5
来る途中、うっかり素手で触ってしまった包丁の柄を拭いながら、私は先ほど外で見かけた女性のことを思い出していた。
危なかった。まさかこの辺りを散歩している人がいるとは思わなかったのだ。気を付けて来たが、見られているかもしれない。
確か、良子さんと言ったか。友達もいなさそうだし、かなり暇だったらしい。ああはなりたくないものだ。
時刻は午後二時十四分。あと一分ほどで、あいつが来る。
私は包丁を手に、入り口の側に立った。足音が聞こえてくる。
「沙枝ちゃ、」
刃物が肉に沈む感覚を、初めて知った。野菜を切ったことはあるけど、肉を切ったことはない。
紀人はうめきながらフラフラと後退して、今自分が入ってきたばかりの扉に背中をついた。
お腹からどくどくあふれる血が、図工で見た絵の具の赤より鮮やかに見えた。
紀人は手のひらにべっとりついた血を見て、情けない声を出している。
「何で」
何で、と言われた。
この男は知らないのだ。私の友達が、こいつのせいで死んでしまったことを。
倒れた紀人の体を足でつっつく。たぶん死んでいた。これでいい。
本当は何度も何度も何度も刺したかったけれど、あの子の分まで殺してやりたかったけれど、返り血が付くわけにはいかないのだ。
私は後回しにしていた問題に取りかかることにした。
小屋の中に残った、一人分の小さな足跡。
昨晩は雨が降っていて、地面がじんわり濡れていたのだ。
争ったことにしたいのに、これでは私だけ逃げ回ったように見えてしまう。
雑巾は見つからなかったし、ハンカチでは心もとないので、その場にあった非常用のペットボトルを取った。
最初は足跡だけ消そうと思ったけど、目的を悟られないために床全体を水浸しにする。
それから私は、部屋の中を荒らし回った。ちょうど、大人と子供が争った具合になるように。
これが意外と難しくて、棚を倒したときはやり過ぎたと後悔した。大きな音も出てしまったので、外に誰かいるなら気付かれてしまうかもしれない。
扉を薄く開けて外を見る。幸いなことに、誰も散歩している人はいなかった。良子さんも、屋敷に戻ったらしい。
私は棚を戻そうとしたけれど、子ども一人の力では到底持ち上げられなかった。仕方なくそのままにしておく。
一先ず、これでやることは終わったはずだ。
床に座り込む。疲れた。意外と重労働だ。
それからどれほど経っただろうか。昨日食べたハンバーグのこととか、あの子とゲームをしたこととか、そういうことをいくつか考えて時間を過ごした。
もういいかな、と思う。どうせ私にはあの子しかいなかった。家族もいない私にとって、あの子だけが心の支えだった。
敵討ちも終わって、準備も終わった。
あいつはもう一度同じことをした犯罪者で、ついに人まで殺してしまって、なけなしの罪悪感で自殺を図ったことになる。救いようのない人生だけが、きっと皆に伝わるはずだ。
さて、あとはもうやることがない。あの子のところに行くだけだ。
紀人のスマホのロックを外して、七子さんに連絡をした。
こいつと一緒にいるのは凄く嫌だから、なるべく早く見つけてもらいたい。お願いします、と呟いてメッセージを送信する。既読はつかなかった。
「あっ」
私はそのタイミングで、あることを思い出した。
あの子と同じ目に遭ったのなら、服が乱れていなければならないはずだ。
自分の服を見下ろす。白いワンピースだ。ボタンでもあれば一つ二つ開けておくのに、どうしようか。
いっそ脱ぐことも考えたけれど、やっぱり恥ずかしい。
そうこう悩んでいる内に時間が過ぎていく。
そういえば、と思い立ちスマホを手に取ると、ちょうどメッセージに既読がついた。まずい。服、どうしよう。
だけどやっぱり嫌だった。陽一さんに、見られたくない。
あと一分。不安はあるが仕方ない。私は包丁を手に取った。
べったりついた紀人の血を残りの水で洗い流す。それから、刃先を自分に向けた。
三分間で、できること 島丘 @AmAiKarAi
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