観光地VS多重人格者
@DojoKota
全編
「僕はいま、伊豆にいる気がする」と私たちは呟いた。「確信は持てないけれど、たぶん、きっと、ここは伊豆なんじゃないかなあ、と思う。いや、逗子かなあ」その頃、というか、僕は幼年期から、物心がついた時から、枝分かれした頃から、伊豆と逗子との区別がつかないでいた。言葉の上では、記号の上では、区別はつくのだ。伊豆は伊豆で、逗子は逗子だろう、と。川端康成が、青年期遊び歩いたのが伊豆で、最晩年自殺したのが逗子だったよなあ、って文章上での区別はつく。が、いざ、具体的に、想像してみようと思うと、伊豆の伊豆らしさ、逗子を逗子足らしめる何かが、僕の中で一切浮かんでこない。結果、想像上の伊豆像と想像上の逗子像とが一切合切一致してしまう。こりゃ、あかんと思う。なんかしらんけど、失礼な気がする。心がいつもやましかった。
で、そんな自分の不甲斐なさが嫌で、いっそ、伊豆ってものがなんなのか実地検分しようと思って旅立ったのであったが、途上自分が伊豆へ行こうとしているのか、逗子へ行こうとしているのか、わからなくなってしまった。伊豆へ行きたいのか、逗子へ行きたいのか、伊豆へ行かねばならないのか、逗子へ行かねばならないのか、わからなくなってしまった。僕が乗っているこの列車が伊豆へ向かう列車なのか、逗子へ向かう列車なのかさえ、わからなくなってしまった。青春18切符があだとなった。ろくろく路面地図も確認せず、勘と直感と天啓頼りに乗り換え乗車を繰り返す僕の性向があだとなった。「まあ、いいじゃん」と実はあんまり気にしていない。
なんとなくだけれど、辿り着いた気がした。
どこかには。
というのも、列車は終点だったし、たくさんの乗客たちが押し合いへし合い下車したから。外国人旅行客さえいたから。きっとここは、伊豆だか逗子だか知らないけれど、逗子だか伊豆だかどちらかだろう、と推察した。
汽車を降りると、そこはもうもうと湯煙で、伸ばした手さえ見透かせなかった。足元がかろうじてモノクロの陰影で感知できるくらい。だから、御都合主義なことだけれど、駅名を綴った看板も時刻表も路面表も一切合切、僕の視界から覆われていた。車内でうつらうつらしていた僕は、到着駅名のアナウンスさえ聞き漏らしていた。もうここまでくると確信犯と言って差し支えなかった。「ここはいったいどこなんだ」にこにこしながら私は呟く。
ところで(と先ほどから説明的モノローグばかりで申し訳ないんだけど)、そのころ私たちは多重人格者だった。一つの肉体に複数形の私たちが住まっていた。よくある話、だと思う。俺はころころ人称が変わった。生物学的な性別は変わらなかったけれど、猫背になったり内股になったり、肩肘張ったり、海老反りになったりと、始終せわしなかった。けど、多重人格にもいいところは山のようにあるのだった。たとえば、一人旅なのに、一人旅っぽくないところとか。喜びとか悲しみとか、相反する感情がいちどきに訪れて、いろんなことがどうでもよくなるところとか。伊豆に行きたいあたしと、逗子に行きたい俺とが、水面下で闘争をおっぱじめて、結果こんなことになってしまうところとか。右へ行きたい僕と左へ行きたい儂との間をとって、まん真ん中を突き進む私は、案外バランス志向の人間なのだ。実際、大学も地元の国立大学の、しかも経済学部を卒業している。ザ・王道なのだ。たぶん、きっと。セミロングの髪型は、見ようによっては、ロッカーにもパンクスにも、おしゃれな人にも、ただのどこにでもいる女にも見えるはず。カラーリングは玉虫色だけれど。「似合う」ってみんな言ってくれる。みんなとは、私の中にいる、みんな。
一群の観光客たちは、勝手知ったもので、ぞろぞろと改札らしき方向へ歩いていく。一寸先も湯煙のこの視界、俺は取り残されないよう彼らの後を、点字ブロック頼りに追いかける他ない。
と唐突に、私の視界が本当に暗転した。真っ暗闇に没した。なぜか、というと私たちのなかで唯一盲のわたくしが目覚めたからだ。わたくしが目覚めたので、わたくしはぎゅっと固く瞼を閉じる。そういう設定だから。盲って設定だから。私たちは仕方ないから、瞼裏にちらつく残光をプラネタリウム気分で鑑賞する。六人の男女が、薄暗がりの中、咳一つ漏らさず、ぼんやりと瞼の裏側を眺めている。わたくしは、勘と直感と経験と点字ブロックを頼りに、とぼとぼと歩き出す。暗闇の中、がたごとと揺れる私たちの座席。僕たちはほどよい恐怖に身を委ねる。心臓が飛び跳ねる音が、階下から聞こえる。
俺たちが色々なことに飽きた頃、わたくしが、さっとコントロールパネルから身を引いた。わたくしは、元来臆病者で、自ら身体を動かすのを好まないのだ。なにせ、自分で操縦しようとすると、モニター類が一切合切暗転するのだ。機械音痴なのだ。そういうことなのだ。盲って設定だから仕方ないことだけれど、それってとてもつまらない。だから、わたくしは、大抵いつも、私たちのうち誰かが操縦する私の視界をぼんやり眺めるのを好むのだった。
ゆるゆると瞼をもたげる儂。ぶつんと明かりがともる、私というモニター。相変わらずの湯けむりで、真っ白。けど、私の右肩から垂れ下がった右腕に何か繋がっていた。小さな女の子だった。私が子供の頃、こんなだったなあ、という背丈の、小さな女の子だった。あまりに自然で、何の前触れもなくて、わたくしを振り返る儂。わたくしは、こまったように、とぼけたように、天井にぶら下がった脳みそを上目遣いで眺めている。モニターのあかりに照らされて、シャンデリアみたいに乱反射する脳みそを、眩しそうに眺めている。『知らない』『そっか』
ふっと思った可能性。この女の子は、私のペンだこが出芽して、発芽して、成長して、分離して、独立した私たちの分身かもしれない。人格が分裂するくらいだから、肉体だって。そのくらい頑張ってくれてもいい気がする。そのくらい、ごくごく自然の成り行きっぽく、彼女は私の右腕を掴まえている。それが当たり前みたいな顔をして、私の手を引いている。急に立ち止まった私たちのこと、省みている。不満そうな不服そうな顔をしている。
「誰?」
「いずしです」
「ふーん」
「伊豆と逗子の中間生命体。それが私です」
『あのさ』心の中で、私は呟いた。
『なんや』手近にいた儂に尋ねた。
『意味がよく、わからない』
『儂にもよくわからん』あっけらかんと儂は応えた。
「えっと。それはどういうこと」
「文字通りの意味ですよ。私は、伊豆お父さんと逗子お母さんとの間に生まれた子、いずしです。ちなみに、ここも、いずしです。観光地の父と観光地の母の間に生まれた子は、血統書付きの観光地となるのです。なにはともあれ、いずしにようこそ」満面の笑みで私の手を引く。私も思わず笑ってしまう。よくわからないけど、まあ、いっか、とか思ってしまう。伊豆や逗子に性別ってあったんだ。知らない。何はともあれ子供は生まれるのだ。おめでたい。きっと、両親の名をとって、命名したのだ。いずし、って。そう彼女が思い込んでいるだけって可能性もなきにしもあらずだけれど、どういう事情が重なれば、そう思い込まなきゃならなくなるのだろう。そっちの方が却って不思議だから、不思議と、彼女は本当のことを文字通り文字通りの意味で言っているんじゃないかな、って素直に私はそう思うことにする。自分よりはるかに幼い子供を頭ごなしに否定するものじゃない。そういう大人になりたくないし、そういう大人が嫌いだった。『結局、僕は、伊豆にも逗子にたどり着けなかったのか』って僕が一人で悲しんでる。『大丈夫、また今度行けばいいよ』と僕を慰める私。
「いずしに来るのは初めてですか」
「うん」だけど、といいよどむ、あたし。
「ならば、ご案内いたしましょう。こうみえて、観光地ですから」案内できることが嬉しくてたまらないみたいに、地団駄を踏むいずしちゃん。案外、感情的な子なのだ。手のひらを握ってひらいて握ってひらく。彼女が小声で、おいこら邪魔、と呟くと、湯けむりがさーっと晴れる。まるでカーテンでも開くみたいにさーと晴れる。駅の柱にも、立て看板の地図にも道路標識にも、いずし、いずし、いずしへようこそ、いずしちゃんの名前。「ほら、ね」と誇らしげにいずしちゃんが呟く。本当に、誇らしげに胸をそらす。「ここは私の町で、この町が私です」
歩きながらの
「理屈を問うてはダメですか」
「だーめ」
私といずしちゃんとの
「いじわる」
「感じて、そしてわかってください」
会話。
伊豆には、伊豆山という、山があるそうだ。「それが父のおちんぽです」といずしちゃん。逗子には、逗子湖という湖畔があるそうだ。通称。おまん湖。「それが母のおまんこです」といずしちゃんが再び呟く。私といずしちゃんは女同士だから、恥ずかしくなんかない。私たちの中の男たちは、立ったり座ったり気ぜわしげに、そっぽを向いたり、口笛吹いたり、聞かなかった振りに腐心している。鼻の穴で、ぴーひろろ、と俺の口笛がこだましている。『おちんぽ・おまんこ』と意味を確かめるようにわたくし。
「ある日、世界が折り曲がって、伊豆山さいきっちょがが逗子湖の中をぬたぬたしました」
「そんな天変地異あったっけ」
「真夜中に、人間どもがぐうぐうと寝静まった頃合いを狙っての犯行でした」
「犯行」
「だって、許可とっていなかったから」
ひどい話があったものだ、と僕たちは内心思った。伊豆にも逗子に行ったことのない儂たちには、伊豆に伊豆山なる山があるなんて、逗子に逗子湖なる湖があるなんて知らなかった。ひとつ勉強になった。
「父にしろ、母にしろ、眠気眼で、ことに及んでいる最中も、夢うつつだったそうです。父は朝が来るまで、現実ではなく、これは淫夢なのだと思い込んでいたそうですよ。業が深いですね」私の前をてくてくと歩きながら、他人事のようにいずしちゃんは呟く。「伊豆山が噴火しました。逗子湖が多少波打ちだち、周辺部が氾濫しました。干拓地のようにどろどろになりました。近隣住民が悲鳴をあげました。噴火の瞬間、これは夢ではなく現実だ、と気づいた父は、慌ててよろめき、ふためき、逃げ出しました。いくじなし。いくじなしめ。折り曲がっていた世界が、元の通りに、どたんと水平。伊豆山山頂からはじわじわと溶岩と噴煙が垂れ流れ、折り目になっていた一帯はことごとく圧縮され、もともとなにもなかったかのような虚無が広がりました。私がこの世に誕生したのは、ちょうどその時からです。父と母の一部が合一した、受精卵。それが私。すくすく育って、巣立って、今に至ります。あれから六年。私も六周年。もう、大人です。父から、いず、を、母から、ずし、を受け継いでいずし。あまった、ず、はその辺に捨ててます」ず。いずしちゃんはとつとつと、歩数に合わせるような規則的なぶつ切れのリズムで、呟く。「ふふ」って笑う。
「ふむふむ」と私が呟いて。「ふーん」とあたし。「うむむ」「むむう」と俺、儂。「いや、うん」「そっかあ」僕、わたくし。
「そういうことにしておいてください。だいたい、初めて私を訪れるひとは、みんな混乱します。人間らしくていいですね。だけど、私は正直者なんです。私、嘘は言わないんです。嘘の吐き方、教わっていないし。嘘の言い方、知らないし。おはようございます、って夕方に挨拶すればいいんですか。ごちそうさまっていいながらさよならの見送りをしたらいいんですか。嘘って難しい。ルベーグ積分より難しい。何はともあれ、私を楽しんでいってください。観光地ですから」どことなく、誇り高く、三歩ごとに私を省みながらいずしちゃんは呟く。呟きながら、言葉の先を考えているようで、時折、ふっと、なにもない空白を、確かめるみたいに眺めている。ああ、うん。そうそう、なんて特に意味のない呟きを、。や、のたびごとに、挟む。手のひらを後ろ手に組んだり、ぶらぶらさせたり、ジェットコースターのように空中滑空させる。楽しげに、私が見ているのとは別の何かを、眺めているよう。
駅の改札は、とうの昔に越えていて、黄色い点字ブロックがむき出しの茶色い道に続いていた。三歩歩くごとに、名前のしらない若木、五歩歩くごとに、露天風呂、七歩歩くごとに民宿、十一歩あるくごとに、檜舞台、十七歩歩くごとに、お地蔵様。そんな土地だった。十九歩めには、木製の郵便ポストがあって、赤じゃなく朱塗りで、二十九歩めに、乾物屋。三十一歩で、極楽鳥。三十七歩、蝉の抜け殻。しばらく歩くと、だだっぴろい何もない草地。
「名物は、いろいろありますよ。温泉。温泉卵。温泉まんじゅう。温泉温野菜。温泉茶碗蒸し。温泉しゃぶしゃぶ。露天風呂。女風呂。男風呂。塩風呂。朝風呂。家族風呂。よりどりみどりです。手湯もあるし、足湯もあるし、茶の湯もあるし、もちろん、お湯もあります」いずしちゃんは嬉々として観光地いずしの説明をしてくれる。「あと、水も、なんと氷も」自己紹介が終わらない。観光地だから、しかたないか。けど。
「あのさ、実は、あたし」おずおずと、あたしが呟く。ああ、言いにくい。言わなくてもいいんじゃないかな、とも思う。実際、今更だしなあ、と。「実はあたし、ここじゃなくて、伊豆へ行きたかったんだ。けど、いろいろ間違えちゃって、ここに立ち寄っちゃっただけ。本当は、まだ、伊豆へ行く途中なの」「違う」とすかさず、俺がマイクスタンドをあたしから奪い取った。『なにをするのよ』「違う。違うんだ。俺は、伊豆じゃなく、逗子へ行きたいんだ。逗子なんだ。伊豆じゃない。逗子がいいんだ」『どっちでもいいよ』と私。
「そう」いずしちゃんが急にしぼんだ朝顔みたいに肩をすぼめていた。乾いた糊のように心がぱりぱりした。全て燃え尽きた灰のように髪の毛がサラサラと西日になびいた。
「ごめんね」とあたし。
「別に、僕は、伊豆じゃなくても、逗子じゃなくても、どこでもいいんだけど」と僕。
「私は、ここでいいと思う。だって、せっかくたどり着いたんだし。何かの縁だよ」と私。
「俺は、逗子を楽しみにしていたんだ。ずっと。この一年くらいずっと」と俺。
「お姉さん、何言ってるの」といずしちゃん。
「儂はな、一通りこの街を見て回ってからでも、遅くないと思うんじゃ。なんなら、予定を伸ばして、いずしのあと、逗子だか、伊豆だかへ参ってもよいしの」と儂。
「いずしちゃんがびっくりしてるよ」とわたくし。
いずしちゃんは、私たちの三歩まえで立ち止まって、体を右手四十五度へ向けた状態で省みている。半分笑っているけれど、困ったように目が泳いでいる。
「人間にはいろいろあるんだよ」と諭すようにわたくしが言った。「観光地にもいろいろあるように」
「そっか」とひとまずの納得を示すいずしちゃん。「そうだね」二段階めの納得。「たしかに」最終確認。
「あたしは、伊豆がいい」「俺は逗子が諦められない」
「なら」といずしちゃんが提案した。「ここまで、いずしまで、伊豆と逗子に来てもらいましょうか」
「そんなことできるの」
「父と母ですから。頼んだら、そのくらいできますよ」混乱が収束して、先ほどの、誇り高いいずしちゃんに戻っている。胸もそらしている。爪先立ちまでしている。そして、いずしちゃんは、「おとうさーん。おかあさーん。こっちこっち」と大きな声で、西と南にむかって叫ぶ。本当に大きな声で、草木が揺れる。
「すごい」と私。「すごい声」とあたし。
「これで、大丈夫」といずしちゃん。「これで、そのうち、来てくれるでしょう。しばらくしたら、しばらくしたら、きてくれるでしょう。新幹線に乗って、来てくれるでしょう」
伊豆と逗子って新幹線に乗れるのだろうか。
「大丈夫、なんとかなりますから」ほっとため息ひとつ。「父と母が来るまで、ひとまず、私で遊びませんか」
私はなぜだか、涙が出てきた。
いずしちゃんのことが、少し、というか、かなり、好きになった。
好きって感情の正体もわからないまま、好きって感情の実在を仮定したくなった。
その上で、ひとつの公理系を築きたくなった。
「うん」
再び歩き出す、いずしちゃんを、その影を踏まないように、てくてくとついて歩く。私の影はひとつ。いつも不思議だ。私の影はひとつ。なにもかも、六重に見える、乱視の人にしか、私たちの本来の姿は、見えちゃいないんじゃないか、って気がする。透明人間なんじゃないかって。透明人間を無理やり引きずり出しているのがこの世界で、私は、菜箸で身を引きずり出された栄螺なんじゃないかって。その引きずり出された身が、この体で、この影なんじゃないかって。いずしちゃんとは無関係に、そんなことを思う。そこのところを思う。
「うん。うん。うん」私は確かめるように頷いて。「あのさ」
「なんですか」
「私は、いずしちゃんでいいから。私は、いずしちゃんでよかったから」
「はい」
「伊豆へ行きたいのが、あたしで、逗子へ行きたいのが俺で、別にどっちでも構わないのが僕だったとしても、私は、いずしちゃんがいいから。少なくとも、私は。今の私は。私は、そうだから。そうだから、ね」
「うん」
少し困ったように、微笑む。
いずしちゃんが。
私が。
「右手に見えますのが、野ウサギのうんこで、左手に見えますのが、オナニーをする雌鶏でございます」といずしちゃん。
「うん」と私。
「さあ、どんどんいきましょう。いずしには、観光名所がたくさんたくさんあるのです」といずしちゃん。
「うーん、けど、野ウサギのうんことか、雌鶏のオナニーとか、名所なのかな」とあたし。
「でも、見てて楽しいですよ」とまっすぐな瞳でいずしちゃん。
「まあ、楽しいけど」と私。
右手には、野ウサギのうんこが山のようにあった。ころころとビー玉状の茶色い球がピラミッドのごとく精緻に、五メートルくらい積み重ねられてあった。左手には、己が卵を膣に入れようと企む雌鶏がいた。目が血走っていた。あたりは相変わらず、草木生い茂る平原で、見渡す限り、私たちと、いずしちゃんしか見えなかった。
「他の観光客はどうしたの」一緒に駅を降りたあの人たち。
「旅館でへばっているか、温泉に沈んでいます。あるいは」
「あるいは?」
「あるいは」答えに窮す。
「ここにいるよ」唐突に足元から声がした。見下ろすと、禿頭のおじさんが首から下、地面に埋まっていた。
「あ、山田さん」そう言ったっきり、いずしちゃんは、そのおじさんをまたぎ超えて、すたすた先へ進む。一定の歩速を緩めない。私も後を追う。
「放っておいていいの」
「何がですか」
「えっと、山田さん」
「何がですか」
「埋まってるけど」
「ああいう楽しみ方もあるんです。ここ、いずしでは。いろんな趣向で、いろんな人が、いろんなやり方で楽しんでくれたらよいのです。観光地ですから。山田さん。お夕飯は、七時ですから。それまでにお旅館へお戻りくださいね」後半は、少し声を張って、山田さんに向かって。
「あれってどこが楽しいの」
「見てるぶんには楽しいですけど」
「やってるぶんには」
「思い出づくり」
いずしちゃんは、私たちより背が低くて、子供で、だから、いずしちゃんはすたすた歩き、私は、立ち止り立ち止り、あたりを眺めながら緩慢に歩いていく。何もない草原のようで、目をこらすと、おもちゃ箱みたいによくわからないもので散乱している。妙につやつやする草花だと思って、触ってみたらビニールだった。ビニール製の造花が、二、三本植わっていた。それ以外の草木はもちろんみんな生きていて、その二、三本だけ、恥ずかしそうに色褪せている。
「見てください。猿が交尾しています。あ、よくみたら、あっちにも、うわ、あそこでも」
いずしちゃんが指差す先をじっと眺めてみたけれど、どこにも猿はいない。いるのは、毛むくじゃらの人間だった。男女共、胸毛と臑毛と髭が濃かった。顔面にお能の翁のお面をつけていた。彼らは一様に全裸で、一様に、お尻に真っ赤なペンキを塗りたくってあって、互いに重なり合って交尾していた。その数優に十、二十。絡み合いもつれ合い、正確な数は判然としない。皆一様に押し黙っている。ほのかに湯気が沸き立っている。
なにはともあれ
「あれはなに」
「猿です」
「猿に見えないけど」
「猿になりきっている人間です」
「観光客の人?」
「うん」
「ふーん」こういう観光の仕方もあるんだ。
「みんな無邪気に楽しんでいます。可愛いですね。ちなみに、山田さんは、あれをこっそり隠れてみるのが好きなんです。だから、こっそり埋まっているんです。みなさーん。お夕食は七時ですから」後半は、猿を演じる人たちへ。
「はーい」と猿からの返事。
「いずしちゃん」と私。
「なんですか」
「いいところだね。ここ、いずし、って。なんか自由で」
「自由なのは観光客の方たちですよ。私は夕飯作ったり、こうして観光案内するくらいです」謙遜しているけど、どこか誇らしげ。いつにもまして胸をそらしている。「見てください。あれ」
「今度はなに」
「夕日」
燃えている。と思った。自分の存在がちっぽけに思えた。どんなに個性的な染髪をしても、奇抜なTシャツを買い集めても無意味だと思った。全てがオレンジ色に塗り染まる。影さえオレンジ色。手掴みできるんじゃないかって思えるほど濃色。
「作ったんです。そして磨きました」
「すごい」と心の底から感嘆。六人全員声が揃う。盲目のわたくしにだって、肌触りでわかるほどの夕焼けなのだ。
私たちと太陽の間に、万里の長城を思わせる、巨大な、いな、巨大な巨大な拡大鏡が屹立していた。高層ビルよりもドームよりも大きかった。その拡大鏡を通して、夕日が何倍にも何十倍にも何百倍にも拡大され、光り輝いていた。拡大鏡は透明だから、一見なんでもないようだけれど、レンズの向こう側は、数百倍に拡大されているのだ。まるで小人にでもなったかのように、きょとんとしてしまう。コントロールルーム全体が煌々と照らされて、普段仄暗い奥の方まで照らされて、私たちの影が異様に長く伸びて、紐か線みたいになって、あみだ状に絡み合って、私たちはあまりの眩しさに、わたくしを先頭にして、太陽に向かって一列に並んだ。背の高い儂や俺が、卑屈に背をかがめた。なんだこれ。すごい。すごい。と思った。今にも燃え尽きてしまいそうで、すこしこわい。
「すごい」
「風景を作りたかったんです。綺麗な夕日をさらに綺麗にしたかったんです」いずしちゃんは、両手を広げ、全身で光を浴びている。光に舞う埃のように、いずしちゃんはくるくると踊る。私は呆然と突っ立っている。燃える。目に見えない何かが燃えている。
「すごい」だって「すごいのだ」
「さて、そろそろ帰りましょう。綺麗ですが、ずっと眺めていると、目が痛くなりますから。それに、夕日に照らされた街並みも綺麗ですよ」そうだろうなあ、と思う。早く。夕日が沈みきる前に早く、その光景を眺めたいと思う。すぐに、夕日に焼ける屋根瓦を眺めたい。
「早く、早く戻ろう」いずしちゃんの手を引く。
すべて、オレンジ色。濃淡のあるオレンジ色。オレンジ色の光の中、オレンジ色の影が踊る。オレンジ色の影の上をオレンジ色の私たちが歩く。まるで、追い風のように、光を背後に感じながら、まるで、太陽の光に包まれて、太陽の光に腰掛けて、そのまま、すーっと滑っていくみたいに、スタタタと、走っているつもりはないのに走っている。息が切れない。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
「わかってるけど」
興奮するとだめなのだ私。
「まるで句読点のない文章みたい」わけのわからないことを呟く。まるで句読点のない文章みたいに影一つないオレンジ色の街並み郵便ポストがが妙に赤い血の池地獄のような露天風呂線路が燃えている導火線烏が赤い道ゆく人々がみんな茶髪。わけがわからない。
「かっこいい」と俺。
「きれい」とあたし。
「すごい」と僕。
「なんじゃこりゃ」と儂。
「気持ちいね」とわたくし。
「うわあああああああああ」と意味もなく私は叫ぶ。「あああああああああああああああああ」
いずしちゃんが、そんな私達を見て、笑っている。
「喜んでもらえてよかったです。観光地やっててよかったです。今更ですが、お宿の方案内しましょうか。部屋からの眺めもいいのです」
「うん、うん」頷きすぎて首がもげた。
(落ちた頭をかぽっとはめる)
気のせいだった。
(はめた頭がぽろりととれる)
気のせいじゃなかった。
「ガムテープもってきますね」トテトタとはしり出そうとするいずしちゃん。ふっと立ち止まって。「あ、救急箱の方がいいですか」汎用性が高そうだから、救急箱で。
私は私の頭の中に閉じ込められて、ぼんやりと空を見上げていた。私の頭は私たちの胴体が抱えており、ちょうど私は、私たちのおっぱいを真下から眺めることができた。真下から眺めると、こう、なのか、とひとしきり詠嘆したあと、青空を眺めていた。街中が拡大鏡のお蔭でオレンジまみれなのに、空だけは、一隅一寸四方、ほんのりと青いのだ。青いというか、青黒い。そこから夜が始まろうとしている。
「きれいだね」
「おっぱいが」と胴体が応える。俺である。胴体は携帯のマナーモード着信時のバイブレーションのように全身細かく震わせ、その細かい振動が、空気に伝わり、声音となった。全方位へ拡散する声、ちょっと不気味。
「ちがうちがう」と私。
「おっぱいが」と俺。
「青空が」と私。
「月並みだ」と僕。
困ったことに密室であった。ミスチルではなかった。ころり、と首がもげた瞬間、私だけがコンロールルームにいた。で、そのコントロールパネルというのは、頭の中にあるのだ。みんなは、胴体の中の談話室でくつろいでいた。胃袋にもたれ、膵臓を抱き枕にしてくつろいでいた。小腸の上に寝そべるのは結構気持ちがよい。私だけが、頭の中に、閉じ込められた。困った。ひとりぼっちって感じだ。
「そっちはどう」と私。
「大丈夫そうですよ」と僕。
「予備エネルギー源とモバイルコントロラーで代用しとる」と儂。
「そっか」
「そちらはどう」とあたし。
「ひとまずは、問題なさそう、かな。聴覚システム、視覚システム、発話システム、味覚システム、異常なし」ふっと、泣きそうになる。ずっと、みんなと一緒にいたのに、いきなり一人ぼっちだ。泣かないけど。留守番。一人で留守番。ナウシカ見終わっても帰ってこない。もう一回見よう。まだ帰ってこない。もう一回見よう。まだ帰ってこない。夜は真っ暗。真っ暗な窓ガラスに私が映る。もう一回見よう。ビデオテープのキュルキュルと巻き戻る音が怖い。真っ黒な窓ガラスにナウシカ映る。夜が金色。巨神兵が夜を燃やす。王蟲の群れが夜を覆う。そんな記憶が蘇った。トラウマのトロイメライ。トロイメライなトラウマ。あのときは寂しかったなあ、と思った。少し平静になれた。何も初めての体験ではない。寂しいってこんな感じだったか、と手のひらを見つめる。コントロールパネルの前には相変わらず私しかいなくて、私の隣にはぽつんとマイクスタンドが彳(たたず)んでいるだけなのだ。マイクスタンドが佇んでいる様は、彳んでいるって感じだった。そして、彳むマイクスタンドと並んで佇む私は、行むって感じだった。そんな訓読みないけれど。
「大丈夫だよ」とわたくし。それっきり黙り込む胴体。
「大丈夫です。大丈夫ですよ、そりゃあ」と私。
トタトテといずしちゃんが山のような荷物を抱えて戻ってきた。全速力で駆けてきたあとなのに、はあはあ、と力強く息を吐く余裕さえある。
「色々もってきました。竹串。包帯。ガムテープ。接着剤。全身タイツ。フード付きのパーカー。永久磁石。裁縫道具一式。糊。納豆。お餅。血液凝固剤。ホッチキス。釘。マフラー。針金。寒天。粘土。豚肉ミンチ。石灰。ギプス。虫ピン。人体模型の頚椎。絆創膏。標本箱。釣り糸と釣竿。滑車とワイヤーアクション用のワイヤー。ね」
「うん」と私。
「ありがと」とあたし。
頭を重たげに抱える胴体と、その抱えられた頭を覗き込むように軽く膝を曲げるいずしちゃん
「失礼かもしれませんが、かわいい」
「なにが」
「小さくて、まるくて、なんとなくかわいいです」
「そっか」
「触ってもいいですか」好奇心の塊、いずしちゃん。
「噛むかもよ」とからかうようにあたし。
「噛まないよ」
小さな手のひらが、私の頬に触れる。反対の頬も。いずしちゃんが莞爾と笑う。どこからともなく立ち現れた石原莞爾がいずしちゃんと肩を組んで笑っている、ではなく、莞爾にはにっこり、という意味がある。
「なんかおもしろいです」
びっくりするよ、そんなことがあったら。
「他人事だと思って」
「えへへ」
「少し疲れた」
「うん」
「お部屋まで案内して」
「温泉もありますよ」
「とりあえず、お部屋」
私たち二人は、手近な旅館に上がり込み、どたどたと廊下を突き走る。二、三度、部屋を間違えた後、じゃあ、ここで、といずしちゃんぺこり。
「中居駒をやりませんか」といずしちゃん。
「なに、唐突に」と僕。
「うわ、すごい震えてる」と今更のようにいずしちゃん。
「声帯の代わりに体全体を震わせとるんじゃ」と儂。
「私にもできますか」
「その気になればな。ただし厳しい修行が必要じゃぞ」
