邂逅(3)

切牙爪術さいがそうじゅつ―――十柄とつかァ―――!」 


 巨漢の拳を捌いている最中に放たれた、虚の一撃。

 それは砕かれたはずの凶器から放たれた、臥牙彦ががひこの"妖術"だった。


 俺には分かるぜぇ―――

 コイツには武術の―――いや、特に剣術の心得がある。どんな流派かは知らねぇが、そんなこたぁどうでもいい。


 剣に詳しい奴であればあるほど、意識は剣に集中する。壊されたりなんかしたら、尚更だ。

 剣折られてぶっ飛ばされた俺が、この瞬間。折られた剣を持ってこの場に駆けつける―――そんな未来、想像もできなかったろ―――!


「死ねや! 生意気なクソガキ―――ッ!」


 勝ちの確信を握力に込め、妖術で再構築した剣を伊佐薙に振るう。

 その刹那、伊佐薙も同様に、拳を握りしめていた。


 そして剣の軌道に対して垂直に、思い切り腕を振るう。

 相当な勢いで振り降りされていた刃先は、伊佐薙の右手首辺りを突き刺すように切り裂き、目の前に飛び散った鮮血は彼の顔に苦悶の表情を作り上げた。


 それでも尚、伊佐薙は手を緩めることをしない。それどころか彼は先ほど同様、相手の刃物の勢いを自身の腕で受け流さんとしていたのだった。


 痛みに耐えながら軸足を思い切り踏みしめ、大きく息を吸う。

 そして、叫んだ。


「鬼神刀術―――宿やど!!!!」


 ぐるりと回された腕に、更に食い込んだ刃物が振り回される。

 血潮の円弧が空中に描かれたとき、立場は大きく逆転した。


 臥牙彦は剣を強く握りしめすぎたがあまり、その剣の軌道に操られるように姿勢を崩した。そしてそれを伊佐薙に踏みつけられたことで、彼は突っ伏すような形で強く地面に叩きつけられていた。


 その拍子で、彼の剣は伊佐薙の周囲を旋回するように大きく弧を描き、伊佐薙を殴り続けていた巨漢はその峰に肘辺りを強打することとなった。


「グッ―――!」


 骨よりも更に太い何かが砕けるような音を連れて、巨漢は数メートルばかり弾かれた。


 彼は最後に放った息の漏れるような声を最後に、ゴロゴロと地面を転がった先で強打した部分を抑え、悶え苦しんでいる。

 流石の体躯でも、再び伊佐薙に立ち向かえるほどの様子は見られなかった。


「クッ―――カハァ、ハァ―――」


 伊佐薙を取り囲んだ事態は、ほんの一瞬で片がついた。

 勝者は腕を軽く押さえながら、踏みつけにした妖を上から睨み付けている。


 そしてその立ち位置のおかげで、臥牙彦の視界はようやく伊佐薙の顔面を鮮明に捉えた。

 顔の上半分を覆う、角の生えた無機質な面。

 彼はその面の頂点に映える不自然な出っ張りを、震える眼に焼き付けた。


「テメェ―――それ―――」


 あの雪鬼と、同じ。そう言いかけたときだった。


「お前よ―――その剣、慣れてないだろ―――」

「―――アァ?」


 突如降りかかった言葉には、既に敵意のようなものは含まれていなかった。

 それが勝者の情けなのか、それともそれ以外のなにかなのか。臥牙彦にはさっぱり分からずにいた。


「そんな状態でよぉ―――この俺に、長物でかかってくるんじゃねぇよ」

「なん―――だ、と―――?」


 違う、コイツはただ、この俺を、煽ってやがるんだ。

 たまたま勝ったからって、運が良かったからって、調子に乗りやがってェ―――!


「ふざ、けるな―――俺だって、もう少し、お前の癖がわかって、いれば―――!」


 あんな初見殺し、食らわなかったはず。

 二回も攻撃を受け流されるなんていう恥、晒さなくて済んだはずなんだ―――!


