悪魔が来りて

七野りく

昔話

 その男には三分以内にやらなければならないことがあった。


 目算にして、数百……否。ざっと数千頁に及ぶであろう分厚い教典の写本である。


 当然のことながら、尋常な方法で終わる筈もない量である。部屋の外には早くも完全武装の教会騎士達が集まりつつあり、逃げ出すことも出来そうにない。そもそもが蛮勇な猫族ですら『飛び降りるのはちょっと……』と青褪める程高い塔の最上部なのだ。端的に言えば詰んでいる。チェックメイト。男は三分後に死ぬだろう。

 男は一介の修道士であった。

 なお、枕詞に『何時だって、何処だって、誰にだって前向きな』乃至は『これ程、日頃から酒を飲み、女を好み、教典を破り、神を恐れぬ者はいない』がつく。

 前半を嘯いたのは男自身。後半をボヤいたのは教区長とかいう、何かとっても偉い人である。偉いので、基本的にはダメ人間の極みである男如きが面と向かって歯向かえる相手ではない。育ての親でもあるわけで。


 だから、だからこそっ! 


 先日も酒場でお姉ちゃん相手に『教区長オヤジの説教は長くてさー。神様に祈ったところで酔えねーし? 女の胸の柔らかさを味わえるもんでもねーし?? 教典の内容、ツッコミどころしかねーし???』と散々文句を言った挙句、酒に仕込まれていた秘薬で眠りこけたわけだが……嗚呼、我誤れり。

 よもや、密告者ネットワークが夜の歓楽街にまで及んでいようとは。男の薬耐性を上回る秘薬を教区長が新開発していようとは。泥酔していたので抵抗らしい抵抗も出来ず、あっさりと拘束され、寄りにもよって難攻不落な懲罰塔に閉じ込められるとは。地下牢だったらワンチャン逃げれた。前にも逃げたし。魔物の群れ、何するものぞ。


 失態であった。誤算であった。退き時を見誤った。


 教区長がそんじょそこらの下手な悪魔よりもおっそろしいことを失念しようとは。なんか、七大悪魔も調伏したことがあるとか言ってたわけで……。

 ペンを持つ右手は先程から激しく震え、冷や汗が頬から滴り落ちて、寝ている時についたらしい涎で汚れた真っ白な紙を濡らしていく。目の前でサラサラと零れ落ちていく砂時計が恨めしく、動悸はますます激しくなる。

 機械式の時計ではなく、砂時計にしたのは間違いなく教区長の指示であろう。

 完全に男の行動は読み切られている。


『一晩で教典全てを写してやらぁっ! 出来なかったら、今後はどんな仕事でも請け負う。本庁にだって行ってやらぁっ!! 男に二言はねぇっ!!!』


 悪夢の如き小言の嵐を躱す為だったとはいえ、どうしてあんなことを言ってしまったのか。絶対に出来っこないことではなかったか。

 後悔先に立たず。覆水盆に返らず。後の祭り。破鏡再び照らさず。後悔噬臍ぜいせい|……身体を柔らかくすれば己の臍は噛めるやも? 運動不足なせいか、身体も硬くなってきていることだし。


 男がそのように現実逃避をしている間にも、砂は無常にも零れ落ちていく。


 最早、猶予はない。

 教区長はやる時はとことんまでやる男だ。育ててもらった恩義を返すことは吝かではないけれど、齢十八で神なぞという絶対に悪魔よりもおっそろし存在と添い遂げる決心もまた出来ぬ。

 男は瞑目し、ペンを静かに置いた。


「仕方ない」


 そう、これは仕方ないことなのだ。緊急避難とも言える。

 まずはただただ生き残る。

 そのためならば……。


「何をしても許される。『まず、自分を愛せよ』と外ならぬ神が仰られているのだから」


 男はそう嘯くと両手を合わせ、魔力を振り絞り――かつて、教区長オヤジが封じた大悪魔を召喚した! 


※※※


「――……で?」


 目の前の椅子に腰かけた、今年で十五になる愛娘は剣呑な視線で男を貫いてきた。

 その頭には、母親由来の小さな可愛い角。触ると怒られる。

 細い指でテーブルを叩き娘は言葉を続けた。


「その結果、私が生まれたわけ? おかーさんに写本を何とかしてもらう代償として??」

「うん。そうだな」

「…………はぁぁ」


 深い深い溜め息を吐くと、愛娘は頭を抱え込んでしまった。腰の短剣が音を立てる。今の話にそこまで悩ましいものがあっただろうか?

 今朝方、いきなり深刻な顔で、


『……私が生まれた時の話を教えてほしい』


 と言ってきたので、妻の作ってくれた世界で一番美味い朝食を共にしながら、昔は話を聞かせたのだが。

 私のカップへ紅茶が注がれる。


「どうしたの?」

「なんでもないよ」


 隣の椅子に座った愛しき妻――あの時、召喚した瞬間からお互いに恋に落ちてしまった元大悪魔へ微笑む。

 二人で普段通りいちゃいちゃしていると、娘が顔を挙げた。分かり易いジト目だ。


「……おとーさんもおかーさんも、ちょっと変だと思ってたけれど。ちょっとじゃなかった。変だった」

「そうかな?」「そうかしら?」


 私と妻は顔を見合わせる。

 そんなに変でもないと思うのだが。

 紅茶を飲み、娘にも微笑む。


「確かに『死んだ時、魂を捧げる』という契約はしたよ? したけれど」


 優しい妻の柔らかい頬に触れ、おでこを合わせる。暖かい。

 幸せだ。これほどの幸せがあろうか。

 妻も同じ想いだったようで、ふんわりと表情を崩している。娘は呆れ顔だが。


「大好きな人と死んだ後も一緒にいられる。そのことに不満を持つほど、人間を辞めたつもりもないよ。お前も好きな人が出来れば分かるさ。おとーさんが保証しよう」

「……それ、詐欺師の言い草だよぉ」


 そう呻き、顰め面の愛娘は紅茶を一気に飲み干した。

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悪魔が来りて 七野りく @yukinagi

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