冴えない男が三分以内にカップ麵を食べ終えるだけの話
長串望
冴えない男が三分以内にカップ麺を食べ終えるだけの話
安藤には三分以内にやらなければならないことがあった。
それはカップ麺を食べ終えることに他ならなかった。
まだ湯を注いでいない純粋無垢なカップ麺を三分以内に平らげなければならなかった。
お湯を注いで三分のカップ麺を、これから湯を注いで三分以内に完食する。
それが安藤に課せられた命題であった。
期間限定の春色パッケージは桜色にきらめいて、味は普段とは変わらずとも、新しい季節が、新しい一年が始まるのだという、無責任で無根拠な希望を感じさせてくれていた。
新生活応援キャンペーンだとかで、結局は割高になることを薄々感じながらも空気に流されて購入して以来、二十年近く使い続けているケトルにはたっぷりの湯がまさに沸き立っていた。
あとは湯を注ぐだけという、その期待と希望に満ち溢れた瞬間。
よりにもよって、カップ麺の蓋を半分開いた時点での入電であった。
相手は取引先の常連であり、個人経営の零細事務所の所長兼唯一の従業員としては出ないわけにもいかなかった。
安藤はいら立ちを隠しながら電話を取った。
「はい、安藤ヒーロー派遣事務所でございます~」
『ああ、このあと空いてる? よな? Ⅴ案件でな、すぐ来てくれる人材が要る』
ヴィラン相手ではドスのきいた脅しも辞さない安藤の、普段より一オクターブも高い声が繰り出される。
電話相手からは挨拶もない。ただ一方的に用件を述べ、それが当然であるというような王様めいた傲慢な態度。
人様の飯時に電話をかけておいて、この態度。安藤ならずとも機嫌を損ねて当然である。
──殺すぞクソガキ。
このような不遜に対し、安藤の対応は決まっている。
「ハイ、ハイ、かしこまりましたァ~」
渾身のへつらいの笑みである。
賃貸の家賃さえ怪しい零細事務所の主にとって、それは納めていて然るべき処世術であった。
それが本心からの喜びであるとばかりに顔面筋全てを使った笑みを作り、自身の心さえも欺瞞する社会人として習得した笑みである。
なお人畜無害で朗らかな笑みと思っているのは本人ばかりであり、基本的にこの笑顔を向けられた相手は心臓に著しく負担をかけられ場合によっては心療内科への通院を余儀なくされる。
さて、通話を切った安藤は手元のカップ麺を見下ろした。
蓋はあけてしまったが、すぐにも出なければならない。
支度を整え、現場まで向かう。道中での些細なトラブルも考慮しながら逆算して、安藤に残された時間は三分であった。
当然のことながら三分では何もできない。
カップ麵に湯を注いで三分待てば、食べることもできずそのまま出ていくほかにない。
しかし、蓋を開けてしまったのである。
安藤一流の考えによれば、カップ麺にも鮮度というものがあった。
それは蓋を開けた瞬間、酸素に触れた瞬間から急速な劣化を始めるものだった。
仮に蓋を閉じて上からラップをかけようが、ビニール袋でくるもうが、それはもう手遅れだった。
一度蓋を開けたからには、速やかに湯を注ぎ、正確に三分待ち、そして食べねばならなかった。
それが安藤のルールだった。
しかし何度も言うが、残り時間は三分である。
何通りもの方策を思案したが、三分以内に調理に三分かかるカップ麺を完食する手法など思いつくものではない。
しかし安藤にはこれだけのことをグダグダと考えるだけの時間があった。
──今ので五秒使っちまったな……
実時間に対して実に三百六十倍に加速された思考は、安藤の特異体質によるものだった。
安藤は自身を加速することのできる体質だった。特殊能力といってもいい。それが安藤をまがりなりにもスーパーヒーローとして成立させているパワーだった。
