失恋して海に来た話

白夏緑自

第1話

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。

 “あった”、と言うと過去形のようだが、決してそうではない。今、現在の話だ。

 ただ、“あった”と言葉にすれば、強い意味を持って私自身が突き動かされるかと狙ってみたが、しかし、私は自身の思惑の通りにはならずにこうして佇んでいる。

 早くしなければ風邪をひいてしまうだろう。

 

 スマホで三分のタイマーをセットして、膝を抱える。

 

 真っ暗な冬の海は視覚以外の全てで私を突く。

 波の音。風の強さと冷たさ。潮の匂い。口を開けば、少ししょっぱい。最後は気のせいかも。

 横を向けば灯台の灯が地上の星として輝いているけれど、前だけ見れば、やっぱり地球の反対側まで夜が続いているようだ。


 どちらかと言えば、アウトドアは苦手な方だ。重たい荷物を背負っての山登り。炭と鉄板の掃除が面倒なBBQ。シャワーとトイレの設備にため息を吐くキャンプ。お腹と太ももの肉を否が応でも気にしなくてはならない海水浴。

 サークルや友達と行けば結局楽しみはするので、私はやはり平凡な人間なのだろう。本当に嫌いな人間は適当な理由を付けて不参加か、来ても隅っこの方で面倒くさそうな顔をしている。後者の人間はほとんど見たことがないけれど。そもそも、そんな社交性がない人は呼ばれない。


 私はそこそこ社交的なので、これまでの人生に何度もアウトドア系の遊びに参加した。参加して知ったが、私は自然そのものが嫌いではない。むしろ、好きかもしれない。そう思い始めたのはここ二年のこと。

 付き合った男がアウトドア好きでよく連れていかれているうちに、“自然”に対する苦手意識は薄れ、その代り好意の色が濃くなった。好きな男に趣味を合わせる、カメレオンみたいな女が私だ。

 その昔付き合った男が好きだったヒップホップはもうほとんど聴いていない。最近はよく坂道系アイドルの曲ばかり流している。


 さて、今、私は一人だ。一人でここに来ている。少なくとも、付き合っていた男は真夜中の海に彼女一人残してどこかへ行くような人間ではない。だから、私はやはり一人だ。

 失恋して、レンタカーを走らせて冬の海に来る女が私だ。なんてつまらない、短絡的な人間なのだろう。苦手だったアウトドアに対する毒気も好きな男によって抜かれて、染められて、こうして海に来ている。

 海なら、失恋の悲しみを受け止めて、癒してくれると考えたのだろうか。


 違う、と吐き捨てる。

 

 ここに来たのは儀式のためだ。

 私がまた透明になるための儀式。

 

 時間は、無限は過言だが贅沢できるほどにはある。明日は休日。このまま朝日が昇るのを待ってもいい。

 だけど、私は三分と定めた。

 こんなところに一晩もいたら風邪をひいてしまうからだ。私はなによりも、自分の身体を労わる。そうしなければ、週明けの仕事に支障をきたして、職場に迷惑をかけてしまう。

 

 私には三分以内にしなければならないことがある。

 泣いて、泣いて、泣くことで忘れる。

 

 抱えた膝に顔を埋めて、アイツの顔を思いだす。最初は好きだったところを。出会いから別れまで印象的だった思い出を掘り起こして、涙を滲ませる。最後は別れを告げられる場面を再放送して、溜めた涙を放出する。

 泣いて、泣いて、喚く。好きだったのにとか、あの野郎とか、タンドリーチキンが美味しかったとか、下手くそとか、初めて好きって言ってくれた顔とか、キュウリが嫌いとか。良かったところと悪かったところを交互に涙に換えて、色抜きする。


 きっちり三分。

 スマホのタイマーが鳴る。

 無機質な音のおかげで涙もしゃっくりも引っ込んだ。

 

 ぐしょぐしょになった顔をコートの袖で乱暴に擦って、車に戻る。

 近くにビジネスホテルを取っている。ここから三分の距離。何か音楽を鳴らそう。ラジオの気分ではない。

 合計五〇三二曲のライブラリをスクロールして、あ、そうだ、とスマホを操作する。

  

 ザラ味のない滑らかなバンドの上に、少年のように甘ったるい歌声。歌詞は良く知らない。イギリスのロックバンドの曲だ。

 確か、別れた彼女に未練は無いけど、教えてくれたおススメの映画は今も好きだよ、とかそんな内容だ。

 昔の昔の昔、付き合った男が教えてくれた。

 ありがとう、あなたのおかげで三分の退屈を感じずに済む。


 サイドミラーに写った口元は確かに笑えている。

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