魚の命

ファラ崎士元

前編

 我が家から歩いて二、三分もしない場所に、スーパーマーケットが建ったのは四十年前のことだった。りょうちゃんの家の近くだね、こんどお菓子を買いに行こうよ、と小学校で友だちによく声をかけられたのを覚えている。

 あのころの私たちは何度か、女の子だけでスーパーへ出かけた。小学校から帰り、公園で待ち合わせてから行ったので、スーパーに入るのはいつも混みあう夕方だった。夏休みの宿題で作った、紙粘土の貯金箱から出した百円玉を握りしめ、私たちは真新しく大きなその建物をめざす。店内に入ったときの涼しい風と野菜のにおい、まぶしい蛍光灯のかがやきは昨日のことのように思いだせる。

 私は特に背が低い子どもではなかったのに、あのころの私たちが見た陳列棚は、手が届かないほど高くそびえているようだった。私と友だちはお菓子売り場で、何を選ぶか相談し、楽しんだ。私はいつも、駄菓子屋では見かけない、輸入品のチョコレートを買っていた。

 けれどもひとり、お菓子売り場ではなく、総菜売り場へ行く子がいた。みやちゃん、とみんなは呼んでいた。私は彼女をあまり知らなかった。クラスだって同じになったことがない。友だちが連れてきた友だち、くらいの距離のまま、もう四十年会っていない子だ。

 あの子はいつも、アジフライを買っていた。覚えているのはこれくらいだ。あたしは魚が好きだけど、家族はみんな肉ばかり食べるの。と、みやちゃんはおいしそうにアジフライを食べていた。だからお菓子のとりかえっこに、みやちゃんだけはつき合ってくれなかったので、私はそれがつまらなかった。それに貴重なおこづかいを払ってまで、かわいいお菓子より給食みたいな魚を選ぶのも、どうにも理解しがたかった。

 そんなふうに、なんてこともないひとりの同級生のことを、私はしょっちゅう思いだす。我が家の食卓にあのアジフライが、たびたびのぼるようになってからだ。

 四十年前から変わらず、我が家から見えるスーパーは営業を続けている。先月死去した母は、七十歳を過ぎてもそこで働いていた。勤続は二十年ほどになるだろうか。母がよく持って帰ってきたアジフライは、パッケージも、レジを通した印のテープも、かつてみやちゃんが買っていたものと変わらない。味もずっと同じような気がする、というか私はこのアジフライが好きでも嫌いでもないので、変わっていても別にわからないだろう。

 オーブントースターで少し炙って、千切りのキャベツをつけ合わせて、母はそれを食卓へ並べる。私はいつだって、出された料理をだらだら漫然と食べていた。台所の片づけをする母の後ろ姿は、見るたびに小さくなっていくようだった。

 我が家から見える街並みは変わり続ける。私は会社勤めに失敗し、結婚にも失敗して、二十五歳で母のいる家に戻った。

 誰も悪くはなかったのよ。

 私が落ちこむたび、母はそう言ってくれた。そうして私はずっと今まで、ほとんど出かけることもなく過ごしてきた。昔は親戚の古本屋から引きとった、読みきれない量の漫画で時間を潰していた。今は、いつか必要になるかもと母が与えてくれたスマートフォンで、記事や動画を見続けている。

 葬儀は母の希望で、叔父が喪主をつとめた。私は何もできず、慌ただしい中、叔父の後ろで小さくなっていた。今後私をどうするか、親戚が話しあっていた気もする。

 私は思う。もうずいぶん昔から、私は母に嫌われていたのではないか。ぐずでのろまな子どもだからか、別れた父に似ているからか。母は最初から、私をひとりで生きていけないようにするつもりだったのかもしれない。

 このまま虚しく、親戚のやっかい者として一生を終えることが、五十歳をとうに過ぎた私にできる、たったひとつの親孝行だろう。


 寝具も衣服も、母が用意したものを使うばかりだった。葬儀の日の暑さは戻ってこない。夏から秋への移りかわりは、こんなに目まぐるしいものだっただろうか。誰もいない夜を肌寒く感じながらも、私には汚らしい薄手のパジャマを着続けることしかできない。

 家と少しの貯えが、私に相続された。母は私の健康保険や年金を毎月払ってくれていた。人ひとりがこれから生き続けるにあたって、書類の上での不自由は一応ない。叔父はそう言っていたが、私にはよくわからなかった。