全身を加速すればかなりのカロリーと未知のエネルギーを消耗することになるが、脳内のみに完結した思考速度の加速はほとんど際限なく可能である。
──しかし、だ。
──俺だけ加速できたって何にも意味がねえ。
残り2分55秒。
いまから湯を注いだところで、五秒オーバーだ。当然食べる時間はゼロどころかマイナスだ。
安藤にとって、ほんの数秒であれ、耐えきれない違いである。
五秒遅くとも、五秒早くとも、それはルールに反する。
三分ジャスト、それがカップ麺の出来栄えを完璧なものに仕上げるルーチンなのだ。
しかしその縛りがいま、安藤を追い詰めていた。
安藤は一度決めたことを変えられない男だった。
カップ麵の蓋を開けたからには、食わねばならない。
捨てるなど、論外である。
しかし湯を注いでから、三分待たねばならない。
現場に一秒たりとも遅刻してもならない。
これはすでに破綻したロジックである。
だが安藤はその破綻したロジックをいつまでもこねくり回すことしかできない。
安藤がその矛盾を平然と妥協し、受け流せるような、いわゆる普通の感性を持ち合わせていたのであれば、今頃安藤はもっといい職場で、この特殊能力を生かした仕事ができていたことだろう。
だが安藤はそうではなかった。
カップ麵一つに人生を左右されるほどに、男は不器用だった。
──考えるんだ、俺よ。俺の脳よ。
下手の考え休むに似たり、という概念は安藤には存在しない。
安藤は不器用で、頭の回転の悪い男だったが、自身を加速できるという特異体質は安藤を時間というくびきから半分自由にしていた。
思考速度を加速させていけば、実時間では一瞬の間に、下手なりに考えをまとめることもできるし、反省点を見つけることもできる。
安藤のような男がまがりなりにも社会で生きていけるのは、白鳥が水面下で必死で足をばたつかせて泳ぐような努力を重ねているからなのだ。なお安藤は、実際の白鳥は浮力で浮いてるだけで、足をばたつかせなどしたら逆に沈みかねないなどということは知らない。
安藤は思考をさらに加速した。
四百倍、五百倍、六百倍……しかしいくら加速して、いくら考え込んだところで、当然のように答えなどでない。
安藤はいくらでも考える時間を持つが、白鳥の真実を知らないように、安藤の中に存在しない答えを導き出すことなどできない。
残り2分50秒。
──もっとだ。もっと考えるんだ俺よ。
しかし、いくらでも考える時間がある、というのも実際には限界がある。
光速度という壁があるのだ。
この世に存在するものはすべて、光という速度的限界を超えられない。
質量が存在するものは光の速さには到達できない。
秒速2億9979万2458メートル。それが世界の壁。
仮に光の速さに近づこうものならばどうなるか。
奇妙なことに、加速しているというのに、その加速している実体に流れる時間は遅くなるのである。
もしも光の速度で移動しようものならば、そのものの時間は停止するといっていい。
安藤は相対性理論を理解しているわけではない。
なんとなくふわっとしたところを漠然と分かったような気になっているだけである。
しかしそれでも、自身を加速できるという特異体質からか、安藤には経験則として、体で覚えた感覚として、光の速度にまで加速することは危険だという実感があった。
──光よりもはやく動くことはできねえ。ってえことは、光と同じ速さまで加速したら、多分だが、その速さの中でものを考えるっていうのは、光の速さを思考分だけ超えちまうってことなんだ。だから止まっちまうんだろう……光の速さを超えないように。
残り2分45秒。
安藤の思考はループを繰り返し、ほとんど停止しているのと変わりなかった。
光の速度に至るまでもなく、安藤の悲しいほどに貧相な思考能力では、それが限界だった。
安藤の目じりに涙が浮かんだ。
