最終話

◇◆


「千桜さん、今日は羽鳥夫妻へのこの部屋の内見として来ていただいたのに、まるで正反対のことを言うのですが……」


 彼が少し戸惑いながら話し始めた。


「は、はい」


「もし可能なら、……この部屋で、僕とまた一緒に暮らしませんか。今度は、結婚を前提に。もっと、お互いの気持ちを話し合いながら」


 その表情は真剣で、だけどほんのりと優しい笑顔で。その言葉に私の胸は嬉しさでいっぱいになった。


「…………はい。私も、また咲矢さんと一緒に暮らしたいです」


 だから私も真剣に、けれどたくさんの喜びの気持ちと共に返事をした。


 二人がいるリビングの大きな窓からは、春の訪れを感じさせる温かな日差しが差し込んで、キラキラとした明るい光と共に幸せな空気が満ちていく。


 今度はきっと、大丈夫。だって、私だけが好きだなんてもう思わないから。あの頃よりも、もっと幸せな日々が待っている。


 私の胸は期待でどんどん膨らんでいった。


 けれど。


「あーよかった。後は……」


 そう言って、彼はさっきまでよりもさらに真剣な顔をして、『ふぅ――――』っと息を吐き出した。


 そう、安心ばかりもしていられない。だって、彼はもうこの部屋から退去予定なのだから。その事に気付いて、ハッと息を飲みこんだ。


「大家さんに、退去のキャンセルが出来るのか聞いてみますね」


 彼はスマホを取り出して、少し意を決したようにそう言った。


「は、はい」



 ――――プルルルルル プルルルルルル


 彼の耳に当てられているスマホから漏れ聞こえるコール音に、私も少し緊張してしまう。


『はい、金本です』


「あ、大家さんですか、先日退去の連絡をさせていただいた菊池ですが――。あの、恐れ入りますが退去の取り止めというのは……できますか?」


 丁寧に、けれど恐る恐る聞いてみる彼。


『あれー? やめるんですか? やめてもらえるならこっちとしてもありがたいなぁ。今、年度末だからいろいろとバタバタとしててね、入居者の募集を掛けただけで他はまだ何にもしてなかったから。そのまま次の更新月まで継続ってことでいいですか』


「あ、はい、ぜひお願いします。あと、入居者が一人増えるのですが、それも大丈夫ですか?」


『それは別に構わないけど、あーでも、書類だけ書いてもらわないとですね。郵送するのでその方の写真だけ用意しておいてくださーい』


 そんな感じで、あっけなく彼の退去は取りやめとなり、私との同棲がまたスタート出来ることとなった。



 電話を切ってから、『大丈夫だって』という彼は少し嬉しそうで。


『あぁ、よかったです』そう答えると、彼に手招きされた。


 なんだろうと思いながら彼の傍に近づくと。


 ――ふわっと抱きしめられた。


「え?」


 思わず彼の顔を見上げてみれば。


「さっき、お互いの気持ちを話し合いながらって言ったでしょ? だから、僕の今の気持ちを聞いて欲しいんだけど、いいかな」


 抱きしめられた至近距離で、彼は真面目な顔をして言った。

 この、急に口調が少し砕けて距離が近くなる感じ、ズルいと思う。


「え、あ、はい。なんでしょうか……?」


 彼の体温と至近距離から聞こえる声に、ドキドキしてしまう。


「……結婚を前提に、僕はこれからは千桜さんの事を『千桜』って呼びたい」


「……!?」


 彼があまりにもまっすぐに私を見つめてそんな事を言って来るからさらにドキッとした。


「だめかな」


「あ、いえ、……ちょっと、びっくりしただけです。大丈夫です、呼び捨てで」


 少し顔にカーッと熱が上がって来るのを感じる。まさか彼がそんな事を言うなんて思ってもいなかった。


「よかった。後ね、これは真面目な話。真剣に言うから、聞いてくれる?」


 まだ抱きしめられたままの至近距離で、彼に見つめられたままそう言われて。


「あ、はい。なんでしょうか……」


 急に呼び捨てで呼ばれたせいでドキドキとしながら、今度は何を言われるのかと覚悟して彼を見つめてみれば。


「――千桜。好きだ。別れた時も、別れた後も、今も、ずっと好き。けれどこれからは今までよりももっと大切にするから、これからはずっと僕のそばにいて欲しい」


 彼の瞳はずっと私を見つめたまま真剣で。彼に好きだなんて言われたのは始めてで。さっきよりもさらに、頭のてっぺんまで熱が込み上げて来るのを感じる。


「え、え、え……!!」


 だから、動揺してしまって言葉にならなくて。嬉しいのに、ただその嬉しいと思った気持ちすら言葉にできなくて。そんな私の顔を見て、彼はくすっと笑った。


「千桜が、さっき僕に言ってくれたのが嬉しかったから。言われたら嬉しいものなんだなって思ったから。そして僕も同じ気持ちだったから、僕も言いたくなったんだ」


「あ……」


 確かに私はさっき同じ言葉を彼に言ったけど、まさか彼も言ってくれるとは思わなかった。


「それにね、僕は千桜への気持ちが離れたことなんて一度もないのに、千桜はそう感じてさみしく思っていたなんてびっくりだったから。でも、それはこうして言葉で伝えていなかったからだと思うんだ。だからこれからは僕も伝えるようにするから、千桜も、寂しく思ったら寂しいと言って欲しい」