 母の葬儀はまだ先月、もう先月。私は台所に残った米やスパゲッティ、冷凍の肉や魚を適当に調理して生きていた。今後どうしようか、落ちついたら考えようと毎日思っていた。

 一食分ずつ丁寧に冷凍された、魚の干物が減っていく。

 自立したことが一度ある私は、今の自分を引きこもりだと思っていない。テレビで報道されているような、社会をひとつも知らない人びとと同じではない気がしていた。

 小さな家はいつも閉めきっている。だから虫が入ってくることはない。しかし台所には小蝿が飛びかっている。私はごみ回収の日を知らなかった。どのようなルールで捨てればいいのかも教えてもらっていない。ごみ袋は廊下に重ねて置いた。大した量ではなく思う。まだまだテレビで見るごみ屋敷には及ばない。

 今日は最後のカマスの干物と、やわらかくなるまで茹でたスパゲッティを食べつくした。

 からっぽになった冷凍庫を見て、いよいよ私はひとりにされてしまったこと、それからたくさんの食料がなくなるまでの時間を無駄に過ごしてきたことを理解した。ようやく、私は四半世紀を、多くの人にとってもっとも精力的な人生の大半を、自ら手放し、何者になることもなく死に逝く運命を選んだのだと気がついた瞬間でもあった。

 二十五歳で私の時は止まったものだと思っていた。しかし体は老い、プライドも、勉学の成果も、ささやかな我慢強さも、わずかな名残さえなく消えてしまっている。

 これからどうしたらいい?

 今まで知らないふりをしていたが、小さな家の中には生ごみの臭いがただよっていた。  

 ずっと着ているパジャマも臭う。石鹸を切らしているので、体をろくに洗えない私自身も、すっかり汚くなっていた。

 あんまりじゃないか。私は何も悪いことをしていないのに。そりゃあ良いことはできなかったけど、こんな罰を与えられるなんて、誰か理不尽だと思ってくれないだろうか。

 その夜はいっそう冷えこんだ。夏の汗が染みたままの布団で、タオルケットに包まって、私は泣きじゃくった。母の葬儀でも呆けた顔でいた私なのに。そうしながら私はなぜか、幼いころ棒つきの飴を落として大泣きし、母に新しいものをせがんだという、なんてこともない古い日常の一コマを思いだしていた。


 泣き疲れて眠っていると、インターフォンの音で私は起こされた。カーテンの隙間から鋭い朝日が射しこんでいる。こんな早くに訪れるなんて、セールスなどではないだろう。

 私は汚いパジャマのままで玄関にむかう。もしかすると親族が私を引き取りに来てくれたのではないか。それか何かしらあって私を知った、役所の人たちかもしれない。たしか生活保護は貯金があると受けられないらしいけど、私には今、あらゆる助けが必要だ。

 私は昨日泣きはらした目をこすりもせず、憔悴した顔を作って扉を開けた。

「おはよう、りょうちゃん」

 りょうちゃん、と私を呼ぶのは今や母だけだ。その母も先月死んだ。

 かつては会社の同僚も私をそう呼んだ。

 その前は大学の友人がそう呼んだ。

 その前は高校の級友、その前は中学の……。

「おはよう、りょうちゃん」

 聞こえなかったと思ったのか、より大きな声で女の子はくり返した。私にこんな年の知人は無論いないし、親戚の子どもでもない。でもこの子は私を知っているらしい。

「どこから来たの。気持ち悪い」

「あっち」

 指さすのはスーパーがある方だ。それだけ言われてもわからない。外に出ることがない私には、あっち、にスーパー以外の何が今はあるか、さっぱり見当がつかないのだ。

 鈍くなった頭で、私は考える。年は十歳くらいで、長いおさげ髪、くっきりした吊り目。オーバーオールを着て、晴れた日なのに長靴を履いている。そして妙に大荷物だ。大きなリュックを背おい、四角い保温バッグも肩にかけていた。

 どこの子か、思いだせそうにない。しかも女の子の格好は、まるで今から長い旅にでも出る様じゃないか。私にどんな関係がある? ますます何が起きているのか。

「りょうちゃん、しばらくヒマって聞いてたから来たの。お願い。あたしとお魚を釣りに行ってくれないかしら。おいしいお魚、必ず食べさせてあげるから」

 魚、魚。釣りが好きな親戚や、その子ども なんて、やはりいない。秋のからりと乾いた日差しに、おさげ髪がつやつやと光っている。そういえばあの子も長い髪がきれいで、少年のような服をよく着ていて、魚が好きだった。顔も声もよく覚えていないけど……