「うーん、じゃあ、やめておきます」
「それが賢明じゃ。普通に喋ったほうが早い」
「ところで、中居駒ってなに」とあたし。
「中居駒は中居駒です」と莞爾と笑ういずしちゃん。
とはいえ、私たちは体も頭もぐったりとゆるみきっている。長旅だったし、初めて来る街の散策って結構刺激的だから。
「明日です。明日。今日は美味しいご飯食べて、温泉入って、ぐっすり眠ってください」とつぶやき、いずしちゃんは空いていた座布団にちょこんと腰を下ろす。私たちの体はごろりと畳に寝そべり、私の頭は、机の上に座布団を敷いて、その上に安置されている。いずしちゃんと目の高さが合う。
「ここにいるの?」と私。
「はい。お客様とのんびりくつろぐのが私の仕事なので」いずしちゃんは、ずずず、とお茶をすすすり、用意されてあった茶菓子をもさもさと頬張る。「残りの雑務は中居さんや観光協会の人たちがやってくれます。観光地ってそういうものなのですよ」ここはいずしで、いずしちゃんはいずしそのものなのだ。いずしちゃんは王様みたいなものなのかもしれない。朕は国家なり、なんてのたまった王様もいた。
私はボタン一つで瞼を閉じる。コントロールルーム片隅に据えられた仮眠用のリクライニングチェアへ、ふらつく足取りで歩み寄る。どっさりと、私は私の体をリクライニングチェアめがけて放り投げる。すべて想像上の出来事だから。私の体はぴったりとすっぽりとリクライニングチェアに収まった。ピンマイク越しにいずしちゃんへ、というわけではなく、誰へともなしに。「ちょっと休憩」
窓の外は、もう、真っ暗闇で、かといって、そんなに夜更けってわけでもない。電灯や電飾がなければこんなものなのだ。もう、秋なのだ。
ごはんですよ、っていずしちゃんに、揺り動かされた。だるまさんみたいに揺り動かされた。「そんな激しくしないで」ってリクライニングチェアからずり落ちてしまった私。ボタン一つで瞼を開けると、私たちの体が見当たらない。死角に隠れているのかな、と思ったけれど、私の頭を持ち上げるいずしちゃん。その際に、部屋全体を一望できたのだけれど、私たちの体はどこにもいない。
「お体の方は、先にお湯浴みに行かれましたよ」
「あ、ずるい」私一人をおいてけぼりにして。「私も」
「けど、夕飯の時間です。ご飯が冷めてしまいますよ」テーブルの上にカセットコンロと土鍋が置かれていて、その上に、盛大に山芋が盛られていた。山芋しかない。「鍋です。山芋鍋」いずしちゃんがいずしちゃんの頭の上に私の頭を乗せて遊び始める。「それと、麦酒(ビール)」茶色い麦酒瓶が、畳三畳ぶんくらい綺麗に敷き詰められてあった。「じゃんじゃん飲んでください」
「すごい」
「えへ」
私は山芋が大好物だった。山芋以外にもおいしい食べ物はたくさんあるけれど、何をおいても一番好きなのは山芋なのだ。それに麦酒も好き。毎日二升は飲みたい。アル中ってわけじゃない。ただ麦酒が主食なのだ。再度、「すごい」
「観光地ですから、何を食べたいかくらいすぐわかるのです」誇らしげにいずしちゃん。
私たちはどんちゃんさわぎをした。さわぐ、といっても、首から下がないわけで、そんなアクロバティックな騒ぎ方はできなかった。けど、桃色に火照る体が湯殿から帰ってきて、流れが変わった。世界が滅びるのでは、と思えるほど騒ぎに騒いだ。いずしちゃん自身が主犯の一人だから、旅館の中居さんも番頭さんもおかみさんも苦笑いするしかなかった。他のお客さんだってそう。「いつものことだから」次第に隣室のお客さんや中居さんも加わって、さらに騒いだ。フランス革命が過疎村の夏祭りに思えるくらい騒いだ。
私たちは互いに抱き合うようにして眠った。酔いつぶれたいずしちゃんがやさしく私の頭を抱え込んだ。乳飲み子のような、やわらかい、きたなくない垢のような匂いがした。肉肉しさを感じさせない肉の塊だった。まるで、垢のような。けど、普通の垢とちがって、全然きたない感じがしないのだ。麦酒くさいよだれが蜘蛛の糸のように垂れた。いずしちゃんのはだけたTシャツにくるみこまれた。いずしちゃんの胸に私の額が押し付けられた。とく・とく・とく、という心臓の音を、額で聞いた。かわいかった。音が。その、とく、は文章読本の、とく、に似ていた。音が。その音を聞いているのが、何よりも楽しかった。ラジオを聞いているのよりも、夢を見るのよりも楽しかった。瀆神の、とく、にも似ているな、と思った。音が。
『こんにちは』といずしちゃんが言った。
そこは、コントロールルームだった。つまり、私の頭の中だった。
『おじゃまします』とぺこりとお辞儀をするいずしちゃん。
リクライニングチェアで微睡みかけていた私は思わず飛び起きた。
『え』
『えへ』ごまかすみたいにいずしちゃんは笑った。『遊びに来ました』
『どうやって』
『夢を伝って。せっかく酔いつぶれて眠り込んだのだから、あなたの夢まで遊びに来たのです』
『そんなことできるの?』
『同じ心ですからね』
『ふーん』
『ここがあなたの夢の中なんですね』といずしちゃんは私のコントロールルームを、ぼんやりとながめわたす。『プラネタリウムみたい』
『うん』
それからしばらく、意味もなく笑って。
『また来てもいい?』
『うん』
『また来ます』そういうといずしちゃんは、貞子の逆再生みたいに、モニターに溶け込み、私の心から抜け出した。
ふっと、思った。
私にとっての心が、このコントロールルームなら、
いずしちゃんにとっての心は、ここいずしなのかもしれない。
よく、わからないけれど、わからないなりに思った。
そう、思った。
いずしちゃんの心音に額を澄ませた。やはり、いずしちゃんの心臓の音は、文章読本の、とく、と瀆神の、とく、で、瀆・読・瀆・読って感じだった。徳川家康の心臓の音はきっと、徳・徳・川・徳って感じだったのだろう、とふっと思った。どうでもいい迷妄。私って、頭おかしいのかもなあ。そんなことないよ。
朝、目がさめると、目の前に、私たちの体が着物はだけてほとんど全裸で横たわっていてちょっとぎょっとした。何に驚いているのか我ながらよくわからない。室内には静かに暖房が行き渡っており、秋だというのにまるで冷たくなかった。布団は敷かれていなかったけれど、いつの間にか、鍋やコンロや麦酒瓶は片付けられている。いずしちゃんもほとんど裸体に近かったから、やっぱりまだ、眠ることにする。いまや、私に許された肉体とは首から上のみだ。となると、首から下が、どんな格好であろうが、しったこっちゃないって気もする。私はまだ、そこそこに若いから、私たちの体も、なかなかに綺麗だったけれど、その肉体美は別に永遠ってわけじゃない。きっと、本当に、どうでもいい一時的な影法師に過ぎない。だから、きっと、しったこっちゃないで、いい気がする。瞼を閉じれば何も見えない。私は一人、コントロールルームで朝の体操を始める。これをすると目が冴えるから、それになんとなく手持ち無沙汰だから、目が冴えたって体といずしちゃんが目覚めなきゃ、私だってぼんやり過ごすしかないのだけれど。別に、美容体操ってわけじゃない。コントロールルームの私がいくら美しくなったって、それがどうしたって話だろう。私がほんとうに私になれるわけじゃない。私がまだ現役の陸上選手だった時、私は実際の練習の時以外も、コントロールルームや談話室や自室でずっと走り続けていたわけだから、記録だって、かなりよかった。たぶん、ずば抜けてよかった、って言ってもいいと思う。けど、それがどうしたっていうんだろう、と内心ぶちぶち思っていた。私がこうして、私がこうして日々私自身を鍛え続けていたから、私たちの肉体はそれなりのパフォーマンスを発揮した。でも、それは、私たちの肉体が成し遂げたことで、私自身が評価されることって、私たちの中でだけ、内輪だけ。肉体という厚ぼったい壁がここにはあるわけだ。私は運動選手だったけれど、肉体なんて滅んでしまえばいい、って思っていた。肉体なんて滅んでしまえばいい。燃える、乳房、を想像して、やっぱりそれは、という気持ちになる。もったいない。もったいない?乳房のなにがもったいないんだろう。乳首の焼けただれたおっぱいを苦心してすする赤ちゃん。想像の中の私の赤ちゃん。赤ちゃんのために、体はあったほうがいいのかな。もし、私赤ちゃんができたら、胎児のうちに、子宮をみんなでノックして、赤ちゃん人格をそこから引きずり出して、みんなで遊ぼう。まだ、言葉さえようようわからぬ私の赤ちゃんに、私たちのモバイルコントローラーを渡して、私たちの肉体で遊ぼう。あるいは、私たちの人格のうち一人と、たとえば儂とかと、赤ちゃんの人格を交換してしまおう。儂が、胎児の肉体に宿り、赤ちゃんは、談話室で私たちに可愛がられて育つのだ。生まれて来た胎児は、生まれたてのままで、儂の声で『天上天下唯我独尊』って大喝してまんこを覗き込んでいた婦人科医を魂消さすのだ。驚きのあまり、婦人科医は寿命を十年縮めるのだ。儂は胎児の肉体に宿りっぱなしのまま、天才児を演じるのだが、ラプラス変換がわからず挫折するのだ。けど、満一歳で高等学校程度の微分積分を解き、世界を驚天動地させるのだ。驚きのあまり、世界の平均寿命が十年縮むのだ。悪魔の子だ。私の子はすごい。まあ、儂、なんだけど。おっぱいに火をつけて、なにがわるい。ろーそくみたいにおっぱいに火をつけて、なにがわるい。固形燃料が、燃焼しながら、不定形になっていくのを眺めるのが好きだ。なんだか、まるで、私そのものがぐにゃぐにゃに不定形になってしまう感覚がして。けど、私たちの体が燃え尽きてしまったら、私たちの存在も消えてしまうんだろうか。こんなに確かに、ここにこうあるような気がしてても。燃やしたら、消えるのか。赤ちゃんができたら、外へ出なくてもいいよ、って言いたい。死産しちゃえばいい。赤ちゃんを人格だけ私たちの仲間に誘い入れて、人格を抜いた肉体だけ排出したらいい。それはとてもひどいことのような気がするけれど、べつに、ひどいことでもなんでもないことのような気もする。植物人間として生まれた胎児は、その後緩やかに死んでえばいい気がする。本当のところ、どうなのかな。私ってやなやつかもしれない。赤ん坊の人格には、名前をつけて、その子をみんなで大切に大切に育てたいな、と思う。儂が科学を教えて、あたしが雇われ仕事で役立つ事務作業と家事全般を教えて、私が体の動かし方を教えて、僕が、親戚一同と友人一同と知人一同とその他重要人物の電話番号郵便番号住所、好み嫌いなもの、具体的なエピソード、誕生日、家族構成、NGワード、機嫌の取り方、を教えて、俺が、俺は、忘れる担当だから、特に何にも教えられないけれど、俺には赤ちゃんの話し相手相談役になってもらおう。うん、それがいい。それでいい。けど、赤ん坊が育つ頃、私たちの肉体四十代だ。逆の発想もあるな、とは思う。私たちの側が私たちの肉体を捨てて、胎児へ移住するのだ。けど、それはなにか侵してはならないことを侵すようで、ひどくグロテスクだ。でも、一つの道だ。生まれた瞬間に『天上天下唯我独尊』をやり、鳥肌が立つほど知的な発言を繰り返し、生まれた初日に新救世主として新興宗教の教祖に祭り上げられ、以後、信者からの貢物で安楽に暮らしていく。ひどい話だな、と思う。ひどすぎて、そんな考えを考えたことを後悔する。私たちは赤ちゃんを身ごもらないほうがいいのかもしれないな。首、もげてるし。強姦されないように気をつけようっと。
なんて、思いめぐらしていたら、気がついたらいい日差し。
いずしちゃんがうにょうにょと伸びをして、しっかり眠り込んだ分、元気はつらつと飛び起きる。どしん、と地響き立てる。
「さあ、朝です」
「昼だよ」
「朝です」
朝と正午の中間。多分、九時くらい。
「うん」
「今日も楽しく、いずしを楽しみましょう」といずしちゃん。やっぱり、少し寝ぼけてる。
「うん」
私たちの体が私の頭を首の上に乗せて、いずしちゃんがバンソウコウで、ぺたぺたと頭と首とを繋げてくれる。ガムテープだと、剥ぐ時痛そうだし、肌がかぶれそうだからやめておいた。何十枚ものバンソウコウを三百六十度くまなく貼り付ける。その上から薄手のマフラーを巻きつける。季節が秋でよかった。それでも、少し暑いけれど。薄手の長袖に、ジーンズにマフラーというよくわからない格好になる。いずしちゃんは、Tシャツに、膝丈のスカート。昨日と同じ。
「今日は、中居駒をしに行きましょう」といずしちゃん。
「昨日言ってたあれ」と僕。
「なんだっけ」と俺。
「まあまあ、ついて来てください」たまたま廊下で立ち働いていた中居さんを二人摑まえるといずしちゃんは、トテトタと私たちのことを忘れたみたいに駆けてゆく。
旅館を出て、野原とは別方向に、しばらく歩くとコロッセウムがあった。血塗られたコロッセウム。血まみれたコロッセウム。夜中に不良の溜まり場になりそうなコロッセウム。「そんなことありません」といずしちゃん。「いずしは治安がいいのです」血のように見えるのは、そういう演出で、近づいてみると、ただの赤いペンキだった。
それからしばらく、中居駒で遊んだ。けど、そんなに楽しくはなかった。予定調和みたいな、遊びだったから。中居駒は、中居さんを駒のようにして遊ぶ遊びだった。いずしちゃんが考えた遊びだった。いずしちゃんが、いずしの新名物に、と考えた遊びだった。人工的な遊びだった。いや、どんな遊びだって、人工的だけれど。
「まず、中居さんの腰帯の端を手に持ちます」といずしちゃんは説明してくれた。「両手でしっかりと握るといいです」
「うん」
「次に、その帯を思い切り引っ張ります。すると、中居さんはくるくると回転し始めます。コロッセウムは擂り鉢状だから、真ん中らへんが窪んでて、そこへめがけて、中居さんたちは回転しながら、小走りに駆けて行くのです。傾斜に従って、回転する中居さんたちはばちんばちんとぶつかり合うのです。片一方が音を上げるまで、ぶつかり続けるのです」
「うん」
「それを眺めて楽しみます」
「楽しい?」
「たぶん、そこそこ」少しふてくされたような表情。私が乗り気になりきれないからだろうか。もし、ここで、『けど、そんなことしたら、中居さんが痛そう。かわいそう』なんて言ったら、きっと、いずしちゃんは、とてもしょんぼりしてしまうのだろう。悲しい顔をして、その場にしゃがみこんでしまうかもしれない。
「やろうか」と私が言った。「楽しそう」と付け加えた。
「別に、いいですよ。多分、楽しくないです」
「そんなことないよ。根拠なんてないけど。きっと、馬鹿馬鹿しくて楽しいよ。ちょっとだけエロティックで」
私たちといずしちゃんは、中居さんの帯を適度な強さで引っ張りあった。中居さんがバランスを崩し、転んでしまわないように、ゆるゆると引っ張った。コロッセウムの中を中居さんたちは、足駄で駆け抜けた。あまり駒っぽくはなかったが、迫力はあった。ほどけた着物をまとわりつかせながら、二人の半成熟の女が、真正面から後先考えずぶつかり合うのだ。中居さんは二人とも、私たちより、おそらく年下で、かと言って子供というには差し支えがある、まさに、女って感じの年頃だった。その女が、何度もなんども、くるくるくるくる回転しながら、ぶつかり合う。
コロッセウムには、中居さんと私たちといずしちゃんの四人しかおらず、森閑としている。
「中居駒は、なんといってもどんな中居さんを選ぶかが重要です」今更のようにいずしちゃんが解説する。私たちといずしちゃんは、二人してコロッセウムの片隅に立ち尽くしている。コロッセウムって意外と広くて、むやみに広くて、ただそこにいるだけで気持ちが不安定になる。「巨乳がいいです。くるくると回転する歳に、おっぱいが遠心力を倍加させるから」
「そっか。それもそうだ」
「けど、巨乳の中居さんは、なかなか、中居駒に参加してくれません。遠心力でおっぱいを引っ張られると付け根が痛むからです」
「たしかに」
「いつだったか、Fカップの中居さんがひいひい泣き始めて、さすがにかわいそうになりました。なので、使用する中居さんはCカップまでって規定を新たに設けたくらいです。国際規定です。ちなみに、今回使用した、たま子とひめ子は二人ともCカップで規定範囲内では最大戦力です。つまり、競技者の技倆のみが物を言うのです」淡々といずしちゃんは語る。「たま子とひめ子は同期入社で、同い年です。たま子は、地元ではそこそこの進学校に通うも家庭の事情で大学へは行けず、就職した口です。だから、競争心と敵愾心の塊です。同期のひめ子には、何があっても負けたくないのです。一方、ひめ子は、山奥の寒村で同年代が弟しかいない状態で生まれ育ちました。なので、こうして同い年のたま子と一緒に遊べる状況が嬉しくて嬉しくてたまらず、なかなか遊びやめられないのです。たま子はひめ子をこてんぱんんびやっつけて踏み躙りたいし、ひめ子はいくらたま子に痛めつけられても、一緒に遊んでいたいのです」
「悲しいね」
「悲しいかどうかは、私にはわかりません。だって、たま子にはひめ子みたいな従順な子が必要だし、ひめ子にもたま子みたいないつでも自分を意識してくれる存在が必要だから。我ながら、今回の中居駒はベストバウトです。どちらが勝ったって、二人の関係の何かが変わります。何かが壊れて、何かが生まれます。中居駒の醍醐味です」
「ふーん」とあたし。「なんかよくわかんないけど」と俺。「深いね」と僕。ほんとに、深いのかな、と内心私。けど、たま子とひめ子どちらを応援したらいいのか、わからなくなった。そもそも、私たちが回したのが、たま子なのかひめ子なのか定かでないのだけれど、ここまで解説されると、私たちといずしちゃんの勝負というより、たま子とひめ子の個人的因縁の勝負な気がしてくる。
「中居駒には人生が詰まっています。あるいは、人生の一部が中居駒です」わけのわからないことをいずしちゃんは呟く。「人生って中居駒みたいなものだと思うんです。確かに私は、観光地なので、私の一生は、人生って感じじゃないかもしれませんが(土地生?知りません)。でも、命って、ある時突然始まるじゃないですか。なんらかの外部の働きかけや刺激によって、ある時突然命が生まれて、あれ、なんで私生まれちゃったんだろうって半ば不審を抱きながら生きて行くじゃないですか。中居駒もいっしょです。きっと、たま子もひめ子も内心、なんで私たち駒みたいにくるくる回っているんだろう、馬鹿みたいって不思議がっているはずです。私とあなたが彼女たちの腰帯を思い切り引っ張ったばかりにたま子もひめ子も回り始めたのです。けど、一旦回り始めたら、勝負の行方も、この勝負がたま子とひめ子に何をもたらすのかも彼女たちの問題です。命も、そうですよね」たぶん。
「うーん」なに言ってるんだろう、いずしちゃん、って私は首を傾げた。
「だから、その、えっと。中居駒って、人生、ですよね?」
何度目かの衝突で、たま子とひめ子の着物が、完全に剥ぎ取られた。吹っ飛んだのだ。そのままくるりと、二人はさらなる回転ののち、再度の衝突で、たま子とひめ子のおっぱいが相ぶつかり合い、ばちちち乳ちちちんって、凄まじい衝撃音がシンバルのごとく鳴り響いた。二人は、ともにバランスを失い、唐突に捻挫した人のように崩折れた。「大丈夫、」と私たちといずしちゃんはほぼ同時に二人の元へ。
「痛い」
「おっぱいが」
「痛い」
と弱々しく二人は呻いた。
「なんて非人道的な遊びなんだ。中居駒って」と私は呟いた。
「人生も中居駒も、ともに不条理です」といずしちゃんは言った。
「うん」
なにをしているんだろう。冷静に考えると、とてもとてもひどいことを、ひどいことと気付かずに行ってしまった気がした。そんなわけないか。そんなわけあるか。
「助けなきゃ」
「うん」
「いずしちゃん、飛んで行った着物をとってきて」
「うん」
いずしちゃんは、いつものようにトテトタと真剣に駆けて行く。おっぱいが腫れていた。私は手に持っていた腰帯でおっぱいだけ隠した。外傷といえば、そのくらいだった。だから、きっと、大したことじゃないのだと思う。悔しげに下唇を噛み締め、ぷるぷるとふるえているのがたま子ちゃんで、そんなたま子ちゃんに緩慢な動作で、すり寄ろうとしているのが、ひめ子ちゃんなのだろう。
「たま子ちゃん好き」ってひめ子ちゃんが言って、
無言でひめ子ちゃんの脇腹を殴るのがたま子ちゃんだ。
ひめ子ちゃんは殴られても、少し嬉しそうだった。
たま子ちゃんも、実は少し嬉しそうだった。
それから、二人を抱き起こして、いずしちゃんが回収してきた着物を着せた。精魂尽き果てたのか、二人とも、お人形さんみたいに、ぐてっと脱力していた。うまく着せられなかった。つっかえつっかえ、脱皮しかけの蝉みたい。腕も背筋もまっすぐになってくれなくて、着物もよれよれのしわだらけになり、左右不均等になった。たま子ちゃんはいずしちゃんに寄りかかって、ひめ子ちゃんは私たちに背負われて旅館まで戻った。
宝物でも隠すみたいに、私たちの宿泊室まで彼女たちをかつぎこむと、いつのまにかすやすやと寝息を立てていた二人の寝顔をぼんやりと眺めて過ごした。眺めが良かった。鼻がよかった。ひめ子ちゃんの鼻がよかった。鼻筋がよくないところが可愛らしかった。他人の寝顔っていいな、と思った。幸せそうでいいなと思った。もう何年もこのままでいいなあ、と思った。宿泊費がたいへんだ、と思った。たま子ちゃんのほっぺたに羊羹を乗せて遊んでいると、いずしちゃんがなめくじみたいな口で羊羹を吸い取った。その口で、いずしちゃんが「そろそろです」と言った。
私たちはみなぼんやりしていて何の話かすぐわからなかった。だから、茶菓子の羊羹を、もうひとつ、ひめ子ちゃんのおでこに貼り付けるのだった。可愛くなった。もっと可愛くしたかったけれど、羊羹は二人分しかなくて、私たちにはもう、他に、やることがなくなった。座椅子にだらしなくもたれかかる私たちの肉体。
「そろそろってなにが」と私。
「父がきます。母がきます。列車の到着がお昼過ぎの予定なのです。もうすぐそうです」いずしちゃんは、何も考えていないみたいに、ひめ子ちゃんのおでこの羊羹を手のひらでべちゃっと潰して、その手のひらをたま子ちゃんの胸元に擦り付けている。それでも取れない餡子を、ためらいがちに私のほっぺたに擦り付ける。別に構わないから、私は放っておく。いずしちゃんは、はしゃいでいるのだ。「実は、かなり楽しみです。六年ぶりの親子再会です。楽しくないわけがありません。会おうと思えば、会えるから、ついついここまできてしまったんです。誇らしいです。いずしはここまで大きくなりましたよ、って二人に見せびらかします。コロッセウムだってあるんですよ。尋常じゃないです。スイートルームに父と母を泊めます。きっと、弟ができます。伊豆父さんのおちんぽは伊豆山といっていつも屹立しています。山ですから。逗子母さんのおまんこは、逗子湖といって、いつもびちゃびちゃです。湖ですから。機会さえあれば、いつだって、すぐに、インスタントラーメンみたいに、弟ができるんです。妹かもしれないけど。けど、弟がいいです。なんとなく」
「そっか」「伊豆伊豆伊豆」とあたしが言って、「逗子逗子逗子」と俺が言った。元はと言えば、この二人が、伊豆と逗子にこだわったのだ。けど、それがきっかけになって、いずしちゃんが、ずっと会わずにきたお父さんとお母さんに会えるのなら、それはとても良いことな気がした。あたしと俺がわがままでよかったと僕は思った。『よかった』『よかった』『よかったね』と私たちは勝手に安堵。
「父と母がやってきたら」といずしちゃんは、むやみに、たんたたたんと、たま子ちゃんのお腹で拍子を取りながら、莞爾と笑っている。「一緒に、父と母の中を観光しましょう。伊豆父さんと逗子母さんをいずし最高級のスイートルームにご案内したら、ずかずかと二人の中に分け入っていくのです。伊豆も逗子も広いから、長旅が期待できます。俗世間から身を隠すにはうってつけです。伊豆山を登って、逗子湖を泳ぐのです。野生児です。伊豆山が逗子湖に逆さまに沈下していく様を眺めるのも、非現実的で面白いはずです。記念写真を撮りましょう。滅多に見られない光景です。絵葉書にして、いずしのお土産屋さんに配るのです。生まれてくる弟にも見せるのです。きっと、感動的な光景です。官能的でもあります。ああ、うずうずしてきました」いずしちゃんがほんのり顔を上気させて、始終手足をばたばたさせて、時計をチラチラと見る。たま子ちゃんは、暴風みたいないずしちゃんから、這いずり這いずり、さりげなく距離を取る。いずしちゃんは、歌い出す。ら、ら、ら、と、らだけで歌い出す。the passanger だ。でも、それにもすぐに飽きる。落ち着きがない。「弟。弟。弟。お父さん。お母さん」
やっぱり、会いたかったんだなあ、と思う。いずしちゃんは、観光地で、けど、まだ、生まれて六年しか経っていないのだ。父と母に甘えていたいのだろう。三角貿易みたいなことしたいのだろう。三角貿易はちょっとちがうか。姉妹都市とか、朝鮮通信使とか。茶馬貿易とか。朝貢が何となくしっくりくる気がした。
『ねえねえ』と私は暴風雨と化したいずしちゃんを、熱湯を常温で冷ますみたいにしばらく放置して、首下へ無線で通信する。
『なんじゃ』と儂。儂じゃなくて、あたし、と俺が目当てだった。
『あたしに訊きたいんだけど、伊豆にはなにがあるの』
しばらく、無線機を投げ渡すような大げさな雑音がして、
『しらない』とそっけなくあたしが答えた。『強いて言えば、旅館とかホテルとかがあるんじゃないかな』
『じゃあ、俺に訊くけど、逗子には』
『なにもない』俺は即答する。そんなわけないだろう、と思う。『でっかくマジックでずしって書いてあるんだ』どこに。『逗子人に』
『逗子人って?』
『逗子に住んでる人のことだろ。逗子人の額には油性マジックでずしって書いてあるんだ。だから、そこは逗子と呼ばれる』
『僕たちは伊豆と逗子が区別できないのが嫌で、伊豆だか逗子だかどっちでもいいから、どっちかを目指して旅を始めたんだ』僕が間に割り込んでくる。『つまり、僕たちは伊豆についても逗子についても、なんにもわかっちゃいない』
『未知との遭遇じゃ』と儂。
『なんだかこわい』とわたくし。
気がつくと、いずしちゃんは冷めていた。無線会議を開いたところで結局なんにもわからなかった。「なにはともあれ」といずしちゃんは言った。「父母の到着まで、まだしばらく時間があります。日本の列車は正確ですから。もうしばらく、いずしを観光しましょう」たま子ちゃんとひめ子ちゃんのお腹をぽんぽんとたたいていずしちゃんが立ち上がる。私たちもたま子ちゃんとひめ子ちゃんのお腹をぽんぽんとたたいていずしちゃんの後を追う。
「いってらっしゃいまし」たま子ちゃんとひめ子ちゃんは、まるでそういうオルゴールみたいに、声を揃えて鳴いた。
私たちの目の前にはただただ墓があった。どこまでもどこまでも墓だった。墓の森だった。森が墓だった。森へ入り、しばらく歩くと一面お墓だらけだった。碁盤の目のように、規則的に墓が四方八方へ等間隔に広がっていた。その墓石の上を、いずしちゃんと私たちは、ぴょんぴょこと飛び伝っていった。墓石って妙につるつるする。御影石め。足を滑らし、転んで、頭をしたたかに打ち付け、死んでしまったらどうしてくれる。どうもしてくれないだろう。墓はいつも無責任だった。飛び移るたびに、頰に風を感じる。玉虫色の前髪がなびく。足下は幽霊まみれで、見通しが悪かった。けど、さすがに墓石上までよじ登ると、水平視線上に幽霊は現れず、見通しがよかった。幽霊って所詮元人間で、墓石上を歩くって発想が浮かばないのだ。真面目な顔して、墓と墓の合間に敷かれた砂利の上をとぼとぼ行ったり来たりしているのだ。私たちは、まるで雲海の上を歩くかのように、足元に絡みつく、半透明の幽霊を引きちぎるように蹴飛ばした。蹴飛ばすごとに、霊体は雲散霧消し、幽霊どもは次々と成仏していった。
「ねえ」と私が言った。
「なんですか」といずしちゃんが応えた。
「ここは何」