 臥牙彦はそんな怨嗟のままに、伊佐薙を見上げた。

 しかしそこにあったのは、どこまでも物悲しそうな目だった。


「違う。そうじゃない。俺ははっきり、見せていたはずだ」

「―――あ?」

「俺の流派だよ。俺が習った、弱者の剣。あれが俺の、剣術の全てだ」


 伊佐薙はそう言うと、臥牙彦の背に乗せていた足をふっと除けた。

 それは慢心や油断などではなく、その場にユキも集まったことによる終戦の合図だった。


「分かったら、もう失せろ。そんで二度と、この子に近づくな」

「―――チッ」


 臥牙彦はゆっくり立ち上がると、味方の誰とも違う方角に向かって、とぼとぼと歩き出した。

 その去り際、彼がポトリと落とした欠片のようななにかに気付いたのは、すぐ側に居た小さな妖だけだった。


 小さな妖は慎重にその欠片に近づき、ひょいっと拾い上げる。


「これ―――」

「ひ、ひぃ―――お許し―――」

「に、逃げ、逃げなきゃ―――」


 欠片に目を凝らす妖に今更牙を剥く者は勿論、ふらふらと去りゆく臥牙彦の背中についていく者など誰もおらず、主戦力の三匹以外はそれを見送るや否や、蜘蛛の子を散らす勢いでその場を後にした。


「なんだよ、仲間じゃないのか、あいつら」

「妖なんてそんなもんさ。彼らにとっては、強さだけがついていく理由だったんだよ。そこに友情とかは無い」

「へぇ―――でもあの大量の不意打ち、普通に相性良さそうだったけどな、戦い方的に」


 思えば、全部の攻撃が不意打ちだった気がする。

 こんな戦闘は初めてなのに、良く対応し切れたもんだぜ、俺―――

 

 安堵が自分を慰めた途端、伊佐薙の集中力はすんと途絶えた。

 そのせいか、先ほどまでは感じなかったような刺すような痛みが、右手首辺りを強く襲う。


 伊佐薙は思わず声を漏らし、血が収まらない患部を強く抑えた。


「クッソ―――痛ぇなこんにゃろ―――ここまで食らったのは初めてだ―――」

「うーん、まずいね。それ、血が止まらないようなら凍らせるから。僕に見せて」

 そう言ってユキは傷に手をかざす。それを伊佐薙は無理矢理遠ざけた。


「えぇ、凍らせる!?」

「うん。傷は浅いみたいだけど、出血が続けば洒落にならなくなるから」

「俺、医療とか良く分かんねえけど、多分それ間違ってるぞ―――」

 

 伊佐薙がユキから腕を遠ざけようとするほど、ユキは「ほらほら」と傷跡に手をかざそう身体を伸ばしていく。

 二匹が「やめろ」と「いいから」の押し付け合いをしていると、小さな声が控えめにその無駄な争いを止めた。


「あ、あの―――」


 その声の主は、言い争いの丁度中心辺りにいた、あの妖だった。


「あ、ちびっこ妖」

「―――あの、お二人、その―――」


 二匹が中途半端な姿勢で見つめる中、彼はとてつもなく早い速度で頭を下げ、大きく声をあげた。


「ほんっっとうに、ありがとうございました―――!!」


 その言葉尻は少し潤んでおり、その中には彼のこれまでの苦心がこれでもかと垣間見えていた。

 二匹はゆっくりとちびっこ妖の方を向き、改めてその姿を正面に据える。


「いいってことよ。俺だって、助けたくて助けたんだから。とにかく無事で良かった」

「で、でも貴方、その腕―――」


 その妖はただ一点、伊佐薙の腕を心配そうに見つめていた。


「あぁ、これ? まぁ、大丈夫だよ、多分」

「いやダメだよ。凍らせなきゃ」

「ユキ、黙っててくれお願いだから」


 再び夫婦漫才が始まりそうになっていた最中、小さな妖はぐっと堪えるような顔をすると、すぐさま伊佐薙の手を握った。


「今回は、助けてくれた恩があります―――なので無償で、この傷は治させて貰います」

「え? あぁ、ありがとう―――? でも、どうやって―――」


 この傷を、治す? この子が?

