終の棲家

奈月沙耶

 夫の茂が疲れたようすで重々しく口を開いたのは、六件目の内見も芳しくなく終わり、少々の口論を経てお互いに嫌気がさし、ふたりして黙り込んでから、すっかり疲れ切っていた多嘉子がうとうとと寝落ちしそうになっていたときだった。

「思ったんだが……」

 またお説教が始まるのだろうか。

 助手席で身じろぎして多嘉子はふいっとあらぬほうに視線を投げる。

 おまえの思う通りにいかないからって怒ってもしようがないだろう、とか。不動産屋の案内係の男性にキレかかっていたのは自分のくせに。

 おまえの考えが足りないからだ、とか。投げやりになって、これまででいちばんあり得ないと多嘉子が判断した(浴室の排水口でゴキブリの死骸を発見したからだ)五件目を、ここでいいだろうとかテキトーなことを言いだしたのは自分のくせに。

 理想と現実は違うんだ、とか。防音室とサウナのある家がいい、なんておよそ実現不可能な世迷言を吐いたのは自分のくせに。

 ……本当に、たいした条件は挙げていないのに、どうしてこうもピッタリな物件は見当たらないのか。

 バリアフリーで、出入りのしやすい和室が玄関からすぐにあって、その和室は介護用ベッドを置ける広さで、車いすになったときのことを考えて庭からも出入りできるように掃き出し窓があって……これから義母を自宅介護するのに最低限の条件であるのに。

 身の丈に合った予算のなかでこうも見つからないとは。現実は確かに厳しかった。

「施設に入居の方向も考えようか」

 はあ? 尖った声を出しそうになって多嘉子は奥歯を噛み締める。

 母子家庭で苦労して育ててもらったから同居してきっちり世話をしたい、と実際に世話をする多嘉子の承認など意に介さず勝手に親族に語っていたくせに。

「ウチのまわりにもどんどんホームができてるだろう?」

 気持ちもわかる、と理解して、多嘉子なりに覚悟を決めて、あれこれ計画していたのに。

「設備や食事もしっかりしてて、看護師が待機していて、そりゃ安心なのはホームの方だし」

 そうはいっても、予算内で希望に合う入居先を探す苦労は同じだろうに。

「親を施設に入れるなんて、なんて非難される時代じゃないもんな。……母さんの友だちにも、持ち家を売り払って入居してる人がいるって。子どもに面倒見てもらうより気が楽だって。母さんも、多嘉子さんに我慢させたくないって言ってたし」

「…………」

 むすっと黙り込んで聞いていた多嘉子は、目を閉じて深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。

「……そうだね」

 介護のしやすい広さのある玄関脇の個室は、いずれ空き部屋となったなら、別の使い方をしたいとも夢想していた。

 養育里親として子どもを預かるとか。ホストファミリーとして留学生を受け入れるとか。多嘉子は産めなかったから。

 それもこれも、多嘉子ひとりの勝手な思いだ。

「どっちにしても、タイヘンだよ」

「いろいろ選べる時代なんだから、もっといろいろ考えてみよう」

 多嘉子がまともに受け答えしたのに安堵したようすの茂は、そこでようやくクルマのエンジンをかけた。

 習慣でシートベルトに手をまわしながら、多嘉子は頭痛を感じる。

 確かに選択肢は多いだろう。多いだろうけど、実際のところ選べるものは少ないのじゃなかろうか。その少ない中からでも、そのときそのときでせいいっぱい、良かれと思った選択をしなくてはならない。

 ずきずきと頭が痛い。

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終の棲家 奈月沙耶 @chibi915

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