「観光客の墓です」そっけなかった。「幽霊って面白いですよ。空の墓を用意しておくと、どこからともなくうじゃうじゃと湧いてくるんです。ゴキブリホイホイに集うゴキブリみたいです。たぶん、無念仏ってやつなんです。お墓を持てずに死んじゃった人たちが空の墓めがけて殺到するんです。幽霊って馬鹿ですね」あたり一帯の墓には、ひとつのこらず、家名は書かれておらず、観光客の墓って毛書体で彫り込まれていた。脇にはホテルの部屋番号みたいに、105号とか、607号とか番号も彫られている。12034号の墓の墓の上で、ひと休みするみたいにいずしちゃんは腰を下ろす。私も、11034号の墓に腰を下ろす。その姿勢で両足をばたばたさせると、すごい勢いで足元の幽霊たちが成仏していく。成仏する瞬間、幽霊たちは一瞬きらきらっと光って、消え入る。様々な色に光る。幽霊たちも内心成仏したくてたまらないのか、続々と私たちの足元へ集まってくる。正直少し疲れる。幽霊たちは期待の塊で、私たちの肉体的疲労など御構い無しにあつまってくる。いずしちゃんも両足をばたばたさせている。いずしちゃんの足元でも幽霊たちが光っては消え、光っては消える。「私は観光地だから、こうして幽霊たちが集まってくれるのも、嬉しいです。ただ、困ったことに彼らは宿泊費を支払ってくれません」大して困っていない風にいずしちゃんは呟く。「食費も光熱費もかからないからいいんですが」いずしちゃんは靴を脱ぎ、靴下も脱ぐ。いずしちゃんの生足に群がる幽霊たち。私たちも、いずしちゃんを真似て、靴と靴下を脱ぐ。脱いだ靴と靴下はスカートの中にしまい込んだ。「いいですか」講習が始まる。「幽霊を蹴る時は、こうです。力んじゃダメです。こうです。滑らかさが大事です。自分の足が、絵筆や書道の毛筆になったイメージです。筆の毛先のようにぐねぐねに、です。ミドリムシの鞭毛のごとく」そう解説するいずしちゃんの両足は、骨がないんじゃないかってくらい、あるいは致命的なまでに複雑骨折してるんじゃないかってくらい、ぐねぐねと凄まじい勢いで幽霊たちを蹴り立てる。
三十分くらい、がんばった。途中少し休憩も挟んで、
「いい感じです」といずしちゃんのお許しがでた。「それでは、次の段階に行きましょう」いずしちゃんは、墓石のてっぺんを両手で掴むと、手首以下、体全体を幽霊たちの上に滑り込ませた。犇めく幽霊たちに乗っかる形で、いずしちゃんの体が、空中に浮かんでいる。
「うわ」と私のため息。「ほんとうに浮かぶんだ」
「十分な幽霊密度があれば、浮力が働くのです。鉄でできた飛行機が空を飛べるのと同じ原理です」私たちもいずしちゃんを真似て、両手だけ墓石に乗せて、残りの体を幽霊たちの上にぷかぷかと浮かべる。一瞬、沈み込んで、身を固くして、さらに沈み込みそうになるけれど、『大丈夫、大丈夫』と根拠なく私が私たちに語りかけると、モバイルコントローラーを操作する俺の緊張も溶けたようで、ふたたび、ふわりふわりと幽霊上に肉体が浮上する。肉体操作に関しては、私が担当するのがベストなのだが、あいにく首がもげたままだから、無理だった。「そのまま、さっきの要領でバタ足です」といずしちゃんが指示を出す。三十分間、みっちり練習した後だから、すでにコツは掴んでいる。すぐに要領を得る。体勢も安定する。推進力を手のひらに感じる。「うん、いいかんじですね。じゃあ、次、クロール行きましょう」片手を墓石に添えたまま、一回一回丁寧に腕を回転させていく。できうる限り、高く、広く、深く、滑らかに。両腕の回転に合わせて、薙ぎ払われるように、幽霊達が成仏していく。一瞬幽霊密度が下がり、体が沈み込むが、すぐに、過疎地帯をあらたな霊が埋め肉体が浮上する。「いいですね。さすがです。免許皆伝ですね。あとは、ただ、自由気ままに泳ぐだけです」いずしちゃんが墓石からパッと手を離す。私たちも、パッと手を離す。私たちにクロール泳法を伝授したくせに、カエル泳ぎで先行するいずしちゃん。俺もその方が楽だから、カエル泳ぎに切り替える。「墓石と墓石の間隔に注意してください。あと、墓地の境界付近は、幽霊密度が下がるので、沈みやすいです。沈みそうになった時は、冷静に。脱力したら再浮上しやすいです。着地してしまったら着地したで再度墓石によじ登れば良いだけです」
私たちといずしちゃんは、バンバン無念仏を成仏させながら、墓場を縦横無尽に泳ぎ回った。幽霊にこんな利用方法があるなんて知らなかった。幽霊達は、少女漫画の視覚効果のように、きらきらと輝きながら成仏して行った。いずしちゃんは、免許皆伝と言っておきながら、スクリュー泳法、飛び魚泳ぎ、背泳ぎ、クラゲ泳ぎ、クジラ泳ぎと、さまざまな泳ぎ方をこれ見よがしに披露した。「すごい」と私が感嘆すると、いずしちゃんは莞爾と笑う。もちろん、石原莞爾の幽霊は見渡す限り、そこにはいないけれど。
しばらく泳いだ。ずっと泳いでいたかったけれど、泳げば泳ぐほど、幽霊達は成仏するのだ。幽霊密度は次第に下がり、泳ぐことが非常に技巧的になる。最後の方は、泳ぐ、というより、波乗りに近かった。まだ成仏していない幽霊達を見つけては、彼らの背中にしがみつき、彼らが成仏するまでのほんの数刹那、彼らを馬車馬のごとく疾駆させるのである。紅茶に投入した角砂糖のごとく彼らは急速に溶けてゆく。自分が乗っている幽霊が成仏しきる間際、手近な他の幽霊に猿のごとく飛び移り、今度はそいつを疾駆させる。その繰り返し。私たちの自己ベスト乗り換えは五連続で、いずしちゃんは百二十二連続だった。やっぱり、年季が違った。気がつけば、私たちといずしちゃんの二人以外、そこにはもうなにもいない。ただ、墓石だけがどこまでも続いてる。あんなに賑やかだった墓地がしんと、静まり返ってる。耳をすませば、草木の背伸びする音さえ聞こえるくらいだ。
泳ぎ疲れた、私たちといずしちゃんは、墓石にもたれて、しばらく眠った。
まだ、お昼になっていなかった。まだ、伊豆と逗子とがやってくる時間になっていなかった。「なんだ」目覚めてすぐ悪態をついた。期待していたのだ。目覚めると、そこには伊豆と逗子とが広がっていると期待していたのだ。伊豆と逗子とがぬちゃぬちゃと音立てて接合していると期待していたのだ。伊豆山が逗子湖にすっぽり埋まりこみ、アルキメデスの法則通りに、逗子湖の湖水があたり一帯に溢れ出し、私たちの体だって、濡れそぼっていて、なんだかしょっぱくて変な匂いがするって、期待していたのだ。「やれやれ」と私はため息をついた。久しぶりに、淫夢を見てしまった。淫夢から目覚めると、いつも現実に、どことなく肩すかしを食らわされるのが、世の常だった。いずしちゃんは、まだ、私たちにもたれかかって、くこくこと眠っていた。道に敷き詰められた玉砂利をにぎりしめて、くこくこと眠っていた。「やれやれ」『淫夢を見たよ』とマイク出力をスピカーモードから体内通信モードに切り替えて、体内の私たちに無線通信した。まだ、私以外、誰も目覚めていないかな、と思っていたけれど、儂もすでに目覚めていた。眠気を感じさせるごにょごにょとした口調で『どんな夢じゃった』と聞き返してくれる。『あたり一帯の墓石が』とそこまで口にして、ちょっといいよどむ、言っちゃいけないことなんじゃないかなって、ほんの瞬間、憚られた。『あたり一帯の墓石が、ちんちんになってた』『ふーむ』と儂。『ただし、ファンシーなデザインのちんちんだったよ』『ふむふむ』と儂。『ウィンナーっていうより、魚肉ソーセージって感じだった。絶対着色料使ってた』『なるほどなー』と儂。儂は、私たちの中で、学問を司っていた。ギリシア神話におけるアテナみたいなものだった。だから、相談するなら何事も儂がいい。『私、おかしいのかな』『ハテナ』と儂。『どこがじゃ』『こんな夢みて、私、頭がおかしいのかな』私たちが大学生だった頃、儂にはよく、医学部の講義へ潜入させた。医者になるつもりはさらさらなかったけれど、やはり、多重人格であるからには、そこそこの総合医学と精神医学と心理学の知識は必要かな、と多重人格会議で決定したのだ。儂は古代史に興味があったそうだが、私たちの都合を優先した。儂は四年間で五千単位分くらいの授業に出た。大変だった。ノート代だけで月十万はかかった。ばかみたいだった。あまりに授業に出過ぎて、全校生徒と全先生の顔と名前を覚えてしまった。覚えられてしまった。年賀はがきが大変なことになった。自宅のポストを増設するはめになった。一号ポスト。二号ポスト。三号ポスト。四号ポスト。五号ポストまで、増設したところで、嫌気がさし、自宅の玄関に、赤インクで、ポストと、落書し、玄関扉をぶち抜き、いくらでも郵便物を投函し放題にしてあげた。結果、郵便局員がことあるごとに私の家に、上がり込み、お茶とお茶菓子をいただき、世間話をするようになった。懇意になった郵便局員が、年賀はがきを一枚一円で売ってくれた。あと、郵便局で処分しなくちゃならない裏が白紙の古紙を三十枚ずつホッチキスでとめてくれて、簡易ノートにして持ってきてくれた。その郵便局員はそれがために、局を馘になった。かわいそうだった。けど、その頃には、私たちと大学を介しての知人軍団間の手紙のやりとりだけでも、地方的な経済効果を生んでいた。彼は、私たちと知人間専属の配達請負人として独立した。流石に、何万枚規模になると、年賀はがきを一人一枚用意する気になれず、いっそのことと、彼を年賀はがきにすることに決めた。彼のTシャツにに油性マジックで、『謹賀新年明けましておめでとうございます』って文言とその年ごとの干支のイラスト描くのである。そして、彼に、何万人という知人宅一軒一軒に挨拶に行ってもらう。その際、彼は、知人たちに、Tシャツを見せびらかし、また、知人から私たち宛の年賀はがきを回収する。三月くらいに、一通り挨拶回りが終了するので、初春にようよう、彼は山のような年賀はがきを抱えて私たちのうちへお茶とお茶菓子をいただきに参上するというわけだ。私たちは、その年賀はがきを切り刻んで水に溶かして再生紙にして、ノートに使った。気がつくと、私たちは、知人友人たちから、レオナルドさん、あるいは、ファウストと呼ばれていた。私たちに好意的な人たちからはレオナルドさん、私たちを毛嫌いする人たちからはファウスト。ファウストののファの発音はfuck you のファだった。もう、遠い昔の話だけど。大学を卒業して何年になる。数年。
『お腹減っているだけなんじゃねーか』と儂の応え。なんの話だったっけ。あ、そうだ。魚肉ソーセージの話だった。『ほんとーのところどーなのよ』と私。『知らねー』と儂。思ったより頼りにならない。『病は気からというからの』『誰が言ったの』『誰じゃろ』『儂はどんな夢見ていたの』ふっと気になった。『大した夢じゃないがの』『気になる。もったいぶるな』このやろう。『儂が多重人格で、医学部の授業に出て、大学四年感で五千単位取得して、ノート代が月十万かかって』『なんだ』ただの回想だった。『な、つまらぬじゃろ』と儂。なにはともあれ。淫夢から覚めて直後の、この虚しさ、どうしてくれよう。どうにもできないのだろうか。もたれた御影石に頬ずりをしてみる。夢ではこれが、魚肉ソーセージじゃなくて、ちんちんだったのだ。どく、どく、どくと脈動していたのだ。その記憶を、蘇らせる。気持ち悪い、と思う。夢の中では、まあ、これもありかな、と思っていたのだが、夢から覚めて、儂と話して、意識が明瞭になってくると、やっぱり、それって気持ち悪い、と思った。さすがに、ないなー、と思った。御影石は御影石のままでいいと思った。御影石の冷たさにぺったりと頬を押し付けた。
ながいながいながいため息をひとつ。
ながいながいながいながいながいため息をもうひとつ。
ふらりふらりふらりとめまいがした。
いずしちゃんがつま先をぐ、っと伸ばした。いずしちゃんが本格的に目覚める前に、いずしちゃんの垂らした涎と目やにを私たちのTシャツの裾でぬぐってあげた。「よく寝ました」といずしちゃんの感懐。
「よかったね」と私。
「夢を見ました」といずしちゃん。「夢の中で、父と母に会いました。どうせ、現実でこれから会うのに、無駄な話です」
「そっか」
体内で、『起きるのじゃ』『起きるのじゃ』と他のみんなをゆり起こす儂。医学部直伝の健康体操をみんなに指導する儂。
「父と母はあいかわらず父と母でした」
「伝統ある観光地だもんね」と私。「くわしくは全然知らないけど」
「観光地というより、隠れ家って感じですね。両親は」といずしちゃん。「避暑地?まあ、なにかを避けるために行く場所です」
まだ、昼までしばらく時間があった。まるでそういうものみたいに、太陽は中途半端な南東方角に貼り付いていた。人間の黒子と一緒で、いくら手を伸ばしてぽりぽりと引っ掻いても動かし難いのが太陽だった。
私たちの肩を手掛かりに起き上がるいずしちゃん。いずしちゃんに手を引かれ立ち上がる私たち。見渡すと、幽霊たちがちらほらと墓石の影に見える。
「一年くらいしたら、また、ちょうどよく幽霊が貯まります。その時、また、いずしにいらしていたら、また、一緒に泳ぎましょう」いずしちゃんは、右も左も前も後ろもわからないほど、どこまでもどこまでも墓石の並ぶこの墓地を私たちの手を曳き、とことこと歩いていく。寝ぼけ眼の二人には、玉砂利の道が底なし沼のように感じる。ずぼ、ずぼ、とあるわけもないのに、両の足が、合計四本の足が、玉砂利の中に吸い込まれ、潜り込み、おっとっと、と前のめりに突っかかりそうになる。傘をさしながら杖をつきながら片足跳びをしているような具合になる。これはやばい。目がさめるような何かを四囲に求めるが、ここは墓地なので目薬はない。しかたないから、お互いにふくらはぎの裏をこしょぐりあって、呵々大笑した。座り込んで、腹を抱えて、玉砂利が折りたたんでいた足の肉に食い込んで、そうだ、と思い立って、立って、再び泳いでいた時のように素足になって、玉砂利の道を、地団駄を踏むように、相撲の四股のような動作で、カニが無理やり前進したみたいな遅々たる歩みで前進した。この玉砂利道のことを、相撲取りにとっての地獄と名付けた。目が、冴えた。覚醒剤でもキメたみたいに。
「私たちは全知全能」全能感に満たされた。「キメセク、キメセク」と鼻歌交じりに呟きながら、私といずしちゃんはただただ、だだだとまっすぐ進んだ。
いずしちゃんは(を)着飾ることにした。せっかくお父さんとお母さんがやってくるのだから、着飾ることにした。その方がいいって私も思った。お色直しをすることにした。私たちといずしちゃんは、ともにペンキ缶と筆とカラースプレーを手に手に、いずしという観光地を彩色することにした。そう決めた。
「大人な街にしたいのです」といずしちゃん。
「大人な街ってどんな感じ?」『怒涛のごとくおまんこが』と赤ペンキで落書しながら私が呟く。怒涛って字なんだか恰好いい。書いていて気持ちがいい。けど、よく見ると、涛の字に寿が混じっている。なんだかやっぱり恰好わるい。なんというか、偽善って感じがする。これだから略字は。なに、怒りながら寿いでんだっていう不満で、私はおまんこと書いた。
「怒涛のごとくおまんこが?」
「話が逸れてる」『 HERE COMES NOW 』と隣の樹木に落書しながら私は呟く。森の、中だった。墓を抜けると森だった。森の中に、墓があったのだった。ペンキ缶と筆とカラースプレーは、たま子ちゃんとひめ子ちゃんがスクーターに乗って届けてくれた。墓場の敷石を痛快に弾き飛ばしながら、スクーターは私たちのもとまで駆けてきた。ちょうど、『キメセク、キメセク』の鼻歌が最高潮に達しつつあるところで、私は急に恥ずかしくなった。しゅん、となってしまった。たま子ちゃんとひめ子ちゃんはそんな私を気遣ったのか、私の頭を私たちの体からべりべりっと剥いで、絆創膏をぷらぷらさせた私の頭を、代わり番こにぎゅ、ぎゅっと抱きしめてくれた。二人の腫れは治まっていた。再度、私の頭を私たちの体に丁寧に貼り付けてくれた後、彼女たち二人は、来た道じゃない道をどこへともなく、ぶろろろろ、と駆けて行った。もう二度と会えないかもしれない、と思うほど爽快に駆けて行った。
「あ、ごめん」
「何の話だっけ」
「大人の街にしたいのです」森に転がる石一つ一つに、赤青ピンクと丁寧に単色で彩色を施しながら、いずしちゃんが呟いた。
「大人の街かあ。大人にもいろいろいるからなー」と私。私の中にだって、いろいろいるくらいなのだ。
「なんというか、その。蝶ネクタイが似合うような」
「蝶ネクタイかあ」私たちの体は、著作権さえ恐れぬ不敵さで、右手でIggy PopのSearch and Destroy 左手でIggy Popのlust for life の歌詞を立ち並ぶ幹幹に落書していく。私たちの計画では、森全体にiggy Popの歌詞を所狭しと書き尽くしたのち、その隙間隙間を埋めるように相田みつをの詩を書きつけることで、この世の混沌を表現するつもりだった。Search and Destroy as human、だった。人間だもの見つけ次第破壊する、だった。けど、発想の陳腐さに、私たちの中で、主に、僕と俺との間で、自己嫌悪が生じ、筆を折った。『こんなんじゃない』『こんなんじゃない』「蝶ネクタイのどこが大人なの」全然大人じゃない。どちらかといえば猿みたいだと思う
「大人が蝶ネクタイを締めたら大人ですよ」
「でも、猿が蝶ネクタイを締めたら猿だよ」
「それは、猿だから」
「大人だって、ずっと大人だよ」
「大人も昔は赤ちゃんでしたよ」
「そう、なのかな」
「違うんですか」
「けど、まるで猿か、脳を患った愛玩動物みたいな大人もいるよ」
「それは、大人ではなく、猿か脳を患った愛玩動物そのものなのではないですか」
「でもさ、例えば、猿が百匹集まったら、少なくともそのうち一匹は大人でしょ」
「猿は何匹集まっても猿ですよ。そして猿は蝶ネクタイが似合いません」
「けどさ、例えば、例えばだけど、猿が猿のために猿だけで開催する蝶ネクタイファッションショーってのがあったら、猿のモデルたちが猿の作った猿一級の蝶ネクタイを身にまとって、猿独特のモデル歩きで、猿観客のまえで、猿カメラマンのフラッシュを浴びながら、猿として猿の誇りを漲らせながら、猿そのものの影を引き連れて、猿の足で歩き、猿の手を振るんだよ。その猿はきっと、蝶ネクタイがよくにあっているんじゃないの」
「そんなこと、ないですよ」
「私はね、もうすでに」悲しいことを口走ってしまう。「この世の中に存在する、ありとあらゆる蝶ネクタイは、もうすでに、猿たちの手に渡り、猿たちに独占され、猿たちの市場を流通し、猿たちに弄ばれ、猿たちの身にまとわれているのではないかな、と思う。もはや、猿そのものが蝶ネクタイなのではあるまいか」
「話が逸れています」と今更なことをいずしちゃんは言う。
「まあ、うん」と私。『怒涛のごとくおまんこがpart Ⅱ NOW ON SALE 』と私はカラースプレーで書き付ける。『怒涛のごとくおまんこがpart Ⅲ directors Edition COMING SOON 』『 IF THERE ARE SADNESS, EVEN VAGINA CRY 』訳のわからないことを書く。『 Oh, MAN GO! 』
「あなたの思う大人な街と私が思う大人な街って少しずれているのかもしれませんね」といずしちゃんが、さりげなく呟く。
「うん、まるで活断層みたいに」
いずしちゃんは突然目の前にびょこんと現れた殿様蛙に、カラースプレーで着色していいものか、どうか、迷っているそぶりを見せる。相談でもするみたいに、殿様蛙の、鼻先をとんとんと人差し指でつつく。反射的にいずしちゃんの指先を咥え込む殿様蛙。殿様蛙もかわいいが、いずしちゃんもかわいい。
「ごごごご」といずしちゃんが言った。
「なに?」
「活断層の揺れる音です」
あたりは、シンナーの香りでむんむんとしていた。
「シンナーの香りは大人ですか子供ですか」
「どっちだろ」
「タバコの香りは大人ですか子供ですか」
「どっちだろ」
そんな会話を交わしながら、地に伏して強い風が起こるのを待った。シンナーは空気より軽いのか、地面付近の風はすーすーしていて、少し気分がましだった。目線が、殿様蛙と、同じになった。その目には、どことなく知性の光が感じられた。こやつもしや、魔法使いに蛙に変えられた王子だな、と思ったがキスはしてやらなかった。きっと、こいつの故国では、すでに、突如失踪した王子に変わって、次男坊を次期後継者に据えられている頃だろう。今更のように、こいつが人間に戻り、帰郷すれば、無益な王位争奪争いの神輿に担がれて、無益な血が流れてしまう。こいつにだって、それは不幸だろう。「だから、ね」って私は殿様蛙に同意を求める。私ののどちんこがハエかイモムシかに見えたみたいで、私のぽかんと開け広げた口腔へ、殿様蛙のチューイングガムを思わせる粘着性の舌が、にゅにょい、と。舌先と舌先が絡み合う。私の前歯が閉じる前に、殿様蛙は舌を引っ込め、九死に一生を得る。茫然自失の私を尻目に、殿様蛙は、びょこんびょこん、重たい尻をおっことすような飛び跳ね方で、森の奥へと逃げていった。
強い風が吹いて、シンナーの霧を吹き飛ばした。私たちといずしちゃんは、ペンキ缶と折れた絵筆をその場に放置して、カラースプレーだけポケットに突っ込んで、ずかずかと歩き出した。持ち運びに便利だから。街は大して着飾れなかった。森の一部が、卑猥になっただけだった。まるで陰部みたいに。鬱蒼と茂る森は、鬱蒼と茂る陰部みたいに。でも、私たちといずしちゃんのからだはいつの間にか泥だらけのペンキまみれになっていた。目標は半ば達せられたように思う。少なくとも、私は、こうなりたかったし、いずしちゃんだってきっと、そうなんじゃなかろうかな、って勝手に推量。
太陽は未だ南天に達せず、昼まで、まだ遠い。
私たちは、森を抜ける。
どこか遠くの方で、鉦の音がして、どこか遠くの方で、原子力爆弾が、投下される音がした。どうかしてるぜ、って思った。まったく、脈絡がない。伏線ってものが、この世界にはまるでない。ずしん、と腹に響く衝撃がやってきた。地面が飛び跳ねるように、縦に揺れた。紙相撲の力士のように、私たちは、ぱたり、と倒れた。「なにこれ」って私の声が、どこか、遠い。それもそのはずだ。倒れた拍子に、私の頭が放り出され、ぐるりぐるりと、ボーリングの玉のごとく畦道を転がって、ガーターの代わりに、水田に着地したからだ。収穫前で、金色の天蓋が、眩しかった。耳の裏まで水に浸かった。先ほどの、ずしん、の振動がまだ、浸透しきらないようで、さらさらとした泥の中、砂つぶと砂つぶとがかすかに蠢きあっていた。稲穂の先が、風も吹かないのに、さわさわさわと揺らいでいた。
まるで、私たちの国を、打楽器の一種だとでも、思っていこんでいる、みたいだった。ぷろぷろと、いずし上空を爆撃機が一群となって、通過して、それからしばらくして、ずしん、ずしん、ずしん、ずしん、とどこか遠くの方で、けど、意外と近くで、原子力爆弾が、原子力爆弾って言い切れるわけじゃないけど、原子力爆弾らしき、爆薬が、ずしんずしんずしんずしんと、次々と投下されて、ずしんずしんずしんずしん、と土が揺れた。私たちの国土が、太鼓の皮で、撥の代わりに、原子力爆弾。重低音が、思わせぶりなロックミュージックのイントロみたいに、間断なく、響いていく。沈殿層の泥土と上澄みの水とに、綺麗に二分されていた水田が、すべてに意思が宿ったみたいに、てんやわんやになる。頭の芯まで突き上げるような振動で、何かに似た、酩酊感に私の意識が沈みそうになる。あう。
「い」ずしん。言葉の途中で、振動がくる。どこかで、また、原爆が投下された。その振動がくる。「ず」しん。舌を噛みそうになる。自分の意思とは関係なしに、上顎と下顎が、電磁石みたいに、強制的に、唐突に閉ざされる。でも。ず「し」ん。私たちの体がおもちゃみたいだ。振動のたびに、飛び跳ねて、オズの魔法使いの案山子みたいに、手足をバタバタさせてる。泳いでいるみたい。陸上で、泳ぐまねをする、パントマイマーみたい。幽霊たちが、そこにいるみたい。ずし「ちゃ」ん。ずし「ん」。
「みてみて」といずしちゃん。「地面が、トランポリンみたいです」ずしん、と、ずしん、の間をぬって、とんでもなく早口で、いずしちゃんが叫ぶように言った。
何もかも真っ暗になったと思ったら、それは瞼だった。
そうじゃない。って私は思った。そうじゃない、って言おうとした。「そ」ずしん。
舌がうまく回らないくせに、時間と時間の間隔の感覚が曖昧になった。ひどく、ゆったり、と時が流れた。まるで、錆びついたシャッター扉を、手動で、レールが外れそうになるたびに、どんどんと叩き叩き、軌道修正し、開け、閉めするみたいに、ほんの一瞬の瞬きが、ひどく緩慢に感じられた。私の時間意識に意地でも追いつこうと、無意味に瞼を瞬かせる。世界がコマ割りに変わる。けど、そのコマ割りとコマ割りの分割点がひどく長い。すべての語に長音符が挟まれたみたいに。すべての長音符と長音符の間にも長音符が挟まれたみたいに。ドーム球場の屋根が開閉される時のように、おおげさに、まったりと、視認できるほど、ゆったりと、優雅に、私の瞼が、開いたり、閉じたりする。その合間合間を縫うように、特別に代わり映えのしない、稲穂の天蓋、飛び跳ねる、いずしちゃんと私たちが見える。私の頭は、毛髪が、泥土や稲に絡みつくことで、かろうじて、
ずしんずしんずしんずしんずしんずしんって、地団駄踏むみたいに。
ずしんずしんずしんずしんずしんずしんって、もう音というより、ただ振動を感じているだけ。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんのことが、唐突に心配になる。スクーターから転げていないといいな。二人乗りは、不安定だから。
這うようにして、いずしちゃんが私の側へ。膝と腿が、余韻のようにガクガクと震えてる。まだ、子供なのに。
私たちの体は、ぺたん、と。もう、どうしようもないって諦めたみたいに、畦道のまん真ん中にへたり込んでいる。ずしん、ずしん、ずしん、と、振動が伝わるたびに、びくん、びくん、と、体の中心から、つま先指先まで痙攣のような余波が、不規則な時間差で、規則的に伝わっていく。私はそれを、私自身の体だからってもあるけれど、あまり直接的に、直視したくはなかった。
ずしん、ずしん、ずしん、ずしん、って。
ずしん、ずしん、ずしん、ずしん、って。
ずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんって。
ずずしん。ずずしん。ずずしん。ずずしん。ずずしん。ずずしん。ずずしん。
ずししん。ずずずしん。ずししん。ずずずしん。ずししん。ずずずしん。ずずずしん。
ずずずずずず。ししししししん。ずっしん。ずっしん。ずっしん。ずっしん。ずっしん。
ずしぃいしん。ずしぃいしん。ずしぃいしん。ずしぃいしん。ずしぃいしん。ずしぃししん。
ずぅっしん。ずぅっいん。ずぅっしん。ずっしん。ずしん。ずずしん。ず・・・ん。
しつこいぞ、このやろう、って思った。しつこいぞ、このやろう。
ず・・・ん。ず・・・ん。ず・・・ん。ず・・・・ん。ず・・・・・・・・ん。
ずしん。ずしん。ずしん。ずしん。ずしん。
ずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずずしん。
しん。しん。しん。しん。しん。しん。しん。
ん。ん。
ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。ん。
・ん。・ん。・・ん。・・・・ん。・・・・・・・ん。・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
だから、しつこいから。しつこいから。しつこいから。しつこいから。
いやだ、とも思った。
ずしん。ずしん。ずしん。また、始まった。ずしん。ずしん。ずしん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
遠くの方で、かすかに聞こえる。
ずしんずしんずしん。また、近づいてきた。ずしんずしんずずしん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
遠くの方へ、引いていく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
どこまでも、どこまでも、遠くの方へ、引いていく。いやだ。なにかが、いやだ。なにが。
ずしん。そばまで来た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。すぐに何処かへ。
ずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしんずしん。
お前は、ずしん。ずしん。ずしんずしん。お前は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
お前は、何がしたいんだ。お前は。お前は。お前は、ただ、何がしたいんだ。
わけがわからないほど、私の体が、ぺちゃんこになった。もう、見ていたくはなかった。凄まじい、速度で、人類の限界を超えた速度で、私は瞬きをしていた。まるで、この世界の、この世界を流れる、時間を、鋭利な刃物で切り刻んで、細切れにして、一つ一つの時間の断片を、永遠という、時間を超えたどこかそのへんの空き地に、標本として、展示してみたい、
ずしん。
私の思考を、ずしん、が、遮る。でも、これ、私の思考なの?