「みやちゃん?」

「そうだよ」

 そんなことありえないと知っていながら、はるか昔の同級生の名前を私はつぶやいた。女の子はうなずく。ああ、そういえばこんな子だったと思う。いや、そんなはずはない。

 使わなくなって久しい私のおつむは、深く考えようとしてもすぐ音をあげる。そのうち急に肩から力が抜けた。そういうことなんだ。私はずっとよくない夢を見ていたんだ。

「りょうちゃんは、起きたばっかりだよね。お出かけの準備、てつだおうか?」

「うん。ありがとう」

 母の死も、私自身の老いも、勝手に過ぎた二十五年も、なかったものだと思う。だってありえないじゃないか。気づいたらそんなに時が経っているなんて。いつから夢なのかはまだわからないけど、その証拠に小学生の姿のままで、当時の友だちが遊びに来ている。よかった、本当によかった。

 私はみやちゃんを家に招き入れた。ごみ袋の溜まった廊下を見て、不思議そうな顔をしていたので、しばらくお母さんが帰ってきてくれないのよ、と私は説明した。それは大変だね、とみやちゃんは言ってくれた。

 ふたりでたんすやクローゼットを開けて、動きやすく、今の季節に見合った服を探した。外出、それも釣りに行くための服なんて私は持っていない。やっぱりお出かけできないよ、と断ろうとした矢先に、みやちゃんはクローゼットから薄手のセーターとカーディガン、それからジーンズを出してきた。

「これいいじゃない。りょうちゃん、素敵な服を持ってるのね」

「それはお母さんの服だよ。私には着れない」

「どうして? ぴったりだと思うよ」

 でもお母さんの服だし、と私がくり返せば、

「いいから、一回着てみてよ。りょうちゃん、こういう秋らしい色、すごく似合うから」

 と、みやちゃんは笑顔で服を渡してくる。それに押されて、私は母の服へと着がえる。たしかにそれらは、私の体格に合っていた。

「わあ、似合うじゃない。今のりょうちゃん、とてもクールな女って感じ」

「そんな……ねえ。私って、前はワンピースばかり着ていたでしょう。本当に似合っているのかなあ。それに、クールだなんて」

「そうなんだ。ワンピースもデニムも似合うなんて、最高じゃない。あとはカバンだけど、どこにある? 大きくて丈夫なトートバッグなんかがいいんだけど」

 知らない、と私が答えると、またふたりで家中の収納を開けて、使えそうなカバンを探しまわった。母が普段から持っていたものは、会社への通勤に使うような古い手さげだったけど、それはアウトドアには向いていないとみやちゃんは教えてくれた。

 やがてみやちゃんは私も滅多に入らない、埃の立ちこめる物置の中を探しに行った。その奥には頑丈そうなリュックサックがひとつあったらしい。みやちゃんは嬉しそうに埃を落としながら、それを私に見せてくれた。

「これはいいリュックね。古いけど、少しも悪くなってないし、プロの冒険家さんも使えるレベルよ」

「なんでそんなものが物置にあるのかしら。お母さん、行楽なんてしないのに」

「そうなんだ。でもラッキーじゃない」

 みやちゃんは私がクローゼットから見つけてきた、何かの粗品だったタオルをリュックに入れていく。彼女はとても張りきっていて、始終かがやくような笑顔だった。

 ……私のそばで、こんなにいきいきと誰かが笑っていたことなんて、しばらくあっただろうか。母だってテレビなどを見て、ふふっ、と吹きだしたりはした。でもそれとは違う。

「りょうちゃん、今お金ある? スーパーで飲み物とお菓子を買っていこうよ。あ、でもりょうちゃん、今起きたばかりなんだっけ。じゃあ先にイートインで朝ごはん食べよう」

「イートインって?」

「そこのスーパーに、買ったお弁当なんかをすぐ食べれる机ができたの。あたしはパン屋さんのフィッシュバーガーが好きなんだけど、お魚は釣ってお昼に食べれるし、朝はバタースコッチシナモンパイにしようかな。家でもおにぎり食べてきちゃったけど、いいよね」

