アパートを売れ

曇空 鈍縒

第1話

「どうしよう」


 俺は書類の積まれた机に向かって、頭を抱えていた。


 汚く狭い事務所と仄かに漂う煙草の香り。机ではパソコンのディスプレイが淡い光を放ち、そこに問題の物件に関するデータが表示されている。


 個人で不動産屋を営んでもう20年になるが、やはり長くやっていると、10つや20つの事故物件に出くわすことも珍しくはない。


 もちろん、ただの事故物件であれば普通に売り払えばそれでいい。


 だが3日ほど前にやってきた客は、とんでもない家を売ってきやがった。


 きさらぎ町3丁目「勿牟唄なむうた荘」


 正真正銘の、呪いの家だ。


 外観はよくある三階建のアパート。だがその実態は、関わるもの全てに不幸をもたらすという忌むべき家だ。


 早急に売り払いたいが、買い手がつくとはとても思えない。外観がこれでは維持費が安くても買ってくれるオーナーはいないだろう。


 だからこそ、俺は深夜まであちこちに電話をかけ、あらゆる不動産会社に問い合わせもしたが結果は全て却下。無料でも不要らしい。


 それはそうだろう。俺だって、理性があればこんな家は絶対に買わない。なぜこんな家が俺の手元にあるのか、全く分からないのだ。


 それについての情報は、記憶から綺麗さっぱり消えている。


 軽い胃の痛みを覚え、俺は机に頭を押し付けた。


 直後、電話が鳴った。


「はい春雨不動産です」


 右腕が反射的に動いて受話器を掴み、唇から漏れた声は電気信号となって、電話をかけてきた相手の元へ届いた。


「夜分遅くに失礼します。勿牟唄なむうた荘を、私に譲ってくれませんか?」


 俺の脳は数秒フリーズした。数秒だけだった。





 儲けにはならなかったが、とりあえず命はつないだから、よしとしよう。


 その日、俺は少しキツくなってきたスーツを着こなして、きさらぎ町の霧に沈んだ駅で電車を降り、黒い靄に包まれた商店街を通り抜けて、勿牟唄なむうた荘にやってきた。


「ようこそ。この度はご足労ありがとうございます」


「縺?∴縺?∴縲ゅ%縺。繧峨%縺」


 俺が到着して数分で、彼はやってきた。


 黒くドロドロして、少し臭う人だったが、こんな物騒な建物を受け取ってくれるのであれば相手が誰であれ愛想笑いも深まる。


「では、早速内見してください」


「縺昴l縺ァ縺ッ」


 俺は彼(あるいは彼女)を、室内に案内する。


 軽く押しただけでも酷く軋む古びたドアを押し開けて薄暗い中に足を踏み出すと、埃の柔らかさを革靴の靴底越しに感じた。


 一応間取り等は確認してあるが、はっきり言って賞賛できるポイントなど、せいぜい安さしかない。


 だが、俺はなんとか頭から良いポイントを捻り出し、物件を説明した。


「少々汚れておりますが景色もよく、商店街と駅へのアクセスは徒歩10分程度です」


 あの不気味な商店街と駅が使えるのかは未知数だが、ここに住まない俺にしてみれば知ったことじゃない。


 俺は、1秒でも早くこの不気味で不吉な建物を売り払いたい気持ちでいっぱいになりながら、内見の案内を終了した。


「いかがだったでしょうか?」


「髱槫クク縺ォ濶ッ縺?ョカ縺?縲。豁サ繧薙〒縺上l」


「ありがとうございます」


 契約成立だ。俺は握手と契約を交わして、自分の家へと帰る。


 「家を買いませんか?今からでも内見してください。落日まではまだ遠いですよ」


 ふと声をかけられて、俺は思い出した。


「ああ。そういうこと」


 そう呟く。


 すぐに全て忘れた。

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アパートを売れ 曇空 鈍縒 @sora2021

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