ずしん。
もう、何十発。何百発、もしかしたら、何千発、いや、それはないか、もし、そんな数の原爆を投下したら、この世界が、壊れてしまう。けど、私たちの体はすでに、なんとなく壊れてしまっている。だから、きっと、私は、どこかで、私の感覚を、意識的に誤解している。それと同時に、私の感覚も、私の意識を、無意識に従って、裏切っている。私の感覚と私の意識とは、まるで、別方向へ、のべつまくなし向かおうとしている。けど、
ずしん。
もう、そうっとしておいてよ。
ずしん。ぷろぷろぷろ。上空を、爆撃機が、来た道を、そっくりそのまま帰って行って、ぷろぷろぷろ、とまた、別の、爆撃機が、来た道を、来る方向へ、飛んで来た。
もう、いいや、って思って、私は、ことり、と、眠ることにした。
いずしちゃんが、私の側まで、這い寄って来てて、きょとんとした顔で、私や、上空や、四方八方を眺めている。
ずしんずしんずしん、って音が、まるで巨人の足音みたいに、私たちのすぐそばから、どこか遠くの方へ、例えば、私たちの国の北端と南端へ二手に分かれたみたいに、遠のいていく。
余韻が残る。余震がしばらく続く。
血管の鼓動まで、遠のいていくみたいに、あんな激しかった私の音が、爆撃の音によって、隠されていたけれど、あんな激しかった血の流れが、少しずつ、少しずつ、遠のいていくみたいに、弱まっていく。いつもの音域を遠く跨ぎ越えて、まるで、死んでいくみたいに弱まっていく。
さて。
さて。さて。
さて。
どっこいしょ。
うー。あー。あー。あー。よいしょ。
ううー。ああー。ふう。
さて、どっこいしょ、よいしょ、重たい腰を、私たちの体は地面から引き剥がす。もう、とうの昔に、爆撃はやんだ。雨上がりのように、虹はかからなかった。けど、気持ちの良い風が、どこからともなく流れていった。多分、西から東へ、だと思うけれど。
ちょっと、いろいろ、あまりに、衝撃的すぎて、西と東と北と南がよくわからなくなっていた。太陽を見上げて、太陽の位置を確認してさえ、どっちが西でどっちが東なのか、よく、わからなくなっていた。だから、風は、どこからともなく吹き込んで、どこからともなく流れていくようだった。
「こっちこっち」と私の声。
「あ、そこにいたんだ」と僕。
「今、拾い上げまーす」とあたし。
「痛てててて。そこら中に体ぶつけちまったぜ」と俺。
「大丈夫だった?」とわたくし。
なぜか、儂はだまりこくっている。
「はあああ」といずしちゃんが、ため息なのか、気合いでも込めているのか、よくわからない声を出した。
私たちが、私の頭を拾い上げて「いずしちゃん、手伝って」とあたし。いずしちゃんが背伸びして、まだ、数枚私たちの首元に残っていた絆創膏を私の首に接着してくれる。
「けど、もう、だいぶよれよれですよ」
「応急措置」絆創膏だけに。
「うまくはないね」
数枚の絆創膏のみで、くっついた、私たちの胴体と私の頭。まさしく、薄皮一枚。危機一髪。
さて、
あたりを見回そう。自分自身の身体性を確認したから、次は、周囲に目を向ける。
四方、八方、キノコ雲で、覆われていた。キノコ雲って感じじゃない。白い、雲の、壁。キノコの密林。
いずしの輪郭がよくわかった。いずしと、いずし外の地域との境界線を丁寧になぞるように、キノコ雲が、一群の、白い、雲の、キノコが、立ち並んでいた。
「ねえ」と私。
「なんですか」といずしちゃん。
「ねえ、どうして、ここだけ爆撃されていないの」もう、国中、くまなく爆撃されたって言われても不思議でないくらい、きのこまみれだった。どこをどう、見回しても。「いずしだけ」
「そりゃあ、観光地ですから」いずしちゃんは、照れたように、後頭部を手の甲でこすった。潜り込んでいた、田んぼのアマガエルが、びょこんと、いずしちゃんの頭から飛び退いた。
「観光地だからって、意味がわからない」
「知らないんですか」って、きょとんとした顔でいずしちゃん。「前の大戦でも、要人の保養地だからって理由で、軽井沢は爆撃されなかったんですよ?」
「そうなの」といずしちゃんと私たちのアテネである儂、両者に向かって。
『どうじゃったかな。現代史は興味がないからな』ぜんぜん、ファウストじゃない。
「そうらしいですよ。まあ、私も伝聞でそういう話を聞いただけですが」うんちくをひけらかすのが、苦手なのか、いずしちゃんは、もじもじと一歩後退する。「まあ、私自身は助かって、ありがたいのですが、悲しいですよね、そういう話って」でも、と、いずしちゃんは、不思議そうに私たちに尋ねる。「私はてっきり、こんな、いつ爆撃を受けてもおかしくない、こんな悲惨な時代だから、被災を逃れるために、あえて、私みたいな、ほとんど誰も、名前を知らないような六年前に生まれたばかりの、真新しい観光地に、一種の逃避行として、一時的な疎開先として、てっきり、旅行に訪れてくれたのだ、と思っていました。みなさん、そうですから」
「そういうわけじゃ」って言いかけて、言い切れないな、って思う。なにしろ、私は多重人格者なのだ。私一人の意思が、私たちの意思じゃない。
「これ、秘密なんですが」といたずらっ子の目でいずしちゃんは呟く。「あそこで、あの原っぱで、埋まってた山田さん、あの、山田さんなんですよ。あの、超のつく、VIPの」
「え」
「心理的盲点ってやつですね。ふだん、あれほど立派な演説をされている山田さんが、まさか原っぱで首から下を埋めているとは誰も思いません。あと、猿プレイを楽しんでいたみなさんが、なぜ翁の仮面をつけていたかというと、まあ、似たような理由なのです」
私たちは、私たちの気持ちを鎮めるために、絆創膏の上から、マフラーをゆっくりゆっくり巻いていく。
「人のことは言えないけれど、みんな、ゲスですね」
「うん」私たちもクズ。
「私は、あなたの名前を尋ねません。それがいずしのルールです」山田さんのこと、バラしておいてよく言うなあ、と思う。けど、かわいいからまあいいや。「あなたが、誰か、私は知りません」
「気を遣わせて、ごめんね」と私。
「いいえ。信じてもらえないかもしれないですが、私、あなたのこと好きですから」といずしちゃん。「特別な理由もなく、なんとなく、好きです」
「そっか」私たちもなんとなく、いずしちゃんの小さな体をぎゅっと抱きしめて、なんとなく、それっぽく、畦道でわるつを踊った。畦道と水田の境目にある傾斜を利用して、背丈の差を打ち消して。「私もいずしちゃんのこと好き」小さくてかわいいから。それだけの理由なのだろうか。それだけの理由なのだろうが。却って、理由のない方が神秘的でいいのにな。
そろそろ、いい時間だった。そろそろ、太陽が南天に腰掛けて、私たちの影が、ぎゅっと縮む頃合いだった。そろそろ、「父と母を出迎えに行きましょう」っていずしちゃんがそっと言って。私たちの手をぎゅっと掴んだ。方々を歩き回ってきたので、どちらの方角が駅なのか、わからなかったのだけれど、いずしちゃんは、それが唯一の近道だって、知っているのか、畦道の右手、田んぼの中、まだ、稲刈りのされていない田んぼの中を、ずんずんと進んで行った。薙ぎ払って踏み潰して。飛沫飛ばして泥けっとばして。で、現に近道だったようだ。数十歩も行かないうちに、目の前に駅があった。いずし駅。まるで、手品師の手のひらを歩いてきたみたいだった。まるで、書き割りのようにいずし駅が出現していた。
はじめのうち、いずし駅は田んぼの真ん中に一つぽつんと浮かんでいるように見えた。錯覚なのだろう。なんどか強く瞬いて、泥だらけの両手で瞼の上をぐいぐいとこすったら、いずし駅の向こう側に、いずしの中心街、昨日いずしちゃんに手を引かれて歩いたあの街が広がっていることに気づいた。駅と田んぼは密着しすぎるほど、密着していて、駅を囲う緑色のフェンスを支えに、ずるずると泥に埋まっていた両足を水田から引っ張り出した。急勾配を腕力頼りによじ登って、フェンスの土台になっているコンクリートの上に着地する。コンクリートの余白は、平均台の半分くらいの幅しかなくて、始終金網にぶら下がっているような状態だった。フェンスの向こう側に駅員さんさんが立っていて、私たちと目があった。三重にマスクをつけて、目にはゴーグルを着用して、そのほか、全身に、サランラップとアルミホイルを木乃伊みたいに巻きつけていた。『なにあれ』とあたし。『防護服の代わりじゃないか。放射線対策じゃ』と儂。『意味あるの、あれ?』とあたし。『さあなあ』と儂。『私たちは大丈夫なの?』と私。いずしの四方には相変わらず、ナウシカの世界の腐海のように背の高い菌糸類が、風化するでもなく所狭しと立ち並んでいた。今夜あたり、黒い雨が降り出しそうだった。台風の目のように、いずし上空だけ、ぽっかりと青空なのが、却って、不気味だった。『今更じゃろう』と儂が呟く。『なるようにしかならん』私も気にしないことにした。駅員さんに向かって、「変なかっこう」って言ってあげた。「やっぱり変かな」と駅員さんは、恥ずかしげに、身をよじりながら、切符切るやつをばちゃんばちゃん開閉させていた。「やっぱり変かな」「そんな格好してると、全身かぶれちゃうよ」駅員さんのことは一旦放置して、未だ田んぼの中のいずしちゃんを、私たちの高さまで引き上げる。私たちといずしちゃんは、ももんがの親子みたいに、よたよたと、金網伝いに、金網の途切れるところまで、横歩きした。駅の正面へ回り込む。終着駅だからできること。「駅員さん、いずしちゃんのお母さんたちって」「もうすぐだよ」サランラップとアルミホイルからの脱皮を試みながら、駅員さんが言った。けど、サランラップとアルミホイルの下も、真っ黒の全身タイツであった。「それって効くの?」と私。「さあ、でも、素っ裸よりはマシじゃない」「そりゃ、素っ裸と比べちゃうと」駅から少し離れて、街を見渡すと、往来の人々は、みな、何かしらか、被っていた。着ぐるみが多かった。ゴジラもいた。タイムリーだ。ゴジラ。ガメラ。モスラ。ラドン。ギャオス。ラドンとギャオスの違いがよくわからない。「ラドンの方が強いんですよ」といずしちゃん。キングギドラ、エビラまでいた。全身タイツに、狐面。全身タイツに、天狗のお面。全身タイツに、ひょっとこ。全身タイツに、翁のお面。なんてのもいた。ダンボールをすっぽり被っているのも。
「私たちも、なにか被った方がいいのかな」と私。
「できるだけ、可愛いのがいいですね」といずしちゃん。
私たちといずしちゃんはパンダになった。黒い雨が降り仕切れば、羆に変わるだろう。
私たち二人は、パンダに変じて、駅のベンチにへたり込んだ。事態が事態だし、列車のダイヤも狂っているらしい。「人身事故ってレベルじゃないからね」と駅員さん。程度の問題じゃ、ないと思うけれど。
朝からずっと、外出しっぱなしだったのだ。途中、ぐうたらと昼寝したとはいえ、疲れた。楽しかったけど、少し疲れた。刺激的な半日だった。刺激が強すぎた面もあるけれど。感受性が鈍るほどに刺激的でもあった。
「あのさあ」と思い出したように私。
「なんですか」といずしちゃん。
「なにかな」と駅員さん。
「いずしの外があんなだってことは」白い、キノコ雲を指差しながら「私たちの家族も友達も知り合いも、おそらくみんな死んじゃってるんだよね」今更みたいに、私は呟く。累計百万枚の年賀はがきも、きっと燃えてる。
「私がいますよ」といずしちゃん。
「あ、俺も」と駅員さん。
「けど」
「ひめ子とたま子も」と畳み掛けるようにいずしちゃん。「山田さんも」
「うん」
「いずしの向こう側のことは私は知りませんが、少なくとも、私は」と言いかけていずしちゃんはやめる。
中途半端な言い止しの言葉が、結果みんなを沈黙させる。
言葉が詰まり、言葉を思いつかず、言葉に見放されて、退屈だから、私たちは、退屈と気持ちを紛らわせるために、心の中で、パンダの着ぐるみの中で、黙祷を捧げる。
私たちの生まれた国は、きっと、終わってしまったんだ。滅亡してしまったんだ。私たちが、生まれ育って活動したいずしを除く全ての領域があっけなく、もう二度と戻れない立入禁止区域になってしまったのだ。あんなに爆弾落としてどうするのだろう。あれほどの絶え間ない爆撃だ。きっと、この世界が保有するほとんど全ての爆弾がこの国で消費されたんじゃないかって思う。圧倒的な軍縮が、あっけなく遂行され、未曾有の悲劇を息を止めてくぐり抜けた先に、一切の過去を忘れ去った安寧が待っているんだろう。袋叩きにされたフクロウ。死んで言った人たちのことは一切忘れて、爪の伸びる速度を眺めている。悲しんだって、黙祷したって何になるのかな、って思いながら、悲しまず黙祷しない人たちのことを棒で叩きたくなる。誰が一番悲しむかの競争ではないのに。
「やれやれ」って私。やれやれ、って台詞は、たいてい何かをごまかす際に用いられる。
「年寄りくさいですよ」といずしちゃん。
「六歳のいずしちゃんと比べられたらね」と私。
「あ、来ましたよ」と駅員さん。「おーい、こっちこっち」線路敷かれているのに。
白い雲の向こう側。白いきのこ雲の向こう側。白煙を突き破るようにして、ベンツのように長大な、二台の霊柩車が、線路の上を、ごとごたと、走って来た。とても苦心して、線路からはみ出さないように、細心の注意を払って自動車にしてはやけに緩慢な速度でやって来た。まだ、点みたいに小さい。
「なにあれ」と私。
「覚悟はしていました」といずしちゃん。
「え」
「伊豆と逗子にも原子力爆弾が投下されたのですよ。きっと。つまり、私の父と母は死んだのです。そして、その死体を詰め込んだのが、あれなのでしょう」霊柩車。
「え、でも、観光地は爆撃されないんじゃ」
「逆も考えられるのです。観光地は要人の避難場所。だから、どうしても殺したい要人がそこにいたなら、爆撃されるのです。しかも、どの要人を殺したかったかを第三者に知られたくない場合は、より好都合です。木を隠すなら森の中。探偵小説の鉄則です。死体を隠したいなら、原子力爆弾を一つ、ぽーんと放り投げたらいいのです。人に知られたくない、大切なものは何もかも、消えてなくなります」
そんなわけあるか、と私は強い口調で問い詰めたくなったがやめにした。というのも、私たちもいずしちゃんも分厚いパンダの着ぐるみを被っていから。実は、いずしちゃんが、両親の死を悟って、悲しくて泣きそうになっているのをこらえて、虚勢を張っている可能性だってある。表情が読めないから、いずしちゃんの真意がわからない。不用意な台詞は吐けない。
「これからお葬式を始めます。伊豆お父さんと逗子お母さん、それに、今回の爆撃で亡くなった生き物全てのお葬式を」いずしちゃんの肩を、パンダの着ぐるみ越しにさわった。いずしちゃんのパンダの着ぐるみがぐっしょりと濡れていた。濡れパンダだった。どれだけ泣いているのだと思った。「駅員さん。すべての坊主に伝えてください。今夜葬儀を開催すると。そして、日夜読経で鍛え上げた、彼らの朗々たるバリトンでもって、その事実をいずしの街中に告知するよう私が命じていたと伝えてください」
「ははあっ」と殿様にひれ伏すように駅員さんはいずしちゃんに平伏した。いずしちゃんは、実はとても偉いひとのようだった。「御命仕り申し上げ候ました」そう早口にしかも滑舌良く答えると、まるで影を追い抜くごとき素早さで駅員さんは駆け出していった。
しばらくすると、街の至る所から、朗々たる、お坊さんのあの声で、まるでお経でも読むかのような抑揚で、緩慢なリズミカルで「こ〜ん〜や〜。せ〜ん〜ぼ〜つ〜しゃ〜。そ〜う〜ぎ〜」「ば〜しょ〜。い〜ず〜し〜へ〜い〜や〜」二、三十人は軽く越すだろう、坊さんたちの大音声が、街を揺るがせにした。旅館の雨樋がびりびりと振動した。烏たちが恐怖に怯えて飛び立った。まるで、狂ったように、寺社仏閣の鉦が打ち鳴らされた。信心深い人々が、一斉に、御百度参りを始めたが、それはまるで、行列のできるラーメン屋の行列のようだった。まるで、一個の生き物のように、社と鳥居までの間を何十人という人々が、一糸乱れぬ連動で、互いに十センチと隙間ない距離を保ちながら、ぐるぐるぐるぐると走り続けた。
私たちといずしちゃんは、ぼんやりと、ベンチに直角三角形の斜辺のように凭れ掛かりながら、霊柩車の到着をいまかいまかと待ちわびた。霊柩車が線路の上を走るのは、人間が梯子の上を手放しで歩くようなもので、不慣れな運転手だと要領を得ないのだろう。時速十キロくらいで、遅々として近づいてこなかった。線路ではなくて、隣の自動車道を走ればいいのに、と何度も思った。まるで、あらっぽい神輿みたいに、ぐがんぐがんと、枕木に蹴つまずきながら、霊柩車は、パンクしたタイヤを物ともせず、そのくせ時間にはひとたまりもなくルーズにやってきた。霊柩車よりも、一足も二足も先に死の匂いが、私たちの元まで漂って来た。未来って感じがする。遠いようで近い未来。SFよりも近未来的。
運転席で、ハンドルを握っていたのは、身長百二十センチほどの、直立二足歩行の、生まれたばかりの赤ちゃんだった。その証拠に、彼はだらしなくへその緒を垂らしていた。二、三メートル垂らしていた。彼は、腹が減ると、そのへその緒の先端を噛みちぎり、くちゃくちゃと咀嚼して、肉汁だけ吸い取ると、ぺっと駅のホームにしかも点字ブロックの上に、肉片を吐き捨てるのだった。
全身羊水と羊膜にまみれており、血のように赤かった。しわしわの皮膚で、猿みたいな顔だ。始終眉間に縦皺がよっており、デコピンしたら、噛みつかれそうだ、皺に。眉毛がなかった。毛髪もなかった。黒目が異様に大きかった。当然のごとく裸体。歯も生えておらず、口を開くと、まるでゴム人形である。なんだ、この、この、殴りたい。
霊柩車は、駅のホームに横付けで二台並んで停車しており、その両方とも彼が運転していた。彼は、二人いた。厳密には、一人。もう一人の彼が彼の足元から伸びていた。影である。彼の影は、カラーだった。しかも、うっすらと3Dだった。使い古された座布団くらいの厚みはあった。霊柩車のうち、一台は彼自身が運転し、もう一台は、彼の総天然色配色の影が運転していずしまでやって来たのだった。太陽に向かってしか走れない。
彼は、私たちといずしちゃんの前で、休めの姿勢で立っていた。まるで、暗黙のうちに、宣戦布告を行っているかのような不遜な立ち姿だった。どこがどう不遜なのかは説明できない。説明できないほど不遜だった。
「俺様は、ず、だ」と彼は吐き捨てるように呟いた。「よろしくな」
「なんだお前は」と私は言った。「気持ち悪い」羊水まみれの赤ん坊(身長百二十センチ前後)が、直立二足歩行し、しかも彼の影はカラーなのだ。気持ち悪くない方がどうかしている。どんな母性本能だ。
「だから、名乗っているだろう。俺様は、ず、だ。ついさっき生まれて来た」彼は落ち着き払い、しかし、獰猛に私たちを睨みつけた。
「たぶん」といずしちゃんが、不快感をむき出しにして呟いた。彼からは目を逸らしている。「こいつは、たぶん、私の弟です。伊豆と逗子が私のお父さんとお母さんで、伊豆お父さんからは、いず、を、逗子お母さんからは、ずし、を、合わせて、いずし、が生まれました。その際、余った、ず、は、その辺に捨てたのです。つまり、これは」といずしちゃんは、顎で、目前の赤ん坊を指し示す。「その際、捨てた、ず、なのでしょう」
「半分あたりで、半分外れだぜ」と、赤ん坊は不敵に応える。「命名理由は、その通りだ。先に生まれたあんたが、伊豆父さんから、いず、を、逗子母さんから、ずし、を譲り受け、余った、ずは、その場に残して独り立ちした。俺様は、その余り物の、ず、をひょいっと拾って、己が名にしたわけだ。が、俺様は、捨て子じゃねえ。確かに、父も母も」と背後の二台の霊柩車を振り向きもせず、親指で指差す。「俺様の誕生間も無く、原子力爆弾呑んで、ぽっくり亡くなっちまったが、名前はともかく、俺様自身は、捨て子でも、余り物でもねえ、舐めてかかると怪我するぜ」赤ん坊のくせに滑舌が良かった。どこまでも前衛的に、先鋭的に、母性本能の限界へ挑戦する赤ん坊だ。もしかしたら、母の愛に飢えているのかもしれない。その反動で、こんなになってしまったのかもしれない。「にしてもよお」ずくんは、振り向きざまに、霊柩車に蹴りを入れる。赤ん坊の柔らかい膚だから、傷一つつかない。「赤ん坊産んだ途端、死ぬんじゃねえよ。ボケが。つーかよお、こいつら、ほんとクズだぜ。なあ」ずくんは、私を睨みつけるように見つめる。
「なぜ、私に同意を求める」
「こんなかじゃ、あんたが一番話が通じそうだからな」
「三人しかいないけど」
「あんたん中には、まだ何人かいるんだろ?こいつら、伊豆と逗子とはよお、空襲警報がなり始めた途端、慌てふためきやがってよう、ばっこんばっこん、ぬったんぬったん、ねちゃらねちゃら、やり始めやがったんだぜ。阿呆か。死の恐怖から逃れるために、性本能に走ったんだな。普段は、イッパシの観光地づらしてるくせに、非常時にはこれだからな。ハッ。だから、観光地は信用がおけねえんだ。空間が歪み、世界地図が折りたたまれるみたいに、土地が垂直に折れ曲り、伊豆山が、逗子湖ん中へ、ばっこんばっこん、ぬったんぬったん、ねちゃらねちゃら、だからな。戦闘機目にして、逃げ惑ってた地元住民も、唖然としてたぜ。何やってんだ、この非常時にってな。だが、クソ伊豆とファッキン逗子の申し分としては、この非常時こそ、って話だ。もう、このまま滅んじまうんだ。こんな瀬戸際で、禁欲してどうするって。猿かよ、って話だがな。人間心理って不思議だよなあ。あ、俺様たちゃ、観光地な訳だが。そんなこんなで、伊豆山は大噴火して、その大噴火で流れ出した溶岩流が、逗子湖で急激冷却されて、まあ、早い話、俺様になったわけだ。俺様はしばらく、逗子湖ん中にたゆたっていた。湖ん外は、戦時下だ。そんな慌てて飛び出したくなかった。伊豆山も、ぐったりやせ細ったまんま逗子湖に突っ伏してたぜ。そんな折、原子力爆弾が、伊豆と逗子めがけて投下されたわけだ。俺は、かろうじて、水ん中いたから、被曝は免れたが、びりびりと凄まじい振動がきたぜ。湖面上層部が、一気に蒸発して、目の前真っ白だ。伊豆山はぽっかり穴が空いちまった。勘弁してくれよ。生まれる瞬間これはないぜ。どんな受難だよ。どんな授産だよ。とんだ受精だぜ。世界は、もっと、赤ん坊に優しくあるべきだぜ。これでも、俺様にだって、多少の感傷ってもんはあってよ、悲しくて、悲しくて、悲しくて、思わず、泣いちまったぜ。湖ん中だから、我ながら、泣いてんだか、濡れてんだか分かんなかったがなあ。やめてくれよ。お願いだから。そういうこと、マジ冗談じゃねえんだよ。笑えねえんだよ。湖面には、ぷかぷかと、種々様々な生き物たちが死体になって浮かんでいたんだぜ。もう、瘡蓋みたいに、びっしりと覆われていた。そういう料理みたいに、煮込まれてた。まるで、全てがゴミのようだった。なにもかもゴミのようだった。無常を悟ったぜ。天下泰平を願ったぜ。胎児のくせによお。この世は空なんだって、生まれながらに分からされたよ。どんな胎教だよ。ひどいぜ。観光地なのに、伊豆と逗子が爆撃されたのって、俺様が生まれたからかなあ、とかふっと思ったぜ。いや、正確には、伊豆と逗子とがばっこんばっこん、ぬったんぬったん、ねちゃらねちゃら、やっていたからかもなあなんてな。猿に見えたのかもしれん。俺たちの上空を、はるか上空を、三千メートルくらい上空を、ただ、ただはるか遠くを、ほんの一瞬通過した連中には、望遠レンズ越しであってさえ、伊豆と逗子とが、ただ性欲に溺れる、まあ、伊豆山はまさしく、逗子湖に溺れとったわけだが、性欲に溺れる、理性のかけらもない、たかが猿に見えたのかも知れん。だから、見下されて、見下ろされて、こいつら、粉々になってもええわ、って。爆弾。知らんけど。地獄。ここは、地獄。ああ、俺様は、地獄に生まれてきた。生まれた途端、親の死骸霊柩車に詰め込んで、えっちらおっちら、唯一の肉親の元へひた走るんだぜ。どんな地獄だ。地獄に生まれてきたからには、地獄でも生きてかなちゃならねえわけで、地獄で生きるためには、地獄なりの流儀ってもんがあるんだろうなあ、なんて、クソみたいなため息つきながら、思案したぜ。食うか食われるか。やられる前に、やれ。やれやれ。やれやれやれ。生まれてきたくはなかった、とは言わないが、これから地獄の流儀に則って生き延びていかなきゃならねえのかと思うと、辟易だぜ。ははは」とずくんは、呟いた。相変わらず、ずくんは、二足歩行のカラープリントの影を引きずる赤ん坊で、気持ちが悪かった。正直、苦手なタイプだ。こういう、へその緒をぷらぷらさせているタイプの人間、好きではない。だらしがない。しかも下品だ。げひん、じゃない。げぼん、だ。もし、私たちの胎内から、こんな赤子が生まれてきたら、その日のうちに捨て子にするしかない。夫も子も捨てて、失踪するしかない。力の限り逃げるしかない。運命から。でも、
「そっか」
「ははは」とずくん。
「そっか」
「ははは」とずくん。
「笑うなボケナス」といずしちゃん。
「うるせえわ。あはは」とずくん。
「今夜は」と私は提案する。「盛大に、お葬式を開こうよ。そして、盛り上がろう。楽しもうよ。全てを吹き消すような、そういうお葬式を」
「そういう発想、せせこましいです」といずしちゃんは唇を尖らせた。
「そうかな」と私。
「お葬式は、いい日でも、塞ぎ込みたくなる日でも、いつでも、どこでも、盛大にどんちゃん騒ぎするものなのです。乱交パーティのごとく。世界の動向など、私は一切頓着しないのです」
ずくんは、笑い疲れたのか、いつの間にか、寝息を立てていた。自身のクッション性のある総天然色の影に凭れて寝入っていた。彼が、深く寝入ることで、成長ホルモンが分泌されまくり、今よりさらにどんどんどんどん背が高くなり、生後三日にして百九十センチとかになったらどうしよう、とふっと思った。絶対的に可愛げがない。ただの百九十センチじゃないのだ。赤ちゃん体型の、歯のない、眉間に鋭いしわの、だらしなくへその緒を垂らした、二足歩行をする、カラープリントの影を持つ、こまっしゃくれた、変な名前の、下品の、羊水まみれの、赤子なのだ。救いようがない。あ、しかも、禿頭。全身ピンク。しわしわ。猿顔。脳が未発達。ゆっくり大人になればいいのにと思った。ゆっくり大人になって欲しかった。
しばらくすると、放射能処理班がやってきた。霊柩車は当然のごとく、放射線まみれだった。理屈はよくわからない方法で、除染が行われた。青虫第三齢虫の頭部みたいなマスク(ただし白い)をつけた、ずんぐりした肉体のメリハリを曖昧にする白い衣装を身につけた彼らは、カイコガの神様のようだった。あるいは、ましゅまろの妖精のようだった。彼らはまるで儀式のように踊り回ってスプレーを振りまいた後、霊柩車の中から、でろっと半固形で、半液体な何かを引きずり出した。それが、伊豆であり、それが逗子であった。私たちがもともとたどり着きたくてたどり着きたくてたまらなかった伊豆と逗子がそこにあった。ましゅまろの妖精たちは、そのでろでろを、こねこねと丸めて、団子状にして、風呂敷に包んで、十六人体制かける二組で、伊豆と逗子それぞれを担いで行った。
「私たちも、死んだら、ああなるのかな」
「どうでしょう」いずしちゃんはとぼける。肝心なことになると、いずしちゃんはとぼける。
死にたくないなあ、と思った。いつかは死ぬのだろうか。その時、みんなが私を肴にパーティを開く。寂しくないように。私の寂滅に際しても、みんなの心が満たされるように。
端っから、私一人が亡くなったところで、誰も寂しく、ならないかもしれないなあ、と思うけれど。あるいは、私が想定しているのとは、まるで違った寂しい振る舞いを、儀礼的に執り行うかもしれないけれど。考えても、
「詮無いことだ」
「無常です」
茶柱のように、幽霊柱が立っていた。遠目から見ても、くっきりと見て取れた。凄まじいの一言だった。言葉が語彙が、ぽっかりと空いた、私たちといずしちゃんの口へ、吸い込まれていくかのようだった。普段の逆だ。常識が、物理法則が、思わず逆転するほどの、迫力だった。
「すごいね」の一言。
遠く、森の中から、無念仏ホイホイ、観光客の墓が林立していた森のなかから、まるで、一等星がそこに埋まっているかのように、煌々たる光の柱が、立ち昇っていた。遠い惑星の知的生命となんらかの通信ができそうなほど派手派手しかった。まるで消えない花火みたいに、青空を背景に煌めきを続けている。じっと凝視し見てると、その光柱は、無数の幽霊達が、絡み合い、もつれ合い形成されていた。亡者たちの半透明の裸体に、太陽光が乱反射して、あんなきらきらと輝いているのだろう。