 伊佐薙は勿論のことながら、ユキも状況を把握しきれずにいた。


「すぐに分かります。とにかく、ぼくの家にあがってください」

「家?」

「はい、すぐに案内するので」


 妖が伊佐薙の手を離し、忙しなく二匹の周囲を動き回る。

 二匹は"家"という単語を聞いて、すぐに辺りを見回した。

 しかしどれだけ見ても、家という家は見当たらない。

 

 そして同時に、伊佐薙はある違和感に気が付いた。


「―――てかあれ? あの樹、どこいった?」

「樹?」

「ほら、俺らが目印にしてた、あのクソデカい樹だよ。この子が襲われてたのだって、それのおかげで見つけられたじゃんか」

「―――そう言われてみれば」


 無我夢中に突っ込んだ後は、色々とてんやわんやだったからな―――

 樹のことなんてさっぱり頭になかった。いつ消えたかなんて、記憶の片隅にすら無い。


 二匹が思い出すように首を回していると、妖は「あった、ここだ」と言って、地面をドアをノックするようにコンコンと叩きはじめた。


 その音に吸い寄せられるように、二匹の視線が妖に集まった時。

 三匹が立っている地面はゆらゆらと揺れ、それに連動するように一部からは蔦のようなものが這いずり出た。


「おわ、なにごと!?」


 身構えている伊佐薙の横で、ユキは腕を組んでその光景を眺めていた。

 

 そうこうしている間にも、細い木の枝は段々と太く、長くなり、割れた地面からはそんな枝らよりも更に太い幹が竜のように立ち上っていく。

 そしてその中心は、小さな妖のすぐ目の前に集まっているようだった。


 揺れが収まると、三匹の正面には嘘のように姿を消していた大樹が姿を現していた。

 伊佐薙の数倍もあるような幹を辿ると、その先には遠くからは分からなかった歪な膨らみがあった。

 

「どうぞ、あがってください!」


 そう言うと小さな妖は呆然としていた二匹を置いて、幹に作られていた小さな段差に足をかけ、螺旋階段を登るようにその膨らみに向かって登っていった。

 

「な、なんじゃこりゃあ―――」

「これは―――なんだろうね、初めて見た」

「早く早く! こっちです!」

 

 妖は数段先で二匹を手招いている。その様は初めて友達を家に呼んだ少年の無邪気さ、そのものだった。

 そんな彼に誘われて、二匹もぎこちなく木製の階段を上っていく。


「すいません、びっくりしましたよね?」

「びっくりもびっくりだよ、こんなのが地面に埋まってるとはさ」

「はは、こいつ、こう見えてビビりなんですよ。まぁ、隠れてくれたのはありがたかったんですけどね」


 へへへ、と笑う妖に反して、この樹そのものに意思があるようなその発言に二匹は少し眉をひそめていた。


「でも、ぼくが襲われそうになってた時は、特別身体を大きくしたりして―――こいつなりに、ぼくを守ろうとしてくれてたんでしょうね。どうせ戦えないくせに、かわいいやつです」

「まぁ、そのおかげで見つけられたしな」

「そうだったんですか! それはコイツに感謝しなきゃですね―――」


 恍惚な表情で木肌を撫でる妖に、伊佐薙は奇妙な感覚を覚えていた。

 その間にも三人衆は一段一段と段差を上り、いつしか通常のアパートの二階くらいの高さまでたどり着いていた。


「ここです!」


 自信満々に手を広げる妖の背には、驚くほど普通の光景が堂々と構えていた。それは当然木製である訳だが、その形状は一般的な扉そのものだった。


「お、おお―――ちゃんと家だ―――」

「だから言ったじゃないですか、家だって! どうぞどうぞ!」


 妖は手招きしながら小さな手でノブらしきものを掴み、ぐいっとその戸を引いた。


「お入りください、靴はそのままでいいので。ほら、後ろの―――肌が白い方も」

「それは僕のことかな―――?」

「はい!」


 ハキハキと返事を返す妖に対して、ユキは複雑な面持ちを隠せずにいた。

 