「いいわね。でも私は行ったことないし……」

「別にむずかしくないよ。いっしょの席で食べよう。コーヒー屋さんもジューススタンドもあるのよ」

「うん、なら……寄ってみようかな。お金はあるよ。ほとんど銀行だけど、家には十万円くらいあるかな」

「そんなに! お金持ちなのね」

 銀行にも出かけたくない私にとっては心細い金額なのに、みやちゃんは驚いていた。私、月に二十万円くらい稼いだことがあるのよ、と言うと、みやちゃんは目を丸くし、すごいすごいとほめてくれた。

「十万円もあったらどこにでも行けるよね。うらやましいな。あたし、そんなお金見たこともないよ」

「そうかな。でも、どこにでもなんて……」

「あたしだったら北海道とか、高知にも行きたいかも。みやちゃんは、いいなあ」

 これはそんな金額なのだろうか。テレビは見ているものの、金銭感覚に自信はない。長旅も大学生のころ友だちと行ったディズニーランド以来、縁はなかった。

「じゃあ、スーパーに寄ったら行こう」

「待ってよ。釣りに行くって言っても、この辺りに池とかなかったよね」

「うん。バスに乗って釣り場まで行くんだ。りょうちゃん自分の交通ICは持ってる?」

「わからない……多分、持ってない」

「じゃあ小銭も持って行かなきゃ。ないならスーパーでおつりをもらおうね」

 乗り物で出かける。どうという話でもないのに、うまくできるか不安になる。つっかえたり、もたついたりしたら、バス中の人たちに笑われるんじゃないか。

「大丈夫だよ、いっしょに乗ろう。あたしは何度も乗ったことあるから」

 私が不安そうな顔をしたようだと気づいたみやちゃんは、しっかりした声でそう言ってくれた。こんな頼れる友だちが、私にもいたなんて。久々の外出でもなんとかなりそうだ。

 家の鍵がなかなか見つからず、少し時間をとってしまったが、それもみやちゃんが靴箱の上にあったのを探し当ててくれた。普段は台所の小物入れの中にあるのだけど、叔父が私を家へと送ってくれたとき、そこに置いて帰ったらしい。今にもちぎれそうな、紅白のミサンガが付けられた我が家の鍵。もう失くさないよう、私は帰ったら小物入れへと必ず戻そう。それからかわいいキーホルダーも、どこかで買えたら付けてみよう。

 靴は、五年ほど前に母がなぜか買い与えてくれた運動靴がある。まだ履いたことがないため、靴ひもの端まできれいなままだった。スマートフォンは触っていたから、細かい作業はまだできるつもりでいたのに、靴ひもを結ぼうとする私の手先は、油が切れた機械のようにぎこちなく、不器用だった。

 みやちゃんは玄関を開けて、私が靴を履くのを待っていてくれた。外の乾いた風の中に、我が家のよどんだ空気が逃げていく。もし今待たせているのが叔父や、葬儀で私を白眼視していた親族だったら、手間どる私にいらついていないか、常におどおどしていただろう。しかし小学生の友だちなら……何か言われたとしても、うるさい、今日は遊ぶのやめた、と言って扉を閉めてやればいい。そうして明日にはお互い忘れて、笑って挨拶をするだけでわだかまりも消えるのだ。

「お待たせ、みやちゃん」

「じゃあ行こっか。帰りは三時くらいになるけど、いいかな?」

「うん。今日はヒマだから」

「よかった、つきあってくれてありがと!」

 外に出る。雲のない青空から射す日光は、蛍光灯やスマートフォンの光より、肌を圧迫する重みがあるような気がした。吸いこむ空気は澄んでいるのに、金木犀や、遠くの車の排気など、無数の何かが溶けている。こんな広い空の下で、大きく循環する空気が私の体に入ってくる。

 そして影が黒い。こんなに濃い黒だっただろうか。向かいのアパートの壁に立てかけられた、自転車の影があまりに黒かったので、私は驚き、あたりを見渡した。太陽の下の影は、切り絵みたいにくっきりとした輪郭で、街にメリハリを作っている。私とみやちゃんの、大荷物で少しいびつになった影も、まるで黒のペンキで描いたかのように、存在感を持ってアスファルトの上へと出現していた。