「たくさんの人が亡くなりましたからね」といずしちゃんが言った。
「きっと」と私。「たくさんの墓も壊れちゃったんだ」
行き場のなくなった幽霊たちが、いまや、この国で唯一墓地の残ったいずしの地集結したのだ。一体どこでそんな情報を仕入れてきたのだ。凄まじい口コミ。幽霊たちは、案外、おしゃべりなのだろう。
「クライマックスです」といずしちゃんが言った。
急に何。と私たちはいずしちゃんを省みる。
「お葬式のクライマックスで、みんなで、観光客の墓まで詣でましょう」
「うん」
「それで、鯉の滝登りみたいに、あの幽霊の柱をみんなで泳ぎ登りましょう。きっと、楽しいですよ。頂上から見晴らしが綺麗なように、町中の家々の明かりを灯して、真夜中に、墓場へ」まるで、熟年の夫婦の逢い引きの申し合わせみたいに、しんみりといずしちゃんは提案した。
誰の葬式か、といえば、おそらく、あそこでうねうねしている幽霊たちの葬式だった。葬式のクライマックスで、当の幽霊たちが集団成仏するのは、理にかなっている気がする。だから、
「うん、いいんじゃないの」と私。
太陽は、未だ、南天に腰掛けたまま微動だにせず、夕暮れからのお葬式まで、まだ、だいぶ、時間があった。退屈だった。太陽は、真っ黒のサングラスをかけ、全身サンオイルを塗り込み、ビーチチェアに寝そべり、のんびり日光浴を始めていた。彼が目覚め、慌てて地平線へ駆け出すまで、今しばらくありそうだった。
退屈を持て余した私たちといずしちゃんは、旅館まで戻って、たま子ちゃんとひめ子ちゃんのおっぱいをいじくり倒すことに決めた。暇つぶしにはうってつけだと思う。俺と儂と僕も賛同してくれた。いずし駅から、旅館へ。ゆるやかな坂道を、ゆるやかに登っていく。「おっぱい」「おっぱい」と私たちといずしちゃんは、互い違いに口ずさむ。「たま子ちゃんのおっぱい」「ひめ子のおっぱい」駅で借りた担架に、未だ目覚めないずくんを乗せて、えっちらおっちらゆるやかな坂道を、ゆるやかに登っていく。「おっぱい」「おっぱい」がわっしょい、わっしょい、みたいになる。なんだか楽しい。遠くの方から、坊さんたちの喧伝の声が響き聞こえる。鉦の音が鳴り響く。なんだか気分は祭りのよう。おっぱい弄りは、ずくんのためだった。おっぱい弄りには、大義名分があった。誰も私たちといずしちゃんを止められない。たとえ官憲であっても。ずくんは、生後一日で、おっぱいがかけがえのない友達なのだ。
私のでも、ええかな、と思ったものの、私はAカップだった。Cカップくらいがちょうどいいだろう、と思った。それに、まあ、ずくんも、若い子の方がいいだろう。
「若い子のおっぱい」「若い子のCカップくらいのおっぱい」「おっぱい」「おっぱい」いずしちゃんと私。
ふっと、足元から視線を感じると、往来の真ん中に、山田さんが埋まっていた。タイル敷きの歩道なのに、タイルを引っぺがして、首元まで埋まっていた。几帳面な人がシャツを第一ボタンまで締めるみたいに、首元ギリギリまで再度タイルを敷き詰め直してあった。器用なものだ。その山田さんが、私たちといずしちゃんを左右均等に眺めていた。いやらしい目で眺めていた。腹がたった。タバコ焼けした掠れた声で「おっぱい、おっぱい」と小声で囁いているのが聞き取れた。殴ろうかな、と思った。けど、首元まで埋まっている人を殴るのは弱いものいじめになる。かと言って、地上に這い出してきた大の男と殴りあうのは怖い。文字通り表出ろや、とか、言えない。
「ねえねえ、いずしちゃん」
「なんですか」
「昨日も訊いたと思うけど、なんで、山田さん首元まで埋まってるの」
「それはですね」ちょっと考え込む。考え込んでいるうちに、私たちは山田さんを跨ぎ越す。「ふた通りの理由があるのです」
「ふーん」
「まず、山田さんは、地面に埋もれるのが好きなのです。変わっていますね」
「うん」変。すっごく、変。似合わない。そういう問題じゃないけれど。
「しかも、山田さんは首元まで埋まるのが好きなのです。首元を逆さまに読むと?」
「元首」
「そういうことです」
「どういうこと」
「どこの国かは言えません。守秘義務がありますから」
「だだ漏れだよ」山田さんは偉い人なのだった。
「えへ」笑ってごまかす。話題がなくなったから、それからしばらく、
「おっぱい、おっぱい」
「おっぱい、おっぱい。おっぱい、です」
「おっぱい」
「おっぱい、おっぱい、ですね」
おっぱい、という単語だけで、会話っぽいなにかを演じる。別に意味なんてなくって、気がついたら、そういう成り行きになってしまっただけ。いずしちゃんは、基本的に、ですます調をくずさなかった。
「おっぱい、がね、おっぱい、で、おっぱい、だった」
「おっぱい、おっぱい、ですね。おっぱい、です」
ふっと思ったこと、人類は、こんな風にして、言葉を形作っていったのかな。『儂、どう思う?』『急に話を振るでない』と儂。『おっぱいだぜ』と俺『それは、おっぱい、おっぱいだわ』とあたし。『おっぱい、おっぱい』とわたくし。『そんな、おっぱいな』と僕。私たちの中でも、おっぱいが流行りだした。流行感冒のようだ。私たちは、おっぱいに冒されていく。おっぱいに浸されていく。おっぱいへの没入が始まる。『おっぱいじゃー』と私たちのアテナが狂った。これでは、多重人格ではなく、多重おっぱいである。おっぱい的人格が、ゲシュタルトおっぱい崩壊を起こし、おっぱい的否認を経て、エディプスおっぱいコンプレックスが、形而上学的おっぱいへと止揚され、おっぱいテーゼとアンチおっぱいテーゼを経て、ジンおっぱいテーゼ、おっぱいの弁証法、おっぱいのイデア、純粋おっぱい批判。論理おっぱい論考。
そろそろ、正気に戻らないとな、と思った。書名のまんなかにおっぱいを挟むと、だいたい楽しくなることがわかった。私だけかもしれないけれど。
「いずしちゃん」
「はい」
「まともになりたい」
私以外の私たちは、まだ浮かれ騒いでいた。ひと所に複数人いる分、収拾がつかないのだろう。落ち着き始めたと思ったら、誰か一人がぽつりとつぶやき、また、ひと騒ぎ始まる。引いては満ちる波打際みたいに。
気がつくと、目の前に、旅館。
私は、当初の計画を思い出す。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんのおっぱいを弄り回しにここまできたのだ。
「えへへ」といずしちゃん。
「ふぇへへ」と私。
結論から言うと、計画は成し遂げられなかった。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんが拒否したのだ。理由は、「まだ、腫れが完全にひかないから」「痛いのはいや」
ずくんも、思いの外、大人だった。生後一日なのに。「いらねえよ。粉ミルクで十分だぜ」ずくんは、ティッシュペーパー上に、粉ミルクを粉のまま山盛りに載せ、ストローで、ずずず、と鼻吸引している。気丈な子だった。
私たちは、ずくんの無毛の頭をぽんぽんと叩いた。「君のような子を、古い言葉で丈夫っていうんだよ」
「うるせえ。ぶちこむぞ」
「二十年早い」
この子は絶対、ヤンキーになる。
将来、ず、は、ヤンキーの聖地になるのだろうな、と思った。
あ、でも。
でもなあ、と思う。
先の爆撃で、ヤンキーたちは、あらかた死んでしまっているはずだ。観光客のいない観光地ってなんなんだろう。ただの過疎村。あるいは、記念碑。
もしかしたら、って考えがふっと浮かんで、じゃあ、確かめに行こうよ、って流れになった。
葬式までに戻れないかもよ、間に合わないかもよ、懸念したら、たま子ちゃんとひめ子ちゃんがピンク色のスクーターを一台貸してくれた。じゃあ、なんとかなるか、と思った。
旅館で休んでいるかと思ったら、ついていく、とずくんが起き上がった。三人乗りかあ、スクーターで三人乗りかあ、ちょっときついかも、と思ったけれど、案外なんとかなるもの。ぶろろろろろ、と鈍い音響かせ、たらたらと走り出す。ずくんを太ももに挟み込んで、いずしちゃんが私たちの背中に抱きついている。『俺、免許持ってねえし』と俺。運動系の担当は、だいたい私なのだ。大型特殊免許まで取得しているのは私なのだ。『大丈夫、なんとかなるって』と私。なんとかなった。軌道に乗ったスクーターは、曲がり角で大げさに傾きながら、目的地へと突き進む。目的地、というか、目的の方向というのは、特にないのだけれど。適当な方角へ適当に突き進む。もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら、先の爆撃で生き延びた人たちが、いずしの境界付近まで避難しているかもしれない。もしかしたら、その避難民の中に、私たちのお父さんやお母さんや友人や知人がいるかもしれない。何しろ、私たちは、毎年十万通の年賀状をもらっていたのだ。十万分の一でも、誰かが生き延びているかもしれない。私たちのことを知っている誰かが。だとしたら、助けなくちゃ。放射能が怖いから、三人とも、長ズボンに長袖、軍手を着用している。それにフルフェイスのヘルメット。これだけ重装備すれば、まあ、なんとかなるんじゃないだろうか、そんな楽観。
「いずしちゃん」
「なんですか」
「呼んでみただけ」
いずしは、観光地だけれど、観光地であるがゆえに、田舎なのだ。対抗車両は一切現れず、スクーター無免許初乗りには、いい練習場だった。一度、警官とすれ違ったけれど、にこやかに手を振ってきた。ここはいずしだから、いずしちゃん周辺だけ、治外法権なのだ。そもそも、先の爆撃の結果、法や憲法が機能しない状態に陥っているのかもしれないけれど。
「ずくん」
「なんだよ。ああ?」
「すごむなよ、ばか」
「うるせえ」
「ずくん。ヤンキーになるんなら、スクターくらい乗れるようになりなよ」
「乗れるわ。ここまで霊柩車運転してやってきたんだぜ」
「あんなへっぴりごしの運転じゃだめだよ。もっと、こう、挑発するような、通行人全員に中指突き立てるようなそういう走り方じゃないと。ヤンキーはね、ただバイクに乗ってるだけじゃないんだよ。社会に対する鬱屈を、反骨の精神を表現するためにバイクに乗るの。じゃなきゃ、ただのバイク好きの兄ちゃんじゃん」ヤンキーとは表現者であり、同時に実践者なのだ。そして、ヤンキーにとってバイクもリーゼントも、ただ表現のツールに過ぎない。だから、ひょんのきっかけで、元ヤン弁護士とか誕生するのだ。元ヤン保育園の先生とか。
「人の弟に何教えてるんですか」といずしちゃん。
「ヤンキーという生き様をね」と私。
「余計なお世話だぜ」とずくん。
ガードレールが無意味に思えるくらいの絶壁。フルスロットルで、疾走するスクーター。無免許の俺には、制限速度という概念がないようだ。ライダーズハイってやつ。吹き付ける風が吹雪のようだけれど、二人に挟まれているから、全然寒くない。却ってぽかぽかする。二人も同様らしく、いずしちゃんは、何かを掴むように、片手をあげる。風を捕まえる。風は捕まえられない。びろびろとはためく袖を眺めて、ただそれだけで、嬉しそう楽しそう。ずくんは、血走った目をして、バス停に佇むおばさんめがけて、うおおおおおん、と吠えている。何がしたい。おばさんもおばさんで、きゃんきゃんと吠え返してきた。ずくんのへその緒が道沿いの標識に絡みついて、そのまま引き千切れた。
「まあ、私はヤンキーじゃないんだけど」
「ただの嘘じゃないですか」
「嘘かもしれないし、嘘じゃないかもしれないでしょ」
「当てずっぽうってことだろ」
「まあね」
まだ、立ち消えていなかったキノコ雲。そのキノコ雲に、時速五十五キロで接近を続ける。広いようで狭いようで広いいずしも、ガソリンの力を借りたら、あっという間にその境界線までたどり着ける。やっぱり、いずしは狭い。観光地なのだ。徒歩で一日掛かりでぐるりと回れるくらいがちょうどいいのだ。スクーターだと何の情緒も感じられぬほど、あっという間だった。この先地獄。この先、放射能まみれの地獄。この先爆心地。この先被爆地。この先荒野。この先死地。そんな立て看板が用意されていても良いのに、と思った。なぜか、そこには、朱色の鳥居がずらずらずらずらと並んでいた。
「なにこれ」
「この鳥居行列が境界線なのです。向こう側が、いずしじゃないどこか。こちら側がいずしです」
ほとんどキノコ雲の根元まで接近してしまっていた。爆風で、ありとあらゆる家屋、作物、電信柱がぺしゃんこだった。おもわず製作者の鼻息で倒れてしまった壮大なドミノ作品のようだった。執拗に撫で付けられた七三分けみたいだった。なにか几帳面な感じがした。潔癖症な感じもした。目を逸らそう、と思い、目を逸らした。
「ははは」と意味もなく笑うずくん。
スクーターを止めて、私たちは地上へ降り立つ。
意味もなく笑うずくんの頭を、意味もなくはたいた。「うるさい」
「痛えな」とずくん。
「生存者発見」といずしちゃん。「まあ、人間ではないですけど」それは、翼の折れた烏だった。烏のくせに仰向けに寝転がって、くりくりと光る目で私たちのことを眺めていた。時折、くいくい、と鉤爪が空を蹴るが、痙攣のような動作。翼は血に濡れて赤く、血が乾いたために、翼がアスファルトにべったりと接着している。この烏に人間の言葉が喋れたら、『こわかったあ』って呟くんじゃないかな、と思った。そのくらい、子供っぽい目をしていた。突如、とんでもない爆風に見舞われて、くるくると吹き飛ばされて、こんな場所に不時着してしまったのだろうと思う。いまだに、何が何だかわからないような目をして、私たち、ずくん、いずしちゃんを交互に眺めている。きょとんとしていた。痛みなどないかのように、呆然とした表情。
「かわいい」と思わず私は呟いてしまって、すぐに、バツが悪くなった。でも、「かわいい」体が勝手に動く。猫のようなしなやかさで、路上に寝そべる。烏の側へ身を寄せる。とぐろを巻く蛇のように、膝を屈め、背を丸め、死にかけの烏が中心に来るように、私の体を丸うく、横たえる。秋の路上は冷たかった。アスファルトはざらざらしていた。嘴で突かれたら一撃で失明してしまう距離で、烏を眺めた。烏も息を吸ったり吐いたりするのだ。当たり前だけど。烏の吐息が、耳元にかかった。ふしゅう、ふしゅう、いった。全てが偽物みたいな感覚が唐突にやってきて、それを振り払うように、さらに体を丸く丸めた。直接抱きしめると、傷に響くかもしれない。だから、巣になる。烏の巣になったつもりで、私たちの体が、道路に寝そべる烏の四囲を包み込む
「なにしてるんですか」といずしちゃん。
「なんとなく」と私。
「キチガイ」とずくんが鼻を鳴らした。
「いいじゃん。べつに」と私。
「まあ、いいけど」とずくん。
さて、困った。いつまでこうしていよう。「いずしちゃん、いずしに獣医さんっているのかな」
「普通の医者なら何人かいますよ」
「助けられるかな」
「それは、わからないです」
「あ、そうだ」と私。『儂、儂ならなんとかなるんじゃないの』『もう死んでるよ』と儂。いつの間にか、全てが終わっている。烏は、しぼんだゴム風船のようだった。最初から最後までずっとそういうものだったみたいだ。『じゃあ、なおさら、しばらく、ここでこうしていよう』しばらく、私は、この烏のお墓になったつもりで、そこでそうしてて、けど、何にもならないなーって内心思ったのと、半身にアスファルトが食い込んできて、痛かったのと、アスファルトの冷気が全身に乗り移って、芯から凍えてしまったから、「もう、いいや」と呟いた。ふらふらと、倒れる駒を逆再生したみたいに立ち上がる。
ぷろぷろぷろ、と唐突に。私たちのはるか上空を、爆撃機の群が、再び通過した。三度目の襲来だった。「しつこいなあ」と思ったことを思ったままに呟いた。ぷろぷろぷろ、間の抜けた飛行音で、間の抜けた緩慢さで、私たち三人の頭頂部をさっと撫でて、いずし圏外へ、そして、目の前で、投下を始めた。まるで、世界が核廃棄に同意したかのように、相変わらずの原子力爆弾だった。この世界は、どうかしている。私たちの国を核廃棄場と場違いに勘違いするほどに、いかれポンチ。私たちは塵箱でも便所でもないよ。ひゅるひゅるひゅるって、円筒形のブツをブリだして、寸止めみたいな位置で、ぱっと弾ける。もくもくと、キノコ雲が、群生するキノコ雲を押し分けて萌芽する。爆風が、私たちのほっぺたを撫でた。ヘルメットから飛び出した、玉虫色の髪の毛が逃げ惑いたいみたいに、ほどけて、舞った。振動が、爆風とほとんど同時にやってきて、私たちを、ぴょーん、と飛跳ねさせた。まるで、そういうばね仕掛けのおもちゃみたいに、ぴょーん、と。空中じゃ、まともにバランス取れないから、よたよたとバランスを崩して、しゃがみこむ。烏の死骸を踏まないように、踏ん張ったら、足首が捻れてしまった。お昼前の、爆撃と一緒、へたり込んで、もう、身動きが取れない。
ばっこん。変な音だ。
ぬったん。これまた、変な音だ。
さっきと、何かが違う。いや、同じ。
原子力爆弾が、投下され、着火され、爆散され、大地を揺るがすたびごとに、そんな変な音が、朗々と耳を聾する。聾するといったところで、明瞭に聞こえる。言葉が、矛盾しているけど。頭がとろけそうな空耳。きーん、という機械音に似た空耳。その空耳を押しつぶすように、爆撃の音。朗々たる、響きのよい、爆音。爆撃の音。
ずしん。
ばっこん。
ぬったん。五発目。
全身が痺れるような微振動。変な音だ。昼前の爆撃と微妙に、ずれている。変化している。
いずしちゃんが、振動に酔ったように、苦しげに、スクーターにもたれかかっている。ずくんは、天性のバランス感覚があるのか、佇立したまま、振動の度ごとに、ぴょん、ぴょん、と自発的に飛び上がり、振動をやり過ごしている。
こんな目前で、爆撃されているのに、爆風と爆音と振動しかやってこない。キノコ雲の噴煙さえ流れてこない。流れてきたら即死んでしまうのだろうけれど。まるで、なにか、膜のような防護膜のようなものが、いずし全体を覆っているように、まるで他人事の世界が、眼前数キロメートルで展開されている。
ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。
ぬたたん。ぬたたん。ぬたたん。ぬたたん。ぬたたん。ぬたたん。ぬたたん。
帽子でも被り直すみたいに、ずれ落ちそうになる頭を両手で支えなくちゃ。三度目の爆撃だからか、私たちの中で、他人事の気分が蔓延している。早く終わればいいのにって気分。さっさと済ませろという気分。
ばっこん。ばっこん。ばっこん。ばっこん。
ばこん。ばこん。ばこん。ばこん。
ぬったん。ぬったん。ぬったん。ぬったん。
ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。
ぬたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたん。
ぬたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたん。
機銃掃射みたいに、小気味よく原子力爆弾が投下されるなんて、どこか、まるで、現実でないみたい。
ぬったん。ぬたん。ぬたたん。ぬったん。ぬったん。
ばっこんばっこん。ぬったんぬったん。ねちゃらねちゃら。
やれやれ。
ぬた・・・たん。ぬた・・・たん。ぬた・・・たん。
・たん。・たん。・たん。・たん。・たん。・たん。・たん。
いつまで続くのだろう。
・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん・ん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん。あ・・ん。
ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。ねちゃら。
ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ばこん。
ばこん。ばこん。ばこん。ばこん。ばこん。ぬったん。
ぬったん。ぬったん。ぬったん。ぬったん。ぬったん。ねちゃら。
ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ねちゃら。ばこん。
しつこいぞ。と再度思う。さっきも思った。しつこいぞ、このやろうって。でも、さっきより、もっと、どうでもいい感じがする。
心臓の音がうるさい。爆音と同じくらいうるさい。せまって来るようなおと。おと。
ぬたん。
ねちゃら。
ばこん。
いずしちゃんが、吐いてしまった。どうしよう。駆け寄りたいけど、立ち上がれない。腰が抜けてしまっている。全身が痺れているような不自由。
ずくんは、相変わらず、何が楽しいのか、振動の度ごとに、小気味よく飛び跳ねて衝撃をやり過ごしている。身を任すってことを、ずくんは、知らない。反骨精神の塊なのだ。
「そろそろ」とずくんは言った。「そろそろ気付けよ。いや、気付きたくないなら、ずっと眠っててもいいんだが」ずくんにしては、やさしい台詞だった。
「いきなり、なに」爆撃が、ほんの束の間小休止した。だから、ほんの二、三言なら会話が交わせる。でも、私たちの息は上がっていて、うまく言葉を繋げられない。
「あなたは」とずくん。ずくんは、あんなに飛び跳ねていたくせに、まるで息を切らしていない。ウォーミングアップ後のボクサーのように平然としている。「まるでこの世界には伏線がないって思っているかもしれないが、伏線だらけなんだぜ。生まれて来ることは死の伏線だ。どうしようもねえ」
爆撃が再び激しくなったから、私は目を瞑って、数を数える。百まで数える。数え終わったら、全てが終わっているはず。だから、数える。百一。千。百一回目の百一。ええっと。一万百一。気がつけば、全てが終わっていて、それで良いのだろう、と思う。もくもくともくもくと、もうこれ以上充満しようのないほど、キノコ雲が林立しちゃって、キノコ雲とキノコ雲の密度がすごいことになっちゃって、キノコ雲同士が組んず解れつ融合してしまって、空が、白い。いずし全体を半球状に囲い込むように、キノコ雲が一体となっていた。まるで、見えないドーム天井でもあるかのように、いずし内部だけ、空気が澄んでいて、もう、いずしの外側は隈なく、鈍い白煙だった。爆撃機の存在さえ、厚い雲の向こう側で、よく、見えない。いるのかいないのか。消えたのか、滞空しているのか。なにはともあれ、もう、すでに、爆撃は止んでいる。全然曇っているけれど、晴れ渡った気持ち。
一つの可能性をぼんやりと熟考する。全てが夢かもしれない、という可能性。まあ、薄々感づいていた可能性。私たちは、マトリックスのレオみたいに、どこか、ここじゃない別の世界に横たわって眠らされていて、この世界に接続するための、なにか電極みたいな何かを、レオ同様、体内に挿入されているのかもしれない、可能性。私たちは、例えば、何か、強姦でもされている最中なのかもしれない。で、どうにも耐えきれない現実から目をそらすために夢を見ているのかもしれない。現実逃避。ただ、現実の濃度は、意外に、高く濃く、夢の中にまで、その陰影が入り込むことだって、あるかもしれない。かもしれない。実際のところは知らない。
「あのさあ、ずくん」私たちは、ずくんに呼びかける。ずくんは、すぐそばにいる。いずしちゃんは、相変わらず、スクーターのそばでへばっている。私たちは、今、いろんなことがどうでもよくなってしまっていて、そんなかわいそうないずしちゃんのそばへ、駆け寄って、助け起そうって気になれない。薄情だなあ、と思う。
「あんだよ」とずくん。
「実際のところ、どうなんでしょ」と私。
「あんだよ。知るか」
「伏線がどうたらこうたら」
「ああ」とずくん。それっきり。
「ああ、だけ?」
「ああ」
「なんだよ、それ。会話になってない」
「うるせえな」とずくん。どこかすねた口調だ。
「やれやれ。これだから子供は」
「赤ん坊だ」
「まあ、そうだね」
「すべて」とずくんが言いかけたので、私たちは、待ってましたとばかりに、ずくんの台詞を遮る。ずくんの台詞を奪い取る。なんとなく。
「これ、コンドームだと思うんだよね」私たちはあたり四方を両手を使って指差しまくる。いずしと、いずしの外部のキノコ雲とを明瞭に二分する見えない壁、見えないドーム上の壁。「この防護壁のごとき、見えないドーム。コンドームだと思うんだよね。ただのダジャレだけど」
「たく」となぜか、ずくんが舌打ちをする。
「で、あれが」とドームの外側でもくもく煙っているキノコ雲を指差しまくる。「まあ、なんというか、精子ってやつ。ザーメンでもいいけど」白くてキノコだ。
「ふう」って息だけで、ずくんは応える。素直じゃない合いの手。
「原子力爆弾が投下されて、たくさんの人が死にました。多分、一億人くらい。沢山の精液が射出されて、沢山の精子が死にました。一億匹くらい。匹って数えるのかな、知らないけど。何度もなんども、爆撃機がやって来るってことは、きっと、輪姦されているのだろう。そして、私たちは、すやすやと眠りこけているのだろう。いつ、目醒めようか。いつ、目醒めるのがいいんだろうか。あるいは、きちんと、目醒めることが可能なのだろうか。つまり、その、我ながら語りたくないのだが、私たちという存在が、いずれ用済みと見做され、好き勝手に用済みと見做され、面白半分に廃棄処分されてしまう可能性はないだろうか。もし、そうだとしたら、まだ、まだ、生きているうちに、目を醒まして、最後の、最後の最後かもしれない可能性に賭けるべきなのでしょうか。でも、却って、そのために、廃棄処分されてしまったりしないでしょうか。こわいなあ。こわい。どっちが、正解なのでしょうか。嫌なやつらは、本当に、嫌なことをしでかす。どうしようもない悪魔のようなあいつら。逃げ出したいけど、逃げ出せないような状況。状況証拠。証拠不十分。嫌なことは、本当に、嫌なのに、平気でひどいことをするやつら」頭の中が整理できないから、全てを言葉にして、投げ出して、却って、収集がつかなくなる。
「逆の発想だってできる」慰めるってわけでもなく、無責任にずくんは呟く。所詮観光地なのだ。観光地って無責任だ。「実は、この執拗なまでのバカみたいな原爆投下の方が、真実なのかもしれない。そして、なにか、よくわからない原理で、いずしだけ被害を免れているのかもしれない。まあ、いずしには、種々様々な要人が宿泊しているからな。原爆を投下する方も、それ相応の忖度はするだろう。世界最新鋭のスーパーコンピュータを駆使して、天候風向き、投下のタイミング、もろもろを計算に入れて、俺たち素人じゃ、まるで思いもつかないバタフライ効果で、このいずしだけ、爆煙が舞い込まないよう、放射能も舞い込まないよう、計算され尽くされた、大量殺戮なのかもしれない。もしかしたら、首謀者は、このいずしに宿泊している誰かかもしれない。まあ、首謀者っつても国家レベルの話だが。首謀者っつっても、おそらく首謀者側の下っ端の研究員観測員ってところだろうが。爆撃地にもっとも近く、かつ、安全に、爆撃後の影響を観察すべく、やつらはこのいずしに宿泊しているのかもしれない。かもしれない。かもしれないって、どこまでいったってただの推測だがよ。で、あなたは、ただ、目の前の現実が、あまりにありえないから、けど、ありえないくせして、そいつは、どう考えたって悲劇だから。なにせ、俺様の両親である伊豆と逗子まで死んじまったんだ。当然、あなたのご家族やご友人や知人等々が、宝くじに外れる確率で死んじまってんだ。クソが。つーことは、どう考えたって、この現実は、ありえないくせして、悲劇だろ。ありえないから、理解できない。けど、悲劇だから、悲しい。なんとか、その理解できない現実を悲しもうとして、あんたは、まあ、人間誰でもそうだろうが、類推って能力を活用している、それだけかもしれない。共感ともいうのかもな。他者の悲しみを理解するために、自分自身を悲しみに陥れるってあの手法だ。あなたは、あたかも、自身が強姦されている、輪姦されている気分になることで、この悲劇を受け入れようとしているのかもしれない。この悲劇を悲しもうとしているのかもしれない。だとしたら、なんだ、って話だがよ。真実がどこにあるのか、俺様も知らねえよ」
「話が長い」と私は答えた。
「うるせえ」とずくん。
「結局、かもしれない、しか言ってないじゃないか」
「うるせえ」とずくん。
