第73泳

 ワルワーラ、後に改名したユキとナンデモオコルは、はるか北の海にある街に住んでいたのだった。その頃、ワルワーラは人間でいうところの二歳ほどの小さな人魚だった。まだ金の髪は短く、緑色の目は顔の割に大きく、もちろん幼い顔つきをしていた。

 北の海の、その街の名前は「ウラニワ」といった。一枚岩の下にあって、グリンが育った街ほどの規模だった。ウラニワの周りにはサンゴ礁があって、一人で泳いでいくには小さすぎるワルワーラも、年長の人魚に連れられてそこでミルクをもらっていた。

 冷たい北の海だが、水深が浅くなっている箇所があって日当たりが良く、そこにサンゴが群生していたのだ。


「私はそこでも裁判長をやってたんだよ。正義の両手があるからね。事件はずっと少なかったが」

 ナンデモオコルは語を継いだ。

「物足りなくなるくらいに平和な海だった。私はそこで面倒事の面倒を見て、子どもたちが巣立つのを見ていた」


 そこへある日、大きな嵐がやってきた。丈夫な一枚岩に守られていたし、そんなものはウラニワの人魚たちは慣れっこである。その嵐が過ぎたころ、いつもはひんやりとするウラニワが暖かくなっていった。光を遮る岩の下にあるウラニワが、あたたかくなったのである。

 その周辺のサンゴ礁には、とても暑すぎる水温だった。サンゴは死に始め、味は淡白で水っぽくなっていった。

「旅の好きな人魚が言うには、ウラニワよりさらに北東の海は茹で上がるくらいに熱いというんだ。それからウラニワには、方々から逃げてきた人魚たちが集まってきた。みんな困っていたけど、ウラニワだって無事じゃなかった」

 ナンデモオコルは言いながら、悲しそうに眉を寄せた。


「このままでは、赤ちゃん人魚が育たない」

「嵐で何か、変わったことが起きたに違いない」

 ウラニワの大人の人魚たちは顔を突き合わせて話し合ったが、解決策は出ない。そうこうしているうちに、海水の温度は高くなるばかりだ。温泉のようになった水温を感じたナンデモオコルは、もう悠長にしてはいられないと決断した。

「それでどうなったの」

 緊迫した様子で、リムが聞く。


「クジラを呼んだよ。イルカもね。みんな温度に困っているやつらばかりさ。私たちはウラニワまるごと、街を離れた。温度の低いところをめざして、当てはなかったけれど、進んでいった」

 大型の哺乳類の腹や背中にぴったりくっつき、または縄を回して引いてもらい、大移動が始まったのだった。

 街一つが引っ越すのだから、体の大きな者も小さな者も、みんなが一群となった。


 ナンデモオコルは、誰も取り残さないように隊列を組んだ。その豊かな声は、濁った海の中でも関係なしに仲間の居場所を伝えた。

 他にも歌が得意な人魚たちが一群の周りを取り巻いて、はぐれそうな者がいれば歌って知らせた。


 その群れが歌に満ちていたのはそういうわけだ。得意な者を中心にみんなが歌って、それが済むとまた同じ歌を、重厚に響かせた。それだから、はぐれ者が出ずに済んだのだ。

「ナンデモオコル、おれはもう置いていってくれ」

 泳ぎの得意でない人魚が出ると、群れはロープを垂らしてそれに掴まるように言った。


 ナンデモオコルも自身の巨体に何本もロープをかけて、大きなヒレで水を掻いては、避難の群れが織りなす海流に乗って南へと下っていった。

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