あてどなく、さすらう人たち

【お断わり】このレビューは、カクヨムに公開されている、著者の全作品を対象としたものですが、そういうレビュー設定が無いので、代表作のレビューコーナーに投稿する事にしました。

【本文】 著者の作品に共通して感じられるもの。それは、あてどもなく、さすらう人の姿だ。どこから来てどこへ行くでもない、頼りげない、何を思うでもない、感じるでもない、今にも消えてしまいそうな、青白くて透明な旅人の姿である。

そう言った「旅人」に魅かれるものは、誰の心の中にもあるだろう。私たちは自動車でもパソコンでもないのだから。人生は政党の綱領みたいに目的と手段がハッキリしているものではないのだから。

「この主人公は何が欲しいのか? その動機は?」
「主人公はどういう奴なんだ? 趣味は? 好きな食物は? 友人は?」
「どういう人生を送って来たんだ? 特に幼児体験は?」

演劇や映画では、こう言った点をハッキリさせておかないと俳優たちは役作りに苦しむ事になる。
でも、これは小説だから良いのである。言葉に始まり言葉に終わるのが文芸だから、ビルや精密機械の設計図みたいに合理的な、合目的的な物である必要はないのである。

ビジネス・トリップに慣れた人たちは、電車や飛行機の座る場所にすらこだわる。あらかじめ出入口に近い場所に座っておけば、混雑に巻き込まれずに済むからだ。「最短の時間で最大の成果を」。これが良いビジネス・トリップなのである。
著者の描く旅は、そういった効率優先の旅の対極にある。

古い映画に成るが、ヴィム・ベンダースのロードムービー「パリ、テキサス 」「ベルリン・天使の詩」「夢の涯てまでも」を思わせる部分もある。読者の想像力に委ねられた部分が大きいのである。

ベンダースの映画は決して特異なものではない。むしろ古典的とも言えるテーマを扱ったものだ。
松尾芭蕉や種田山頭火の旅日記に、一度も心を寄せた事のない人は多くはないだろう。
ポール・ゴーギャンやヴァン・ゴッホの絵は、ただのエキゾチシズムではないだろう。あれらは漂泊する画家の心をキャンバスに焼き付けたものなのである。
あの(よく言えば)地に足がついた(悪く言えば)俗物のサマセット・モームですら、あてどない南海旅行を通して『月と六ペンス』や『雨』『赤毛』と言った名作を生む「なにか」をつかみ取っているのである。
旅とは偉大な、そして底知れず恐ろしいものだ。定住型の人生を好む私には、そのようにも思える。