「どうしたの、りょうちゃん」

「ううん、久しぶりに遊びに出るから、朝日がまぶしいなって思っただけ」

「そっか、りょうちゃん、外より家の方が好きなんだっけ。漫画たくさん持ってたもんね」

「親戚の本屋さんがくれたんだ。みやちゃんにも、読みたいのがあったら貸してあげる」

「うれしい! じゃあ今度は読書会しようね」

 家にあるのはずいぶん昔に流行った漫画ばかりだが、このみやちゃんならきっと喜んで手にしてくれるだろう。

 ふたりでスーパーへ歩いていく。信号をひとつも隔てないほどの近所だ。当時の友だちとスーパーへ出かけていたときも、私の家の前は必ず通っていた。その際には、ここが私の家なのと、表札を指さしてみんなに紹介していた。だから私のこの住所は、同級生たちにけっこう知られている。みやちゃんもそれを聞いていて、ずっと覚えていてくれたんだ。

 まぶしい朝日にさらされつつ、ほんの数十メートルの道のりを私たちは歩いた。空は広く、街はごちゃついている。車が走れば排気のにおいがして、街路樹の横を通れば土と緑の湿ったかおりに触れる。はす向かいの文房具屋の看板は、記憶の中のそれよりずっと色あせていたし、我が家の四件隣の弁当屋は、真新しい店構えのタルト専門店になっていた。しばらくぶりにアスファルトの上を歩く脚は、膝のあたりの関節がどうにもぎくしゃくする。家の中でもある程度歩いてはいたと思うのだけど、足首や土踏まずを繋ぐ筋が、こんなにはっきり伸び縮みする感覚は味わったことがない。滞っていた血がつま先まで巡っていくようだった。

 みやちゃんは私の少し前を、小さな歩幅で進んでいる。車がまばらに停まる、広々とした駐車場を通りすぎて、あのころから変わらないままのスーパーへと、みやちゃんは先に入っていく。自動ドアが開くと、花屋と青果売り場から流れるみずみずしい、冷やされた風が私の肌をなでて吹きぬけた。最後にこのスーパーに来たのがいつかは忘れたけれど、離婚して家に戻り、しばらく経ったある日に一度、母と買い物に来たような覚えはある。その時期と店内の様子もほぼ変わっていない。

 みやちゃんは買い物かごを手にした。私はカートを出そうとする。

「あっ、ありがとう。でもね、カートを使っちゃうと、つい買いすぎて荷物が重たくなりそうじゃない?」

「そうかな。ああ、そういえばテレビで誰か同じこと言ってた気がする。なるほどね」

 私はカートをもとの位置に戻す。そういや当時はかごさえ持たずに、ひとつかふたつのお菓子だけしっかり握り、わくわくしながらレジに並んだっけ。

「まずは飲み物買って、お菓子買って、そのあとあたしはパン屋さん見ようっと。りょうちゃんは何を食べたいの? お惣菜コーナーにも、おにぎりとか売ってるよ」

「そうね、私も久々にパンを食べようかな。みやちゃんのおすすめを教えてくれる?」

「もちろん! パイがとってもおいしいから、りょうちゃんにも食べてほしいな」

 私は喜んでうなずく。手近にある食べ物を漫然と消費するばかりだったので、自発的にこれが食べたい、という気持ちになった自分が自分でも奇妙だった。それにパイなんて、もうどれくらい食べていないだろうか。甘いものも、母が買ってきた袋入りのクッキーやチョコレートを、たまに分けてもらうくらいしか口にしていない。だからここ一か月は、お菓子とは縁がなかったし、それらが欲しいとも思わなかった。けど今は別だ。

 飲み物は、私は炭酸のオレンジジュースを、みやちゃんはスポーツドリンクを選んでかごに入れた。それからお菓子売り場にむかう。

「わあ、まだ売ってるんだ。これ、前から好きだったのよ、私」

「かわいいチョコレートね! いいじゃない、あとであたしのグミとも少し交換してよ」

「そのグミもおいしそうだって思っていたのよね。いいよ、みやちゃんとお菓子をとりかえっこするのって初めてね」

 私が手にした、包装にキイチゴの絵が描かれたアメリカのチョコレート。銀紙の包みがプラスチックの袋に代わってはいたけれど、デザインはあのころのままだ。みやちゃんは海老せんべいと、ミント味ののど飴もほかに選んでいた。釣りには待つ時間があるから、長く口に入れておけるものがあればいいよとみやちゃんが教えてくれたので、私もコーラ味のキャンディを一袋かごに入れた。

