第3泳

「なんだって!」

 グリンには、その魚が背中の上で叫びながら、コンパスが回るように一回転したような感じがした。背に、そんな水流の圧を感じ取ったのだった。

 人魚はわずかな水流にも気が付く敏感な肌や鱗を、生まれつきに備えている。

 だからクリーム色の小さな魚が背をそっと離れたのも、グリンには分かった。それから、うつぶせのまま前に突きだしている腕の付け根の、左脇のあたりに小魚が隠れたのも知っていた。


「僕はね、魚くん。何も怒っちゃいないんだよ。魚は食べないし。」

 まちがいなく小魚は、この人魚に食べられてしまう心配をしているのだった。

 人魚は永久に近い命を持ち食事も摂る必要はないが、美食のために色々なものを口にする者も多い。


「ああ、じゃあ、おれがのこのこ出ていっても、食べないってこと? 本当に?」

 左脇の下で魚のヒレがヒラヒラ、エラがパクパクするのも、もちろんグリンには分かっていた。


「でも、どうやって証明するのさ。人魚はこわいんだ。人魚はこわい!」

「怖がらせるつもりはないんだよ。」

 グリンは少し面倒くさくなった。左から後ろを振り向く格好の姿勢を、なんとか元に戻したい。それでもこのかわいそうにドキドキしている小魚を驚かせるのは心外である。


「人魚は泳ぐのも速いし、こわいんだ! おれはどうしたらいい!」

 クリーム色の魚が哀れっぽく叫ぶのを聞きながら、グリンはそうっと前を向いて、腕に顎をおろした。これでうたた寝していたときの、楽な姿勢に戻ることができた。

「そうだな、君。僕はこのまま動かないから、どこかへ逃げていったらいいよ。」

「どこかって、どこへ。おれはおなかがペコペコなんだ。もうどこにもいけない。」

 小さな魚は消化もはやくて、すぐにおなかがすいてしまう。目の前には深い谷があるが、この大きさでは向こう岸に辿り着くのも大変だろう。一方、グリンの後ろには、砂礫がしばらく続いている。ざっと見ても、この魚が心から安心して姿を隠せるような、ちょうどいい岩場などがない。


「いや、ちがうぞ!」

 急に、小魚は確信を持って大声を出しはじめた。

「おれは海藻を食べてただけだ!それが人魚の背中なんて、そんなわけがあるもんか!おまえはうそつきだな! 本当は、人魚なんかじゃないんだろう!」

 グリンはオコゼに似た口元をさらに突きだして、目をぱちくりした。


 賢いグリンは、自分の背になにやら、この小魚にいわせてみれば「海藻」が生えているらしいこと、それをこの小魚はつついていたのだと瞬時に察した。

「このうそつきめ! 美味しい海藻を独り占めしようっていうんだな! この!」

 左脇の下で、威勢が良くなった小魚がちぎれんばかりに怒っていた。

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