【KAC20242】見えない私にできること

草乃

✱ 見えない私にできること

 娘が大学入学を機に一人暮らしをすることを決めた。

 通えない距離ではなかったけれど、通うとなるとバスと電車を使うほどの距離がある。それを考えると、電車一本かあるいは自転車くらいに短縮したいのだろう。

 アルバイトもやってみたいらしく、なんだか急に離れていくような寂しさがあった。

 でも自立は歓迎しなきゃとも、この子をずっと見ていて思うのだ。

 私にはわからない、何かを敏感に察知してでもそれを誰とも共有できずに距離を置いていたあの子がここではない何処かに行きたい、と心の底で願っていることに気付かないわけがなかった。

 ここが片田舎である自覚は私にもあったし、若者の実家から離れたい気持ちもわからなくはなかった。

 見ないふりというのも出来ず「連絡はちゃんとするように」と娘の気持ちを大事にすることにした。


 部屋の内見についてきてほしい、と言われたのはどんな話の流れからだったか覚えていない。

 ただ、何かを話し出しにくそうにしている様子が感じられて、けれどそれを気取られたくないのだろうとも分かっていて彼女の口から出てくるのを待った。

 そうして日程と、数カ所まわることを聞いて「なら出先でご飯食べようか」となった。「お母さん、ご飯のことばっかり」と苦笑を浮かべて、それからお願いしますとしっかりと頼まれてしまった。


 なぜ数カ所も、とその日まで不思議でしかなかったのだけれどひとつ目、ふたつ目と巡るうち娘の態度がおかしいことに気付いた。

 案内してくれた担当の人(確か、伊田さんといっていた)には聞こえないようにこっそりと「どうしたの」と声を掛けるも、なんでもない、と誤魔化すように笑みを浮かべる姿が記憶のあちこちを刺激する。



「へんなの」


 なにもない方を指差して、幼かった娘が私を見た。娘いわく、何かがいるらしい。心がざわめくも私には何もわからない。ただ変わらない、壁があるだけ。遊んでいた積み木ではないし、テレビでもない。

 洗濯物をたたむ手をとめて、話を聞いても要領を得ない。

 子どもの頃は見えないものがみえたりする、という話は誰でも聞いたことがあるだろう。私もそれだろうかと、その時は適当に誤魔化した。



「畑の案山子のそばに、ずーっと変なのが居る」

「変なの?」

「黒い、もやもや」

「何か布でも引っかかってたんじゃない?」

「うーん……そうかも」



「帰り道、ちょっと怖い」

「どうして?」

「何かが、ずっと、おんなじ距離で……」

「怪しい人……?」

「ひと……? ひと、なのかな……」



 数回、たった数回。

 どれだけの勇気を振り絞ったのか、私には今もわからない。親であるのに理解しようと、寄り添うこともできず、何も期待されない、必要なときにはこうして頼られるけれど、重要なときには相談もされなくなってしまった。


「体調悪くなった?」

「え、あ……ちょっと。うん」

「さっきの部屋も駄目なのね」

「……ぁー、んー」


 曖昧に濁すその態度は、あなたが何かを感じたということ。

 私は娘の手をとりキュッと握る。

 えっ、と逃げそうになるも、握力が敵わないでしょう。私、あなたよりはまだ握力はあるのよ。


「伊田さん、ごめんなさい。この子、ちょっと気分が悪くなったみたい。一旦外に出てもいいかしら」

「ああ、はい。どうぞ」


 何件も見てまわることはそう、不思議ではないけれど今の娘のように気分を悪くする人は少ないのかもしれない。

 たしかに、はたから見ればこの子は部屋の中というよりもそこかしこに何かを感じて、それを怖がっているように見える。

 その姿をみるにつけ、この子はまだずっと、何かを感じる世界に居て私みたいに何も、そういった気配を感じることのない世界にいることができないのだと、薄い壁のようなものを感じる。

 私が、もっとちゃんと親身になって聞いてあげていたら。この子は少なくとも、こんな風に一人で我慢しなくても良かったかもしれないのに。

 いいえ、たとえ言葉にできていたとしても。何も感じられない私に、この子が諦めてしまう方が早いでしょうねえ。


「大丈夫、だいじょうぶ」


 不安気で、どこか怪しげに目を向ける娘の背を擦りながらまるで自分に言い聞かせるように、つぶやく。


「まだ時間はあるから、焦らなくてもきっといいところが見つかるわ」

「……ふふ、見つかればいいなぁ」


 束の間、どこか穏やかになった顔をあげて、戻ろう、と言い出した。

 目に見えないものと、戦うなんて口が避けてもいえないけれど。この子が日々を、笑って過ごせるそんな部屋を見つけられたらいい。

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