第71泳

 オンドロ峡谷と呼ばれるその空間には、医師・ナンデモミルの家しか見当たらない。この大都市リュウキューウでは大変珍しいことだが、広い空間に大きな砂の団子を入れて独り占めでもしているかのようだ。

 だから、グリンとリムは困ってしまった。それから何度か声をかけたり、頑張って大きな声を出して呼びかけたりしたものの、まるで生き物の気配がない。

「入ってみようか? 寝てるのかもしれないよ。こんなに暗いんだし」

 リムが背中から、まだあたりをはばかった小さな声で言った。

「ううん、そうするか。でもまた、泥棒みたいになってびっくりさせるのは嫌だからなあ」

 グリンは慎みのある性格だから、返事がないとしても勝手に人の家に入るのは気が引けるのだった。


 仕方なく、家の前でしばらく待つことにした。グリンは皮膚に集中して水流を確かめてみたが、家の中に気配はない。人魚の肌は繊細な水の流れを受け止めることができるから、誰かが動けば分かるはずなのだ。

「もしかしたら地下室か何かがあって、そこに潜っているのかもしれないね」

「気長に待つってやつか」


 しばらく経って、またそれからしばらく経っても、家の中から誰かが現れることはなかった。


「ねえ、グリン」

 つとめて平静な口調で、リムが言った。

「グリン、もしこの海藻が治ってもさ、おれと友だちでいてくれる?」


 グリンは口の端を緩めて言った。

「それは、僕もリムに聞きたかったことなんだ」


 二人が友人同士であることと、これからもそうであることに触れたのは、これがはじめてだった。


 木の幹の向こうから、だんだんと近くなる大声が聞こえてきた。

「グリンさん! グリンさんはおられるか!」


「ここです」

 すると声は谷の上にやってきて、一人の人魚が降りてきた。

「よかった。やはりこちらだったのですね」

 その子どもの人魚は、快活そうな、人間でいうところの十歳ほどの女の子だった。金色のサメの目をしていて、顔付きもどことなく獰猛そうだが、礼儀正しい。

「裁判長のナンデモオコル様がどうしてもお会いしたいとのことで、こうしてお呼びにあがりました」

 舌を噛まないようにやっと発音すると、その人魚は自分の「ナビ」という名前を言った。


 それで、グリンとリムの二人はナンデモオコルの元へととって返すことになった。医師・ナンデモミルには会えていないから、またここへ戻ってくるつもりだ。


「その背中の魚は、なんという種類なのですか」

「おれ、知らないよ。おれって何なんだろう?」

 リムは布の下で不思議がっている。

「美味しいんでしょうか」

 ナビの一言でリムは黙ってしまい、グリンは苦笑いする。

 聞けば、ナビは裁判官になりたくて、司法で小間使いをしているのだという。体を大きくして威厳をつけることに興味があるから、魚もよく食べるらしい。リムはますます、息を殺して自分のことを忘れてくれるように祈るのだった。


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