「そもそも」と私は言いたくないことを口にする。「どちらも真実かもしれないじゃない。pかつqかもしれないじゃない。私の推測と、ずくんの推測は、排反しない、独立の事象かもしれないじゃない。どちらも本当かもしれないじゃない」
「何言ってるんだ」とずくん。
「私自身わからない」と私。
「じゃあ、もう喋るなよ」と赤ん坊のくせに。
いずしちゃんが、おえ、とさらに透明な粘液を吐き出した。私たちは、今更のように、いずしちゃんがかわいそうになった。いずしちゃんの元へよたよたと駆け寄る。ずくんも、私たちの護衛みたいに、私たちについてくる。私は心ここに在らずで、儂に尋ねていた。『実際のところ、どうなのよ』『知らん』と儂。私たちの人格の中には、わたくし、という、ずっと目を閉じて、盲目ってことにしている人格がいる。彼女が、両目を見開いたら、これまで見えなかったものが見えるようになるのではなかろうか、などと付け足すように考えた。考えただけ。
「いずしちゃん」
「はあはあ」と荒い息。舌が真っ赤にただれている。胃液を吐いたんだ。
「大丈夫。ごめんね、いずしちゃん。ごめん」うすっぺらい謝罪だ。
「葬式」といずしちゃんがかすれる声で呟いた。「お葬式をあげないと。こんなに、沢山の人が死にました。盛大に愉快なお葬式をあげないと」
葬式をあげたところで、なんになる、とは思った。けど、いずしちゃんの真心は尊重しなくちゃ、と思った。私が目醒めるのは、その後でいい。
いずしちゃんの消耗が激しいので、ずくんのカラープリントのクッション性のある影に、いずしちゃんを寝かした。死んだ烏のことをすっかり忘れていた。私たちも疲れ切ってしまっていたから、背中が白くなるのも気にせず、ガードレールに凭れかかって、キノコ雲の流れを目で追った。
夢の中にしては鮮明だ。
夢の中だからこそ鮮明なのか。
もし、これが夢だとしたら、目醒めてしばらく経ってしまったら、あっけらかんと忘れてしまう出来事なのだ。たわいもないなあ、と思う。
スクーターにいずしちゃんの吐瀉物がそこそここびりついていたから、その辺に生えていた芒の穂で、軽く払った。それで準備完了。行きとは反対に、いずしちゃんをふとももの間に挟んだ。ずくんに背中を任す。本調子でないいずしちゃんが、振り落とされてしまったら、と怖くなったからだ。生後一日のずくんに背中を任せるなんて、乱暴だなあ、とは思ったものの、他に手立てがない。雲に霞む太陽を追いかけるけれど、すでに夕暮れ。陽は傾きかけており、時速五十五キロでどうにかなるハンデじゃない。もうすでに、葬式の準備をみんな始めている頃合いだった。喪主は誰だっけ。いずしちゃんか、社会的地位でいえば、山田さんあたりでも構わないか。時間が経つにつれて、あたりは明るくなった。夕暮れなのに、まるで太陽の上を走っているみたいに明るかった。遠い草原の方で、巨大な拡大鏡で、拡散された夕焼けが、ありとあらゆるものをオレンジ色に塗り替えたから。あまりに強烈な単色に、却って、視覚がモノクロになった。世界を焼き尽きそうな勢いで、広がる夕焼け。イメージの上では、世界を灰燼と化した。砂と埃と灰の世界。目に見えない空気でさえオレンジ色。私たちの背中についたガードレールの白い粉も、なんだかそれはそれでありな感じに、ちょっとおしゃれに思えてくる。私たちの玉虫色の髪といずしちゃんの黒髪がほとんど同化。ずくんの影もフツー。外見的個性が、すべてまやかしに過ぎないように思われてくる。それくらい強烈で強制的で強権的。すべtが夕日に染まる。すべてが平坦に見える。事故を起こさないよう、注意が必要。ぶろろろろん、と無駄に空転音響かせながら、たらたらたらと走った。
「あーあーあー」といずしちゃん。
「なに」と私。
「発声練習」
「そっか」
「喉がいがいがするのです」
スクーターやバイクを運転していると、ついつい、今、ぱっと手を離したら、凧みたいに、くるくる舞い上がって、何か面白いことにならないかなあ、と思ってしまうのだけれど、危ないから、やらない。いずしちゃんとずくんもいるし。
駅前の市街地にたどり着くと、みんな坊主だった。見渡す限り、坊主だった。だいたい坊主だった。ゴジラだのガメラだのの着ぐるみをかなぐり捨てて、だいたいみんな坊主にモデルチェンジだった。旅館の駐輪場までスクーターを走らせると、待ちかねていたよう、たま子ちゃんとひめ子ちゃんが出迎えてくれた。ありがたいことに、彼女たち二人は、まだ、坊主じゃなかった。
「いったい何があったの」と私。
ずくんはさっそうとスクーターから飛び降りる。こういうときクッション性のある影は便利だ。足元がいつだってマットレスなのだ。大概の無茶が通用しそうだ。無限でんぐり返りとかできそうだ。
「おそらくですね」といずしちゃんが、私たちの股座から胃液に焼き爛れた声を響かせた。
「すごい声」「うわあ」とたま子ちゃんとひめ子ちゃん。
「どろどろどろ〜」と幽霊の登場音をいずしちゃん。
「雰囲気でる」「こわいこわい」とたま子ちゃんとひめ子ちゃん。
「それでは一曲」と有名なヘヴィメタをヘヴィメタっぽい声で歌い出すいずしちゃん。話が変わってる。
「いい加減、私の股から出て行ってよ」
「あ、うん」とよろめきながら、立ち上がるいずしちゃん。胃液と一緒に重心も吐き出してしまったのか、あっちへよろよろ、こっちへよろろ、たま子ちゃんとひめ子ちゃんの間、三十センチくらいの隙間に余ったパズルのピースみたいにぴったりと嵌まり込み、そうして、ようやく安立する。たま子ちゃんとひめ子ちゃんはいつの間にか仲良しになっていた。朝方、中居駒で死闘を演じたのが嘘みたいに。
しばらく、五人で、ヘヴィメタを合唱した。私たちの体内では、俺がモバイルコントローラを操作して、体全体を微振動させることで、ベース音を担当した。たま子ちゃんとひめ子ちゃんは駐輪場の自転車のベルをちりんちりん鳴らした。ヘヴィメタの後は、Lou ReedのThe Kidsで、ずくんが、猫をかぶったような赤ちゃん泣きを披露した。すごい、赤ちゃんみたいだ、と思った。調子に乗った、ずくんが、はるかに声変わり前のボーイソプラノで、David Bowieに果敢に挑むが、噎せていた。
そういえば、あたり一面坊主だった。
拡大鏡で拡散された夕焼けが、坊主たちの頭頂部でさらに乱反射し、まるで、波打ち際の漣のように、きらきらしていた。光の王国だった。
「ところでさ」と私。「これはなに」行き交う坊主を指差す。尼さんもいる。
「坊主と尼さんです」
「それはわかるんだけど」
「法名までは知りませんよ。知り合いじゃないんですから。まあ、同じ町に住んでますから、顔見知りではありますが」
「そうじゃなくて」
「おそらく、出家が大流行したんでしょう」といずしちゃんが呟くと、たま子ちゃんとひめ子ちゃんもうんうんと首肯いた。「今夜の葬式に向けて、みんな張り切っているのです」
「そうそう、阿闍梨さんが授戒のしすぎで倒れたんだって」とたま子ちゃん。
「神社の神主さんが、お前も坊主になれって、新興坊主たちに、たこ殴りにされて、ひいひい泣いてるの見たよ」とかなしげにひめ子ちゃん。
「あたしたちへの圧力もひどいものだよ。無言電話ならぬ、南無言電話が、さっきからずっと」
「巫女さんたちも、よってたかって授戒されまくって、『要らないです、要らないですって』っていくら言っても、つきまとわれて」
「お坊さんファシズムだよ」憤然とたま子ちゃん。
「内ゲバも始まってるみたい。こわい」と小声でひめ子ちゃん。
「牧師さんたちは」といずしちゃんの質問。
「壊滅しました」と間髪入れぬたま子ちゃんの答え。
「神父さんは」
「十字架です」
「その他新興宗教は」
「吸収合併ですね」
「ひどいなあ」と私は思った。
「まあ、時の流れですね。流行りものはすぐに廃れます。葬式が終われば元に戻りますよ」といずしちゃんは、あっけらかんとしていた。
ふっと視線を転ずれば、山田さんは、まだあそこにいて、だいぶかわいそうなことになっていた。山田さんは、土中に埋まり、抵抗、逃走できないことをいいことに、あらゆる人から毛を剃られ、頭が、ハダカデバネズミのように真っ赤に腫れ上がっていた。四方八方から、お経を唱えられ、授戒されまくられ、気が狂っていた。三十行くらいの戒名を施され覚えることさえ億劫だ。額に、山田之墓ならぬ、山田之馬鹿、と落書され、献花されていた。
選挙ポスターの候補者たちの頭部が、全て、肌色と水色のペンキで坊主っぽく塗り替えられていた。後光が描きこまれる場合さえあった。所構わず抹香臭かった。喫茶店のスツールの上で、みんな座禅を組みながら、コーヒーを味わっていた。ボロいカラオケ店から、ほのかにお経が聞こえてきた。いただきます、と手を合わせた次の瞬間から、一時間くらいの黙想を始め出した。不良たちが、メリケンサックの代わりに、数珠を手首に巻きつけていた。散髪屋が閉店していた。不殺生戒を犯した坊主が、たこ殴りにあい、殺されかけていた。ファッション誌を手に取ると、モデルが全て坊主だった。一誌一誌丁寧に、選挙ポスターと同じやり方で、塗り替えられているのだ。高校野球の応援歌が、金剛経に変わり、ブラスバンド部が困惑していた。わけがわからなかったけれど、少し面白かった。私たちといずしちゃん、たま子ちゃん、ひめ子ちゃんは、そろりそろりと、スパイの気分で、いずしの街を練り歩いた。ずくんは平然としたものだった。ナチュラルスキンヘッドで、坊主に擬態してやがる。我々は、授戒されそうになる度に、脱兎のごとく逃げるのだ。いずしの町をいずしちゃんほど知り尽くしているものはいない。狭い路地を何度も何度もくぐり抜けると、気がつけば追っ手は撒けている。
しかし、私たち五人の目の前に、武蔵野坊弁慶のコスプレをしたおじさんが突っ立っていた。武蔵野の某弁慶って感じだった。こいつは手強そうだった。
「ふふ」と不敵にいずしちゃんは笑う。「多勢に無勢。一対五で何ができると言うのです。者共かかれ」
みんなでたこ殴りにした。面白かった。彼の頭部は、木魚のようによく響いた。もちろん、手加減して殴った。武蔵野の某弁慶も心得たもので、「や、やられたー」と棒読みの台詞で、どさりと崩折れた。倒れる某弁慶の下に、ささっとずくんのカラープリントの影。
「さて、そろそろいい頃合いですね。葬式を始めましょう」
「弁慶さんもいつまでも倒れてないで、葬式に遅れるよ」とたま子ちゃん。同年代への対抗心の影に見え隠れするけれど、案外世話好きなのよう。
「あ、はい」ひめ子ちゃんが差し出した手を借りて、弁慶さんはゆっくりと立ち上がる。
もうすでに、日没間際だった。陽光がオレンジ色から薄紫色に変化している。まだまだ、眩しいくらいだけれど、ぽつぽつ、街灯が灯り始めている。四方八方からの照射に私たちの影が分裂する。ずくんの影も、相変わらずカラープリントのまま分裂する。
みんなゆっくりと緩慢な歩速で、野原の方へと向かっていく。何しろ混雑しているのだ。縁日の賑わいのようだ。町中の人たちが、町中の坊主たちが、葬式めがけて、行進を始めている。見渡す限り坊主と尼さんの中で、私たち五人だけ、少し浮いていた。
「それでは」と弁慶さんが言った。
「え」
「ばいばい」弁慶さんは溶けて消えてしまう。大通りを満たす、坊主に紛れて、消えてしまう。どれがどれで、誰が誰かがわからない。たま子ちゃんとひめ子ちゃんが手を握り合っている。逸れてしまわないように。私たちも手探りに、いずしちゃんとずくんを摑まえた。けど、いずしちゃんとずくんも任意の判断で手を繋いでいて、面白いことになった。見知らぬ尼さんが一人、包囲されていた。尼さんが、なぜだか照れている。私たちはいそいで手を離して、再度繋がり合う。尼さんなんて別にいらない。
「こんなに人がいたんだ」
「観光地ですから」
「みんな、戦争が怖くて逃げてきたの」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません」
「どっち」
「しらない」
「もうすぐ戦争終わるのかな」
「どうでしょう」
「これだけひどい目にあったんだから」
「でも、落とし所がないですよ」
「そんなこといったって。落ちるところまでは落ちたよ」
「どこまでもどこまでも、徹底的にひどい目に合わせたいだけかもしれませんよ」
「そんなの、無意味じゃない」
私たちの足元に、山田さんがいた。そういえば、山田さんは、この街中に相変わらず埋まっていたのだ。
山田さんの首から下は、大根だった。昼間からずっと同じ場所に埋まりっぱなし。だから、坊主や尼さんに踏みつけられ放題で(山田さんは気絶していた)、流石にかわいそうだったから、いずしちゃんとずくんから一瞬手を放して、山田さんの頭を両手で抱え、思い切り引っ張ったら、すぽん、と山田さんが街路から抜けた。妙に気持ちよくひっこぬけたな、と思ったら、山田さんの首から下は、大根だった。秋も深まりつつあり、そろそろ大根が育つ季節だった。時が止まった気がしたけれど、相変わらず、坊主と尼さんは流れてゆき、立ち止まる私たちを邪魔くさそうに避けてゆく。坊主のくせに舌打ちをするのだ。迫力があった。
「なにこれ」
「山田さん」
「これは」と袖で山田さんの頭部を隠して、首から下を指差す。
「大根です」
「そっか」
「そうです」
「なにこれ」たま子ちゃんとひめ子ちゃんも立ち止まって、坊主の流れ逆らって、私たちの元まで来た。
「山田さんは、実は大根役者だったんですね」
「テレビには人間の格好で出てたけど」
「あれは、二人羽織だったのです」
「そっか」
「結構多いんですよ。山田さんみたいな人」
「そんなわけ、あ」と私。実名をあげる、いずしちゃん。「そんな。まさか、いずしちゃんも」
「私は違いますよ。私は観光地ですから」
「この山田さん、どうしよう」と私。
「どこか、人通りの少ない場所へ、埋めてあげたらどうでしょう」
「うん」
たま子ちゃんの襟首に、大根人間の大根の部分を差し込んで遊んだ。たま子ちゃんは、「ひゃあひゃあ」と慌てふためくのだ。かわいい。けど、中居さんの着物から、たま子ちゃんの首と山田さんの首が対になって生えているのは、びっくりする光景。かわいくは、ないかもしれない。山田さんをたま子ちゃんに背負わせて、坊さん行列の最後尾を、私たち五人はのんびりと歩いてゆく。開会式には遅れるかもしれないけれど、人混みに揉まれるよりは、はるかに安逸だ。
よくよく考えてみると、かわいそうだなあ、と思う。山田さんは、かわいそうだ。かわいそう、かもしれない。いやどうなんだろう。私は、私の右手に山田さんのかわいそう要素を積載してみる。生まれつき、大根で。自分が元首の国はほぼ壊滅しちゃって。無理やり、出家させられて。戒名つけられて。墓にされて。馬鹿にされて。大群衆に踏みつけられて。私たちにおもちゃにされて。じゃあ、左手には、かわいそうじゃない要素。国民を見捨てて、自分だけいずしに亡命していた。釣り合い、取れるのだろうか。かわいそうか、かわいそうじゃないかで言えば、きっと、かわいそうだ。けど、やっぱり、山田さんのこと、好きになれないなあ、と私は思ってしまう。かわいそうだけど、かわいくはない、それが実情ってものだろう。
気がつくと、山田さんは、亡くなっていた。息、していなかった。あれだけ、踏みつけられたのだから、そりゃ、そうだろう。野生種の大根だって、どんな生命力旺盛な雑草だって、山田さんと同じくらいの悲劇に見舞われたら、生きることにうんざりしてしまうに違いない。仕方のないことだろう、と思う。私たちは、手近にあった、先の鋭い岩石で、山田さんの人間の部分と、大根の部分を、半ば押しつぶすように、切り分けた。へたの部分は、野原の隅の方へ転がしておいた。そのうち土に還って、生態系の一部になるだろう。大根部分をどうするかで、意見が分かれた。漬物にしたい派と沢庵にしたい派と今晩おでんを食べたい派と今、ここで生で食べたい派に分かれた。抜きたての大根だから甘くて美味しいんじゃないかな、という私たちの意見。ずくんはどうでも良さそうに夕闇に目を凝らしている。私たちは、多重人格であることをいいことに、多数決を制した。半ば反則。私たちの最終奥義。秘密兵器一人六票。まあ、私たちの中で、票が割れることだってあるのだけれど。
がりがりとみんなで大根をかじりながら、山田さんの思い出に浸る。思い出なんて大してなかった。滓みたいなものだった。直接出会ったのはこの二日間のみだったし、これまでテレビに出てきても、何か原稿を読んでいるだけだった。あっけないなあ、と思う。私たちが死んでしまうときも、漬物にされたり、沢庵にされたり、おでんの具にされたり、生でがじがじ食べられたりするのだろうか、と思うと、少し寂しくなった。そもそも、私たちは、大根でさえないわけだから、漬物にも、沢庵にも、おでんの具材にもなれない。ただ、うっちゃられるだけだ。
お坊さんも尼さんも、それ以外の人たちも、だいたい、みんな、野原に集まってしまった。日も没しかけている。もう、いい頃合いだ。これ以上は、引き延ばせないし、引き伸ばしたって意味がない。四方八方、坊主、か、尼さん。みんな一様に似たり寄ったりな形をしている。新種の植物のようだ。私たち五人は、坊さんと尼さんの群生を突き抜ける。棺に収められた、伊豆と逗子のでろでろの死体。凝固前のプリンのようだ。葬式が始まろうとしている。
「むなしい」といずしちゃんが呟いた。
「うん」と私が応える。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんは、袖を捲り上げ、面白半分、肝試し半分で、伊豆のでろでろの死体をかき混ぜていた。『感染るよ』『放射線が』『感染るよ』と警告しようと思ったのだけれど、一種の虚脱感に襲われて、どうでもよくなって、彼女たちの好きに任せている。
坊主たちが、方眼紙の交点のように奇妙に均一に並んでいた。まるで、世界の始まりから、そう決まっていたみたいに、一糸乱れず整然と。こんなに坊主ばかり集まらなくてもなあ、と思う。坊主酔いする。坊主ばかり眺めていると、坊主酔いする。この中に、悟った坊主が何人いるんだろう。そもそも、悟ったからといってなんなのだ。それぞれの坊主の口から、好き勝手な呪文が、妙な重低音で唱えられている。まるで、魔法の呪文みたい。今にも、これまで死んだ全ての人々が生き返ってきそう。でも、そんなことないのだろう。魔法の呪文みたい、なだけ。鈴虫・螽斯・蟋蟀の鳴き声、法華経、阿弥陀経、金剛経、私にはよくわからないけれど、その他種々様々なお経の音が、入り混じって、奇妙に調和がとれている。不定期的に、阿闍梨たちが、入門弟子たちの肩を、「かあーつ」と、ぶっ叩いている。それさえ、いいアクセントになっている。坐禅を組みながら、ぴょんぴょん飛び跳ねている人たちもいる。木魚の音が、くどいくらい重複して響いてくる。木魚を持参し忘れた、うっかり者たちは、前に立っている坊主の坊主頭を、木魚がわりに、ぽくぽく、と叩いている。叩かれる方も、仕方ないなあ、という甘い表情で、「ぽく、ぽく、ぽく、ぽく」と声帯模写に励んでいる。慈悲の心だ。数珠のじゃりじゃりと擦れる音。
「葬式ってむなしいですね」といずしちゃんが、ため息みたいな声を漏らした。「かなしさが、むなしさに、塗りつぶされてゆきます」
「これだけ、坊主が集まったんだからさ」と私。「もっと、盛大に、何か、馬鹿みたいなことがしでかされるのかと思ってた。けど、みんな、ただの坊主だ。ただお経を唱えているだけ」
「なかなか、いい声ですよ」
「けど、辛気臭いよ」
「意外とみんな、まじめなんです」
私たちといずしちゃんは、お葬式を抜け出すことにした。お葬式に、幻滅したから。これは、私たちといずしちゃんが求めているものでは、なかったから。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんは、相変わらず、死体で、遊んで、全身放射線にまみれて、ついに、放射能になってしまった。毛穴という毛穴から、サーチライトのような直線的な光が、四方八方へ突き刺さるように伸びている。放射線だ。格好いい。
ずくんは、垂れ下がりっぱなしだったへその緒をストローのように、逗子の死体に沈みこませ、ずるずると、半液状の死体を吸い上げ、吸収してしまった。結果、ずくんは、大怪獣のように巨大化した。「あおーん」とずくんは吠えた。吠えただけだった。大怪獣と化したところで、ずくんは赤ん坊なのだ。生後一日なのだ。「眠い」とつぶやき、周囲の邪魔にならないように、ヨガの行者のような器用さで、コンパクトに体を、折り曲げて、寝入ってしまった。
私たちといずしちゃんは、二人きりで、坊主の密林を抜ける。途中、暗闇に乗じて、尼さんを半裸にして、坊さんを全裸にした。みんな、一心に、お経を唱えており、私たちといずしちゃんの凶行に気がつかなかった。私たちも、いずしちゃんも、このお葬式を乱行パーティーに仕立て上げたかったのだ。けど、みんな、真面目で、何もかもつまらなかった。私たちといずしちゃんの願いは、叶えられなくって、でも、それは仕方のないことなのかな、とも思う。だから、これは、腹いせだ。腹いせに、坊主と、尼さんの糞掃衣をびりびりに、力任せに、引き裂き、引き裂き、引き裂き、引き裂き、坊主たちの密林を通り抜ける。なかなか抜けない。夜風がぴゅうぴゅうと吹きすさんでいるけれど、お坊さんたちは、密集方陣を組んでいるため、きっと、一晩くらい大丈夫。風邪引かないだろう。万が一、風邪を引いた時は、二人でお見舞いに行こう。示談金を携えて。頭の片隅で算盤算用。猿だった。
猿たちが、どこかに身を潜めていた、例のあの猿たちが、裸に剥かれた、坊主たち、尼さんたちを、襲い始めた。色即是空。空即是色。と一心不乱にお坊さんたちは唱えども、そんなわけはなかった。猿たちは、どこまでも、執拗で、直情的だった。私たちにもいずしちゃんにも、襲いかかろうとした。放射線に侵され、幼児退行してしまった、たま子ちゃんとひめ子ちゃんが、辺り構わず、徘徊した。毛穴という毛穴からサーチライト。ミラーボールみたいに、光を吐き散らす。プラネタリウムの、星を映しだす機械みたいに。夜空が、地上に落っこちてきたみたいに。集中豪雨で天の川がこの地まで氾濫したみたいに。ホタルの群生地にじゃぼじゃぼと足を踏み入れた時みたいに。光。光。光。猿に犯された、坊さんや尼さんは、そういうルールみたいに、猿になった。猿の猿性が坊主と尼さんへ、感染していった。猿が、猿に犯され、より、猿になった。天の川を、猿が、あっちへよろよろ、こっちへよろよろ。鈴虫や螽斯や蟋蟀も、坊さんや尼さんを襲い始めた。暗闇で判然としなかったけれど、鈴虫や螽斯や蟋蟀も、実は、鈴虫や螽斯や蟋蟀っぽい格好をした、おじさんやおばさんだった。若い人もいたけれど、だいたい若くなかった。猿と同じ原理だった。襲われた坊さんや尼さんたちは、次々と、鈴虫や螽斯や蟋蟀っぽくなってしまった。目を閉じれば、秋って感じがして、風流だった。生き残った坊さんや尼さんも必死だった。今度は、坊さんや尼さんが、猿や鈴虫や螽斯や蟋蟀を襲い始めた。襲われた方は、順次、坊さん化、尼さん化していった。坊さんは、更に、坊さんを襲い。襲われた坊さんは、より純度の高い坊さんとなった。高僧となった。尼さんや、猿や、鈴虫や螽斯や蟋蟀も同様だった。どんどんどんどん、立ち止まることなく近親相姦を繰り広げた。当初、同盟関係にあった、坊さん、尼さん間の出家者同盟、鈴虫、螽斯、蟋蟀間の昆虫同盟が、有名無実化した。さらに、宗門ごとにも分化した。種々様々な、お経が、絶叫となって、夜空を駆け巡った。猿たちまで、ラマピテクス、ギガントピテクス、北京原人、ネアンデルタール、クロマニョン、等と分化し、みなどんどん孤立化していき、ほとんど全てが敵という有様になった。私たちも襲われそうになって、いずしちゃんも多分、襲われそうになって。多分、襲われたんじゃないかな、と思う。私たちは、猿になった。そして、蟋蟀になって、テナガザルになって、ローランドゴリラになって、蟋蟀に戻って、踊念仏をはじめて、臨済将軍の麾下に入って、浄土真宗に掻っ攫われて、よくわからない仏教系新興宗教と入り混じって、マウンテンゴリラになって、ラマピテクスに退行して、その後、ずっと、虫。虫。虫。チンパンジー。やっぱり、虫。気がつくと、いずしちゃんが、私たちにのしかかっていた。「いま、あなたは、なんですか」「チロロロロ」って私は鳴く。「なんだ、虫ですか」「チロロロロ」「私ですか。私は、女王様です。クロマンニョン人たちが、さらに分化し、階級社会が誕生したのです。この虫野郎」と言って、いずしちゃんが私たちの首を締めた。私たちは、なんだか、楽しくなって、どうしようもなくなった。思わず、人間の言葉を思い出してしまう。「いずしちゃん、私たちは、もうすでに、首チョンパだから、今更首しめたって意味ないよ」「あ」「チロロロロ」言い訳みたいに、虫の鳴き声。私は、いずしちゃんの首に噛み付いて、怯んだいずしちゃんごと、ごろごろと側転して、そのまま抱きすくめるように、下敷きにする。いずしちゃんも、虫に戻った。女王様が、虫になった。諸行無常だった。どうしようもなく輪廻が続いた。乱痴戯騒ぎの中に、輪廻転生が圧縮されていた。天上界へは辿り着けそうもなかった。たま子ちゃんやひめ子ちゃんも同様だった。ずくんも例外ではなかった。ずくんは、今、牛だった。牛にされていた。年若い女性に、牛扱いされていた。その年若い女性とはたま子ちゃんだった。なぜ、豚や犬じゃなくて、牛なのだろう、と思った。たま子ちゃんの心の片隅に残った、ほんの一片の優しさゆえかもしれない。生後一日の赤子を豚扱いしたり、犬扱いしたりすることに、良心の呵責があったのかもしれない。でも、牛って全然可愛くない。案の定、ずくんは、たま子ちゃんから飽きられ、放牧された。途中、私の首が、私たちの体からぽろりとこぼれてしまった。私たちの体が、まるで強風にさらわれた凧のように、あっちへゆらゆら、こっちへゆらゆら、あてどもなく漂っていき、寂しかった。いずしちゃんに、私の頭が拾われた。「こんなところに転がっていたら踏まれちゃいますよ。山田さんみたいに」「絆創膏が千切れちゃって。あの、私たちの体が」「まあ、いいんじゃないですか」「よかないよ」「朝になれば、全て収まるところに収まりますよ」「ああ、うう」私といずしちゃんは、群衆を抜けて、偶然うまれた空白地帯に、身を横たえた。ここにたどり着くまでに、いずしちゃんは、虫になって、もぐらになって、また、人間に戻った。獣だった。ここに集った人たちの本質は。だいたいみんな、裸で泥まみれだった。「楽しいような、しんどいような」といずしちゃんが言った。「疲れました」「そりゃそうだよ」「けど、ほかの皆さんは、楽しそうで、朗らかそうで、嬉しいです」「はっちゃけてる」「弾けてますねえ」と詠嘆。すぐ、十メートルくらい先で、私たちの体が、ぴょんぴょんと、なんだかそういうおもちゃみたいに、胴上げされている。『大丈夫?』と無線通信。『まあ、うん』とあたし。『今、なんなの?』と私。『神輿』とあたし。『よくわからない』と私。『わからなくてもいいよ』とあたし。『当事者のあたしたちもよくわかんないし。けど、苦しくはないよ。心底楽しいかっていうと、ちょっと疲れるけど』たま子ちゃんとひめ子ちゃんがアイスキャンディーみたいに舐められている。ずくんが、そういう乗り物みたいに、跨られている。赤ん坊だから、はいはいは得意なのだろう。得意げだ。それからしばらく。少しずつ、少しずつ、脱落者が現れ始めた。疲れ果てて、眠りこける人たちが、一定頻度で現れ始めた。こてん、こてん、と、発条が途切れたように、朝起きたら寝違えていそうな、込み入った絡み合った体勢で、みんな寝入るのだ。体力がないなあ、と私たちといずしちゃんは思う。全然、体力不足である。生まれて初めて、はしゃいだみたいに、みんな、一心不乱にはしゃぎまわって、あっけなく途切れてしまった。もう、あたりは、墓場のように静寂。たま子ちゃんとひめ子ちゃんは、最後の最後まで粘っていたのだけれど、数度、毛穴という毛穴からの光が、弱々しく明滅したかと思うと、あたりは真っ暗。たま子ちゃんとひめ子ちゃんも、折り重なる人肉の上に、ぼてり、と熟れすぎた柿の自然落下みたいなだらしなさで倒壊した。みんな、やりきった顔をして寝入っていた。何をやり切ったのか、知らない。きっと、やりきったつもりになっているだけだろう。集団妄想だ。人肉平野を、遠くの方から、私たちの体がよたよたと近寄ってきた。「ここです」といずしちゃんが、片手を振る。もう一方の手で、私の頭を抱え込んでいる。もう、ほとんど粘着力の失った絆創膏で、再度、私の頭を私たちの体に固定する。「いいお葬式になりました」とここで一区切りをつけて、いずしちゃんは「か」と付け加える。尋ねられても困る。そもそも、どんなお葬式がいいお葬式なのか、よくわからない。「少なくとも」と私。「思い出作りにはなったと思う」