 動く家―――しかもサイズまで変わるのか―――

 これは明らかに―――でもまぁ、今は信用するしかないか。


「んー、じゃあお言葉に甘えて―――お邪魔しようかな」

「勿論ですよ! ほらほら」


 ユキと伊佐薙が無事に室内に入ったことを確認すると、小さな妖は跳ねるように扉を閉めた。

 そのままの足取りで室内を駆ける彼の足は、誰が見ても浮き足立っていた。


「ようこそ、ぼくの家へ!」

「あぁ―――どうも? お邪魔してます―――?」


 慣れない訪問にどぎまぎしているユキを差し置いて、妖はせかせかと動き回っていた。

 こたつ机のような低いテーブルを移動し、しおれたクッションらしきものを綺麗に地面に並べる。


「とりあえず、ここ! 座ってください! そうだ、飲み物飲み物―――ちょっと待ってくださいねえ―――」

「ありがとう―――でも俺、この腕―――」


 一歩室内に入り込んでいたユキに対して、伊佐薙は玄関で足を止めていた。

 その滴る血を改めて視界に入れ、妖は目をぱっちりと開いて伊佐薙に駆け寄る。


「そうでした! ぼくとしたことが、焦って順序を間違えてしまいました―――! ごめんなさい! 少し、ほんの少し、お待ちください!」

「あぁ、うん、ありがとう―――でもそんな焦らんでも―――」


 妖はそう言って器用に部屋分けされている室内の奥へと飛び込むと、心配になるような騒々しい物音を立て始めた。

 その節々には「ここにあったはず―――いや、絶対ある―――」といった、不安を煽るような台詞も漏れている。


 ユキと伊佐薙はすっかり元気はつらつな妖に安心しつつも、少し苦笑いを浮かべていた。


「意外と明るい子なんだね」

「明るいってのとはちょっと違う気がするけどな―――なんか変なスイッチ入ってるだろ、あれ」


 和む二匹の前に妖が再び姿を現したのは、ほんの十数秒経った頃だった。


「はぁ、はぁ、あ、ありました―――よかった」

「おいおい大丈夫か―――そんな急がなくても良かったのに」

「いえいえ―――! 助けてくれた恩人の一大事です、ここで急がなくては―――いつ急ぐんです―――!」

「いや息切れまくってるじゃん、今は君の方が瀕死じゃん」


 ありがたさよりも申し訳なさが勝っていた伊佐薙に対して、妖は「いいんです―――! それより―――」と言って身体を起こし、大きく息を整えた。


 そして既に赤黒く染まっていた伊佐薙の手を取り、「傷、出してください」と真面目な顔で伊佐薙を見上げた。


「えぇ、今? いいけど―――グッ―――!」


 伊佐薙は痛みに顔を歪めながら上着やら制服やらをたくし上げ、その痛々しい表面を露わにした。


 その惨状を妖はじっと見つめ、少しして深く頷いた。


「うん、これなら大丈夫だと思います。すぐ治ります」

「治るって―――これが? すぐに?」

「はい、すぐに」


 そう自信満々に振り上げたもう片方の手には、薄緑色の液体が入った小瓶が握られていた。

 妖は器用にその蓋を片手で空け、中身を惜しみなく伊佐薙の腕に振りかけた。


「おわぁ!」

「動かないで!!」

「は、はい!!」


 自分の半分も無い妖の覇気に押され、伊佐薙は身体を硬直させた。注射を怖がる子どものように傷から目を背け、ふるふると顔を揺らす。

 

 小瓶に詰められていた液体は既に底をついており、一滴一滴と垂れるその液は優しく伊佐薙の腕を流れていく。

 そこには液体特有の刺すような痛みもなく、軽い羽で撫でられているような奇妙な感覚だけが残っていた。


 ―――痛くないどころか―――かゆい? よく分からない。自分の腕が自分のものじゃないみたいだ。

 伊佐薙がゆっくりと目を開けると、その場は微かな光で満ちていた。


「な、なんだこれ―――?」

 

 傷口を中心にして、暖かな光が腕の周囲をフワフワと浮いている。

 その光は少し宙を揺蕩ったかと思うと、吸い込まれるように自信の腕に吸い込まれていった。


 普通に考えたら、こんなものは異常事態だ。暴れたり腕を振りほどくのが真っ当な反応な気がする。

 それなのに、どうしてだろう。俺は今、驚くほど落ち着いてる―――?


