箪笥の中

尾八原ジュージ

箪笥の中

 子供の頃のことは、不思議と鮮やかな手ざわりと共に覚えている。これは小学二年生のときの記憶だ。


 その年、父の転勤に伴って引っ越しをすることになった。休日に一家全員で不動産会社を訪れ、三つある新居の候補を皆で順に見て回った記憶が、確かにある。不動産会社の応接室で、二つ上の姉と一緒にオレンジジュースを飲んだこと、キッズスペースで幼児向けアニメが流れていたこと――そういった細部の記憶も鮮やかだ。

 三軒目の候補のことも、よく覚えている。

 中古の一軒家だった。少し古いが二階建てでカーポートもあり、四人家族には十分な広さだ。

 玄関の鍵が開くと、僕は姉と一緒にはしゃぎながら上がり込む。背後から母の叱る声が聞こえる。

「大丈夫ですよ。うっかり壊しちゃうようなものは何もありませんから」

 という、不動産会社の男性社員の笑いを含んだ声も聞こえる。

「ねぇ、二階行こう。二階」

 姉が僕を誘う。「さっき外から見たときにさ、二階の窓辺にだれか立ってたの!」

「うそだぁ」

 姉の言葉にゾッとしながらも、僕はそう言い返す。

 この家は空き家のはずだ。そうでなければ人に貸すことなんかできない。実際、家の中にはほとんど何もない。玄関にも、通り過ぎる際にちらっと見たリビングにも、家具や生活用品の類は見あたらなかった。もちろん人間なんかいるはずがない。

「おばけか、もしかしたら座敷童かも」

 姉は目を輝かせている。姉は元々そういう話が好きで、本やテレビで仕入れた怖い話をよく僕に話しては、震えあがらせて喜んだものだ。

 二人でばたばたと階段を上る。

「道路がこっちだから……この部屋!」

 姉が手前の襖を開ける。

 タンッと小気味よい音がして開いた襖の向こうには、畳敷きの部屋とカーテンの閉まった窓、そして大きな箪笥がある。他のものは何もない。襖をとっぱらった押入れが、からっぽの中身を晒しているのが妙に寒々しく見える。

「カーテン、閉まってんじゃん」

「いやいや、カーテンと窓の間に立ってたもん。絶対いたって!」

 そう言いながら姉は箪笥に手をかける。

「この中に隠れたかも」

「ねー、怒られるってば!」

 強引な姉にだんだんイライラしてきてしまう。そんな僕の様子を気にも留めず、姉は観音開きの箪笥を開く。その時僕はとっさに、

(これ、お仏壇に似てる)

と思ったことを、埃っぽい匂いと共に今でも思い出すことができる。

「空っぽだぁ」

 姉ががっかりしたように言う。そしてごく当たり前みたいに――まるで自分の家に上がり込むように箪笥の中に入ると、パタンと扉を閉める。

「姉ちゃん、何やってんの?」

 怒られるってば。そう文句を垂れながら、閉まったばかりの扉に手をかけたことも覚えている。


 そして、そこから記憶が飛んでいる。


 目を覚ますと、僕は見慣れた自宅に戻っていた。父と母がダイニングテーブルの上に書類を並べて、「どっちの物件にしようか」などと話し合っていた。

「あら、起きたの。今日ははしゃいでたからねぇ」

 母がこちらを向いて、呆れたように笑った。

 僕は辺りを見回した。姉はどこにいるのだろう?

「姉ちゃんは?」

 母に尋ねると、母は不思議そうな顔をして「ねえちゃん?」と聞き返してきた。

「姉ちゃんって、何のこと? 何の話?」

 まるで話が噛み合わない。

 少しすると僕は、部屋から姉の形跡が消えていることに気づいた。姉のランドセル、コート掛けにあったはずの赤いジャンパー、本、靴――姉の持ち物が一切ない。父と母は「うちは一人っ子でしょ」と口を揃えた。

 結局、姉はそれからずっといなくなったままなのだ。家族写真からも、学校の名簿からも、もちろんみんなの記憶からもきれいさっぱり消えてしまって、まるで最初から存在していなかったみたいになってしまった。

 もう僕の記憶の中にしか、姉はいない。

 きっとあの家の箪笥が原因だろうと思うのだけど、

「何言ってるの? あの日は二か所しか見に行ってないわよ」

 と、両親には三軒目の家を見に行ったことすら否定された。残念なことに、僕も具体的な場所までは覚えていない。結局未だに、姉を探しに行くことすらできずにいる。

 最近は思う。消えてしまったのは姉だけじゃなくて、僕もなんじゃないだろうかって。記憶がないけれど、あの後僕も、あの箪笥に入ったのかもしれない。そしてそこから、姉のいない世界に移動してしまった――

 もしもそうだとしたら、元の世界の両親はどうしているんだろう。

 大人になって自分の子どもを持った今では、そんなことを考えるようになった。

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箪笥の中 尾八原ジュージ @zi-yon

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