人肉平野を私たち二人は、とぼとぼと歩く。肉を踏む時、肉が痛くないように、裸足になって。肉にまみれた体液を、足裏に感じる。彼らと足裏の境界線が曖昧になる。このまま、夜が更けて、朝が来たなら、これら人肉が納豆みたいに発酵してやしないだろうか、と心配になるようなうっすらと酸味を帯びた粘液だった。ねばねばねちゃねちゃ。まあ、それはそれで、絆って感じなのだろうか。納豆菌のように物理的に糸引く絆。運命の、赤くはない、どちらかといえば無色透明な、ちょっとにおう、発酵菌糸。やれやれ。接合したまま眠っちゃって。ゴムが体内残留しても知らんぞ。と思った。そういう経験、別にないけど。人生経験そんな豊富じゃない。ただ、普通の人より、六倍、人生が濃密なだけ。女でもあり男でもあるだけ。私たちの中に、老人もいれば、少女もいるだけ。人生経験が豊富なんじゃなくて、ただ単に、人生が豊富なだけなんだろう。もっと端的にいえば、人格が豊富なだけ。いずしちゃんは、私たちの隣で、雀の鳴き真似を練習していた。口笛の練習をしていたのかもしれない。でも、それは、明らかに発声だった。足元に転がっていた、ちんちんを、もののはずみに遊び心で蹴飛ばした。ちんちんは、ゆるやかにポーンと、放物線を描き飛んで行き、からんころんからんころん、と着地後も転がった。きんたまも付属しており、きんたまの部分が、ころころころと、コロとなって転がったのだ。自律自走戦闘兵器のようだ。その全形は、ナポレオン時代の大砲に似ている。寸胴で無骨で、生真面目そう。それは鋭角に砲身を傾け、今にも発射可能という態である。私たちといずしちゃんの歩みが、そのちんちんに追いついたので、再度、蹴飛ばした。放物線を描き、からんころんからんころんと、転がった。なんどもなんども、私たちは、そのきんたま付きのちんちんを蹴飛ばした。飽きたので。「さようなら」人肉平野を突破した。置き去りにされたちんちんは、寂しそうに肩をすぼめた。ちんちんは、そこらへんに寝転がっていた男の禿げ上がった額に根を下ろした。細胞レベルで癒着した。男の禿げが、ちんちんでふさふさになった。みんな丸く収まった。男は今や、禿げではない。額からちんちんが生えている人だ。おしゃれな、エクステみたいに。
街へ戻って来たからって、何をするというわけでもない。いずしちゃんが歩くのは、私たちが歩を止めないからで、私たちが歩くのは、いずしちゃんが立ち止まらないから。街は、私たち二人の貸切だった。住民も宿泊客も、みんな野原で肉になっている。きっと、朝まで目覚めない。目覚めたところで、目覚める前の続きが始まるだけ。きっと、何日も、何十日も、餓死の寸前まで、同じことが、繰り返されるのだろう。どんどんどんどん発酵していくのだろう。
「いつまで」といずしちゃんが訊いてきた。その四字だけで、だいたい、なんとなく、訊きたいことがわかった気がしたけれど、やっぱりよくわからないから、訊き返さないと言葉が生まれない。
「なにが」
「まあ、そのですね」といずしちゃんが呟いた。極めて断片的な会話だった。私も断片だけ、投げ返すことにする。
「素うどん」
いずしちゃんが、きょとんとした顔になったので嬉しかった。してやったり、って気持ちになって、私は、すこし調子に乗った。
「お稲荷様。赤いレンガ。牛の角。象形文字。馬鹿。カーテンレール。鎖帷子の脇毛」と私は呟いた。とつとつ、と、思慮深げに呟いた。重たい口を開くみたいに。血を吐くみたいに。
「うん」といずしちゃん。
「あそこの角を曲がったところにある交番。木彫りの熊。いずしちゃん。鯛焼き。人力車」
「なるほど」といずしちゃん。
「新約聖書。懐刀。雨蛙の尻尾。お隣の奥さん。鬼のような厚化粧。和太鼓型のマンション」
「そうですね」といずしちゃん。いずしちゃんは聞き上手だった。
「そうですね。血判書。戸棚の上のおやつ。お地蔵様の頭頂部。蚊の墓。緑色のいずしちゃん」
「私は緑じゃないですよ」ようやく言葉が通じたのが嬉しいみたいにいずしちゃん。でも、私は、そういうこと、言いたかったわけじゃない。
「素うどんの中で。待ち合わせの公園。ため池に蒲公英。二百歳。法律の雨。走るのは得意」
仕方ないな、というふうに、いずしちゃんは、返答をやめて、私たちの手を握る。いずしちゃんが立ち止まって、私たちも、立ち止まる。いずしちゃんを引きずってまで、歩く理由がなかったから。しばらく二人そのままでいる。そういう彫刻みたいだなあ、と思う。なにもかも、そのままである。今、この街には、私たち二人きりなのだから、私たち二人が、沈黙して静止してしまえば、あとはもう、何も変わりようがない、と思う。時間さえ、止まってしまうんじゃないかなって、思う。手をつないでいるのではなく、私たちの小さな手のひらに、いずしちゃんって小さな女の子が一人、ちょこんと腰掛けているんじゃないかなって、変な、感覚になる。暗闇で、見通しが悪くて、思わず目を閉じてしまったからだろう。
「寒いですね」といずしちゃんが呟いた。季節は、秋で、深更だったから。いずしちゃんは、手近な旅館に放火した。私たちの掌を握りしめたまま、片手でチャッカマンを操って、木造の旅館に、火を放ったのだ。一瞬のためらいも見せなかった。なんどか失敗して、何度目かの着火で、勢いがついて、障子紙が夢幻のように、恐ろしい速度で、燃え尽きて、柱や梁の表面が鈍く光り始める。ぱち、ぱち、と小さな水蒸気爆発の音が、微かに聞こえた。「大丈夫です。大丈夫です。大丈夫です。心配しないでください。街の人たちは、みんな野原で寝そべっている有様なのです。私たちがいくらこの街の家屋を燃やしたって、誰も死にません。だから、大丈夫です。これで暖かいです。それに、明るい」いずしちゃんは、次々に、燃えやすそうな旅館に火を灯して行った。街は、真昼より、明るくなった。柱が燃え尽き、屋根が傾き、瓦が路上に落下する。「贅沢って、こういうことを言うんだと思うんです。前から、一度、やってみたかったんです。放火。けど、危ないから。建物だけ燃やしたかったんですけど、人まで燃えかねないから、躊躇していたんです。今日は、おかげさまでいい日です。いい火です。今日ほど放火日和の日ってなかなかないと思います。幸運です。みんな、驚くでしょうね。朝、目が覚めて、街に戻ってみると、真っ黒なんです。炭で塗ったみたいに真っ黒なんです。というか、炭です。灰です。びっくりして、唖然として、呆然として、言葉を失って、人間性すら失うかもしれません。楽しみです。みんなで一通り驚いたら、再建です」
「きれいだね」と私。「ちょっと、熱いけど。ちょっと、噎せるけど」
炎って一瞬間も静止することがなくって、さらに燃えるか、燃え尽きるかのどちらかしかなくって、結局、灰しか残さなくって、行き着くところまで行くほかなくって、一旦見つめ始めると、目が離せなくなる。自分の中まで燃やされてしまっているみたいに、頭の中が空っぽになる。何も考えられなくなる。旅館から旅館へ。一方的なオセロゲームみたいに、炎と炎に挟まれた家屋が、続々と燃焼を始める。ジリリリリリンという、火災報知器の音に興ざめする。「うるさいなあ」パチバチと爆ぜる音が、耳を楽しませる。身体中が乾いてしまう。
「炎に囲まれてしまわないように、少し歩きましょう」
「うん」
炎に追われ逃げ惑う、犬猫鼠の後を追う。そんな動物たちの群れを眺めていると、やっぱり、放火はしちゃいけないな、と思う。ああ。鼠花火。本物の、鼠花火。ぱんと、爆ぜた。猫花火。犬花火。
「いずしちゃん、そろそろお別れだね」
「どうしてですか」
「だって、明日泊まる旅館が、もうないから」
「確かに、その通りですね」
照れたように二人で笑った。炎の中に、石原さんの幻影が、ちらりと上映された。石原さんも含めて、三人で、莞爾と笑った。
「でも、問題が一つあるんだよね。明日泊まる旅館がないのと、同様。帰る場所も、ないんだよね」
「えへへ」といずしちゃんが笑った。「なんとかしましょう。観光地に不可能はないのです」
それから、私たちといずしちゃんは、ずくんを、解体することにした。一旦、人肉平野に戻る必要があった。後背で、街並が燃え盛っており、ちょうどよい仄かな手がかりとなった。人肉たちは、互いの体温で温め合い、順調に発酵しており、さっきより、格段とねちゃねちゃしていた。ずくんは、放射能と化した逗子を吸収合併して以降、ちょっとした怪獣のように巨大化しており、相変わらず、しぼむことなく巨大化しっぱなしだった。頭、両手と胴、右足、左足、と言う具合に、解体すれば、ちょうどよいのではないか、というのがいずしちゃんの見立てだった。ずくんが苦しまなくて済むように、エクスタシーによる酩酊感のよう有効な利用。深い眠りに陥っている今この時、事に及ぶべきだろう、と話がまとまった。「ごめんね、ずくん」と私。「大丈夫です。大丈夫ですって」と朗らかにいずしちゃん。ずくんを切り裂くための準備が、着々と進行する。適当な道具が、手持ちになかったので、髪の毛を活用することにした。まず、私といずしちゃんの髪の毛を何本か抜き、端と端を結び合せ、二、三メートルの糸にするのだ。玉虫色、黒色、玉虫色のまだら模様の糸を、ずくんの皺ひとつない首元に巻きつけるのだ。そして、私たちといずしちゃんが、息を合わせて、引っ張る。赤ちゃんの膚って想像以上に柔らかい。ずくんの首回りに、見ていてぎょっとしてしまうほど食い込む、二人の髪の毛。そこまできたら、あとは、単純作業の繰り返しだ。いずしちゃん、私たち、いずしちゃん、と交互に糸を引っ張り合うのだ。電鋸のように、髪の毛を微振動させるのだ。途中でちぎれたらもう一度始めからやりなおし。髪の毛という極細の圧力の摩擦によって、ずくんの表皮は、ぷっつんと破けて、ずくんの脂肪がずぶずぶと二分されて、ずくんの筋肉がバチバチと千切れて、ずくんの神経も、ずだんずだんと切断されるのだ。骨は流石に、骨が折れた。最終的に、骨と骨と間に、棒切れを挟み込んで、てこの原理ですっぽ抜くしかしようがないのだ。試行錯誤の連続で、いずしちゃんも私たちも、無口になった。無口なんだけど、息だけあってて、以心伝心で、不思議な感覚だった。何時間かかったか、わからないけれど、街が完全に燃え鎮まる頃には、ずくんは、ばらばらになっていた。五つのパーツに分かれていた。人間だったら死ぬかもしれない。けど、ずくんは観光地だから。市町村合併の反対みたいなもの。
「これで、万事解決です」といずしちゃんが呟いた。ずくんの耳たぶの上に腰掛けてほっとため息をついている。女二人では、やりきれない、意外と過酷な肉体作業だったから。私たちだって疲れ切っており、私の頭をべりべりと首から外し、地面に据え置き、その頭の上に腰掛けて、一息ついている。「やれやれです」
「ふうう」と私。達成感を表現するため息だったのだけれど、場所が場所だけに、放屁のようで、やるせない。「生後二日で、国家と一体化するなんて、大した出世だね」
「まあ」と照れを隠さないいずしちゃん。「私の弟ですから」
ずくんは、これから、国土になる。国全体が、原子力爆弾で、破壊されて、放射線まみれで死の土地になってしまったなら、いっそ国全体を、ず、にしてしまおう、というのが、いずしちゃんの計画だった。放射線で汚染された土壌の上に、ねりねりと、ずくんの体を押し広げてしまうのだ。汚染土壌は、ずくんにより覆われ、放射線拡散は防がれる寸法だった。そのずくんの体表面上からは、次第次第、高層ビルや民家やその他施設類が、芽生えるそう。
「この頭は、北海道に。腕と胴体は、本州に。左足は、四国。右足は、九州と沖縄諸島です」
「足りるかな」
「うすーく、引き伸ばせば大丈夫です」
「そっか」
「唯一の心配は、ずくんのヤンキー性でしょうか。このままじゃ、国全体がヤンキーの聖地になってしまいます」
「うわあ」
「世界各国から、外人ヤンキーたちが巡礼に訪れ、外貨は儲かるのです」
「けど、それじゃあ、五重塔とか大仏とかに、〇〇参上、とか、夜露死苦、とか、書かれまくるよ」
「んー、いいじゃないですか。それはそれで」
「けど」
「善後策がないわけではないのです」
「うん」
「私を、いずしを、二つに裂くのです。一方の切れ端を、新しい伊豆に、もう一方の切れ端を新しい逗子にしてしまうのです。私の体の大きさじゃ、それが限度です。でも、そうすれば、少なくとも、伊豆と逗子は、ヤンキーの聖地ではなくなるのです」
「それじゃあ、いずしは」と私の疑問。
「閉店です。どうせ、燃やしちゃいましたし」
「そっか」
その後、いずしちゃんは、私たちの携帯電話を使って、ずくんの頭部を北海道へ、胴体および両腕を本州へ、左足を四国へ、右足を九州へ配達してもらうよう、宅配業者にお願いした。だいぶ、アバウトな、配達先の指定だったけれど、了承を得られたようだ。瞬きひとつ分の間に、ずくんの体は宅配業者に攫われていた。もうそこには、血まみれの髪の毛しかなかった。
「これで、もういいの」
「あとは、ず自身が、現地でなんとかするでしょう」随分あっさりしている。
三度人肉平野を越えて、燃え尽きた街へ。燃え尽きたとはいえ、まだほのかに暖かくて、今晩に限っていえば、野宿にぴったりの場所だった。泊まる場所がなくて、凍えて死にそうなら、あたり一面焼け野原にしてしまうというのも一つの手なのかもしれない。危なっかしくてやってられないけど。逃げ出していた犬猫鼠も何匹かは戻ってきており、くんかくんかと、廃墟を漁っている。今夜、全ての遺影が焼けたのだろう。今はもういない人たちの記憶が、全て、消失したのだろう。だとしたら、それは、すこし、気持ちがすっとする。清涼感。寂寥感。
何もかも一挙になくなるってことはありえなくて、いたるところに焼け落ちた木材や焼け残った木材が転がっている。観客ごとサーカス小屋が燃え尽きてしまったみたいな、何もかも、終わってしまった感じがする。ゾウもピエロも観客も、誰も逃げ延びれなくて、あんなに派手派手しかった何もかもが、ただの灰。これじゃあ、稲藁を燃やそうが、サーカスを燃やそうが、おんなじじゃないかっていう、平等思想。精緻な飾り蠟燭に、火をつけた瞬間、飾り蠟燭もただの蠟燭に過ぎないんだって、観念するあの感じ。燃え始めた瞬間、何もかもから、興味が失せて、早く燃えろ早く燃えろ。燃え尽きた今、何もかもへ興味の失せた自分自身がありありと実感され、やれやれ、と、虚無。今が、夜、ってこともこの感懐には、大いに影響を与えていて、じょじょに寂しくなる余熱が、まるで、なんらかの事情で、死につつある妊婦の、その胎内で、その母胎の破綻を、段階的に熟知していく胎児になった気分にさせる。燃え尽きた煙草を、いつまでたっても捨てられないで、手持ち無沙汰にしている人の気分。そんな人なんかいないか。異星人と異星人になったみたいに、私たちといずしちゃんは、互いに、思い切り手を伸ばせば、指先が触れ合うくらいの距離で、ぼんやり体を火照らせている。却って、逃げ戻ってきた犬猫たちの方が、私たちやいずしちゃんに擦り寄ってくる。犬猫が、べろべろと、私たちの気付かなかった傷口を舐める。血の味。平等思想。平等思想。この魔法の呪文を口腔内で唱えると、平均台が、うまく渡れる。鉄棒の上さえ二足歩行。
私たちといずしちゃんは、道ってものを無視して、焼け落ちた屋根の上、灰の上、郵便ポストの上などを、縦横無尽に、自由気ままに歩いていく。焼け残りの上を歩くと、不意に、ずぼ、ずぼ、と何かを踏み抜いて、ひざ下くらいまで足を引きずり込まれることがあり、赤の他人との会話のように吃驚することの連続。吃驚することにもやがて慣れて、一つのことに吃驚しすぎて、重心が崩れないように、同時になにか別のことに吃驚する癖をつける。根拠なく、無敵な気持ちになる。
いずしちゃんは、ただ、踏みたいところを、踏みつけにいくって感じで、複雑なフラクタル図形を描くかのような、不規則的な規則性で以って、この焼けただれた街を闊歩している。しゃちほこを踏みつけたいから、焼け残った屋根によじ登り、警察署の赤いランプを踏みつけたいから、警察署の低い屋上へよじ登る。一方、私たちは、等間隔に並ぶ電信柱みたいに、ちょっと歩いては立ち止まり、ちょっと歩いては立ち止まりを、楽しむ。定点観測。焼け尽きた街を定点観測。
散歩するなら、焼け落ちたばかりの街が一番だな、って思う。心底自由気ままに歩き回れるのって、きっと、そういう場所だから。
「走れえ」と呟きながら、手近にいたゴールデンレトリバーの背にいずしちゃんが跨った。けど、ゴールデンレトリバーはこれから後背位で犯されると思ったのかのように、色っぽい仕草でいずしちゃんを顧みただけ。犬だって流し目をするのだ。犬のくせに。雄犬のくせに。「乗せてくれないのですか」
いろんなことに飽きたいずしちゃんと私たちは、焼け落ちた街を後にする。駅の裏手の田んぼを抜けて、森のある方へ。
しばらくお尻に敷いていて、癖のついた私の髪の毛を、いずしちゃんが解きほぐしてくれる。街灯もない星明かりの畦道を歩いている。いずしちゃんは、私の頭を抱えて、てくてくと。私たちの体は頭部不在のままいずしちゃんについて歩く。頭部のない私たちの体は、学生時代陸上選手だったこともあり、女のか男なのかはっきりしない体をしている。もっと、たま子ちゃんやひめ子ちゃんのような女の子女の子した体になりたいと思うような、それはそれで面倒が増えそうだなあと思うような。
「いずしはこれから、どうなるの」と私は尋ねた。
「どう、って何がです」と私の米粒大の禿げをそっと見なかったことにしながらいずしちゃん。
「いずしちゃんが、伊豆と逗子になったあと、ここは、どうなるの。消えて無くなるの」
「それに、近いことになりますね。無かったことになるのです」
「もう、ここにはこれなくなるってこと?」
「もう、ここに来たことも、聞いたことも無くなるのです。空間的な消失ではなく、時空間的な消失ですから」
「そんなのってないよ。あまりに唐突で、身勝手な感じ」
「大抵そんなものですよ。この世は曖昧にできていますから、何かの拍子に、パッと」
「パッと?」
「みてみて」と脈絡なくいずしちゃんが前方を指差した。抱えていた私の頭をくるっと進行方向に向けた。そこには、どういった由来でそうなったのかは知らないけれど、頭のもげたお地蔵様が一人佇んでいた。
「うわ」と私。お昼この道を通った時は気がつかなったけれど、夜間に遭遇するとちょっと気持ちの悪い光景である。
「観光地といえば、パネル写真です」と言うなり、私の頭部を、そのお地蔵様の肉体へ設置するいずしちゃん。「まあ、カメラはないのですが。気分だけでも」
「これ、違うよ。なんか違うよ」
「細かいことはいいじゃないですか。思い出づくりです。似合ってますよ。すごく地蔵っぽいです。はいちーず」両手をピストル型にして、カメラっぽく構えるいずしちゃん。呪われそうでいやだなあ、と思ったけれど、お地蔵様な許してくれそうな気もする。折角だから、お地蔵様が絶対しなそうなポーズをいくつか決めた。てへぺろ。ムンク。夏目漱石。
その後しばらく、どう言うわけか、首のもげたものばかりに出くわした。首のもげた狛犬。首のもげたお稲荷様。首のもげたニシキヘビの死体。首のもげた人体模型。首のもげた昆虫標本。首のもげた西洋人形。首のもげた案山子。首のもげたダニ。首のもげただるまさん、つまり、無。いろんな胴体に据え付けられた。その度ごとに。てへぺろ。ムンク。夏目漱石。正直、そんなに似ているとは思わないけれど、似せようと努めた。他にもいろんな顔をした。こんな狛犬いたらいいな、こんなお稲荷様いたらいいな、こんなニシキヘビいたらいいな、こんな人体模型あったらいいな、こんな昆虫いたらいいな、こんな西洋人形いたらいいな、こんな案山子いたらいいな、こんなダニいたらいいな、こんなだるまさんいたらいいな、って勝手な願望で勝手な顔貌を演じて見せた。何にもならない遊び。遊んでいるのか遊ばれているのかわからない遊び。いずしちゃんは、始終、おだやかな笑顔で、「いいですよ、いいですよ」と励ましてくれた。カメラくらい持参してくればよかった、と思った。
しばらく、畦道を歩くと、森。卑猥な森。鬱蒼と茂る陰部みたいに卑猥な森。
「どこまでいくの」
「墓です」
「墓」
「たくさんの浮遊霊たちが待ってますから」森の真ん中から、煌々と幽霊柱が立ち上がっている。綺麗だけれど、あれが全て死人。
私たちといずしちゃんの足音一つ一つに、驚倒して逃げ惑う野生の生き物。もし、今が夏ならば、「怒涛のごとくおまんこが」と落書された樹木から流れる樹液を、啜る、カブトムシやカナブンやスズメバチが見られただろうにな、とやや残念に思う。不徹底だと思う。
「墓」
「墓です」
「墓」
「墓は寂しくないです。たくさんの幽霊がいますから」
「この墓もなくなっちゃうの。いずしの消失と同時に、ここの墓もなくなっちゃうの」
「まあ、そうなりますね」といずしちゃん。
「それじゃあ、これから浮遊霊たちはどこへいけばいいの」
「どこへだっていいじゃないですか。そんなこと言い出したら、それこそ、成仏した浮遊霊はどこへいくのですか、って話にだって、持っていけるんですから」
「ああ」と思わず吐息が漏れた。「私たちが死んだら、ここのお墓へ来ようと思っていたけど」
「死ななければいいじゃないですか」といずしちゃんは無茶を言う。
「そうありたいけれど」長い長い溜息を漏らす。「けど、どちらにしろ、いずしにはもう、来れないってことだものね」
墓が見えて来た。あたりが幽霊たちで仄白く、明るくなった。
彼らの死因は全員原爆。被曝。こんなにわかりやすい死に様ってないと思う。もちろん、二次被害、三次被害でなくなった人もたくさんいるんだろうけれど、その大半は、爆散して文字通り蒸発して、幽霊になったって手合いなのだろう。だからか、は知らないけれど、みんなアミーバのように不定形で元の形をとどめていなかった。そもそも、幽霊密度がおかしいのだ。幽霊密度って何って話だけど。約一億人が一斉に死んで、この墓地にやって来たから。許容量のかるく千倍の幽霊たちがぎゅうぎゅうにおしくらまんじゅうをしているから。その圧によって、幽霊の外貌が変じていてもおかしくなくって、事実そうだった。幽霊たちの輪郭が溶け合って、作りかけのお餅みたいに、ねちゃねちゃ絡み合っている。その絡み合いに、そっと指先を触れると、暖かいような冷たいような不思議な感触がする。暖流と寒流が渦を巻きながら絶え間無く対流しているみたいに。
「ふへ」と私は呟いた。少し、怖気づいてしまっていた。
「すごい数ですね」
「すごいなんてもんじゃないよ」
「国中の人が亡くなったのです。只事じゃあありませんよ。只事じゃありませんよ。只事じゃ。準備運動は余念無く。溺れてしまいかねませんから」
「準備運動って」
「プールや海で泳ぐ前は足が攣らないように、ストレッチするでしょう。あれと同じ要領です。これから、この中を泳ぐんですから、手首足首、首肩腰股関節」呟きながら、いずしちゃんは各部位をほぐしていく。私たちもそれを真似る。私の頭を私たちの胴体に絆創膏で貼り直すと、準備完了。「それじゃあ、行きますか」と呟くと、いずしちゃんは躊躇い一つ見せず、幽霊たちの中へ没入した。いずしちゃんの周囲だけ、ほんのかすかに輝いて、何人もの幽霊は成仏した。けど、瞬き一つも済まないうちに、何か強い流れにさらわれたみたいに、いずしちゃんの体が、幽霊柱を駆け上っていく。泳いでいるんじゃなくて、流されている。
「いずしちゃん」私たちも幽霊たちの中へ没入する。腹部に突き抜けるような衝撃を感じて、そのまま私たちもはるか上空へ。幽霊の中を駆け上がる。駆け上がるんじゃなくて、押し流されていく。舞い上がる。私たちの体に触れるたびごとに幽霊たちは成仏していくけれど、それは微々たるもので、勢いは一向に収まらない。加速度的に上昇して、幽霊柱の頂点へ。頂点を突き抜け、ぽん、っと幽霊外へはじき出される。自由落下。自然落下。何一つ効果音ないまま、どぶん、と再び幽霊内部へ再没入。あとはもう、もみくちゃにされるだけ。前後左右上下の区別が失われるほど、私たちの体は揉まれ渦巻き攪拌されてしまうだけ。頭がもげてしまわないよう、両手でしっかり抱え込んだ。浮き沈み。浮き沈み。沈み沈み浮き。一億人の気が済むまで、ずっとこれが続くのか、と思うと、気持ちが沈んだ。凄まじい勢いでいずしちゃんとすれ違った。「どうして」って声が漏れる。いずしちゃんは、ケタケタ笑いながら流れて行った。何が面白いのだろう。こんな自分の体をただただとめどなくもみくちゃにされることのどこが面白いんだろう。突き上げられて、突き落とされて。面白いから面白いのだろうけど。いずしちゃんは苦しそうに笑っている。いずしちゃんと私たちの周囲で、間断なく幽霊たちが輝いて、間断なく消滅していく。こんなことで成仏できるならお安い御用だ、と言う気もする。こんなことで成仏してしまえるんだって不思議も感じる。また、急上昇。再び、幽霊柱の突端から高く高く放り出される。かすかに付着していた幽霊たちが、ほんの些細な私たちの動作で、すぐさまに成仏してしまう。いずしの全景が展望できる。月明かりしか頼りにできなくて、判然としないけれど。肉の塊。焼けただれた街。巨大な拡大鏡。線路。駅。田圃。コロッセウム。森。月。星空。色彩が極度に薄められて、いやらしさが一切感じられない視界。自然落下。自由落下。三度、幽霊たちの内部へ。
「いずしちゃん」と私。「いずしちゃん。いずしちゃん。いずしちゃん」
「あははは」とどこからともなくいずしちゃんの笑い声。「すごいですね。すごい幽霊まみれ。まともに泳げません。一億人の幽霊。激流。滝です。一億の死霊。身を任すかありません。なにこれ。はじめて。すごいです」
「そんな。いつまで続くの」
「幽霊たちの気が済んだら終わりますよ」
私たちの内部では、肉体を制御することを諦めたのか、あたし、僕、俺、儂、わたくしの五人でババ抜きを始めている。わたくしも参加できるように、点字付きトランプで。もちろん、カードを抜きあう際には、点字は隠すのだが、触覚が異常に発達したわたくしの一人勝ち。ほんのちょっとしたカードの折れ目さえ判別してしまうのだ。けど、私は頭の中でひとりぼっちのまま、この嵐をやり過ごすしかない。流れに身を任すのは、楽しいようでいて、怖い。不安。気楽なようでいて、不気味。光。
一億人の幽霊が、九千万人の幽霊になったんじゃないかなって思う。三度幽霊柱の突端に到達したけれど、ほんのわずかに、視点が低くなっている気がした。達成感と同時に、その明らかな目減りに残念さを感じる。幽霊たちと永遠に遊んでいたいような、けど、いつかは、幽霊たちにも安らかに眠ってほしいような、どちらつかずの判断留保。いずしちゃんは、そんな私と違って、始終けたけたと笑い続けている。幽霊達のなかを行ったり来たり。終わらないウォータースライダー。メビウス型したウォータースライダー。娯楽として幽霊を楽しんでいる。
九千万人が八千万人になって。八千万人が七千万人になる。私たちは眠たくなる。もう夜も半ばなのだ。幽霊に弄ばれながら、所々で意識が抜け落ち、現実を如実に反映した夢を見る。微睡みっていうのだろう。こういう状態のこと。いずしちゃんの笑い声もいつか消えて、実はいずしちゃんも寝入ったんじゃないかってくらい、ぐったりとした体で二人ともたゆたっている。藻みたい。頭を手放してしまわないよう、指先にだけ意識を残して、交代制で、多重人格に寝ずの番。
七千万人が三千万人になるまで三時間くらい。幽霊の仲間入りしたみたいに、いずしちゃんと私たち半死半生の体で眠り続けた。
三千万人になる頃には、空が白み始めていて、うっすらと意識を取り戻す。幽霊達の明らかな減少に、終わりを感じて、いまあるがままにあり続けることに躊躇いを感じる。感じるだけ。やはり、ただ脱力して流されるがまま。二千万人。一千万人。まだ六、七メートルの柱になっている。でも、まだ始まりの十分の一。十分の一のさらに十分の一。それでも百万人。どれだけの人間が死んだのだ、と今更のように愕然とする。みんな綺麗に成仏してしまったけれど、成仏してそれっきりでいいのだろうか、という変な気分。さらに十分の一。もう一度、十分の一。ようやく、昨日のお昼に泳いだときと同じくらいの幽霊密度になる。ここまでくると、ただ流されるんじゃなくて、能動的に泳がないと、沈んでしまう。頭部をビート板みたいに浮きがわりに抱えて、バタ足で泳ぐ。ほとんど徹夜だからろくに力が入らないけれど、泳ぐ。いずしちゃんも緩慢な動作で浮き沈みを続けている。わけのわからない使命感で、みんな成仏させなきゃって気持ちが二人の間で共有されているみたいだった。
