第70泳

 ここから、医師ナンデモミルの家は少しだけ遠い。大きな木の幹の間を五回ほど通過しなくてはならず、グリンはまた少し考えるのだった。それから思い切って、バハラ婦人に頼んでみた。

「バハラ婦人、お忙しかったら断ってくれて構わないんだが、ここまでの道案内を頼みたいんです。どうでしょうか」

 そう言って地図の一点を指してみせると、バハラ婦人は親切そうな顔にぴったりの返事をくれた。


 こうして、大都市リュウキューウに慣れた案内人、バハラ婦人を先導にグリンは進む。


 目前には、太古の時代にその枝を栄えさせていたものが、今は幹だけを残してそびえたっている。それは視界一面を覆う巨大な壁のようで、思い思いに装飾された色や貼り付けられた布、なにやら絵のようなものが描かれた箇所もある。

 ここがまだ地上にあって森を成していた頃、根やら葉やらを広げる関係上、壁と壁の間は大きく開いている。そこへ人魚たちが、ある者はおしゃべりをしながら、またある者は陽気にハミングしながら店を広げている。

 バハラ婦人とグリンは、壁の間をゆるゆると、すれ違う人魚たちの間を縫うようにして泳いでいった。


「ここだわ」

 婦人が嬉しそうに言った。彼女は本当に嬉しいのだった。人が良い性質を持って生まれてくる人魚たちだから、誰かを助けたり手伝ったりすることが大好きなのだ。その中でもバハラ婦人は特に「人魚らしく」、丸い目をきらきらさせた。


 グリンは丁寧にお礼を言った。

「グリン、おれにもお礼を言わせてくれよ」

 リムは背中から、こそっと言った。赤や青の線が入った布を少しずらすと、リムはそこから顔を覗かせて、誰にも聞かれていないだろうかと気にしながら、それでもきちんと礼儀をつくした。


 医師・ナンデモミルの住みかには、巨大な木を見下ろせるところまで上がってから入る必要があった。それはひときわ大きな幹で、谷のようにえぐれた空間に、素朴な砂地のつくりの家が一軒あった。全体が丸く、まるで見上げるほどの砂の玉が谷に落ちているようだ。

 ドアはなく、ぽかんと口が開いている。中は暗く、まるで洞窟にでも入るようだ。


「ごめんください」

 グリンは言ってみたが、返事はない。

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