それは気の遠くなるほどの時間をかけて膨らみ、星が生まれて死ぬほどの時間をかけてゆっくりと頬を伝って落ちていった。
男は無力だった。
たかだかカップ麺一つを前にして、無限とさえ思える時間をかけて何一つ思いつかなかった。
その悔しさと虚しさが、一粒の涙となって落ちた。
──否。
凍れる時の中、安藤の掌が涙を受け止めた。
カップ麺に落ちるところだったのである。
いまさら、食べられもしないカップ麺を気にかけてどうする。安藤自身、そう自虐してしまうような、愚かしい反射的行動だった。
しかし安藤は、加速された時間の中で、己の掌の中で弾ける涙を見た。
その飛沫の一つ一つに反射する輝きを見た。
己の悔しさを、そこに見た。
残り2分40秒。
安藤はかっと目を見開いた。
──ばかばかしい。諦めるだと。俺はヒーローだ。誰が何と言おうと俺はヒーローなんだ。ヒーローは諦めねえ。家賃にさえ困るような零細ヒーローだって、ヒーローを名乗るからには、諦めちゃなんねえ。
安藤は、零細スーパーヒーローである。客に頭を下げ、安い賃金でヴィランを懲らしめてきた。けれども矜持に対しては、人一倍に敏感であった。
愚かな男はしかし、その愚かさゆえに、誰よりもまっすぐにヒーロー足らんとしていた。妥協というものを知らなかった。建前というものを知らなかった。ただ矜持だけを知っていた。誇りだけを知っていた。
ヒーローはいつでも、笑って苦難を乗り越えていかねばならないのである。
──加速しろ。俺よ、加速しろ。俺にできるのは、それだけだ。加速だけが、俺の能力。速くなることだけが、俺のちから。
千倍、万倍、億倍、安藤の思考のみならず、全身が加速し始める。
男にできるたった一つを、男のすべてをかけて実行していた。
──もっとだ。もっと加速しろ。他にはない。他には何にもないんだ。ただ速くなれ。ただただ速くなれ。それだけでいい。それだけでいいんだ。俺はそれしかできない。だが、俺にはそれができるんだ。
安藤の全身の細胞が、神秘的なエネルギーと未知の原理によって、加速されていく。
それは安藤以外には何の影響も及ぼさぬ、完全に閉ざされたサイクルだった。目の前のカップ麺一つにさえ作用できない、ただ自分のみを加速するちから。
男にはそれしかできない。
男にはそれができる。
──あとは、勇気だけだ。
怖気づく心を叱咤し、安藤は光の速さに近づいていく。
残り2分35秒。
安藤の視界に映る何もかもが凍り付いた時の中に閉じ込められる。
時間が停止したように思われるほどの加速。だがそれでは足りない。まだ足りない。もっとだ。
加速を続けていくうちに、時はゆっくりと進むように見え始めた。時計の針が進み始め、それは見る間に加速し、ぐるぐると恐るべき速度で回り始める。
安藤の加速が光速度に近づいたことで、安藤自身の時が遅くなり始めたのだ。加速しているのは安藤のはずなのに、周囲の時の方が加速して見える。それは奇妙なロジックだった。
やがて時計の針はもはや見えなくなり、不意に止まった。電池が止まるほどの時間が、外部では経過した。そしてほどなくして時計は瞬間的に落下し、やがてすべてが朽ち果て崩れ落ちていく。部屋も、時計も、テーブルも、ケトルも、そしてカップ麺も。
安藤の時間はほとんど止まりかけていた。あと少しで光の速さに触れる。そのあと少しが、絶望的なまでに遠い。だが、届かないほどでは、なかった。
事務所が崩れ、ビルが崩れ、町が崩れ、森と獣に覆いつくされ、それも枯れ葉て、やがてこの星さえもが壊れたおもちゃのように形を失い崩れていく、そんな終末を早送りに見送りながら、安藤は光の速度に迫った。
たとえ光の速さにたどり着いたところで、失われたものは戻ってこない。この星も、町も、ビルも、事務所も、部屋も時計も、テーブルもケトルも、そしてカップ麺も、あの零れ落ちた涙の一滴さえも、過ぎ去ったものは何一つ戻ってこない。