 一切の敵意を感じられないせいか、伊佐薙はただその光景を眺めることしかできずにいた。

 いや、次第に萎んでいく光の束に見惚れていた、と言った方が正確かもしれない。


「これで―――もう治りましたよ」


 微かな光がとうとう目を凝らしても見えなくなった時、小さな妖が微笑みながら呟いた。


「お、おう―――ありがとう」


 切られていた方の腕にぐっと力を入れ、放す。軽く曲げ伸ばしをしても、その動作のどこにも痛みは無かった。


「ほんとに治ってるよ、すげえなこれ」

「えへへ―――これもウチの商品ですから。とはいっても、特別な、商品ですけどね」


 小さな妖はこれでもかと胸を張っている。

 その横にすっと移動したユキは、食い入るように伊佐薙の傷跡を覗き込んだ。


「いやあ、ほんとにすごいよ。これほどのもの、中々お目にかかれない」

「お、その口ぶりは知ってるタチですね―――?」

「うん、まぁね」


 ユキはそう言うと、軽く周囲を見渡した。


「え、なになに? これ有名な液なの? ゲームの薬液的な――――?」

「その例えはよく分からないけど、多分まぁ、そんなところかな。僕らは冥遊露めいゆうろって呼んだりするけど」

「めいゆうろ―――? これまたムズい名前を―――」

「それは名付けた妖が悪いね」


 ユキが責任を逃れるようにそっぽを向くと、一方の小さな妖が未だに伊佐薙の腕に垂れている液体を人差し指で掬い、その指の腹を伊佐薙の前に突き出した。


「冥遊露はですね、言ってしまえば妖力が詰め込まれた液体です。簡単な話、妖が傷付くってことは、妖力で作られた外殻が壊されてるってことです。ここまで、わかりますか?」

「うん、そこまでは知ってるな―――」


「なら話は早いです! この液は妖力が入ってる。そんでもって、傷付いた妖は妖力が欠けてる。だから、この液をかけて妖力を補充してあげようってことなんです!」

「へぇ―――! じゃあガチで薬液じゃん!」

「そうなんです! しかもウチのは高濃度でありながら妖力の癖が無い一級品の冥遊露でしてね―――って、そういえば妖なのに、なんでこんなことも知らないんですか?」

「げッ―――」


 まずい―――

 この反応、そうだよな。これくらい妖なら一般常識ってことだよな―――

 

 焦る伊佐薙を冷静にフォローしたのは、冷え切った目をしていた雪鬼だった。


「彼ね、すんごい世間知らずなんだよ。わかる? 引きこもりってやつ」

「んな!? 心外だぞおい!」

「はぁ―――いや、うん。でもそうですよね、戦闘の経験が無ければ知らないのも頷けるかもです―――すいません、少し馬鹿にしたみたいになっちゃって―――」

「クッ―――! い、いいよ、別に、気にしてないから」

「ハハハ」


 ユキは半笑いで伊佐薙からの怒りの眼差しをヒラリと躱し、ユキは先ほど案内されていた場所へと身体を向ける。

 その様子を見て、小さな妖はパチンと両の手を叩いた。


「まぁまぁ、兎にも角にもです! お二人は客人。ゆっくりしていってください!」

「―――何から何までありがとうね、本当に」

「いえいえ! 元はといえばぼくが助けてもらってるんですから、これでも足りないくらいですよ! では―――」

「あ、ちょっと待った」


 またもや即座に駆け出そうとする小さな妖の襟元を掴むと、彼はぷらんとその場で揺れ、ストンと地面に着地した。

 

「そろそろ名前。教えてよ」


 伊佐薙の呼びかけに振り返った妖は、数秒間その場で固まっていた。

 まるで"そんなことを何故聞くのかわからない"といった表情で伊佐薙を見上げている。


 その様子に、伊佐薙が少し不安になり始めていた時だった。


「ごめんなさい」

「え、なにが?」

 不意打ちの謝罪に、伊佐薙は首をかしげる。


「訳あって、本当の名前は言えません。でも、皆には"ケン"って呼ばれてます! ケンでも、ケンちゃんでも、好きなようにお呼びください!」


 妖は綻ぶように笑い、整列を言い渡された子どものようにピンとその場に立ってそう言った。

 そして満足したように、ケンは先ほどと同じ部屋の奥へと消えていく。


 どうしてかはわからないが、今この瞬間。

 伊佐薙はケンが本当の意味でなにかから救われたような、そんな気がした。

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三力のイザナ さら坊 @ikatyan

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