泳いで。泳いで。泳いで。泳いで。疲れた。疲れ切ってしまった。
もう、自分の中に何も残っていない気がした。
墓石にもたれて座っているのが精一杯で、幽霊一人いない、急に寂しくなった墓地で、いずしちゃんと私たち荒い呼吸で、へたり込んでしまっている。あと五十年は、ここでこのまま、こうしていたい。何もしたくない。
「やりましたね」といずしちゃんがつぶやいて。
「うん」
「やりきりました」
達成感なんて何もない。一億人の死者を弔っただけ。でも、やりきったことには変わりはないのだろう。「うん」
「これで」といずしちゃん。「この地に未練はなくなりました。新しい朝です。もう、朝ですよ。今日から、私は、いずし改め、伊豆と逗子に分裂します。分裂します。ただ、ただ、疲れました。ほんの少し、休息が必要です。五十年くらい」
「そだね」いずしちゃんと私は心が通じている気がする。儂をタイマー代わりにセットして、儂を除く私たちといずしちゃんはしばらく、ただ無目的に、ぼうっとする。
五十年は長かった。いろんな意味で猶予はなかった。
いろんな意味ってどんな意味。知らないけど。
五十年は長かったけれど、五十分くらいなら許された。私たちといずしちゃんは、小一時間、虚ろな瞳でそこにいた。
「そろそろ」と私。
「そろそろ」といずしちゃん。
「そろそろ」
「そろそろ」
「そろそろ」
「そろそろ」何かが面白くなって、止まらない。けど、止める。
「そろそろ、」
「そろそろ」
「そろそろ、帰らなくちゃ」
「そうですか。そうですね。いや、そうでもないんじゃないですか。長いようで短い日々でした。まだ、三日目ですよ。もう少しくらい。ほんの少しくらい」
「短いようで長い日々だった。もう、三日目なんだ。そろそろ、帰らなくちゃ。誰かが、私たちのこと、心配している気がするから」
原爆の雨も降り止んで、帰るにはちょうどいい上天気。見晴らしもいい。帰り道もなんとなくわかるだろう。ぐずついていたら、原爆の雨が、三度降りしきるかもしれない。そうしたら、帰るに帰れない。核の傘を差さなくちゃ。
「いやだなあ」と率直にいずしちゃん。「まだいて欲しいです」
「うん」
「いずしには、まだまだ見所がたくさんあるのです。地下帝国編。古代迷宮編。天空城寨編。と続きうるのです。ほら、あそこに、あのキノコ雲の手前に、肉眼では見えないですけど、透明な離れ小島が浮かんでいるのです。ラピュタみたいに。これから、あそこまで登って、遥かな上空の烈風で、凧揚げしたっていいじゃないですか。あの浮遊島にたどり着くためには、百万段の透明な階段を登る必要があるのです。足腰が鍛えられていいじゃないですか。特にそういう曰くはないのですが、きっとご利益ありますよ」話が、あまりに都合良すぎるから、
「本当に、あるの。その島」
「まあ、嘘ですけど。口からでまかせです。地下帝国も、古代迷宮も、天空城寨もこのいずしにはありませんよ。でも、それ以外なら、大抵のものはあるんじゃないかな、と思うのです。田圃とか。駅とか。ガードレールとか。崖とか。猿とか」
「うん」
「あと、五千年くらい宿泊してくれませんか。宿代はツケでいいですから」
「私たちの子孫がかわいそうだよ。五千年分の宿代が借金って」
「自己破産。自己破産」
「そもそも」と私。
「そもそも」
「そもそも」
「そもそも」
「そもそも」何が楽しいのかよくわからない。無気力な時って、なんだかよくわからないものに熱中してしまう。私たちといずしちゃんは、『そもそも』に熱中してしまう。
「もそもそ」
「そもそも、五千年も生きられないから」
「そもそも」
「そもそもは、もう終わり」
「いじわる」
「ごめん」
「五千年くらい気合いで生きてくれたっていいじゃないですか。いじわる。根性なし」
「私は、いじわるだし、根性なんてないよ。あと、五千年の寿命もない。いずしちゃん、起きて」私たちは、一人立ち上がって、墓石にもたれてぷへー、って間延びした顔をしているいずしちゃんに手を差し伸ばす。
「田圃に水を引いて、たま子とひめ子でキャットファイトってどうですか」
「そういうの、もう飽きちゃった」
「そっか」といずしちゃん。何かに踏ん切りがついたように、私たちの両手にしがみつき、その反動で立ち上がる。「ごめんなさい。ちょっと、ナイーヴなんです。あなたが最後の観光客だから。あなたが、この地を立ち去ると同時に、私は、いずしをやめて、伊豆と逗子になるのです。変化って少し怖いです。私が私でなくなるって少し不安です」
「いずしのままでいたらいいのに」
私たち二人はお墓を歩く。
「それは、無意味ですよ。伊豆と逗子どっちがどっちかわからなくなって、有耶無耶のうちに、伊豆と逗子の中間生命体に迷い込むなんて人、あなたくらいですよ。あなたがこの地を去れば、もう、誰一人として、私のところまでたどり着けないでしょう」
「山田さんは?」
「あれは、いずし備え付けのアトラクションです」
「そっか」
「ただの設定です」
「ふーん」
「ただの書き割りです。ア・プリオリです。先験的命題です。公理です」
「よくわからないけれど」
「あなただけが、このいずしの唯一無二の観光客だったということです」
「さらによくわからない」
「あなたがここを立ち去る時、私の存在価値は無くなるのです」
「暇ができたら、また来るけど」それじゃ、ダメだろうか。
「待ちくたびれてしまいますよ」ダメみたい。「存在価値無く、待ちくたびれるって、虚無です」ダメなものはダメなのだろう。そこに理由はないのかもしれない。永遠の御都合主義。いずしちゃんのひらひらと蝶のように舞う手のひらを摑まえる。私たちの体も舞いそうになるので、しっかりと摑まえる。
二人は、墓を越え、森を越え、畦道を越える。うわ。すごい。何にもない。線路と駅のホーム以外、何にもない。太陽に照らされて、燃えかすがきらきらと輝く。
「お土産に」といずしちゃん。「これどうですか」街の燃えかすを一握り。ただの灰。こんなもの持ち帰ったら却って寂しくなりそうだ。
「いいよ」
「そうですか」
「代わりに、たま子ちゃんとひめ子ちゃん」
「だめです」
「ケチ」
「あれは、いずしの備品みたいなものですから。それに、人身取引は、良心が咎めます」
「それもそうか」と私たち二人は、フェンスも駅舎も燃え尽き、コンクリート製のホームだけ取り残された駅へ。そもそも、列車は開通しているのだろうか。昨日の段階では、ずくんの霊柩車の占有物だった線路。「じゃあさ、これ」と私たちは、いずしちゃんを指差す。いずしちゃんの、泥と灰によごれちゃった黒髪を指差す。「思い出の品に」遺品じゃあるまいし、というのがいずしちゃんの即座の返答。ただ、素直な首肯。どこからともなく取り出した剪定鋏で、右目上の前髪をばっさり。何本か風で吹き飛び、あ。いずしちゃんの手から私たちの手へ受け渡される瞬間にも、まるで見計らったように風が吹き、あ。数本になったいずしちゃんの髪の毛を右手握りしめる。こんな小さなもの、いつか、そのうち、紛れもなく、失くしてしまうのだろう、と予感しながら、包み込むように握りしめる。手のひら内部がこしょばゆい。
「反対も」といずしちゃん。「あってもいいのではないでしょうか」
「反対って」
「観光客から、観光地へのお土産」莞爾ともせずに、無表情のいずしちゃん。そんないいものあったかな、と私たちはポケットを弄る。「これ、とか、どうです」といずしちゃんが、私の頭部を指差す。
「いや、無理無理」実社会において、頭がないと、周囲のみんながびっくりしてしまう。逆に、観光地に生首があったら致命的。「あ、そうだ」と閃き。閃きと言う名の独断。「私たち、多重人格だからさ。多重人格らしい、お土産として、人格、どう?俺なんか、どう。特に役に立っていないし」と私。『おい、待て』と私たちの内部で、俺。『妙案じゃな』と儂。『ちょっと可哀想』とあたし。
「いらないです。ペットは世話が大変ですから。まあ、奇を衒わずに、無難にいきましょう。髪の毛を一房ください。交換です。エクステに使います。黒髪に、玉虫色の一房、アニメのキャラっぽくていいと思うのです。何か、心残りが心に残る気がするのです。それを思い出と呼び習わします。思い出に残ります」
「うん」私たちが、頭部を持つ係。いずしちゃんが、髪を切る係。後頭部のあまり目立たないあたりから、百本ほどの髪の毛をいずしちゃんが、剪定鋏でじょぎじょぎと切り取る。即席円形脱毛と一房のエクステ。
「みてみて」といずしちゃん。「あごひげです」「サルヴァドール・ダリからのビスマルクからの聖徳太子」「鼻毛です」「耳毛」「たてがみ」どこから取り出したのか、いずしちゃんは、瞬間接着剤で、わたしたちの髪の毛をつむじに貼り付けた。またも、見計らったような風が吹いて、何本かが、吹き飛ばされていく。思い出の品が、凄まじい勢いで、風化していく。
もげっぱなしだった生首を瞬間接着剤で固定して、いずしちゃんからもらったいずし髪も、独裁者みたいなちょび髭にした。瞬間接着剤の乾くスピードがあまりに早く、皮膚が引き攣って、痛かった。その痛みを臆面も見せず、いずしちゃんは風に吹かれている。
私たち二人は二人して、駅のホームに立ち尽くしている。列車が再開したのかどうか、私たちにはわからない。けど、どこにあるのかわからないこの土地に、私たちは、列車に乗ってやってきたのだ。歩いて帰るなんて、不可能性しか感じなかった。風が吹くたび、街の燃えかすは飛び散って、本当に、本当に、本当に、何もかもなくなっていく。目に見えて何もなくなっていく。目に見える風化に、言葉を呑み込む不安を感じる。
「ねえ、いずしちゃん」手持ち無沙汰に、いずしちゃんを言葉攻めしようとした矢先、
「あ、いた」
「間に合った」と背後から声。振り返ると、たま子ちゃんとひめ子ちゃんだった。葬式明けのため、全裸だった。ちょっと、粘液にまみれていた。
「たま子ちゃんにひめ子ちゃん」寒そうだった。秋だもの。せめて手のひらだけでも暖め合おうと、たま子ちゃんとひめ子ちゃんは右手左手互いに握り合っていた。
「これから帰るんだよね」とたま子ちゃん。
「うん」って私。
「もう、帰っちゃうの」とひめ子ちゃん。
「うん」って私。
「そっかそっかそっか」とたま子ちゃん。
「うんうんうんうん」とひめ子ちゃん。
なんて答えたらいいのかわからないから、私たちは沈黙。
「全裸で、粘液まみれで申し訳ないけれど」とたま子ちゃんが呟いた。呟き終わるよりも早く、たま子ちゃんは私たちの体を抱きしめていた。たま子ちゃんが身にまとっていた粘液が、私たちの衣服にも乗り移った。ほんのりと甘い香りがした。たま子ちゃんに続いて、ひめ子ちゃんも。「さようなら。さようなら。さようなら。けど、また会いたいな」年齢の割には幼い声。「いつか、きっと、どこかで、また会えるわよ」と根拠のないたま子ちゃんの声。
「ありがとう」ってそれくらいしか、言葉が浮かばない。
「粘液まみれにしてごめんね」「ごめんね」
「いいよ、全然」いずしちゃんからは、髪の毛を、たま子ちゃんとひめ子ちゃんからは粘液をお土産にもらった。お返しがしたかった。けど、粘液をお返しするってのは、何か違うと思った。肩にかけていた、マフラーをたま子ちゃんとひめ子ちゃんへ。全裸で寒そうだったから。全裸で粘液まみれでCカップの十六歳の中居さん二人が、秋空の下、仲良く一本のマフラーにくるまっている。芭蕉がこの世界にいたらなあ、と思う。あるいは、正岡子規でもいいけれど。子規に素直な気持ちで写生してもらえたなら、我々についての何かが、いま少し明瞭になる気がするから。
「いつ、帰るの」「いま、すぐ?」
「列車が来たら、すぐ」
「それは、いつ?」「もうすぐかな」
「いつだかわからないから、待ちぼうけ。原爆投下の後だもの。ダイヤが狂ってる。乗り遅れないよう、待ちぼうけてる」
「そっか」「そっか」
四人で駅のホームに立ち尽くしている。多重人格で、粘液まみれで、もげた首を接着剤で固定して、独裁者みたいなつけ髭を生やした、玉虫色の髪の毛の観光客、と、伊豆と逗子の間に生まれた今年六歳の玉虫色の付け毛をつむじから生やした自称観光地の女の子、と、全裸で粘液まみれでCカップの十六歳で、仲良く一本のマフラーを共有している中居さん二人、が、手持ち無沙汰に佇んでいる。秋空の下。人生っていろいろだな、って思う。ずくんがいないのが、今更のように少し寂しい。あと、山田さんもいない。子規も、虚子も。碧梧桐も。田山花袋も。自然主義文学者一人いない。
放射能になった実母を食べちゃって、全身癌細胞なって、怪獣みたいに、超巨大化した、生後二日の、噛みつきそうなほどのしわを眉間に刻んだ、身長百二十センチで直立二足歩行の、実の姉と観光客にバラバラに解体された、クッション性のあるカラープリントの影を持つ、まだ赤ん坊のずくん。とある国の元首らしくて、国民残して観光地へ逃げ込み、よく地中に埋まって卑猥なことを考えていて、観光地の人々にいじめ殺されて、女の子たちに下半身を食べられて、頭部だけ野ざらしにされた、首から下大根の、大根人間の山田さん。非業だな。
思わず、黙祷。
その列車は、蒸気機関車っぽい外形でありながら、実は、原子力機関車だった。その証拠に、機関車両の煙突からは、蒸気ならぬ、キノコ雲がぼわんぼわんと、立て続けに放出されていた。今にも、この世が終わりそうな地響き立ててやって来た。あたり一体放射線まみれにすることと引き換えに、人類最高速でやってきた。お別れの刻限である。お別れは唐突である。
私たちといずしちゃんは、たま子ちゃんとひめ子ちゃんの下乳を燃えかすでつつくという遊びに興じていた。なかなか列車がやってこなくて暇だったから。お正月の羽子板で本気になった人みたいに、私たち四人は、燃えかすの炭で黒々と互い違いに落書きまみれだった。おっぱいダーツの余波で、みんな局部が黒々としていた。乳首百点。性感帯二百点。黒子五十点。みんなちょっとした化け物だった。パンダも逃げ出す。そんな化け物みたいな私たちに臆することなく、列車は一定速度でやってくる。これがヒッチハイクだったら、轢き殺されかねないシュチュエーションなのに。
「さて」といずしちゃんが、思い改めたように呟いた。列車はまだ、ほんの少し遠い。「お別れですね。寂しい限りです。まだまだ、遊んでいたいというのが、正直なところです。でも、もう、お時間です。線路を爆破して、列車の到着を遅らせることくらいならできます。でも、所詮、焼け石に水です。列車はいずれやって来ますから。お葬式も昨晩のうちに終わって、お土産もつい先ほど交換して、お別れの儀式と呼べるものは大概済ましたはずなのですが、やはり寂しいですね。一生、誰かと手を繋いだまま、生きていけないものでしょうか。無理ですね。母子だって、へその緒を引きちぎって分かれ離れになる世の中です。運命の赤い糸とは、果たして、どのような物性なのでしょうか。影ってずるいですよね。ずうっと一緒で、ひっつきあって、死ぬ時でさえ、きっとそばにいてくれます。さて」
「寂しいなあ」と私。「さみしい」とわたくし。他の人格は、言葉を探しておろおろしている。けど、この場で、寂しさの表明以外に何をどう言語化すればいいのだろう。みんな、最後は、観念したように異口同音。「寂しい」とあたし。「寂しいぜ」と俺。「侘しい」とやや変化球で僕。意味がやはりズレてしまう。「寂しいのう」と儂。語尾くらいしか、違わない。何か強烈な感情の前に、私たちの個性って、たかだか、こんなものだ。「いや、寂しい」と僕が言いなおす。
たま子ちゃんとひめ子ちゃんが、困ったように太陽を見つめている。
「さて」と何かを区切るように、いずしちゃんが呟いた。何かに踏ん切りがついたように、いずしちゃんの肩が、脱力した。「観光地としては、観光客を見送るのが主義というものですが、今回ばかりは、私の方から立ち去らせてください。遅れ先立つ悩みとは、どちらに回ったって、似たようなものです。うわああ、って感じです。どっちもどっち。悩まない。悩まない。私は、これから、伊豆と逗子になります。いずしは、その瞬間から消えて無くなります。親しい人間が亡くなる時、その人間の死と同時に、ぽっかりと心に穴が空きます。自分自身が親しい人間を残して先に亡くなる場合でも、自分という存在が占めていた場がぽっかりと空白になります。先に死のうが後に死のうが、二人の心はほぼ同時に、ぽっかりしてしまいます。私がいずしでなくなった瞬間、あなたも、いずしにいられなくなる。あなたという最後の観光客が立ち去った瞬間、私も、これまでどおりの観光地ではいられなくなる。どちらのパターンも実は、同じ結末が、瞬時に訪れるのです。そこに見出される差異は、解釈の違いに過ぎないのでしょう。顕微鏡でも確認できない想念上の差異。ストーカー人間の純情みたいな感じ。差異そのものがフィクショナルな何か。全ての仮定はいつか種明かしされます。よくわからない実体が私たちの前に現れて、その実体にすべての仮定が吸い込まれていきます。観測点もないまま、等速で、全てが縮小してしまうのです。果たして、どちらが主人公なのでしょうか。もしかしたら、私かもしれません。どこからともなく、『いずし、ごっこ遊びはもうやめて、寝る時間よ』と大人の女が呟くかもしれません。すると、全てが、するすると消滅して、私自身も消滅して、そこには、ただ、本物の六歳の女の子が取り残されるだけかもしれません。あなたは、その六歳の女の子に握られているゴム人形かもしれません。かもしれません。かもしれないだけです。そうはなりません。さて」「さて」私も、いずしちゃんの声音を真似る、なんとなく。列車はまだ来ない。近いようで、まだ、遠い。「さて、実は全て影なのです。そういうことにしておいてください。そこにある、たま子もひめ子も私の影です。ず、の影もカラープリントだったでしょう。あれと似たような話なのです。というか、仕組みは同じです。どういう仕組みかは知りませんが。この、いずしの街そのものが、私、いずしちゃんの、影なのです。だから、私はいずしだし、この街もいずしなのです。仮に私を物自体と呼ぶならば、この街は表象です。私が消えることで、この街も消える。私が消えることで、この街が消えて、あなたは自然必然強制的に、この街から立ち去らざるを得ません。どこへ立ち去るのかは、知りませんが。世界が消滅した時、私たちの主体がどこへゆくのか、謎です。というわけで」といずしちゃんは、丁寧な動作で、ホームから線路へと降り立った。枕木の上に、威風堂々と仁王立ちする。
「あのさ、いずしちゃん」と私。「痛いよ、それ」たぶん。
「大丈夫大丈夫」
列車はまだほんの少し遠い。
「さて」とまたまたいずしちゃん。「さて、今更なのですが、私はアンドロギュノスなのです。両性具有です。洋服で、隠していますが、おちんちんが三十本、おまんこが五十おまんこ、金玉が二十四金、子宮が四十九宮、付属しているのです。卵巣と精巣は兼用です。しっちゃかめっちゃかです。アンドロギュノスも楽じゃないです。ホルモンバランスがえらいこっちゃ。どのおちんちんからおしっこが出るか、直前までわからなかったり、勃起すると貧血で死にます。第二次性徴期が、おそらく地獄。卵巣と精巣が兼用なので、すでに巣の中で受精済みです。意味ないじゃん。なので、いい加減、二つに別れようと思っていたところなのです。男の部分は伊豆に、女の部分は逗子に、綺麗に、できることなら、綺麗に、うまいこと、分かれたいのです。あの列車、綺麗に私を割いてくれるでしょうか。私の男の部分が伊豆になり、私の女の部分が逗子になったなら、きっと、再び、何かの拍子に、伊豆山が逗子湖に挿入され、きっと、再び、いずしが生まれるのです。それは、いずし、なのだけれど、今この私とは違う、いずし、が。その時、あなたは、気が向いたら、その新しいいずしに立ち寄ったらいいのです。きっと、全然、私とは違ういずしだから、懐かしくもなんともなく、ただただ、新鮮で鮮烈なはずです。なので」列車は実は、すぐそこで、いずしちゃんが話し終えるのを待っている。天突くようなキノコ雲。「本当に、今更ですが、逃げて。
逃げて。
逃げて。
走って。
走って。
走って。
逃げて。
また、会えますよ。きっと」何か、別の、形で。
私は線路に降り立つ。いずしちゃんをぎゅっと抱きしめる。私は、お別れが苦手である。綺麗に、踏ん切りがつかないのだ。さよならを言って、立ち去ろうとしても、ついつい、ムーンウォークを踊ってしまう。逆再生されたビデオテープのパントマイムを演じてしまう。ぴがー、と奇声を発し、列車が再度猛突進で。ここが、駅で、終着駅であることなど御構い無しに、全力疾走で。いずしちゃんは小さい、今更ながら小さい。股間を弄るけれど、別に、やっぱり、アンドロギュノスって感じじゃない。さらしを巻いているのかもしれない。子供じゃない力で、いずしちゃんは、私の両腕を引き剥がして、私たちと、列車のちょうど境目に、立つ。いずしちゃんが、境界線になる。私たち、と、列車、の、境界線になる。境界線が、破ける。光、かと思ったら、部品。部品、かと思ったら、いずしちゃん。いずしちゃんが、二つ、三つ、四つ、数えないけど、分かれる。その部品部品が、弾け飛ぶ。高く、高く、放物線を描いて、弾け飛ぶ。三十本のおちんちん。五十個のおまんこ。二十四玉のきんたま。四十九の子宮。地平線、水平線、めがけて、飛ぶ。視界はるか彼方まで、飛ぶ。流れ星みたい。流星群。地球の終わり。天体衝突。何もかも、の、終わり。幕。いずしちゃんの部品の、あるものは、伊豆へ、あるものは、逗子へ、飛び散った。残ったのは、最前にもらった、ひと束の髪の毛。風が、強く、吹いて、それさえも。
目の前に、列車。
意識の暗転。
けど、それが、覚醒。
幕。
と思ったら。
瞼。
私は、目を覚ました。
いずしちゃんなんて、実はどこにもいなくって、ただ、私たちがここにいるだけ。
困ったことに、私たちは強姦されていた。
ずしん。ずしん。ずしん。ずしん。ず・・・・・・・ん。
ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたん。ぬたたたたたたたん。
なんだ。なんだ。なんだ。目覚めなければよかった。
けど、目覚めなかったら、きっと、このままずっと。
最後には、殺されて。
最後には、最後って。
最後って、それは嫌。
頰が痛かった。腿が痛かった。つま先に噛み付かれたような跡。肉全体の痛み。痺れ。麻痺。感覚と知性の麻痺。摩耗。髪の毛の付け根が痛い。ひどく、引っ張られた後遺症。目の奥がじんじんする。熱と痛み。右目だけ、焦点が定まらない。大と小。大と小。大と小。まるでそういうカメラの故障みたいに、ズームインとズームアウトが微細に繰り返される。震え。下半身だけの震え。奇妙なことに、不気味なことに、不可解なことに、右乳首だけ削ぎ落とされている。血。すでに乾いている。耳がすごく痛い。鼻がすごく痛い。身体中粘土になったみたいに、ぐなぐなしている。そういえば、裸。当たり前のように裸体。腕に、何か暖かいものを押し付けたような痣。痣、というか、痛み。痛みというより、余熱。鼻の奥がねちゃねちゃする。未発達な匂い。滅茶苦茶だ、って思う。三人の裸の男たちが、私たちの体をまくらに、寝そべっている。にやけた面の男たち。満足げな顔。一時的な休息。人を馬鹿にした休息。何かがおかしくって。
「なに、これ」
「しらない」
「なにがなんだか」
「わからない」
「どうして」
知性のかけらもなくなる私たち。九官鳥みたいな会議。
本当は、殺したかった。けど、ちょうどいい何かが、何も見当たらなかった。ここはどこだ。倉庫。薄暗い。天井が破けた倉庫。なんのための倉庫。知らない。本当は、殺したかった。けど、手に力が入らなかった。何か、鉄パイプのようなものがあったとしたって、一撃で殺せそうになかった。殺し損なったら、殺される。本当は、殺したかった。けど、そもそも、怖い。怖かった。殺される。怖い。憎い。
逃げなくちゃ。と思う。逃げなくちゃ。と思う。逃げなくちゃ。逃げきらなくちゃ。
男たちの一人が起き上がる。私たちの覚醒を待っていたみたい。なんのために。
四度め。しつこいぞ、このやろう。
全て夢だった。全て逃避だった。
夢の中はあんなに、暖かかったのに。
なんのため。
しらない。
いずしちゃんなんていない。
いずしなんて、外部刺激に誘発された夢。
なにかのはずみに、男を蹴り倒していた。
あ。
私たちの体がまるで、自動機械みたいに、立ち上がり、駆け出す。倒れていた男たちの顔を踏みつけて。
あ。
「ばけもの」って、声が、脈絡なく漏れた。「ばけもの」「ばけもの」「ばけもの」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫」って、私たちの中の誰かの声。
「逃げれる。逃げれる。逃げれる。逃げれる」って、別の誰かの声。
扉。開かない。大丈夫。焦らないで。大丈夫。
私を殺すな。私を犯すな。私を殺すな。私を犯すな。
みんな地獄に堕ちろ。お前ら全員地獄に堕ちろ。
開かない。他の、他の出口。大丈夫。わからない。大丈夫。
いずしちゃん。いずしちゃん。いずしちゃん。
ずくん。ずくん。ずくん。ずくん。ずくん。
「ばけもの」「ばけもの」「くるな」
たま子ちゃん。ひめ子ちゃん。
いずしちゃんが、脳裏で、「逃げて
「逃げて
「逃げて
「走って
「走って
「走って
「逃げて
無理。
いや。
大丈夫。私の中の誰か。
大丈夫じゃない。
大丈夫。
うるさい。
足だけ、けたたましく動かす。動かせる。背後へ何物かを投擲。痛そうな音。きっと大して痛くはない。
はしごを登る。なぜ、はしご。目の前に、あったから。
二階。中天井。ガラス、窓。外。光。
割る。ガラス片。鋭利なガラス片。これで、奴らを殺せるかも。
怖い。
素足。鋭く痛む。
後先なんて考えられない。もう、なにも、考えられない。ここはいずしじゃない。夢じゃない。
陽の光に、目が眩んで、恐怖心が和らいだ。どのくらいの高さかも忘れて、屋内から、屋外へ、割れた窓を突き破って。
車の音。車の音。車の音。誰か。
膣から、中途半端に、薄ピンク色のコンドームがぶら下がっていた。
そんなこと知るか。
「逃げて
「逃げて
「逃げて
「走って
「走って
「走って
「逃げて
目が眩んでいて、よく見えない。けど、車の音。川の流れ。ここはどこか。どこか知らないけど、きっと。
「大丈夫じゃ。大丈夫じゃ。大丈夫じゃ」と儂。心の脱力。
背後から、ばけものの声。
「ばけもの」「ばけもの」「ばけもの」
「大丈夫よ。大丈夫よ。大丈夫よ」とあたし。
ずっと走ってる。遅い明反応。よく見えない。
もう。もう。もう。何かがどうでもよくなって、感情が言語化の欄外へ飛び出して
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」って私の声。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」って。
背後から、ばけものの声。
膣から中途半端に、薄ピンク色のコンドームをぶら下げて、叫びながら、全身血まみれで、裸で走った。
・・・・・・・・・・・・逃げのびたら
・・・・・・・・・・・・・・・・逗子へ行こう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊豆でもいいけど
・・・・・・・・・どっちでもいいや
・・・・・・・・・・・・・・じゃあ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・やっぱり伊豆
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どっちでもいいけど
逃げ、延び、られる、かな?私。
それ以降のことは内緒です。(プライヴェートに関わるから。)
私たちが逃げ延びれたのかどうかも含めて。(いずしちゃんに会いたい。)内緒です。
観光地VS多重人格者 @DojoKota
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