光の速さを超えれば時間が戻るのだなどというおとぎ話は、現実には存在しない。
だがそれでいい。
安藤は過去に戻る気などない。
進むべきは、未来だ。いつだって、ヒーローは前を向いていなければならないのだから。
やがて安藤は光の速度にたどり着いた。
それは安藤自身が光になることだった。
光になった安藤は、もはや思考さえもが凍り付き、すべての時間が停止した。
停止した安藤の周りで、しかし時は流れていく。
果てしない時が、果てしない数だけ繰り返された。
星が死に、ブラックホールさえもが蒸発し、この宇宙が熱的死を迎える。
だが安藤は永遠にそこにあった。時間の停止した安藤は、宇宙の片隅に在り続けた。
死んだ宇宙は、やがて収縮を始める。
膨張を続けるだけの熱が死んだ今、宇宙は自らの重力に押しつぶされるように、一点に引き寄せられていく。
安藤の毛先よりもはるかに小さな一点にまで時空と物質は限りなく圧縮され、量子のひとつの揺らぎにしか見えぬほどに小さく小さく折りたたまれた。
そしてある時、それは不意に爆ぜた。
須臾にも満たぬわずかな時間の間に、量子の揺らぎとなり果てていた宇宙は、かつての姿を思い出すように広がっていった。
はじめ、この宇宙の雛は濃い霧がかかったようであった。なにもかもがあいまいで、宇宙のすべてを溶かし込んだどろりとしたスープのようであった。
安藤は夢のスープを漂った。
このスープはやがて広まるにつれて希釈されていき、またところによってはだまのようになって原子や、初期の物質となっていった。
このようにして霧は晴れていき、宇宙の最初の光が、あまねく広がっていった。
こうして光があった。
宇宙の晴れ上がりである。
そしてなんやかんやで138億年が経過し、宇宙の片隅で地球が生まれ、生命がはぐくまれ、人類が黎明期を迎え、文明が築かれ、町ができ、ビルが建ち、事務所ができて、部屋が、時計が、テーブルやケトルが、そしてカップ麺がそこにあった。
安藤は今、そこに立っていた。
なんだかぼんやりした心地だった。
何かとてつもないことがあったような衝撃が、全身の細胞に響き渡っていた。
しかし、その何もかもを安藤は忘れていた。覚えていなかった。
ただ確かなこととして、いま、一巡した世界の安藤の前には、一巡した世界のケトルと、一巡した世界の半分蓋を開いたカップ麺があった。
安藤はほとんど反射的に、ケトルの湯をカップ麺に注いだ。
ケトルの底で蓋をして、黙然と壁掛け時計の秒針をにらみつけ、180秒を無言で数える。
そして三分。
蓋を開けば、馥郁たる香りが鼻孔を刺激した。
割り箸を丁寧に割り、断面をこすり合わせて、しょり、しょりと毛羽立ちを払う。
軽くかき混ぜて麺をほぐし、スープとなじませ、そして一息にすする。
ずう、ずずずぅ、ずず、ずずずぅ。
それは、いつもの、なんでもない、ありふれたカップ麺の味だった。
それがなんだか、無性に胸をしめつけ、こみあげるものがあった。
──湯気のせいさ。そうさ、湯気のせいだよ。
目じりに浮かんだ涙を払い、安藤はスープの一滴まで、カップ麺を平らげた。
その最後の一滴を飲み終えた時、安藤の頭にふっと浮かんだ言葉があった。
──間に合った、な。
三分以内にカップ麺を食べ終えねばならぬという矛盾を解決するために、宇宙を一巡してきた──そんな荒唐無稽な話は、本人さえ覚えていない与太話である。
だからこれはそう、ただのなんでもない、冴えない男が三分以内にカップ麺を食べ終えるだけの話なのだった。
冴えない男が三分以内にカップ麵を食べ終えるだけの話 長串望 @nagakushinozomi
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