 レジは店員がいる列と、お客が自ら商品を通すことができる……セルフレジというらしい列があった。しかし、ああいった作業をするとなると、やっぱりもたつかないか私は気にしてしまう。だから、さっさと手近な有人のレジの最後尾に立った。買い物かごはみやちゃんが持っているのだが、八番レジに並んだ私のそばに着いて、いっしょに順番を待ってくれた。

 それからみやちゃんは、彼女が選んだ商品たちをかごから取り出し、細い腕に抱える。そして、先にお会計していいよ、と言って、私の後ろへと回って並んだ。そうだ。母との買い物とは違い、ここではひとりで清算しなければならない。私はスーパーでの会計さえ、うまくできないかもしれないと怖かった。

でも何ごとも起きなかった。店員はすみやかにバーコードを読み取っていく。ポイントカードの有無を尋ねてきたけれども、私が首を横に振ると、かしこまりましたと応えて、一万円を預かってくれた。おつりを受けとるときにだけ、不器用な私は時間をかけてしまったが、誰も、何も言わなかった。

 私はみやちゃんの清算を待ってから、買ったお菓子などをふたりでリュックへと詰めていった。そうして背おった古いリュックは、肩と腰のあたりがずっしり重たくなっていた。たくさんのお菓子を買った満足感は、なんだか私を浮足立つような気持ちにさせてくれる。

 それから私たちはイートインスペースへとむかった。ジュースの自販機、無料のウォーターサーバー、それとカラフルなテーブルが、二階に続くエスカレーターのそばへと並べられている。利用しているお客は、今はいない。

 ふたりで紙コップにウォーターサーバーの水を注いだら、みやちゃんに座る場所をとっておいて欲しいと頼まれたので、私は一番近くの青いテーブルを選んで席についた。パン屋へ行こうとするみやちゃんに、何が食べたいか聞かれたときには、みやちゃんと同じのがいいよ、と私は言った。

 楽しげな音楽や、レジで接客する店員の声、それから安売りの店内放送など、スーパーの中では途切れることなく物音が鳴っている。我が家で聞くテレビ、スマートフォンの音、屋外から響く風雨やトラックの振動とは違い、なんというか、広い建物にこもる雑多な音には、空間に満ちる一塊の粘菌のような、異様な重厚さと存在感があった。

「りょうちゃん、おまたせ。二百五十円よ」

「ありがとう。これ、お金」

 そのうちに戻ってきたみやちゃんへ、私は先ほどの釣銭を探り、二百五十円ちょうどを出して渡した。そして受けとった長い名前のパイは、ビニールの包装を開けるだけで、私たちのテーブルを甘いかおりで覆っていく。

「おいしそうなにおいでしょ。りょうちゃん、甘いもの好きなんだよね。きっとこれも好きなんじゃないかな」

 向かいの椅子で、私が手にしているものと同じ三角形のパイを、気持ちいいさくさくとした音をたてながらみやちゃんは食べていく。

 私も同じようにかぶりついた。濃く、甘いバター風味のクリームが前歯にまとわりつく。噛みしめると、触れた部分がしみた。その痛みを洗い流したくて、私は水を飲みこんだ。水の冷たさもまた歯の神経を刺激する。それが少し情けなくて、みやちゃんにさとられないよう、私は平気な顔でパイを噛みつぶし、頬ばっては流しこんだ。

「あれっ。あまり好きじゃなかった?」

「そうじゃないけど、思ったより甘くて……。おいしいとは思うのよ」

「そっか、良かった」

 これは嘘ではなくて、舌に触れるクリームはこってりと甘く、スパイスもきいていて、高級なケーキみたく幸せな味がした。悪いのは私の歯だけだ。

 パイの最後の一口を飲みこむ。みやちゃんはスマートフォンを眺めていた。そのうち、シマウマ柄のカバーをつけたそれの画面から視線を上げて、

「次のバスの時間がちょうどいいね」

 と教えてくれたので、出口のごみ箱にごみを捨ててから、私たちはスーパーをあとにした。お菓子を買い、パイを一切れ食べ終わるまでなんて長くはかかっていないはずなのに、外の陽はまた明らかに高くなっていて、足元の影もより黒さを増していた。

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