 彼の言葉に嬉しさが込み上げて、寂しかった気持ちも救われた気がして。


「…………はいっ!」


 私は溢れてくる涙をそのままに、彼の身体に抱きついた。







 4月になった。僕は春の日差しが心地いいリビングで本を読んでいる。


 大きな窓の外には、満開のソメイヨシノ。

 この、一斉に咲き誇る淡いピンクの景色が大好きだ。



 聞こえて来るのは、トントンとリズミカルなまな板の音。


 カウンター越しに、千桜が昼ご飯を作ってくれているのを感じる。

 僕の、幸せな時間。



 あの内見の日の後、僕と千桜は、またこの部屋で同棲を始めた。


 実はあの日、羽鳥夫妻には見せないままになった部屋が二つあって、一つは僕の部屋。そしてもう一つは、千桜が昔使っていた部屋。


 今回もそうしようかなと思ったけど……せっかくだからダブルベッドを買って、元千桜の部屋を二人の寝室にすることにした。


 そして僕の部屋にあったシングルベッドを捨てて、そこに千桜のスペースを作ることにした。


 というのもあの日、あの後千桜に言われたんだ。


『咲矢さん、私……指輪よりも、あなたと一緒に過ごす時間の方が欲しいです』


 けれど、僕は土日が休みだけど、千桜は転職したから今は土日が仕事。一緒に過ごす時間を作るなら、以前は恥ずかしくて別々にしていた寝室を一緒にした方がいいねと、二人で相談して決めた。


 今日は、千桜の休みに合わせて僕が有給を取ったんだ。


 だってせっかく満開の桜の季節をまた千桜と過ごせるのだから。




 そんな事を考えていると、ゆっくりと千桜が近づいてきて、そっとテーブルに料理を置いた。


「咲矢さん、ごはんできましたよー」


 そして、本を読んでいる僕の没頭を邪魔しないようにそっと話しかけてくれる。


 こういうところも、心地いいなと思えるところだなと改めて思う。


「あっありがとう。うわ、おいしそう!」


「ふふ。咲矢さんが焼きそばが好きだなんて知らなかったな―。それにごはんとお味噌汁の組み合わせとか、ちょっとだけ意外だった」


 そして、これは改めて話した部分。


 千桜は何作ってもうまかったから、特に好きな食べ物とかリクエストとか言ったことがなかったし、その方がいいと思っていた。でも、たまにはリクエストした方が献立考えるのが楽になるなんて、意識して話すようになるまで知らなかった。


 そして。千桜が僕にご飯を作ることに幸せを感じてくれていることも、知らなかった。


 話してみて知る事って意外と多いなと思う。


 だから、僕にとっては当たり前すぎて言ってなかったこの言葉も、ちゃんと言葉にしようと思うんだ。


「千桜、今日の千桜が作ってくれたごはんもおいしい。いつもありがとう」


「!!」


 すると、千桜は少しだけびっくりした顔をした後……


「嬉しい……」


 そう言いながら、嬉しそうに笑った。それはまるで満開に咲いた桜のようで。

 思わず僕の方まで頬が緩んで幸福感に満たされた。




「千桜、食べたら桜見に行こうか」


「はいっ!」




 そうして、桜並木を眺めながら二人で歩く。


「あ、千桜、マンションの大家さんに千桜の写真送るの忘れてたんだ。今、撮ってもいいかな」


「え? あ、うん!」


 こういうふとした瞬間に、千桜の敬語が崩れるのが最近の密かな僕の喜びなのだけど、これは言葉にしたら千桜が意識してしまいそうだから、僕だけの秘密。



「あ、咲矢さん! この場所、昔一緒に写真撮った場所ですね!」


「あ、ほんとだ。せっかくだから、二人でも写真撮ろっか」


「はいっ」



 そして千桜は満開の桜にも負けない笑顔で返事した。



 そうして撮ったスマホの画面を確認してみる。


「ふふ、すっごくいい写真が撮れましたね」


「あぁ」


 二人でそう言って微笑み合ったその写真は、昔この場所で撮った、あの頃のぎくしゃくとした二人ではなくて。



 そして――僕の中にずっとトラウマのようにあった誰かの言葉。


『咲矢って、本気で笑ったりしないんだね。喜怒哀楽がないっていうか、私といてもつまらなさそう』


 そんな言葉とはまるで真逆。


「咲矢さんって、こんな嬉しそうに笑うんですね。私まで、幸せになっちゃう――」


「それは千桜もそうだよ? 千桜の笑ったその顔も、好き」



 僕の言葉に照れ笑いを浮かべる千桜の顔がまた可愛くて、僕はその手を取って歩きはじめた。



 小さくて、少し儚げで、可愛い手。


 僕はもう、この手を一生離さないって決めたから。



 これからも一緒に歩いて行こう。


 桜は咲いたり散ったりするけれど、僕の千桜への気持ちがなくなった事はなかったから、これからもずっと愛し続けると誓うよ。



 だから、いつかその時が来たらプロポーズの言葉と共に、

指輪の代わりにこの言葉を君に贈るね。



 ――千桜、これからもずっと、愛してる。

 




 



(完)


――――――――――――――――――――――

最後まで読んでくださりありがとうございました。

読者様のおかげで、ここまで書ききる事が出来ました。


この話は、KAC二回目のお題「住宅の内見」を元に書いた話になります。


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空豆 空(そらまめ くう)

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【完結】元カレに未練たらたらの彼女と、元カノを忘れられない彼が、同棲してた部屋の中でまさかの再会。今度は素直になれるかな? 空豆 空(そらまめくう) @soramamekuu0711

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