うち、来てみる?から始まった縁。猫との出会いの物語。

夏稲

くろが来た日

立春とは名ばかりの、まだ寒い二月のある日に、我が家のくろは、やって来た。

その日はたまたま家族が皆揃っていて、朝からリビングで各々寛いでいたら、外から

「にゃーん にゃーん」

と声がする。

猫だ、と窓から外を覗くと、真っ黒な猫がこちらをじっと見ていた。


私は、猫が苦手だった。

というか、動物は全般的に苦手だった。それは他ならない母の影響で、母もまた、動物が苦手だったのである。一方で、父と妹は大の動物好き。特に父は幼少期から犬や猫を飼っており、毎晩一緒に寝ていたという筋金入りの犬猫好きであった。思い立ったら即行動派の父は、私と母の制止も聞かず、突然外に現れた黒猫に、喜び勇んで会いに行った。残された家族全員で窓に張り付いて様子を見る。どうせ野良猫、人が来たら逃げてしまうだろうと鷹を括ったが、二人はどうも何かを話しているようだ。しかも、長い。しばらく話し込んだ二人は何かに合意したのか、黒猫はその場に留まったまま、父だけが慌てた様子で家に戻って来た。

「どうだったの」

と父に聞くと、父は靴を脱ぎ捨てながら、

「お腹空いてるって。牛乳、あったっけ」

と言って、慌ただしく冷蔵庫へ向かっていった。父、猫と話せたのか。


すぐに牛乳をボウルに入れた父が戻って来て、玄関を開けたまま出て行った。妹も、着いていく。その場に残された私と母は顔を見合わせ、やれやれと言いながら、また窓に張り付いた。


窓から見た黒猫は、細くてちょっとよろよろしていた。まだ外は寒い。外で暮らす動物にとっては辛い時期だろう。証拠に、父が差し出したボウルにさほど警戒せず、すぐに飲み始めている。あんなに警戒心がないなんて、よほどお腹が空いているのかしら。そう思ったら、また父が何か話しかけて、牛乳を飲む黒猫を撫で始めた。えっ、そんな簡単に触れるものなの?えっ、なんか黒猫もまんざらではなさそうな顔をしている。えっ?えっ?と思っている間に、父はまた戻って来た。

「どうするの、あれ」

と聞くと、それには答えず

「ツナ缶、ツナ缶…」

と取り憑かれたように呟いている。果たしてツナ缶おじさんはツナ缶を探し当て、それを持ってゆらゆらと外に出て行った。

ツナ缶の蓋を開け、黒猫に見せて、

「ほーら、外は寒いだろう。来てみなよ、うち」

などと馬鹿なことを言いながら、我が家の玄関の方へ誘おうとしている。来るわけないじゃんねーと母と話していると、いや、どうもにゃーにゃー言いながら黒いのが着いて来ている。あれ、と思う間もなく、気がつくと父と妹はうちの玄関先まで来ていて、玄関に母と周ると扉がヒュッと開き、でかい猫と子猫を先頭に、黒猫も入って来た。

「いやいやいやいや。ちょっと、猫入ってるって」

慌てる私と母を尻目に、あっさりと部屋の奥へ進んでいく。


それが、くろと私たち家族との出会いであった。


その後、黒猫を囲んで家族会議が開かれたが、もはや外に出て行かない彼を見て、今晩はとりあえず家に入れてあげよう、ということになった。よく見ると、片目が潰れていて見えていないようだった。私がソファに座ると、手の下にしゅっと潜り込んで、撫でられたがっていた。恐る恐る触ると、ふわふわで柔らかくて、温かかったのをよく覚えている。翌日、動物病院に連れていくと獣医は「推定一、二歳。マックス三、四歳です」などと言う。戸惑っていると、獣医は食い気味に、飼いますか?と聞いて来た。私たち家族は目配せをし、母と私は小さな声で、父と妹は大きな声で、

「はい」

と言った。

かくして、その黒猫はうちの子になったのである。推定一、二才の彼は、その様子を見て、診察台の上で嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らし、看護師に笑われていた。


家に帰り、皆で名前を考えたが、片目が潰れている彼に横文字の名前は今ひとつ似合わない。しかしだからと言って「政宗」とかいうキャラでもない。だって、すぐに腹を見せてくる。結局、最初から勝手にこちらが呼んでいた「くろ」という至極シンプルな名前に落ち着いた。


くろは元野良猫とは思えないほど、ものすごく人懐っこかった。もしかしたら誰かに飼われていたことがあるのかもしれない。家の中に堂々と入って来たその日から、喉を鳴らしながらばたっと床に倒れ、腹を撫でろと要求してきた。最初、あまりにもばたっ、ばたっと何度も倒れるので、どこか悪いんじゃないかと獣医に相談したら、いえ、撫でて欲しいだけですと言われて度肝を抜かれた。猫といえばツンとした態度で、懐かないというイメージを持っていた私は、そんなくろに驚きつつも、すぐに心を奪われてしまった。名前を呼ぶと、走ってくる。いや、むしろ呼ばなくてもすり寄ってくる。小さな手、ひくひく動く鼻、一生懸命食べる口、なんてかわいい形の生き物なんだろうか、と。


誓って言っておくが、本当にそれまでの二十何年間は、動物が苦手だった。友達や親戚の家に動物がいると、悪いけどケージに入れてと頼むくらいに。小さい犬にじゃれつかれて、泣きながら走って逃げていたくらいに。しかし、そんな私は、一匹の人懐っこい黒猫と出会って、すっかり猫が、どころか小さい生き物全般が好きになってしまった。自分でも呆れるが、本当に急に好きになってしまったのである。


母も最初こそおっかなびっくり接していたが、しばらくするとすっかり平気になり、こないだなど家に帰ったらくろを膝の上に乗せて二人でテレビを見ていた。


とまぁ、こんな具合に、くろは急に家族の一員になってしまったのである。


たまたまあの日、くろが我が家に来なかったら、家に誰もいなかったら、私は一生、動物の温かさも尊さも知らないまま、死んでいっただろう。くろがいつの日か先に天国へ行ってしまう日を想像すると涙が出るが、その悲しみを知れたことさえも、愛おしく、幸せなことに思える。くろが、我が家にやって来て早五年。六歳なのか、九歳なのかは分からないが、数えられないくらいまで生きてほしいと切に願っている。


いと悲し、くろ坊。

どうか、長生きしてね。

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うち、来てみる?から始まった縁。猫との出会いの物語。 夏稲 @natsune-no-niwa

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